津田信夫 生誕130年、開館10周年記念
  
「津田信夫・高村豊周展」

津田信夫「青鸞献寿」ブロンズ/昭和16(1941)年

津田信夫「アラヒヤ文華瓶」

■ 会期
 2005年10月15日(日) 〜12月23日(金・祝)

■ 内容
 当館所蔵の津田信夫(つだ しのぶ)作品31点(大正初期から昭和18年まで)
 津田信夫の一番弟子の高村豊周(たかむら とよちか)作品15点(昭和初期から昭和40年頃)

■ 津田信夫と日本工芸界
 津田信夫は明治8(1875)年10月23日佐倉町藤沢44に生れ、33年東京美術学校(芸大)
鋳金科を卒業。34年鋳金科助教授となり、日本橋橋上装飾や多くの銅像などの鋳造に
かかわり、大正8年教授に任命されました。大正12年には欧米留学を命ぜられ、大
正14(1925)年のパリ万国現代装飾美術工芸博覧会には日本代表として国際審査委員に
任命され、西欧の新しい工芸作品に触れて帰朝し、欧米の工芸について学生などに語
り、鋳金科の子弟のみならず各分野の工芸家に大きな影響をあたえました。
 津田信夫にはまとまった自伝や論文などが残されておりません。しかし当時の美術
雑誌や弟子たちのしるしたものから信夫の工芸界に与えた影響などについて述べてみ
ましょう。一番弟子であり芸術院会員・人間国宝に認定された高村豊周は自叙伝『自
画像』のなかで『前略−津田先生がフランスから帰って来た。そしてヨ−ロッパの新
しい工芸の息吹と、また生活と工芸との緊密な関係を私たちに吹き込んだのである
「日本の工芸界は今頃こんな愚図々々していてはとても駄目だ。世界の趨勢について
行けない。ここで君たちがしっかりしなければ、やって行ける人は他にいないではな
いか。今が一番肝心なときだということを忘れては駄目だぞ」私たちは興奮した。そ
れから度々津田先生の家へ押しかけては、ヨ−ロッパの話を聞くのがとても楽しみと
なった。皆じっとしてはいられなくなってしまう。もっとどしどし新しい現代の工芸
をやって、未来の道を自分たちの力で切り開かなければ駄目だという気持ちで一杯に
なった。先生の所へよく集まった者は、杉田禾堂・北原千鹿・佐々木象堂・山本安曇
と私の五人だった−後略』更に『前略−津田先生は帰朝されると、私たち若い仲間に
新しい工芸運動の灯をともしたのと同時に、帝展に工芸部門を加える運動にかかった。
津田先生は、工芸が今の古い立場を墨守しておれば、日本の工芸は世界の工芸に立ち
おくれてしまうから、今のうちにその基礎を固めておく必要がある。それにはまづ工
芸を帝展に入れて、工芸そのものの地位を固めなければならないと考えた−後略』と
しるしています。現在の日展の前身である帝国美術院美術展覧会は、明治40年に第1
部日本画・第2部洋画・第3部彫刻の三部門で発足しました。当時の工芸は欧米のジャ
ポニズム嗜好による輸出品として日本農商務省により江戸時代以来の継承的な作品が
奨励され、美術の範疇に入れられず職人芸と見られていました。大正デモクラシ−と
呼ばれる大正期には、西欧の新しい思想や美術の考え方が紹介され、数多の工芸展覧
会の開催によって、工芸作家としての研鑽と工芸美術家としての自覚がたかまり、パ
リ万博を見て帰朝した津田信夫の提唱によって同郷の香取秀真などとはかり、工芸部
門の帝展第4部としての参加を昭和2(1927)年に実現しました。
 津田信夫の新しい西欧の工芸の話に触発されて、先に記された5名の金工作家を中
心に漆芸・染織などの工芸作家が集まり大正15年に「无型」という美術集団がつくら
れます。同人である杉田禾堂は、昭和2年に開催された第1回无型展で『伝統の殿堂
に長夜の夢をむさぼっていたわが工芸界は、昭和の春から自己の芸術に目覚めて、雄々
しくも曠野に出でて、新たなる生活を創めんとする人々の奮起を見た。吾が无型の展
覧会は正に之れである。回顧すれば大正の十数年間は工芸界の発展期であり、展覧会
期であった。その開催数実に幾千、然しながら、新様創作を標榜したる展覧会に於て
も、尚且つ伝統形式の延長に過ぎなかった。伝統は崇厳であり完美であるが、それは
古人の生活の堆積であって、その形式を現代に持参してはならない。吾人は全く新し
い現代のものを創造して、祖先以来の伝統を栄えあらしむるであろう。伝統は形式で
はなく精神であらねばならない。无型展はこの心の現はれとして展開せられるであろ
う。ここに現代精神がある、自己の芸術がある。空前の展覧会として大なる期待を持
つことが出来るのである』と信夫の云はんとすることを述べています。この集団の作
家達は昭和2年初加入の帝展工芸部門に出品して、佐々木象堂、北原千鹿、高村豊周
が特選を受賞し、信夫は鋳金のフクロ−の香炉とアザラシを図案化した漆の箱を出品
して斬新な作品に美術界の注目が集まります。昭和3年・4年の帝展でも无型の人達
