君のいる場所6
2月某日。
朝食の後片付けを終えて着替えようとしていたアリオスが玄関チャイムの音に呼ばれて行くと、そこにはレイチェルが立っていた。
「アンジェの支度は出来てる?」
レイチェルにそう聞かれて、アリオスは困惑した。
朝も早くからレイチェルが家まで押し掛けて来てアンジェの支度を確認するような大事な予定なんか入っていただろうか。アリオスは今日のスケジュールを頭の中で思い返したが、それらしき予定の記憶はなかった。
玄関口でアリオスが首を捻っていると、後ろからアンジェが走って来た。
「ごめんなさい、レイチェル!お待たせ~。」
「おはよっ、アンジェ。それじゃ、行こっか。」
困惑するアリオスを無視して、レイチェルはアンジェの手を引っ張った。
「おい、ちょっと待て。どういうことなんだ?」
アリオスは慌ててアンジェを引き戻した。
「あれ? ワタシ言わなかったっけ? 今日はアンジェとショッピングエリアへお買い物に行くんだヨ。」
「聞いてねぇよ。」
少なくとも、レイチェルから渡されたスケジュール表にはそんなことは一言も書かれていなかった。
「とにかく、俺も一緒に行くぜ。」
買い物だったら、このままの服で充分だ。
しかし、ついて行こうとしたアリオスに、レイチェルはにっこり笑ってこう言った。
「アナタはお留守番だヨ。」
「何でだよ!?」
「だって、皆で出かけちゃったら誰が執務するの?」
今日は休日ではない。本来なら、アリオスとアンジェはこれから宮殿へ出仕して執務を執り行わなくてはならないはずだった。もちろん、レイチェルも補佐官の仕事や研究があるはずだ。
確かにアリオスが見たスケジュール表には「書類決裁」の文字があったのだが、それはアリオス専用のスケジュール表だったということか。
「そんなこと言うくらいなら、お前らも働けよ。」
買い物に出かけたいなら先週末に行っておくべきだし、急ぎなら配達させるかアリオスがお使いに行った方が効率が良い。
アリオスの言わんとすることをさとって、アンジェは横からそっと声を掛けた。
「あのね、今日じゃなきゃダメなの。それに、どうしても自分で行きたいの。」
「だったら、俺がついて行くからこいつに執務代行させろ。」
アリオスは、レイチェルを指差した。
しかし、レイチェルからは物凄い目で睨まれ、アンジェからは縋るような視線が返って来た。
「…な、何だよ?」
レイチェルの反応などどうでもいいアリオスだったが、アンジェのその視線は心に刺さった。しばらく耐えていたが、結局、こう言わざるを得なかった。
「わかったよ。俺が留守番してりゃいいんだろ。」
とたんに、さっきまでとは段違いにパ~っと明るい顔をしたアンジェに「絶対に逸れるんじゃねぇぞ」と念を押して、アリオスは2人の乗った馬車を見送った。
積み上げられた報告書の山を相手にアリオスが孤軍奮闘していると、文官が執務室へ駆け込んで来た。
「何を慌ててんだ?」
「次元回廊が開きまして…。」
相手があまりに慌てているので、次元回廊がこじ開けられたとかそこから何かが攻め込んで来たとか続くのかと思ってしまったアリオスだったが、その後に続いた言葉で拍子抜けした。
「あちらの宇宙から、緑の守護聖マルセル様と占い師のメル様がいらっしゃいました。」
それって、ただのお使いとか休暇とかじゃねぇのか?
