君のいる場所10
ある日の朝。アンジェが寝ぼけたままで朝食の席につくと、皿を目の前に置きながらアリオスが言った。
「悪いが、俺は今日の仕事、休みな。」
「どこか出かけるの?」
元々アリオスはアンジェの手伝いなのだから、用事があるならそちらを優先してくれて構わないはずなのだが、既に彼を充分すぎるほどあてにしてしまっているアンジェは自分達を待っているであろう報告書の山を想像して表情を曇らせた。
「いや、家で寝てる。」
「えっ?」
「不覚にも風邪ひいたみたいなんだ。お前にうつすのも、こじらせて延々と寝込むのも御免だからな。今日は大事を取って休ませてもらうぜ。」
アンジェは手を伸ばしてアリオスを引き寄せると自分とアリオスの額をくっつけた。
「ちょっと熱あるみたいね。ちゃんと測ってみた?」
「さっき測ったら、37度4分を超えてた。」
答えながらも、アリオスはそそくさとその場を離れ、てきぱきとアンジェの前に朝食を並べたり弁当を準備したりしていった。
アンジェはアリオスの答えを聞いて、「ちょっと熱が出て来てるのね」と思っていた。アンジェよりも平熱が1度程低いアリオスにとってそれは結構辛いレベルにきているのだが、アリオスが無理して平静を装っているため気付かなかったのだ。
アンジェが出かける支度をしていると、レイチェルが馬車で迎えにきた。
「おはよっ、アンジェ。アリオスから連絡もらったんで迎えにきたヨ。」
アンジェが休んでもレイチェルへの負担は変わらない。しかし、アリオスが休むとなると話は別だ。アリオスが執務に参加するようになって以来、報告書は直に女王執務室へ届けられるようになったが、本来は補佐官レベルでチェックして量を減らすという過程が入っていた。今はアリオスがそれをやっているようなものなのだが、それが出来ない場合、レイチェルは女王執務室へ届ける報告書の選別という仕事を行わなければならなくなる。アリオスにその手の仕事を任せてしまうことにより朝から晩まで研究に没頭出来る今の業務パターンでスケジュールを組んで、それを完璧にこなすことに燃えているような彼女にとって、アリオスの急な欠勤はさぞ迷惑だろうと思われた。そのため、アリオスは朝っぱらから嫌味を言われるの覚悟の上でレイチェル宛の通信回線を開いて休みの連絡をしたのだが、予想に反してレイチェルは妙に嬉しそうだった。
「じゃ、今日一日こいつの面倒は任せたぜ。あんまりバカなことしないようにちゃんと見張っておいてくれ。」
「アナタに言われるまでもないわヨ。今日一日アンジェを独り占めしちゃうんだから♪」
アリオスのことを便利なアイテムであると同時にアンジェとの時間を邪魔するお邪魔虫のように扱っているレイチェルは、嬉しそうにアンジェの腕を掴んだ。
「でも、一人で平気なの?」
アンジェは、グイグイと引っ張るレイチェルに抗いながらアリオスの方を振り返った。
「ああ。以前は、毎日一人だったしな。」
「でも…。」
あの頃と違って今日のアリオスは熱があるんだし、と心配そうに見つめるアンジェに、アリオスは悪戯でも思いついたような笑みを浮かべた。
「平気じゃない、って言ったら添い寝でもしてくれる気か?」
だったら言ってみるのもいいかも、とクスクス笑うアリオスに、アンジェは真っ赤になった。
「マジに取るなって。うつすのは御免だって言ったろ。」
「もうっ、ふざける元気があるなら心配なんてしてあげないわ!!」
アンジェはアリオスをキッと睨み付けると、踵を返してレイチェルの待つ馬車へと走っていった。
アンジェを追い出した後、それまで必死に堪えていた咳を一気に吐き出すと、アリオスは辛い身体に鞭打って、いくつかの荷物を持って事実上の自分の寝室へと上がった。
「ヤバいな。更に熱が上がってきたぜ。」
アリオスはボソッと呟くと、手早く着替えて布団に潜り込んだ。
少しウトウトとして目覚めると、気持ちの悪い汗が額を濡らして前髪を張り付かせていた。
「着替えなきゃ…。」