の活躍が目立ちました。しかし回を重ねると伝統を重んずる作家と、構成主義と呼ば
れ新しい工芸理念を標榜する作家の間で主張の隔たりが広がり、多くの作家を擁する
伝統作家の間で、新しい工芸理念を代表する津田信夫に対して多くの批判が出されま
した。「アトリヱ」昭和4年11月号に『津田信夫論』が特集され、その中で楢原豊一
は『前略−津田さんは決して新傾向の先頭に立つ程新しくはない。僕は寧ろ津田氏の
慚新性を歯がゆくさへおもってゐる。然し審査員其他の諸氏は古典主義の人が多いの
で、津田さんも自分の立場は主張するが、以何にせん、数に於いては敵せず、文字通
り孤軍奮闘しているのだ、津田信夫氏は工芸界を今日あらしめた恩人の一人である−
後略』と述べ、河村蜻山は『前略−氏を以て工芸界の赤化頭目と看傲し、我国固有の
芸術を破壊する西洋かぶれの反逆者の如く思惟する老大家もある様だが余りにも氏を
知らない皮想の観察である。それ等の人達こそ今も天平藤原より一歩も出ない偏頗な
頭の持主で我国工芸の進展を阻害する事の深甚なるを思はしめる、基督教を邪宗と断
じ洋画を西洋の模倣畫であるとする輩に等しい。私に言はしむれば氏は頑強なる古典
礼讃者である、我国固有の芸術を尊敬し其発揚を忘れない事は決して人後に落ちない
が然も其反面は常に注意深く社会の動き、生活の変遷、思想の動揺を凝視してそれ等
の為に必然的に來る工芸作品の変化を見過ごすまいとして居る人である−後略』又、
山崎覺太郎は『前略−氏のとなえる工芸の主張は普通あの年齢としてはあまりにも若々
しい。工芸の上層を流るる老大家の空気といふものはいつも若者と縁遠い古典の色彩
で染めらるる。又普通はそれでよいのである、年齢に依りてその作風を限定するのが
伝統の公式である。但し氏の場合はどうしても此の公式は当嵌まらぬ、ここでいつも
問題が湧く、やれ氏はあまりにも過激派だ、革命派だと。いつの間にやら氏自身は工
芸左黨扱ひされるに至った。工芸に於ける構成主義の理解者はまだ日本には少ない。
恐らく氏はこの唯一の味方であろう。唯氏の構成主義賛美は欧州鵜呑みではないであ
ろう。弁慶縞の中にもこれを認め、日本障子の組合わせの中にも此の美を探しあてる
人であるから−後略』と若い作家たちは津田信夫を高く評価しています。
 この二つの大きな工芸作家の流れの、伝統的な作家の中心は香取秀真であり、構成
主義と呼ばれる革新派は津田信夫に代表され、両派の代表的作家がいずれも北総出身
の鋳金作家で、たがいに主張をくりかえして作品を発表します。
 かねてから国会議事堂の建設について国産の資材、国内の技術による建設するとの
趣旨により進められ、昭和2年4月には上棟式が行われておりました。ブロンズ製品
鋳造について東京美術学校に一括制作の依頼の話が昭和4年頃からあり、翌5年5月
に大蔵省より議院本館ブロンズ扉制作取り付けの公式委託書が発せられ、正木校長よ
り津田信夫に依嘱制作担当が命ぜられました。30屯以上にのぼる大量の制作には東京
美術学校の鋳物工場では対応できず、谷中天王寺町16番地の津田信夫鋳物工場を学校
が借受け製作することとなり、昭和5年8月より12月までの契約書、さらに昭和6年
6月31日までの延長契約書が東京芸術大学に残されています。津田信夫は昼夜を問わ
ずブロンズ扉の制作に励み、国会議事堂の正面玄関10面の大扉、玄関ロビ−から便殿
に上る階段上のガラス扉の枠、玄関ロビ−から衆議院・参議院に通じる左右の扉、衆
議院・参議院の各玄関扉には、
   「昭和7年3月31日    東京美術学校製作
       工事擔任   東京美術学校教授 津田信夫
                同   講師 鈴木 清」
の刻銘が残されています。
 津田信夫は昭和6年の帝展への出品を取り止め、審査員も辞任致しました。世間で
は制作理念によるいざこざによるものと噂されましたが、自分のアトリエを国会議事
堂ブロンズ扉の製作のため東京美術学校に貸し、各扉の制作に専念して自分の制作ま
で出来なかったからではないでしょうか。國会議事堂正面玄関の堂々としたブロンズ
扉、その他の扉を制作し、私たちに大きな遺産を残してくれました。
 昭和10年帝国美術院会員に推され、その後は動物を写実をもとに表情をよくとらえ、
これを簡便化した作品を多く発表しました。戦争の拡大と共に美術界は消滅の状態と
なり、津田信夫は終戦の翌昭和21(1946)年2月17日、日本工芸界の復興をみることな
く亡くなられました。
 平和の訪れと共に美術界の人々は多くの主張を述べ、それを表現すべく作品を発表
していますが、工芸界は先の二つの大きな流れによってグル−プをつくり作品を発表
しているのが現況で、津田信夫の日本工芸界に与えた影響は大きなものであると思い
ます。