次元回廊が正常に開かれたなら、それはアンジェかレイチェルが前もって手続きをしてあったのだろう。アリオスが知らないということは、おそらくレイチェルが…。
「で?」
「はい?」
「だから、奴らは何しに来たんだ?」
「女王陛下から個人的に招待された、と仰ってましたが…。」
その表現にちょっとムッとしたアリオスだったが、もしかしたら今日の内緒の買い物と関係があるのかも知れないと思い、怒りをおさめた。それに、彼等のことはそんなに嫌いじゃない。
「公式訪問じゃねぇなら、その辺に通しとけ。」
アンジェ達は朝っぱらから出かけて行ったから、そろそろ帰って来てもいい頃だった。予定ではもう帰って来ているつもりだったのだろう。さもなきゃ、ちゃんと伝言なり手配なりして行ってるはずだ。
それにしても、今回はいったい何を企んでいるのやら。アリオスには検討がつかなかった。
そして、気を取り直してまた報告書に目をやると、マルセルとメルが執務室に入って来た。
「本当に"その辺"に通してんじゃねぇよ。」
その辺の部屋に通せばいいものを、文官は2人をアリオスの目の前へ案内してしまった。
「こんにちは、アリオス。」
「こんにちは~♪」
機嫌よく入って来た2人に適当に手を振って応えると、アリオスは仕方なさそうに席を立って、部屋の片隅でお茶を煎れた。
「ほらっ、これでも飲んでおとなしく待ってろ。」
ポットとカップを目の前のテーブルに並べられて、2人は目を丸くした。
「ん? 文句があるなら、ハッキリ言え。」
「ううん。僕たち、文句がある訳じゃ…。」
ここって執務室だよね、と2人は顔を見合わせた。マルセルは家事全般アリオスがやってるってことを知っていたが、まさか執務室でまでお茶汲みしてるとは思ってもみなかったのである。だが、衝撃の事実はそんなものではなかったことを、2人はすぐに知らされた。
「あいつが煎れたよりは落ちるが、居ねぇんだから我慢して飲め。」
それはつまり、この宇宙では執務中に女王様が自らお茶を煎れている、と。
休みの日に私邸で開くお茶会の時はともかく、宮殿では最年少のマルセルでさえも雑用を担当する使用人にお茶を煎れてもらう。それが、ここでは女王陛下でさえ自分でお茶汲み?
「こっちの宇宙って、随分と人手不足なんだね。」
「あぁ? 何言ってんだ、お前ら。俺は、手間暇かけて不味い茶を飲む趣味はないぜ。」
プロを除けばこの宇宙で一番美味しいお茶を煎れられるのがアンジェで、2番手がアリオス。だったら、例え宇宙の統治者だろうとも自分達でお茶を煎れた方が良いに決まってる。
アリオスは、2人が困惑している間に奥の部屋から文庫本や雑誌を数冊持って来てテーブルの端に置くと、また報告書の山と戦い始めた。
「2人とも遅いね。」
「何かあったのかなぁ。」
ポットの中身を飲み干して、2人でお喋りしながら雑誌を1冊見終わっても一向に現れる様子のないアンジェとレイチェルに、マルセル達は心配そうに窓の外を眺めやった。
「勝手にうろうろすんな。気が散るじゃねぇか。」
「アリオスは心配じゃないの?」
アンジェの帰りが遅いことを一番心配しそうなのは、アリオスのはずなのに。
「ああ、無事だってわかってるからな。」
報告書から顔を上げようともせずに、アリオスは平然と構えていた。
「ったく、買い物に夢中になるのもいいが、限度ってものを考えて欲しいぜ。」
そう言って、呆れたような表情を浮かべた後、アリオスは喉奥で笑った。
アンジェの気配は急速にこちらへ向かって移動してきていた。慌てて馬車を飛ばさせて帰りを急いでいる様子が目に浮かぶようである。
そして、その言葉の通り、それから大して経たないうちにアンジェ達を乗せた馬車が宮殿前に滑り込んできた。
「ただいま、アリオス。遅くなってごめんなさい。でも、もうしばらく一人で仕事してて!」
荷物を抱えて執務室へ駆け込んできたアンジェは、その場にマルセルとメルを見つけて硬直した。
「…マルセル様と、メルさん?」
「お前が個人的に招待したんだってな。」
アリオスは不機嫌そうに報告書から顔を上げた。
「そう…なるのかしら。」
呼んだのは確かだが、招待したとか言われると、ちょっと違うような気がするアンジェだった。
「違うんだったら、今すぐ向こうへ送り返してやろうか?」
「帰しちゃダメ! これから手伝ってもらわなきゃいけないんだから。」
荷物を握る手に力を込めて、アンジェは叫んだ。
それを見て、アリオスは笑いながらマルセルとメルを促した。
「だそうだ。さっさと行って、手伝ってやんな。」
「…また失敗だわ。」
アンジェは目の前のものを見て、溜息をついた。
「え~っ? ちゃんと出来てるように見えるよ~。」
覗き込んだメルに、アンジェは目の前のそれをひっくり返してみせた。
「あ、焼きムラ…。でも、大したこと無いんじゃない?」
「形状がこれだから、なかなか簡単にはいかないけど、あと一歩だと思うよ。」