ボ~っとする頭で何とか起き上がると、アリオスは汗でグシャグシャになったパジャマと下着を新しいものに取り替えた。いつもは普段着の下だけ履いて寝ているのだが、こういう時は吸水性に優れた寝巻きでシャツもちゃんと着ておく限るだろう。例えそれが、アンジェがペアで買ってきたヒマワリやクマやペンギンの絵のついたものであったとしても…。
「昼か…。」
しかし、身体中がだるくて食欲が湧かない。一応、食べ物も持って上がって来たが、食べる気にはなれなかった。
それでも、水分だけは摂取しなくてはならないし、咽は乾いている。アリオスは、小鉢に入れて持って来た蜂蜜とおろし生姜をマグカップに入れてお湯を注ぎ3杯程飲み干すと、再び横になった。
次に目覚めた時は、もう夕方だった。
元々そんなに酷くなかった咳の方はほぼ収まったようで、またしても汗をたっぷりとかいたおかげか熱も若干下がった感じだった。それでも、まだ高めだ。
アリオスは再び着替えて水分を補給すると、また静かに身体を休めた。着替える度にパジャマの柄がまともなものになっていくのは、アリオスの精神衛生の為に良かったかも知れない。
アリオスは夢をみた。炎天下の砂漠の中を、どこかへ向って必死に歩いている夢を。
歩いても歩いても、見渡す限りに広がる砂漠。影一つなく、休むことなど出来ない。自分が何処へ向おうとしているのか解らないまま夢の中のアリオスはひたすらに歩き続けている。身体中が痛くて、咽がカラカラで、夢の中だと言うのに気が遠くなって倒れかけた時、空から天使が舞い降りた。天使はその腕に抱えた水差しから、彼に水を飲ませてくれた。そして自らの作り出す影で、休む場所を与えてくれた。
しばらく休憩した夢の中のアリオスは、再び天使に水を求めた。天使は快く応じると、傍らの水差しを持ち上げて彼の口に近付けた。
そこで目を覚ましたアリオスは、目の前にアンジェの顔を見つけた。口の中に送り込まれた水を飲み干すと、アリオスは顔の横にあったアンジェの手を掴む。
「俺が寝てる隙に唇を奪うとは、こいつはまたえらく大胆だな。」
「そそそ、そんなんじゃないわよ!!」
アリオスのことが心配で、レイチェルが止めるのも聞かずに速攻で帰宅したアンジェは、声を掛けてもアリオスの返事がないことを不審に思い、この部屋へ駆け込んだ。そこで脱ぎ捨てられたパジャマの山と目を覚まさないアリオスを見て、驚いた。
そして、うわ言で水を欲しがっているアリオスに何とか水を飲ませようとして、意を決して口移しで水を飲ませた。しばらくそのまま額の汗をタオルで拭いながら付き添って、再び水を欲しがるアリオスにまた水を飲ませようとしたら、今度は目を覚ましたと言う訳だ。
「成る程な。…サンキュ。」
アリオスは身体を起こすとアンジェの手から水の入ったコップを受け取り、中身を飲み干した。さすがにだいぶ熱が下がったのか、昼頃に比べるとかなり頭がハッキリして来ている。後遺症のようにあちこちの関節が悲鳴を上げているが、それは無視することにした。
「もうこんな時間か。お前、飯は?」
「カフェテラスのデリバリーサービス頼んじゃった。アリオスの分もあるから、すぐに温めてくるわね。」
「…要らない。食欲ねぇよ。」
「ダメよ、ちゃんと食べなきゃ。お昼、食べてないんでしょ。」
掴んだ手を簡単に振り解かれてアリオスが呆然と見守る中、アンジェはパタパタとキッチンへ走って行った。
「仕方ねぇな。何を頼んだか知らないが、無理にでも腹に入れるか。」
諦めたように呟いて、アリオスはまたしても汗でグッショリと湿った服を着替え、アンジェが夕飯を運んでくるのを待った。
「お待たせ。」
「早かったな。で、何持って来たんだ?」
「『春野菜と肉団子のスープ』よ。」
目の前に差し出されたシチュー皿を見て、アリオスは目を丸くした。
「凄ェな。これなら食えそうだ。」
「良かった。食べられるだけ食べてね。足りなかったら、ストックしてあるレトルトのおでんも温めてくるから。」
アンジェがニコニコと見守る中でアリオスはシチュー皿いっぱいのスープを全部平らげるとゆっくりと休んで、翌朝には食事の支度が出来るくらいまで回復したのだった。