君のいる場所11
夕食の支度を終えたアリオスがふと時計を見ると、そろそろアンジェが帰ってきても良い頃合いになっていた。
心配になってアンジェの気配を探ってみると、帰宅途中で立ち止まっているようだった。夕方から降り始めた雨は更に激しくなっていることもあり、もうしばらく待っても動く気配がないようだったら迎えに行った方が良いだろうかと考えていると、それはゆっくりではあるがこちらへ移動してくる気配に変わった。
「ただいま~。」
「おかえり。で、何を道草食ってたんだ?」
念のためにタオルを手にして迎えに出たアリオスは、アンジェの腕の中に抱えられた黒い物体を目にした。
「道草の原因はこれか。」
繰り出される牙と爪の攻撃を難なくかわすと、アリオスはヒョイっと黒猫を取り上げてタオルに包み込んでしまった。
「ほら、ぼ~っと突っ立てんじゃねぇよ。さっさとシャワーでも浴びて身体を温めてこい。早くしないと、おまえの身体ばかりか飯も冷え切るぜ。」
クスクス笑うアリオスをひと睨みしてから、アンジェは料理が冷め切る前に着替えるべく走り出した。それを見送ったアリオスは猫を抱えてキッチンへと戻ると、棚から煮干しを出して猫の前に置いてみた。
「何だ、結構元気じゃないか。」
アンジェの腕の中で小刻みに震えていたからてっきり病気なのかと思ったアリオスだったが、どうやらこの猫は単に寒かっただけのようだった。さっきはあれほど敵意をむき出しにしていたのに、今はもうアリオスの目の前で堂々と食事をしている。
「雨が止んだら、外に出してやるからな。」
優しく語り掛けながら頭をなでるアリオスに、猫はその手の下で軽く肯いたかのように見えた。
夕食後、アンジェはアリオスにこの猫を飼いたいと願った。
「ダメ。」
「ダメ~?」
「そう、ダメ。」
珍しくアリオスはアンジェの上目遣い攻撃にも負けず、真っ向からアンジェの願いを退けた。
「だって、あんなに小さいのに親とはぐれてて、鳴き声もあげないほど弱ってて、木の根元で震えてたのよ。」
「だからって、うちで飼うのはダメだ。いいか、あの猫は…。」
アリオスが説明しようとするのにも耳を貸さず、アンジェはテーブルをたたいて立ち上がった。
「アリオスの莫迦! 冷血漢! い、家出してやる~っ!!」
「おい…。」
アリオスが止めようと伸ばした手をかいくぐり、アンジェは猫を抱えて雨の中をものすごいスピードで宮殿方面へ向けて走っていった。
「ほんっとに短気な奴だな。」
呆れながら見送ったアリオスだったが、それと同時にこういう時だけ発揮される素晴らしすぎる反射神経と瞬発力に感心しないでは居られなかった。
ずぶ濡れで研究院へ飛込んだアンジェを、レイチェルはタオルをもって迎えに現われた。
促されるままに仮眠室へ行き、アンジェは再びシャワーで身体を温めた。
湯気でのぼせそうなくらいまで温まったアンジェは、レイチェルに言われた通り、静かに眠っている猫を部屋の片隅にそっと置いたまま、研究室へと向った。
「あ、ちゃんと猫は置いて来たね。」
「ええ。」
精密機器が満載の研究室へは動物の持ち込みは禁止されているから仕方が無い。アンジェは部屋で寝ている猫のことを気にしながら、レイチェルのいれてくれたココアを口に運んだ。
半分ほど飲んだところで、レイチェルは口を開いた。
「それで?」
「ん、アリオスったら酷いのよ!」
アンジェはココアのカップをドンっと机に置いた。
「そう、それは酷いね。サイテーだね、うん。」
「…レイチェル。私、まだ内容を話して無いんだけど…。」
アンジェが叫んだ途端に、涼しい顔して相づちを打ながら自分のカップに口をつけるレイチェルに、アンジェは勢いを失った。
「そうだっけ?それじゃ、聞かせてよ。」
しれっと受け流すレイチェルに、アンジェはポツポツと事情を話した。
「それで、家出したワケか。」
「そうよ。アリオスが頭を下げて迎えに来るまで帰ってあげないんだから!」
きっといつものようにすぐに折れてくるんだからと勝ち誇りながらも怒りに頬を膨らませるアンジェに、レイチェルは呆れ顔になった。
