迂闊者の円舞曲

何やら廊下が騒がしいように思ってアシュヴィンが顔を上げると、勢いよく扉が開いて、千尋が飛び込んで来た。
「アシュヴィン、聞いて、聞いて!」
「どうした、千尋?」
最近、元気が無いように見えた最愛の后が笑顔で駆け寄って来るのを、アシュヴィンは笑顔で迎えた。
「あのね、子供が出来たんだって」
「ほぉ、それはめでたいな。それで、誰の子だ?」
一瞬にして、千尋の表情が凍りついた。
アシュヴィンが己の勘違いとそれ故の失言に気付いた時は、既に遅し。千尋は傍らに積み上げられていた竹簡を一抱えアシュヴィン目掛けて投げつけると、怒って部屋を出て行ってしまった。
遠ざかって行く千尋の足音を聞きながら、アシュヴィンはリブの助けを借りて竹簡の下から脱出し、沈んだ面持ちで呟いた。
「……今のは千尋の話だったのか?」
あんな言い方をするから、てっきり誰か近しい者に子が生まれたという文でも届いたのかと思って、誰の話なのかと訊いたつもりだったのだが、それが千尋自身の話となると全く意味は違って来る。
「最悪だな」
「は、今のは身籠られた奥方に対する禁句としては上位に位置するものではないかと…」

アシュヴィンはいつものように寝室の前で扉に向って必死に千尋に呼びかけた。
しかし、それが開かれるどころか返事すら返って来ない。扉越しに声を聞かせることすら許せぬほど怒り狂っているのかと思うと、己の失態が悔やまれてならない。
そうこうしている内に、横から肩をつつく者が現れた。
大概、『天岩戸』発動中はリブ以外には皇の傍に寄れる者はいないのだが、この時は数少ない例外が存在した。千尋に呼ばれて訪っていた遠夜が、まだ宮の中に残っていたのだ。
「何だ?」
「神子は…居ない」
「千尋は部屋に閉じこもっているんじゃないのか!?」
「何処かに…飛んで行った」
「飛んで……そうか、白麒麟に攫われたんだな。くっ…風早の奴め」
アシュヴィンは表へ飛び出すと、黒麒麟を呼び出した。
素早く飛び乗り橿原宮へ向かおうとして、遠夜が腰にしがみ付いて後ろに乗っていることに気付いたが、降ろす時間も惜しまれるので、構わずそのまま飛び立った。

前触れもなく橿原宮の中庭に黒麒麟が降り立ったが、警備の兵達は落ち着いていた。
何しろ、その前に同じ場所に女王を乗せた白麒麟が降り立っているのである。追ってアシュヴィンが黒麒麟でやって来ることくらい容易に予想出来ている。
「女王陛下は、私室においでです」
間近に居た兵は、アシュヴィンが聞きもしない内に千尋の居場所を教えてくれる。
しかし、行ってみれば戸はしっかりと閉められており、幾重にも見張りを置いて千尋は立て篭もっていた。
「ここでも『天岩戸』か?」
扉越しに、アシュヴィンが来たとの報告を受けて、千尋は叫ぶ。
「帰ってよ! アシュヴィンなんか、もう、知らないっ!!」
「俺が悪かった。あれが、お前の話だとは思わなかったんだ」
アシュヴィンは遠夜に話を聞いて、やはりあれは千尋に子供が出来たという意味だったのだと再確認出来たのだが、そんな話など千尋は聞く耳を持たない。
「言い訳なんか聞きたくない!」
「神子……落ち着いて…。興奮すると……身体に障る…」
遠夜の声を聞いて千尋は驚いたが、それで顔を出したりはしなかった。
「アシュヴィン……離れて…。今は……神子の心を……乱してはいけない…」
「…解った。お前は千尋を落ち着かせてくれ」
遠夜はしっかりと頷いて見せると、静かに歌い始めた。ゆったりとした綺麗な歌が辺りに響く。
その歌声を背にしてアシュヴィンが部屋の前を離れて行くと、正面に回り込んだ風早にがっしりと肩を掴まれる。
「何があったのか、詳しく話してもらいますよ。ええ、正直に洗い浚い全て白状してもらおうじゃありませんか」
目の座った風早にそう言われて連れて行かれた先で、アシュヴィンはよく知る沢山の顔に取り囲まれることとなったのだった。

「それで、今度は何をやって千尋を怒らせたんですか?」
「実は、子が出来たそうなのだが…」
アシュヴィンが口火を切るなり、忍人と布都彦が口を挟む。
「愛妾にか?」
「なんと、破廉恥な!」
辺りがシーンとなった。一斉に冷たい視線がアシュヴィンに集中する。
「違うっ!!」
「えっ、違うのか? だったら…」
忍人がキョトンとして問い直そうとすると、それを風早が諌める。
「まぁまぁ、話の腰を折らないで……ひとまず最後まで話を聞いてあげることにしましょう。ですから、あなたも概要ではなく詳細を千尋が怒り出した時のことをしっかりと思い出して、一言一句違わぬように十分注意して、順を追って客観的に話してくださいね」
そこで、アシュヴィンは千尋が部屋の飛び込んで来たところからの遣り取りを思い出して、互いの発言を正確に並べ立てたのだった。

