君のいる場所17
クリスマスイブの晩。アンジェ共々定刻に退出したアリオスは、キッチンでクリスマス料理の最後の仕上げを行っていた。
そこへ、突然コール音が鳴り響く。
手と火を止めて通信機に手を伸ばしたアリオスの耳に、宮殿付きの文官の落ち着きのない声が飛込んで来た。
「研究院で火災?」
あんな火の気の無いところで、と不審に思いながら、アリオスはすぐに出仕する旨を伝えると、通信を切った。そして、急いで調理中のものにラップを掛けたり蓋をして回ると、コートを手にしてアンジェの部屋へ駆け込み、その場から魔導で宮殿へ転移したのだった。
通信を終えて間もなく目の前にいきなり現われた女王と黒髪の皇帝の姿に、文官は危うく腰を抜かすところだった。話には聞いていたが、実際に魔導による転移を目にするのは初めてのことだったのだ。
見慣れた姿に戻った皇帝から声を掛けられて自らのなすべきことを思い出した文官は、まず始めに建物内の人間が全員無事に避難したことを報告した。
「で、今そいつらは何処に居るんだ?」
「あちらの方に…。」
文官が指差した方向に疲れたように座り込んでいるレイチェルの姿を見つけて駆け出そうとしたアンジェだったが、アリオスがその腕を掴んで止めた。
「あ、ごめんなさい。私…。」
まだ報告は続いているのにそれを無視してレイチェルの元へ行こうとしたアンジェは、アリオスに止められて自分の立場を思い出した。恥じ入るように戻って来ようとしたアンジェに、アリオスは複雑な微笑みを浮かべた。
「いや、違うんだ。お前が足元も見ずに駆け出そうとしたから…。」
ゆっくりと手を放すアリオスに、アンジェは不思議そうな顔をした。
「えっ、行っていいの?」
アンジェは驚いたように顔を上げた。すると、アリオスは軽く頷いた。
「報告聞いたりいろいろ処理したりするのは俺でも出来るけど、お前の補佐官を元気づけられるのはお前しか居ねぇだろ?」
アンジェは弾かれたようにレイチェルの元へと駆け出した。
「おい、暗いから足元気をつけろ、って。転けても知らねぇぞ。…ったく、ちゃんと聞いてろよな。」
呆れ顔で掛けられた声を背に受けてまっすぐにレイチェルの元へ向うアンジェに苦笑しながら、アリオスは文官から報告の続きを受けた。そして、具体的な調査は明日行うことにして、鎮火を確認する人員を除いて今夜は解散と決定を下した。
コンピュータ満載の研究院では散水車やスプリンクラーで消火する訳にいかない。建物内に人が居ないことを確認した後、細かく設けられた防火シャッターで炎と熱を遮断し、消火ガスを送り込んで鎮火させなくてはならない。
外から見る限りでは、どうやら炎は収まったようだがまだ内部で熱が篭っている可能性がある。そのため、今夜の夜勤当番だった者達が鎮火確認の為に残ることにして、自己の研究の為に居残るつもりだった者達には退出命令が下された。
「例外は認めない。もちろん、それが補佐官でもだ。」
事務的に告げられたレイチェルは、僅かにアリオスの方へ首を動かしながら頷いた。その様子に、アンジェは落ち着かない素振りで2人の間で視線を行き交わせる。
「帰るぞ。」
有無を言わせぬ短い言葉と共に、アンジェはアリオスに手を引かれて家に向って歩き始めた。しかし、少し行ったところでピタリと立ち止まると、頑として足を動かすことを拒否し始めた。そして、縋るような目つきでアリオスを見上げる。
「……わかったから、そんな顔するな。」
「アリオス~。」
「料理は充分あるし…。いいぜ、レイチェルを招待しても。」
途端に顔をパ~っと輝かせてアンジェは走って引き返すとレイチェルを連れて戻って来た。
アリオスが再び料理の仕上げに取りかかっている間に、レイチェルはシャワーを浴びるように言われた。着替えなど持って来て居ないのに、と躊躇うレイチェルに、アンジェはアリオスが商店街の福引きで貰って来たフリーサイズのトレーニングウエアとTシャツと、そしてレイチェルの下着を差出した。
「何でワタシの下着がこの家にあるワケ?」
「お前が忘れて帰ったからに決まってんだろ。」
簡潔に、そして平然と答えたアリオスに、レイチェルは自分の精神衛生の為にも深く考えるのは止そうと思いながらバスルームへ向った。
そうしてレイチェルが着替えてリビングへ入ると、そこにはクリスマスパーティーの支度が整えられていた。
「さぁ、レイチェルの席はこっちよ。」
アンジェに促されるままに彼女の隣に腰をおろしたレイチェルの目の前で、グラスにジュースが注がれ、シチューが盛られ、肉が切り分けられた。
「おい、遠慮しないで食えよ。」
雰囲気に飲まれるようにアンジェの声で乾杯をした後でそのままぼんやりしていたレイチェルに、アリオスが声をかける。
「レイチェルの苦手なものでも入ってたかしら?」
