三芳町ってこんなトコ
三芳町役場庁舎
三芳町役場庁舎
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ボタン人  口  35,912人(平成16年10月1日現在)

ボタン世帯数  13,332世帯(平成16年10月1日現在)

ボタン面  積  15.30平方キロメートル

ボタン地 勢
 三芳町は首都圏30kmに位置し、埼玉県入間郡の南部、武蔵野台地の北東部にあたり、東経139度31分、北緯35度50分、海抜は37.5m前後、その形状は東西6.9km、南北4.2kmにわたり、西から東へとゆるやかに下る勾配をもつ、関東ローム層におおわれたおおむね平坦な台地です。東に志木市・富士見市、南東に新座市、南西に所沢市、北に大井町・川越市と隣接しています。

ボタン気 象
 三芳町は太平洋岸気候区に属し、冬は北西の季節風が強く、湿度の低い晴天の日が続きます。4月から5月ごろの晩霜により、農作物に被害をもたらすこともあります。夏はかなり高温で湿度も高く、しばしば雷雨があります。年間平均気温は14.1度、降雨量は1300mm強です。
ボタン沿 革
○原始・古代
 三芳町の曙は約2万7000〜2万6000年前の旧石器時代にさかのぼることが、県内最古といわれる「藤久保東第二遺跡」から発掘されたキャンプ跡や石器によって明らかにされています。また、藤久保の「俣埜遺跡」からは縄文時代の竪穴住居跡や土器が、竹間沢の「本村南遺跡」からは弥生時代の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが発掘され、当時の生活の様子を現在に伝えています。また、平安時代になると、みよし台一帯には瓦や壷などを焼く窯が築かれました。ここで焼かれた器の中には「福麿」(ふくまろ)と刻まれたものもあり、この町内最古の文字で表わされた人物は、当時のこの地方の有力者と考えられます。
○中世・近世
 鎌倉時代から室町・戦国時代の武蔵野は見渡す限りの原野でした。鎌倉武士が馬を走らせたとされる「鎌倉街道」が藤久保と竹間沢にあり、竹間沢には中世を思い起こさせる文化財や地名が残されています。三芳の地域が本格的に開発されたのは江戸時代に入ってからで、徳川家康の関東入国以降、武蔵野台地の開発がすすみ、原野にも開墾の鍬が入れられました。元禄7年(1694)、川越藩主・柳沢吉保による「三富新田開拓」が実施されるに及び、三芳の旧4か村が成立するに至りました。
○近代・現代
 明治22年(1889)4月1日の町村制施行により、上富村、北永井村、藤久保村、竹間沢村が合併して三芳村が誕生。以来、長期間にわたり純農村地帯として歩んできましたが、昭和40年代から高度経済成長とともに首都近郊のベッドタウンとして、また、首都圏の流通基地としてめざましい変貌を遂げ、人口も急増し、昭和45年(1970)に町制を施行、今日に至っています。
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