「あああ、あなたという人は……千尋の不貞を疑ったんですか!?」
飛びかかろうとした風早を、忍人と布都彦が取り押さえる。話の内容がどうあれ、風早がこうなることは簡単に予見出来ていたので、予め両者の間には十分な距離を取ってあり、忍人と布都彦も心の準備は出来ていた。無論、風早に掛けるべき言葉も用意してある。
「やめろ、風早。仮にも相手は常世の皇だ。それを無位の宮人が殴り飛ばしては、外聞が悪過ぎる」
「葛城将軍の仰る通りです。そのようなことになっては、陛下の御名にも傷が付きましょう」
風早は、「仮にも」の響きで僅かに溜飲を下げ、「千尋の名に傷が付く」との指摘にどうにか踏み止まった。
その間に、柊が横から口を挟む。
「察しますところ…我が君は”私、子供が出来たの”との意味で”子供が出来たんだって”と仰り、あなたは”誰に子供が出来たんだ?”との意味で”誰の子だ?”と返されたのだと解釈してよろしいのでしょうか?」
「ああ、その通りだ。遠夜にも確認を取ったところ、確かに千尋は子を宿したそうだが……俺とて千尋の不貞を疑った訳ではない。他の奴の話だと思っただけなんだ」
すかさず、風早がアシュヴィンに食って掛かる。
「そんな言い訳が通ると思ってるんですか!?」
「通らぬこともありません」
アシュヴィンよりも先に、柊があっさりと切り返した。
「バタバタとけたたましく駆け込んで来た女性から”子供が出来たんだって”と告げられて、一体どれだけの者が、発言者当人が身籠ったのだと判断出来るでしょうか?私ですら些か困難だと言わざるを得ません。今の話を聞いて、そのことに私が気付くよりも前に、瞬時にあなたがそう判断出来たことの方が不思議でなりませんよ」
風早が辺りを見回してみれば、他の者達も柊に賛同するように頷いている。
「千尋の突飛な発言には慣れてるつもりだったけどさ……正直、今のは僕にもすぐには解んなかったよ」
那岐だって、本音を言えばアシュヴィンや柊の味方などしたくはないが、この場合は二人の言い分の方を支持せざるを得なかった。寧ろ、解った風早の頭がどうかしているとしか思えない。
「大体、妊娠初期の妊婦が全力疾走なんてしたら拙いだろ」
「……軽率どころの話ではないな」
那岐の言葉に、忍人も端なく賛意を唱えた。
「ええ、まったくです。忍人ですら、この程度の知識は持ち合わせていると言うのに……一体、どういう教育をしたのですか?」
「えっ?」
非難するような視線が自分の方へと集まって、風早は驚いた。
「妊娠初期の妊婦が、全力疾走して麒麟に騎乗して上空の冷たい空気の中を飛び抜けるなんて、非常識にも程があります。一体、どのような教育をしたら、そのような姫に成長されるのでしょう。此度の騒動も然ることながら……万が一にも我が君が流産などされようものならば、全ては然るべき教育を怠ったあなたの責任です」
柊の容赦ない糾弾に、風早は今更ながらに事の重大さに気づいた。
異世界における学校教育や巷に溢れた情報で当然知っているべき知識と思って、千尋にその手の教育を全く行わなかったのは確かである。おまけに、これは柊とアシュヴィンしか知らないことだが、千尋を背に乗せて冷え切った空を飛んでしまった張本人だ。
風早は、ヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
「どどど…どうしましょう。千尋の子に……いえ、それどころか、その所為で千尋に何かあったら、俺はこの先何を縁に生きていけばいいのか…」
「その心配は無用です。我が君に万一のことがあった場合、あなたに生きる道などありませんので…」
「ああ、その首、俺が貰い受ける」
柊もアシュヴィンも風早の不手際に心底怒っていた。

ひとまず騒動の一因に対する責任を取るよう迫られて、風早は千尋の誤解を正す役目を押し付けられた。
幸い、あれだけの非常識な行動にも腹の子は無事だったらしく、その点では誰もが胸を撫で下ろした。
しかし、アシュヴィンと仲直りしたからといって、千尋がすぐに常世に帰ることにはならなかった。
「大切な御子を宿されておられる女王陛下に、旅などさせられるはずがございませんでしょう。ましてや、麒麟で天を駆けるなど以ての外です。陛下には、ご無事に御子を御産みあそばされ確と御身体が回復されるまで、こちらにおいでいただきます」
狭井君にきっぱりと言い切られ、アシュヴィンは千尋と腹の子を守る為にも強引に連れ帰ることを断念した。 その代り、自分も中つ国に寝所を移し、毎日のように黒麒麟で常世へ往復する。
「考えてみれば、俺が竹簡背負って往復するより、アシュヴィンが黒麒麟で往復する方が手軽ですよね。この際、出産後もそのまま千尋はこっちで暮らすことにしませんか?その方が、俺達はいつでも千尋に会えて嬉しいですし、子供の世話だって十分に出来ますよ」
「確かに風早は、大事なことを教え忘れるような迂闊なところはありますが、身の回りのお世話はお得意ですからね。元より、教育は中つ国と常世の両国から然るべき者を招じることとなりましょうから、どちらに居を構えたところで大して変わりはないでしょう」
「それもそうだね。あの時はまだ中つ国をちゃんとは取り戻してなかったし、戦いの舞台が常世に移ったから私が輿入れしたけど、今は必ずしも私が向こうに住まなきゃいけないって訳じゃないし……寧ろ、身軽に両国を行き来出来るアシュヴィンがこっちに住んだ方が、どっちの国政も大したタイムラグもなく処理出来て良いかも…」
風早と柊の口車に乗せられて千尋までその気になってしまっては、最早アシュヴィンにそれを完全に覆すだけの力はなかった。
それでも何度も千尋と話し合って基本的に1年交代で互いの国に居を移すところまで譲歩させ、風早を宥め賺して終いには散々脅して常世に住まう間の千尋の通勤の足を確保して、成り行きで皇が他国に婿入りする事態を回避してどうにかそれなりの体面を保つことに成功したのだった。

-了-

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