天岩戸
千尋に決裁してもらう為の書簡を中つ国から運んできた風早は、根の宮付近立ち込める黒雲と轟く雷鳴に苦笑した。
    「はは…、千尋はまたお篭りですか」
    アシュヴィンと結婚して以来、これで何度目となるのか。
    何事にも動じないように見えるアシュヴィンが力を制御出来なくなるほど取り乱すのは、千尋に寝室から締め出されて立て篭もられた時だけだ。傍目にはこの上なく不機嫌に見え、内心は不安でいっぱいになったアシュヴィンは力を暴走させてしまう。
    それを知る者には、常世の国主夫妻が喧嘩したのが一目瞭然という次第だ。
    「はてさて、ご夫君は一体…今度は何を仕出かしたんでしょう?」
    千尋は基本的には寛容な女性だった。アシュヴィンの強引さにも、文句を言うことはあっても怒ったりはしない。過去の派手な女性関係についても、とやかく言わないどころか、意味深なことを言ってきた女性に「私の知らないアシュヴィンのこと、もっと教えてください」などと笑顔で言って、アシュヴィンの焦りを吹き飛ばし相手の毒気を抜いたくらいだ。
    そんな千尋がアシュヴィンを締め出して寝室に立て篭もる―天岩戸が閉ざされる―のは、大抵アシュヴィンが要らぬ心配を掛けたか余計な気遣いをしたかのどちらかの場合である。
    「早いトコ仲直りしてもらわないと…両国にとっても俺にとっても面倒ですね」
    風早は単独で使いを引き受けては人目に付かないところで麒麟に戻って空を駆け、短縮した移動時間を千尋と過ごすために使っていた。その為、千尋がすぐには部屋から出てこなくても決裁を終えた書簡を持ち帰るのには日数の余裕がある。しかし、あんまり長引くと、さすがに麒麟の足をもってしても補い切れずに中つ国の政が滞ってしまう恐れは否めない。ましてや常世の方はと言うと、時が経つにつれてアシュヴィンの能率は下がる一方で、加えて国の中枢で所構わず落雷が起き延々と雷鳴が鳴り響くのである。これは歓迎できない状況だ。
    そして何よりも重要なのは、千尋が閉じこもっている分、風早にとっては貴重な千尋と過ごせる時間が減るのだと言うことだ。いや、風早が居ながらアシュヴィンと千尋が2人で過ごす時間がとられるから、減る時間はそれ以上か。
    「何をしたかは知りませんが、さっさと千尋に謝ってもらいますよ!」
    そうして、黒い閃光の中、首の周りに風呂敷を括り付けた白い神獣が宮の陰へと降り立ったのだった。
いつものように先触れもなく表れた風早を、アシュヴィンは表面上は冷静に迎えた。
    しかし、2人きりになると途端に困ったような顔を向けて来る。
    「お前は一体、どういう教育をしたんだ?千尋の判断基準はどうにもよく解らん」
    「はは…今度は何て言って閉じこもったんですか?」
    「それが解らん」
    何度か千尋に締め出される内に、アシュヴィンも多少は傾向と対策が解るようになって来ていた。千尋が怒った時は、直前の会話と行動を思い返して分析すれば良いのだ。
    ところが今回は、そう言う訳にはいかなかった。
    「地方視察に出る時には、笑って見送ってくれたんだ。それが、戻って来た俺の顔を見た途端に顔色を変えて駆け出して…ほぼ丸一日、天岩戸は開かれない」
    千尋に締め出されて丸一日経過しているとなれば、あの天の荒れようも当然と風早は納得した。
    既にその前数日に渡って千尋と離れていたアシュヴィンである。帰って来たら真っ先に、千尋を抱きしめたかったことだろう。それが、帰還の抱擁は出来ず、夜も共に過ごせず、それどころかまともに口もきいてもらえずにいるとなれば、荒れて当然である。
    「丸一日って…千尋の食事はどうしたんですか?」
    「リブの発明品を使って、小窓から届けさせた」
    開発を命じられたリブは「お腹が空いたら出て来られるのでは…」とか「お食事をお持ちして扉を開けていただいた方がいいのでは…」と言っていたのだが、千尋の頑固さを思えばそんな楽観的なことは言っていられなかった。そして、ついにこの度、千尋は出てくる気配がなく、扉も開けようともせず、この発明品が役に立つこととなってしまったのだ。
    他に誰も居ない部屋で届いたものを受け取って、後に空になった器が戻されたので、とりあえず中で千尋が倒れている心配だけはせずに済む。しかし、一緒にやり取りされたアシュヴィンの手紙への返事は、意味が解らなかった。
    「何を怒っているのかどれだけ考えても解らないから教えてくれ、と全面降伏したんだが…」
    「怒ってない…ですか」
    千尋の返書を見て、さすがに風早も困惑した。
    「怒ってないのに、俺を閉め出して丸一日口もきかないというのは、一体どういうことなんだ?」
    「いや、それは……俺にも解りません」
    千尋の行動パターンは熟知していると思っていた風早だったが、さすがに今回は思い当たる節がなく、アシュヴィンと共に頭を抱えることしか出来なかった。
アシュヴィンと風早が、ああでもないこうでもないと首を捻っていると、リブに付き添われて千尋が重い足取りでやって来た。
    「千尋!」
    異口同音に声を上げて駆け寄った二人の前で、千尋は俯いている。
    「さぁ、妃殿下。正直にお話しされれば、きっとアシュヴィン様は解って下さいますから…」
    リブにそう促されても、千尋はなかなか顔を上げられない。
    「リブ…どういうことなのか説明しろ」
    自分の知らないことをリブが知っている。それが苛立っているアシュヴィンには我慢ならなかった。