アンジェがフォークで自分の皿の料理を突ついて回り、特にそれらしいものも発見出来ずに首を捻る。
「え、遠慮なんてしてないヨ。」
レイチェルは慌ててシチューを一匙すくい、口に含む。そして、滑らかな動作で一皿平らげたところで、ボソッと呟く。
「…美味しい。」
「そいつは、どうも。」
レイチェルが自然に漏らした感想に、アリオスは正面の席で済ました顔でワインを飲みながら返事をした。すると、レイチェルはスプーンを握ったままで動きを止めると、ポロっと涙を零した。
「どうしたの、レイチェル? お腹でも痛いの?」
「慌てて食って舌を火傷したなら、さっさとジュースで冷やした方がいいぜ。何なら、氷持ってきてやろうか?」
相次いで声を掛ける2人に、レイチェルは俯いたまま首を左右に振った。
「こんなに落ち込んでても、ちゃんとお腹空くんだね。」
レイチェルの呟きに、アンジェが心配そうに椅子を寄せた。
「研究資料、ダメになっちゃった。」
レイチェルは、ポツポツと火災の時のことを話し始めた。
火災が発生したのは、レイチェルが使用していた研究室の2つ隣の部屋だった。誰も使っていないはずのその部屋で火災が発生したとの警報が鳴り響いた時、レイチェルは時間のかかる処理を仕掛けて別室で休憩中だった。
警報が鳴ってすぐに研究室へ走れば、資料やバックアップディスクの回収は出来ただろう。
しかし、この時のレイチェルは一研究者としてではなく補佐官として王立研究院の総括責任者として行動した。他の研究員達の避難の誘導・確認の指揮をとったのだ。
人員の避難が確認され現場付近の防火シャッターが下ろされた時、火の手はレイチェルの使っていた研究室にまで及んでいた。被害予想では全焼はしていないだろうということだが、熱でマシンもディスクも使い物になら無くなっていることは間違いない。
「レイチェル~。」
泣きそうな顔でアンジェがレイチェルの顔を覗きこんだ。
「あ、やだ。アンジェったら、そんな顔しないでよ。」
レイチェルは、慌てて手の甲で涙を拭うと無理矢理笑顔を作るようにした。
「大丈夫だって。ちょっとショックだっただけだヨ。」
「でも~。」
「こういうのは、失くなっちゃってもやり直しが利くんだから。ほら、ワタシってば天才だもん。すぐに取り戻せるヨ。」
無理をしているのは明らかだった。しかし、慰めの言葉も思い浮かばない。ただ、見ているしか出来ないアンジェに目をやりながら、アリオスはレイチェルに声を掛けた。
「だったら、その天才振りを遺憾無く発揮できるように、今夜は美味いもの食ってゆっくり休め。」
レイチェルは、素直に頷いた。
「幸い、ここには美味いものがたくさんあるしな。作った俺が言うんだから間違いないぜ。」
おどけ風に近くのオードブルを一切れ口に放り込んで見せるアリオスに、レイチェルは少しだけ心を軽くすると他の皿の料理にも手を伸ばした。しかし、アンジェは心配そうにレイチェルの方を見つめている。
レイチェルがテーブルの端の料理を取るために席を離れた隙に、アリオスはアンジェの傍らに移動してハムを一切れ摘むとアンジェの口の前にぶら下げた。アンジェは自然に口を開けてそれに食い付き、飲み込んでからアリオスの方をちょっと睨むような感じで顔を上げる。
「ったく、お前がそんな顏してたらレイチェルが余計落ち込むだろ。」
「そ、それはそうかも知れないけど…。」
「ボ~っとしてて、あいつに全部食い尽くされても知らないぜ。」
からかうように言われて、アンジェは一瞬グッとなった後、小さな声でしかし叫ぶような面持ちで言った。
「それは嫌~。」
「クッ…。だったら、お前もどんどん食え。」
研究院が元通りになるまで俺達の負担は大きくなるんだからな。美味いもの食ってゆっくり休んだ方がいいのはお前も同じだ、と頭をポムポムされて、アンジェは一度小さく拳を握りしめると、レイチェルと一緒に次々と料理に手を出していった。
「……マジで食い尽くされそうな勢いだな。ちっと、有り合わせで何か追加メニュー作るか。」
アリオスは呆れたように呟くと、「これ、お勧め♪」とか「こっちもイケるヨ」とはしゃいでいる2人を残してキッチンへと姿を消した。だが、アンジェがシチューのおかわりを取りにキッチンへ行った時、そこにアリオスの姿はなかったのだった。
何か買い足しに行ったものと思われていたアリオスが帰宅した時、彼は1人ではなかった。
「メリークリスマス。お邪魔します、アンジェリーク。」
「…メリークリスマス、エルンストさん。」
出迎えに走っていったアンジェは、そこにエルンストが居るのを見て驚いた。彼の声を聞きつけて走ってきたレイチェルも、自分の目を疑う。
「どうして、エルが…。」
「折角だから、こいつも招待したんだ。」