メルとマルセルに慰められ励まされて、アンジェはまた最初から作り直し始めた。
幸い材料はたくさんある。
だが、時間の方はそうたくさんある訳ではなかった。おやつの前くらいの時間から始めたのに、既に外は完全に夜となっている。こんなはずではなかったのに、今日は完全にアリオスに執務を押し付けてしまった。
落ち込みそうになる心を奮い立たせてアンジェがマルセルの指導を受けながら作り直しを進め、メルが失敗作を片付けていると、さっさとエルンストに渡す分を作り終えて補佐官業務に戻っていたはずのレイチェルがやって来た。
「首尾はどう?」
「もう一息ってところまでは来たみたい。」
振り返ったアンジェに、レイチェルは後ろに指示して大きなバスケットを2つ差し出させた。
「ひと休みしなヨ。」
「どうしたの、これ?」
アンジェは台の端に乗せられたバスケットの蓋を開けた。中には、アンジェの好きなものがいっぱい詰まっている。
「預かったんだ。ついでに伝言だヨ。「何やってるのかは聞かないでおいてやる。とにかく、飯はちゃんと食え」だってさ。」
「アリオス…。」
「でもさ、か弱いワタシに4人分手渡そうとするんだヨ。まったく、あいつってばアンジェ以外は女だと思ってないんじゃない?」
アンジェは、怒った振りをするレイチェルに苦笑した。
確かに重い荷物を押し付けられたことにはムッとしたのだろうが、レイチェルは決して怒ってなどいなかった。何故なら、自分の分の夕飯も含まれていたこと、そして何より、自分に預けに来たことに感心したのだ。
アンジェが起きている以上、その気になればアリオスは彼女の居場所がすぐにわかる。レイチェルに渡さなくてもアリオスは自分でここまで持って来ることが出来たのだ。しかし、内緒にしたがっている気持ちを汲んで秘密を共有しているレイチェルに預けていったのだろう。そして、夕食を届けに来た後また執務室で大人しく報告書にサインをしている。
「あいつの方が片付くまで仕事してるから、終わったら知らせろ。」
アンジェの担当分がアリオスの担当分に比べて少ないとは言え、二人分を一人で処理しきるのは難しかった。刻々と変わる状況に、研究院から送られてくる報告書は後を絶たず、朝から真面目に処理していたにも関わらず完全に片付くということはなかった。通常の書類で上がってくるものの中には急いで処理しなきゃいけないような重大報告は来ないが、どうせ家へ帰っても面白いことはないので、アリオスは仕事をしながらアンジェを待つことにしたのだ。
そして、真夜中近くになってアンジェは成功作を作り上げ、アリオスに抱えられて帰宅したのだった。
結界の張られた寝室で目覚めたアンジェは、階下から響く明るい声に急いでダイニングへ走って行った。
「あっ、おはよう、アンジェリーク。」
「マルセル様?」
前夜、やっと成功したと思ったら気が抜けて眠ってしまったアンジェと共に、アリオスはマルセルとメルもこの家へ連れて来た。宮殿に泊めようとして猛反対されたのだ。かと言って迎賓館がある訳でもなし、されどこんな時間に追い返す訳にもいかず、仕方なくアリオスは向こうの宇宙に連絡を取って、2人をこの家に泊めることにしたのだった。
「ったく、宮殿の奴らの頭の固さには参っちまうぜ。」
執務室の奥の部屋に一晩泊めるくらい構わないだろうと思ったのに、「そこは女王陛下の寝室にもなるからダメ」だと言われてしまった。だったら、どこかから毛布を調達して来て適当な部屋のソファーに寝かせりゃいいかと思ったら、これまた「女王陛下の賓客にそんな仕打ちは出来ない」と反対された。
「おかげで俺は床で寝る羽目になったんだからな。後で何か埋め合わせしろよ。」
アリオスの言葉に申し訳なさそうな顏をしたアンジェを見て、マルセルは頬を膨らませた。
「もうっ、アリオスったら。僕達が床で良いって言ったのに、自分で強硬に反対したんじゃない?」
「当たり前だ。お前らを床で寝かせて俺が予備のベッドやソファーを使ったら、こいつがもっと気に病むじゃねえか。」
アリオスに迷惑をかけるのは日常茶飯事で後からその分の埋め合わせをするのは容易いことだが、マルセル達が相手ではそうはいかない。
「わかったら、ソファーで寝てるあのガキを起こしてこい。朝飯にするぜ。」
そしてそれから数時間後、アリオスは昨日からの貸しを全てチャラにした。
アンジェがアリオスに手渡したハート形のチョコレートケーキは、大量の仕事によるストレスと数々の不愉快な思いを忘れさせるには充分すぎるものだったのだ。
デコレーションで誤魔化すことが出来ないために、最初からハート形の型に入れて焼き上げて、何度も失敗を繰り返した結果出来上がった成功作には、1枚のカードが添えられていた。
On Valentine's Day With My Heart to Arios
from Angelique