確かに、今まではアンジェが飛び出すと大して経たない内にアリオスが頭を下げて迎えに行っていたようだが、今度ばかりはそうは行かないだろう。
これまでにアンジェが家出した原因は、アリオスがアンジェの行動を束縛し過ぎたとか、アンジェの想い出の品をがらくたと間違えてゴミに出したとか、アンジェの嫌いなセロリを超薄切りにしてこっそり料理に混ぜたとかいうものであった。それをアンジェに責められて、ついアリオスが「危なっかしくて目が離せない」とか「大事なものならちゃんとしまっとけ」とか「セロリが原因で体調が悪くなった訳じゃないだろ」とか言い返してしまって、アンジェが怒って家を飛び出してしまったのだ。きっちりと行き先を告げながら…。そしてしばらくすると、アリオスの方が折れて丸く収まった。言い分はあるけれど、アンジェに窮屈な思いをさせたり、大切なものを捨ててしまったり、騙したのは事実だからとアリオスはその度にアンジェに頭を下げてきた。アリオスがアンジェに甘過ぎるほどに甘いというのが理由の大半だろうが、そこにはアンジェが拗ねている場所も多分に関係していた。そう、今までアンジェが飛び出して身を置いていたのは屋外なのである。早く迎えに行ってやらないと、アンジェが風邪をひいてしまう。
しかし、今回はこれまでとは違う。
原因はアンジェが猫を拾って来たことで、拗ねている場所は屋内なのだ。しかも、アリオスが女王の執務を手伝っている今では、明日になれば当人同士がどう思っていようとも執務室で顔を合わせることになる。これでは、そう簡単に折れてくるとは思えない。
「そういつもいつもアナタの都合の良いようには運ばないと思うヨ。」
溜息まじりに言うレイチェルを、アンジェは上目遣いに軽く睨んだ。
「あいつ、アナタがここに来ること予測してワタシに連絡入れるくらい余裕あったもの。」
「えっ?」
「ワタシは千里眼の持ち主じゃ無いんだヨ。どうして、タオル持って待ち構えてられたと思うの?」
前もって連絡を受けて無ければ、エントランスでタオルを持って待っていたりなど出来ようはずがなかった。
「多分、迎えに来るつもりなんて無いんだヨ。」
そんなレイチェルの考えがあたって、いつまで待ってもアリオスが迎えに来る様子は全く無かった。
翌朝、レイチェルはあの後ふて寝したアンジェを叩き起こして一緒に朝食をとると問答無用で彼女を執務室へと連れて行った。
「欠勤理由に『夫婦喧嘩』なんて認めないからね。ちゃんとお仕事はしてもらうヨ。」
二人が揃ったところで交互に指を突き付けて、レイチェルは研究室へと戻って行った。
机の横に猫の入ったバスケットを置いてアリオスと目を合わせないようにしながら仕事を始めたアンジェだったが、落ち着かなくて、いつも以上に処理速度は遅々としていた。それもこれも、いつもと変わらない様子で平然と報告書を捌いていくアリオスの所為だと理不尽な怒りを覚えもしたが、あまりにも悔しくて睨み付けることさえ出来なかった。
そうこうしている内に、足元で猫が伸びをして「みゃぁみゃぁ」と鳴き声を上げ始めた。
「あ、お腹空いたの? ちょっと待っててね。ミルク持ってくるわ。」
「そんな必要ねぇよ。」
部屋を出て行こうとするアンジェをアリオスが呼び止めたが、アンジェはその声を無視してミルクを取りに走って行った。
「まだ怒ってんのか。ったく、ちっとは俺の話を聞けってのに…。」
呆れながらも、アリオスはティーセットのソーサーに煮干しを山盛りにし、シリアルボウルに水を入れると猫の前に置いてやった。
そしてアンジェが深皿に牛乳をいれて戻って来た時には、既にそれらは影も形も無く、猫はすやすやと眠っていたのだった。
「あらら? 猫ちゃんてば、ミルク要らないの~?」
「だから、必要ねぇって言ったろ。」
何食わぬ顔で仕事に戻ったアリオスは、このくらいの意地悪は許されるだろうと、何があったか解らずにがっかりしているアンジェに対して、説明してやるのを敢えて止めにした。
