願い

夜明けまでまだ遠い真っ暗な中で、震える声で名を呼ばれた気がして柊は目を覚ました。
「柊……」
その声は隣で寝ている千尋の口から紡がれている。
「お呼びですか…我が君」
千尋の耳元へ口を寄せて、甘く声を掛けた次の瞬間、身の危険を感じた柊は慌てて身を起こした。
「……!!」
目を開けた千尋は、物凄い勢いで跳ね起きた。そして、危ういところで頭突きを避けた柊に、突然しがみつく。
「我が君…?」
その温もりを確かめるように、存在を確かめるように骨が軋むような強さで柊の身体をきつく抱き締めて、千尋は泣いていた。
「悪い夢でもご覧になられたのですか?」
「夢じゃない!柊が死んだのは……夢じゃないのっ!!」
千尋が元居た世界の柊は確かに死んだ。黒龍を倒した後、地上へ戻る途中で千尋をかばって、崩れた瓦礫の下敷きになって、千尋の目の前で息絶えた。
だから千尋はこの世界へ来たのだ。あの柊が言っていたことを思い出して、柊に会うために、そして柊を死なせない為に……。
「私はここに居ります。もう何処へも行きません」
「本当に…?絶対に…私より先に…死んだりしない?」
「決して先に逝ったりしません」
柊の方が年上で、女性と男性の平均寿命を考えるとそれは難しい問題なのだが、勿論そんなことは承知の上で柊は即答する。
「我が君の願いを叶えることが私の喜び…。我が君を悲しませるなど…誰であろうと許せません。あなたがこれ程に悲しまれると知りながら先に逝くなど……出来ようはずがありません」
「でも…あの柊は、死んじゃった。あなたは本当にその約束を守ってくれるの?」
あの柊も言っていた。千尋の願いを叶えることが自分の喜びなのだと…。憂いを取り除くことが役目なのだと…。
「ならば、お命じください。決して先に死ぬな、と…。我が君のご命令には、如何なることがあろうとも従いましょう。約束では不安だと仰るのでしたら、どうかご命令を…我が君」
柊の言葉に、千尋は弾かれたように顔を上げた。
「嫌だっ!! 命令なんかしない。柊を命令でなんか縛りたくない!」
そう言い放って、千尋はまだ潤んでいる目で柊を睨み付けた。
しばし睨んだ後、また柊の肩に顔を乗せるようにして、千尋は強請るように言った。
「命令はしない。だから、お願い……私より先に死なないで…。私の願いを叶えることがあなたの喜びなら、他のどんな願いよりも、この願いを叶えて…」

再び泣き出した千尋の髪や背中を優しく柊が撫で続け、やっと千尋は落ち着きを取り戻して腕を解いた。
「ごめんね、驚かせて…」
あの時の光景を夢で見て、完全に取り乱して支離滅裂なことを言ったり無茶な願いをしたりしたことを思い返して、恥ずかしそうに謝る千尋に、柊は少し困ったようにそれでいて嬉しそうにしながら応えた。
「ええ、確かに驚きました……まさか、我が君からこのように激しく抱擁されようとは、さすがの私も予測不能でしたので…」
「えっ?」
「いつも私から手を伸ばすばかりでしたが、たまには姫から求められるのも悪くはありません。大変貴重な、至福の時を過ごさせていただきました」
そう言うと柊は、真っ赤になって俯いている千尋をそっと引き寄せた。
「それに…少々妬けてしまいました。怒りも覚えています。あなたにこんなにも想われ、あなたをこんなにも悲しませる、あなたの世界の私に……」
「今は、ここが私の世界だよ」
あの洞窟を奥へと進んだ時に、千尋は生まれ育った世界を捨てた。全てを捨てても柊に会いに来た。
「あの柊のことは忘れない。忘れられないし、忘れたくもない。あなたの記憶にはなくても、ずっと一緒に天鳥船で旅をしたことは私にとっては大切な思い出だもの。思い出としてしまっておくの。だから怒らないで…あの柊は私に、柊を失う怖さを教えてくれたんだから…」
「敵いませんね、姫には…。解りました、怒りは収めます。ですが……嫉妬はしてもよろしいですか?」
最後はちょっと情けない声音で問われ、千尋は嬉しそうに笑う。
「いいよ、いくらでも妬いて頂戴」

完全に気持ちが落ち着くと、千尋は寒さに身を震わせた。
「ああ、いけません…すっかり冷えてしまわれましたね」
千尋の恐慌に失念していたが、辺りは夜着一枚で起きているには辛い寒さである。しがみつかれていた時はとてもそんなことを気遣う余裕はなかったし、気付いたとしても千尋による拘束が強くて肩に何かを掛けてやることなど物理的に無理があったが、落ち着いた今、この寒さは堪える。
「私が温めて差し上げたいところですが、残念ながら私の身体も些か暖を必要としております。ここは風早を叩き起こして、熱いお茶でも煎れてもらうといたしましょう」
「いいのかなぁ、こんなことで風早を起こしたりして…」
「遠慮など無用です。このような時に利用するのが、風早の正しい使い方というもの。今の風早には、姫に美味しいお茶を煎れるようなことの他に使い道がありません」
「…他に使い道がなくてすみませんね」
遅ればせながら千尋の肩に上着を掛けてやり、風早を起こしに行こうと柊が寝台から降りると、出入り口前の衝立の向こうから風早の声がした。どうやら、叩き起こすまでもなく、千尋の叫び声や泣き声を聞いて早々に前の間まで駆けつけていたらしい。気を利かせてお茶の準備も整えている。
「確かに、今の俺は食事の支度も掃除も洗濯もしてないし、千尋の護衛もしてませんけど……大切な姫をお守りする役目を俺から奪った張本人に、とやかく言われたくはありません」
引き攣った笑みを浮かべて寝台へと歩み寄ると、風早は千尋に湯気の立つ湯呑を差し出した。
「はい、どうぞ千尋。飲んでください、温まりますよ。ああ、でも、火傷には気をつけてくださいね」
「ありがとう、風早」
千尋が湯呑を受け取ると、風早はそのまま出て行こうとする。
「風早、私の分はないのですか?」
「ええ、今の俺には柊にお茶を煎れるという使い道はないそうですから……あなたの分はありません」
本当は柊の分もあったのだが、衝立の陰に置いて来た。それは自分で飲むことにして、風早はにっこり笑って出て行ってしまう。
その後ろ姿を見送って、柊が被きの下で自分の身体を摩って寒さに震えていると、千尋が慎重に湯呑を抱えながら笑って言った。
「うふふ…ちょっと待っててね。これ飲んで温まったら、私が柊を暖めてあげるから…」
「参りました…今宵の我が君には驚かされてばかりです。ですが……それも悪くはありませんね」

-了-

《あとがき》

忍千だと忍人さんに対してドSの苛めっ子な柊ですが、柊千になると途端に千尋に対してドMな下僕となります。
恐らく「我が君の望みを叶えることが、私にとって至上の喜び。さあ、何なりとお命じ下さい」が柊千の基本だからでしょう。
この変わりっぷりは癖になります(^_^;)

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