    こんな風に怒りの矛先を向けられたのが他の者だったら、恐らく震え上がって何も言えなくなるところだが、さすがにリブは違っていた。いつもの飄々とした口調でさらっと答える。
    「いえね、先程妃殿下がいらして…勘違いでとんでもないことしちゃった、アシュヴィンに何て言って謝ればいいんだろう、と仰るものですから…とりあえず、こうしてお連れした次第でして…」
    つまり、詳しいことは何も知らない、聞くことすらしなかったと言うことである。
    「…何をどう勘違いしたんだ?」
    アシュヴィンは怒りを抑えて、出来る限り優しい口調を心掛けた。しかし、千尋は口を開かない。
    「もしかして、アシュヴィンが視察と偽って愛人宅に行ってるとでも思ったんですか?」
    風早の問いに、千尋は弾かれたように顔を上げると、首が千切れるんじゃないかと心配になるくらいの勢いで否定した。
    「違うよ!そんなことないって信じてるし…もしそうなったら、私に魅力が足りないってことだもん」
    「いいえ、その場合は千尋の魅力を見誤ったアシュヴィンが悪いんです」
    風早の言い種にアシュヴィンはムッとしたが、千尋が即座に浮気を否定して自分を信じていてくれたことによる喜びの方が大きく、機嫌はかなり良くなった。今度は自然と優しい声音で問い直す。
    「では、俺を信じている我が妃どのは、一体どんな勘違いをされたのかな?」
    「……月…ものが…」
    絞り出すような声で紡がれた言葉に、3人はキョトンとした。
    「それで、その…出来ちゃったのかと思って…。でもここには検査薬なんてないし…そんな時にアシュヴィンの顔見たら、もう、どうしていいんだか解らなくて、パニックになっちゃって…」
    「えぇっと、出来たっていうと、その…」
    こちらの世界しか知らない人間には通じなくても、風早には"出来ちゃった"と"検査薬"で話が読めた。
    そこへ千尋は申し訳なさそうに続ける。
    「でも、勘違いだったの」
    「…そうですか。残念でしたね」
    「残念…なのかな?」
    「ええ、一般的には…」
    「風早的にはどっち?」
    「俺はどちらとも言えません。いつかはそういうことも、とは思いますけど、別に焦ることもないでしょう」
    「…うん」
    二人の間だけで話が通じているのを見て、アシュヴィンの機嫌はまた悪化してきた。それを感じとって、風早は素早く事情を説明したのだった。
「ふん…つまりお前は、子が出来たと勘違いして俺を閉め出した訳か」
    「ちょっと違うけど、大体そんなところ…かな」
    「それで、勘違いだったと解って、今度は俺に何と言ったものかと悩んだ末に、リブのところへ相談に行ったと…?」
    「ううん、リブのところへはアシュヴィンを探しに行ったの」
    最初から相談するつもりで行った訳ではない、ということを千尋は強調した。アシュヴィンに会うよりもリブに会うことを優先したと誤解されたくなかったし、リブにも迷惑が掛かってしまう。それは避けたい。
    「でも、リブのところにはアシュヴィン居なかったし…勿論、その時は心当たりの場所を教えてもらおうと思ってたんだけど…何か周りの人達がいろいろ言ってるのが聞こえて…そしたらまたパニックになっちゃって…それで…」
    「それで、そのままリブに相談したんだな」
    リブに相談されたことが気に入らないのか、アシュヴィンの言葉には少々棘があった。
    「あの…詳しくは聞きませんから一刻も早くお会いになられて下さい、って言われたんだけど…ちょっと取り乱してたんで、お茶煎れてもらって…。場合によっては一緒に謝ってくれるって言ってくれたんで、何とか再び勇気を振り絞ってここまで…」
    「あ…申し訳ありません」
    「…そこでお前が謝るな」
    妙なタイミングでリブに謝られて、アシュヴィンは毒気を抜かれた。
    「事情は理解した。だが、俺が簡単に許すと思うなよ」
    「うぅっ、そうだよね…」
    千尋は全身から「ごめんなさい」オーラを発していたが、勿論それだけでアシュヴィンの機嫌が直るようなことはなかった。おまけに、千尋が勘違いに気付いたその理由を思えば、まだしばらくはお預けを喰らったままということが容易に解ってしまう。
    「埋め合わせは後日たっぷりとして貰うからな。覚悟しておけ」
    そう言うと、アシュヴィンは席を立って行ってしまった。
    「うぁ~、やっぱり滅茶苦茶怒ってる…」
    千尋は卓子に突っ伏した。しかし、二方向からのんびりした声が聞こえて来た。
    「大丈夫ですよ、妃殿下」
    「ええ、心配ありませんよ、千尋」
    リブと風早には、アシュヴィンの背中が踊っているのが見て取れた。それに、雷鳴の音も消えている。
    「席を立たれたのは、後日に備えて仕事を早く片付けるために違いありません」
    「千尋も早く決裁済ませちゃって下さいね。その日が来たら、アシュヴィンはそう簡単には放してくれませんよ」
    二人が何を言わんとしているか、それを悟った千尋は真っ赤になった。
    それから我に返ると、大急ぎで風早の持って来た風呂敷の中身の処理に取り掛かったのだった。
-了-
《あとがき》
初のアシュ千です。
      何やら、初っ端から長くなってしまいました。
      いっそのこと冒頭の一段落をさっくり削除しようかとも考えましたが、LUNAの中では風呂敷背負った白麒麟がツボなので、そのまま残してみました。
    