軽く笑って答えるアリオスに、アンジェは「そうよね。折角だし…。」と納得してしまったが、レイチェルは簡単には納得できなかった。
「だって、こんな時間に急に次元回廊を…。」
言いかけて、レイチェルは目の前の男が次元回廊など使わずとも向こうの聖地との間くらい容易く往復できることに気づく。聖地の研究院に居るエルンストの目の前に転移して、そのまま連れてくるくらいは造作も無いことだろう。
しかし、極力魔導に頼らない様に心がけているアリオスのとった行動は、レイチェルの想像とは違っていた。第一、お固いエルンストのことだから、そんな方法ではきっとこっちに来てはくれなかっただろう。
「向こうの女王に、エルンストをパーティーに招待したい、って言ったら簡単に開けてくれたぜ。」
「はぁ、その代わり帰りに美味しいものをいっぱい貰ってきなさい、とのお言葉と共にタッパを持たされましたが…。」
相変わらずなリモージュ女王に、レイチェルは口をあんぐりと開けた。
「それでも、どうしてもあなたにこれを渡したかったのです。」
その言葉と共に、エルンストはレイチェルに薄い箱のようなものが入った袋を差出した。
「何これ? クリスマスプレゼントにしてはシンプルな包みだね。」
エルらしくて良いけど、と呟きながらレイチェルが袋をあけると、中からは1枚のディスクが出て来た。
「先週までのあなたの研究報告をまとめたもののコピーです。」
レイチェルは、手元を見ながらハッとなった。確かに、これまでエルンストとは研究報告をし合っていた。彼の性格からして、それをきちんと整理して資料として保存してあってもおかしくはない。
アリオスがエルンストを急に招待し、エルンストが急な話にも関わらずのこのこやってきた意味は…。
動転していたとは言えエルンストのことを良く知っているはずのレイチェルが気づかなかったそのことに、アリオスは気づきそして動いたのだ。正規のルートでエルンストがこっちへ来たとなると、時間的にはアリオスはキッチンへ消えてすぐに向こうへ連絡を入れたというところか。
「今週分はまだ報告を受けていなかったので力にはなれませんが、あなたならそのくらいの遅れはすぐに取り戻せるでしょう?」
「勿論だヨ。ありがとう、2人とも♪」
今度こそ作り物ではないレイチェルの笑顔を見て、アンジェも嬉しそうにアリオスに飛びついた。
「凄いわ、アリオス。最高のクリスマスプレゼントね♪」
レイチェルにとってはディスクとエルンストが、アンジェにとってはレイチェルの笑顔と楽しいパーティーが素晴らしいプレゼントとなったのだった。
翌日の夕方。調査の結果、火災の原因が判明した。
「ネズミ…?」
そう呟いたきり絶句したアリオスに、文官は改めて調査結果を報告した。
「はい。今回の火災は、ネズミに齧られてむき出しになった導線のショートもしくはその熱で加熱された建材が原因と思われます。」
「やっぱり向こうと同じように、全室・全機材を最高設備にしておくべきだったのね。」
時間と人手の都合で、個人研究用の設備には通常のケーブルと建材を使用したツケが、こんなところで現われようとは思ってもいなかったアンジェであった。
「とにかく、再建の折には全部メイン設備と同様に丈夫なケーブル使いましょう。」
「そうだね。資材揃えるのに時間掛かりそうだけど、そうしようヨ。」
アンジェの意見にレイチェルがすかさず賛意を示す。
「それから、飲食関係の管理も今まで以上に徹底した方が良いでしょう。餌がなければ繁殖のしようがありませんから。」
施設の責任者でもあるレイチェルは、エルンストの忠告に素直に頷く。
そしてアンジェは、さっきから黙ったままのアリオスの方を不思議そうに見つめた。
「アリオス?」
良く見ると、アリオスの肩が小刻みに震えている。
「どうしたの?」
「……クリスマスの楽しみを奪ってくれた諸悪の根源が、ネズミだとぉ。」
レイチェルの心配ばかりするアンジェの為に、アリオスは2人きりで過ごすはずだったクリスマスの夜にレイチェルを招き、彼女を元気づけるために向こうの女王に借りを作ってまでエルンストを招いた。それもこれも、ネズミの所為だったとは…。
「ちょ、ちょっとアリオス、落ち着いて。」
今にもレヴィアスモードになって施設ごとネズミを吹き飛ばしそうな程に目が座っているアリオスに、アンジェは慌てて宥めるように手を伸ばした。
だが、アリオスはそのまま押し殺したような声でこう言った。
「全職員に通達。直ちに、王立研究院と宮殿内にホウ酸団子をバラ撒け。」
「ホウ酸…?」
驚くアンジェの前で顔をあげると、アリオスは叫ぶように続けた。
「ネコイラズでも良い。……とにかく、ネズミを徹底駆除だっ!!」
火災の原因を作って、アンジェと2人きりで過ごすクリスマスの夜を邪魔したネズミの罪は大変重かったのであった。