METAL ART MUSEUM HIKARINOTANI
 
特別展 香取秀真 生誕130年記念
 「香取秀真・香取正彦 父子展」
 会期 2004年3月20日(土)〜 6月27日(日)
 香取秀真 作「鳳凰香炉」1942年制作

 香取正彦 作「鳳雛香炉」1943年制作

展覧会名:香取秀真・正彦 父子展

会期:2004年3月20日(土)〜 6月27日(日)
 当館は北総に生まれた金工作家「香取秀真」「津田信夫」と、二人の師弟関係の金属工芸作家の作品を収蔵展示しておりますが、平成16年は、香取秀真が明治7年に船穂村(現印西市船尾)に生まれ、昭和29年に亡くなって、生誕 130年、没後50年にあたります。当館ではこれを記念し、当館所蔵の「香取秀真」「香取正彦」父子の作品それぞれ20点以上を展示し、特別展『香取秀真・正彦 父子展』を開催します。

作家紹介

◎香取 秀真(かとり ほつま)
 明治7(1874)年船穂村(現印西市船尾)に生まれ、7歳のとき佐倉麻賀多神社の宮司郡司家の養子となり、東京美術学校入学のため明治24年上京までの17年間を佐倉の地で勉学に励んだ。
 明治25年東京美術学校に入学、30年同校鋳金科を卒業。31年の日本美術協会展に獅子置物を出品し褒状一等賞を受賞する。
 その後、東京鋳金会等で活躍し、日本古来の金属工芸品や仏像などについて各地を歴訪して研究し、美術史の中から日本金工史を一つの学問として母校で鋳金史・彫金史などを講義した。
 昭和8年教授となり、「日本金工史」「金工史談」「日本鋳工史」などの多くの著書を著した。また、帝展の工芸部設置には同郷の津田信夫と共に尽力し、昭和2年に工芸を帝展の第4部として参加させ、その作風は豊かな技術を駆使した古典的で格調高いもので、昭和4年帝国美術院会員、10年には帝国芸術院会員に挙げられた。
 さらに文化財保護にもかかわり、文化財専門審議会専門委員等を歴任、昭和28年工芸家として初めて文化勲章を受章した。
 また、正岡子規門下の歌人としても著名で「天の真榊」「還暦以後」の歌集があり、昭和29年には宮中新年歌会始めの召人として下記の召歌を奏上した。
   したくさの くちはのいろの あかるきに 
      ならはやしひは あたたか尓富類
 宮中より戻った秀真は、風邪をこじらせ昭和29(1954)年1月31日急性肺炎のため81歳の生涯を世田谷の自宅で閉じた。

◎香取 正彦(かとり まさひこ) 
 明治32(1899)年香取秀真と佐倉生れの母たまの長男として東京小石川に生まれる。家庭の事情から佐倉の祖父に養育され、佐倉の小学校を卒業し、12歳で父の元に戻る。
 大正14年東京美術学校鋳金科を卒業し、同年パリ万国装飾美術展覧会(ア−ル・デコ万博)に「苺唐草文花瓶」を出品し、銅牌を受賞する。
 昭和2(1927)年第8回帝展より工芸部門が新設されると、伝統的な香りの上に新感覚を加えた作品を発表し、昭和5、6、7年と特選を受賞し帝展無監査となる。昭和5年若手工芸家と「七日会」を結成、戦後は「清香会」を主導した。
 また、梵鐘の復元に励み、昭和25年より父子共名の「平和・喜の鐘」の制作に当たる。
 昭和29年、秀真死去により「平和・喜の鐘」は23作で終り、以後「平和・余韻の鐘」として制作を続け、 152の梵鐘を制作する。
 昭和29年より日本伝統工芸展が開催されると、第3回展より審査委員を委嘱され伝統工芸の振興に尽くした。また昭和31年の奈良薬師寺薬師三尊修理、34年の鎌倉大仏修理など多くの文化財修理に尽くし、これらの功績により、昭和52年に重要無形文化財保持者として「人間国宝」に指定された。昭和62年には日本芸術院会員に推挙され、昭和63(1988)年心不全のため死去された。
 成田山新勝寺の本堂前にある大きな香炉、梵鐘。宗吾霊堂の金銅仁王像は正彦の作品であり、梵鐘は父子共名のものである。また、佐倉市役所、印西市役所ロビ−にある「平和の鐘」は正彦により寄贈された梵鐘である。
 正彦の生まれた明治32年頃の秀真は貧乏のどん底であり、ここ吉高の富井宗之助氏宅を何度も訪れて慰められ、
   古里の むまれし家に かえり来て 
      ゆあみせるごと ゆあみせるかも
   人事を しげみこちたみ 躑躅咲く 
      よしたか村に 来て住まむかも
など吉高の村居を詠んだ多くの歌を残している。