そして、夕方。何か言って欲しそうにするアンジェの様子に気付いていながら、普段と変わらぬ素振りを装って、アリオスは執務室を出て行こうとした。しかし、後ろから聞こえた微かな声に足が止まる。
「…ってよ。どうして……てくれないのよ…。」
振り返ると、アンジェが泣いていた。
「どうして、「帰って来い」って言ってくれないのよ。」
「帰りたかったら、帰って来りゃいいだろ。俺は「出てけ」って言った覚えは無いぜ。」
「迎えに来てくれるまで帰らないもん!」
アリオスは、迎えにと言われても研究院は職場直結だしなぁ、とアンジェに聞こえない程度に呟いた。
「言ってよ、いつもみたいに!!」
「冗談じゃねぇぜ。」
この状況で「俺が悪かったから帰って来てくれ」なんて絶対に言ってやるものか、とアリオスは改めて決意を固めていた。
「言ってくれなきゃ、帰れないじゃないの!?」
「だったら、しばらく帰ってくるな。2、3日こっちで寝泊まりして、ちっと頭冷やせ。」
突き放すように言われたのを受けて、アンジェは本格的に泣き始めた。
「ヒック…ヒック…。言ってよ、「帰って来い」って…。」
「ああ、もう、わかったよ。言えば良いんだろ。」
アリオスは、前髪をくしゃくしゃと掻き揚げるようにしながら、仕方無さそうにアンジェの傍へ寄った。
「いつまでも妙な意地を張ってねぇで、とっとと帰って来い。今夜はお前の好物作ってやるから。」
「違う~。そんな風に言って欲しいんじゃないの!!」
アンジェはアリオスをペチペチと叩き始めた。それを他人事のように眺めていたアリオスだったが、適当なところでアンジェの手首を掴みあげた。
「きゃっ。」
「いい加減にしろよ、この我が侭女!!」
アンジェの頭が冷えてちゃんと話を聞く気になるまで待つつもりでいたアリオスだったが、一向にそうはならないアンジェについに業を煮やした。そのままアンジェをソファまで担いで行き、手を押さえ込むようにしながら座らせる。
「勝手に自己完結して沸騰しやがって。俺は別に、あの猫の面倒を見ることに反対してる訳じゃねぇんだぞ。」
いきなり事の元凶をズバっと言われて、アンジェは面喰らった。
「だって、飼っちゃダメって言ったじゃないの。」
「そう、飼うのはダメだ。」
言い含めるようにあの夜の台詞を繰り返すアリオスに、アンジェも再び同じ台詞を吐こうとした。
「アリオスの莫迦…むぐっ?」
アリオスは手持ちの袋に素早く手を突っ込むと、アンジェが反論出来ないように袋の中身をひと掴み、大きく開けられたその口に放り込んだ。
「よ~し、静かになったな。今度はちゃんと聞けよ。あの猫はなぁ、家の中で飼われるような気質じゃねぇんだ。だから、雨がやんだら外へ帰してやれ。わかったな?」
アンジェは目を丸くしながら、コクコクと頷いた。まさか、アリオスが猫の為を思って反対していたとは思ってもみなかったのだ。でもその方が猫が幸せならば、アンジェはあの子を外へ帰してあげようと思った。
そして、アンジェは口の中のものを必死に噛み砕き飲み込んだ。
「…アリオス。」
「ん? 反省したか?」
「うん。だから、お水ちょうだい。」
泣いて叫んで大量の煮干しを飲み下して咽がカラカラだとぼやくアンジェの手を放し、アリオスは手早くお茶を煎れて戻って来た。
「煮干し、か。アリオスって、意外と小動物には優しかったのね。」
「意外か? お前にも優しくしてるつもりだけど…。」
アンジェの頭をポムポムしながら、アリオスはアンジェを愛おしげに見つめた。
「私は小動物じゃないわよ!」
「そうだな。」
アリオスは、小動物より扱いにくいかも、と咽の奥で笑った。そして、思い出したように呟く。
「そういや、まだ言ってもらってないな。」
「何を?」
「あの言葉、訂正してもらおうか。」
アリオスは、あの夜アンジェが飛び出す時に叩き付けた言葉の訂正を要求した。
「ああ、あれは間違いだったわ。ごめんなさい。でも…。」
「でも…?」
「アリオスの意地悪。」
アンジェは、頬を膨らませて拗ねた目つきでアリオスを睨み付けた。
そしてアリオスは、そんな可愛く拗ねるアンジェの表情に爆笑したのだった。