冷たい手

アリオスの誕生日に、アンジェはデートの約束をした。
普段は困った顔で頼まれごとをするとついつい断り切れず、時間をなかなか空けられなかったり前日夜に突然アリオスに予定変更を申し出る羽目になるアンジェだったが、今回は気力を振り絞って全ての頼みごとを断った。何しろ、アリオスの誕生日は1年に1回しかないのだから変更は絶対利かない。その上、アリオスから事前に言われているのだ。
「祝ってくれるのに、物は要らねぇ。ただ、その日だけは俺を優先してくれ。」
約束を取り付けた際にこう言われた時は、アンジェは罪悪感でいっぱいになった。これまで何度アリオスと過ごす予定をキャンセルして怒らせたりがっかりさせたりしたことか…。いや、怒ったのは付き合い始めた頃だけで、その内「…ったく、仕方ねぇな」と呆れられるようになっていた。それでも懲りずにアテにならない約束をしてくれるアリオスに、アンジェはずっと甘えっぱなしだった。
「ごめんなさい。その日だけは、絶対ダメなんです~!」
どんなに相手が困り顔でケーキ食べ放題などのオプションまで付けようと、アリオスの誕生祝いにはかえられなかった。こういう時に限って次から次へと頼まれごとの声が掛けられるが、その度にアンジェは文字通り逃げ回った。

そして迎えた誕生日当日。アリオスとの待ち合わせ場所へと急ぐアンジェは思わぬ光景を目にした。
歩道橋を半分くらい降りたところで、下の道でうずくまっている妊婦さんを発見したのだ。
その瞬間、アンジェはアリオスとの約束を忘れた。
救急車を呼び、隣町の病院へと同行したアンジェは、そのままずっと妊婦さんの手を握り続けた。相手が手を放そうとしないのだから仕方ないのだが、そうでなくてもアンジェの頭の中は目の前の妊婦さんのことでいっぱいだった。
結果的に、赤ん坊が生まれて来るまでの11時間もの間、アンジェは妊婦さんに付き添っていた。
「おめでとうございます。本当に…。」
見ず知らずの少女に泣きながら何度もお祝いを言われて、病室で待っていた父親になったばかりの男性は恐縮した。
そして、彼に申し訳無さそうに「あなたにもご予定があったでしょうに…」と言われて初めてアンジェはアリオスのことを思い出し、慌てて病院を飛び出したのだった。

アンジェは必死になって走っていた。
こんな時、通りすがりのタクシーを拾おうなんてことを思い付くような彼女ではない。周りを見る余裕など全くなく、待ち合わせの場所を目指してひたすら全力疾走を続けた。足は早くないが、見た目には想像も出来ないくらい体力はある。どれだけ息が切れ心臓が悲鳴を上げようとも、アンジェは決してその速度を緩めようとはしなかった。
ままならぬ呼吸よりも、悲鳴を上げる心臓よりも、気になるのはアリオスのことだ。連絡一つ出来ぬまま約束の場所に現われないアンジェを、アリオスはどう思っただろうか。
病院を飛び出す寸前に電話をかけた時、アリオスの自宅は留守番電話になっていた。だからと言って、ずっと待ち続けていてくれるとは思えない。ただ、帰ってないだけあるいはどこか出かけているだけかも知れない。もしかしたら、居留守なのかも…。
それでも今のアンジェは、一刻も早く待ち合わせ場所に行くことしか考えられなかった。
「アリオス!」
倒れそうになりながら角を曲がったアンジェは、待ち合わせ場所にアリオスが立っているのを見て自分の目を疑った。
「よぉ。」
一瞬驚いたような表情を浮かべたアリオスは、ふらふらしながら徐々にスピードを緩めて寄って来たアンジェの身体を支えるように腕を伸ばした。そして、腕の中で苦しそうに肩で息をしているアンジェの背中をしばらく優しくさすってから、からかうように言う。
「お前のドジもここまで来ると相当なもんだな。午前と午後を間違えるなんざ、今どき笑えねぇヘマだぞ。」
「ごめん…。」
「おっ、やけに素直だな。」
「そうじゃなくて…。」
泣きそうな顔で、アンジェはアリオスを見上げた。すると、アリオスは「言わなくていい」と手で制する。
「いいから…。そういうことにしておけ。」
間違えたのではないことくらい、アリオスにだって解っている。走って来たアンジェの顔が、何かあったことを物語っていた。そして、その身体に残る消毒薬の匂いで大体の事情は察しがつく。怪我人なり病人なりに遭遇して、このアンジェが放っておくことなど出来ないだろう。
ここまで走って来る間に何度も転んだのか手や顔のあちこちに擦り傷は出来てるのは気になったが、厚い服やタイツのおかげで他は大丈夫なようだと看て、アリオスは安堵した。
「…うん。ごめん…。」
アンジェがもう1度謝ると、アリオスは彼女の髪をグシャグシャと弄んだ。
「心配すんな。まだ今日は3時間も残ってる。」
「えっ?」
「バースデープレゼントとして1日付き合ってくれるんだろ? 飯食って、オールナイトの映画でも行くか?」
「うん!」
アンジェが嬉しそうに頷くと、アリオスは彼女の手を取った。そして、その冷たさに顔をしかめる。寒空の下で待ち続けたアリオスよりも尚、しかも手袋を通しても感じ取れるくらいにアンジェの手は冷たくなっていた。
「お前……手袋くらいしろよ。」
「でも、走ってたら暑くって…。」
「身体は火照ってても、手は冷えきってるぞ。」
そう言うと、アリオスは素手で彼女の手を自分のコートのポケットへと導く。
「とりあえず、こっちの手からな。そっちは、自分のポケットにでも入れとけ。」
言われてアンジェが素直に反対の手をポケットに突っ込むと、アリオスはボソッと呟いた。
「どうせ出しといたところで、転けたらお前は手より先に顔で着地しようとするしな。」
「アリオス!」
ムッとして振り上げようとした手は、しかし彼のコートのポケットの中で握り込まれていた。その暖かさと彼の優しさに、アンジェはその手を握り返して応えたのであった。

-了-

《あとがき》
ラストシーンから先に浮かんで来て、アンジェの遅刻理由を考えるのに四苦八苦しました。
どうしたら、午前と午後を間違えたくらい遅刻出来るのか。
やっぱり妊婦さんに拘束されるのが一番簡単かな、と…。
しかし、普通はとっくに愛想尽かして帰ってますよね。こんなに待ち続けられるのは、待たせてるのがアンジェで待ってるのがアリオスだからでしょう(苦笑)
うちのアリオスって、アンジェがやることは何だかんだで「仕方ねぇな」で許してしまいますから…。

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