2004.10.30-2005.10.29




エドマンド・バーク著、鍋島能正訳、『崇高と美の起原』、理想社、1973

 文学と美術の批評に心理学の重要性を取り入れるのにおおいに貢献した作品。(p.1)

 容積の偉大なことも崇高なるものの有力な一原因である。(p.106)

 人工的な無限を構成するものは、諸部分の「連続性」と「一様性」とである。一、連続性。これは諸部分を、非常に長い間、次のような方向−諸部分の感覚に及ぼす頻繁な衝撃によって、実際にはそれらの衝撃が終わっているのに、なお、進行していると想像させるような方向に続けるようにするために必要である。二.一様性。なぜなら、もし諸部分の形が変えられるとするなら、その変化ごとに想像が妨げに出会うからである。つまり、変化のたびに、ある観念の終わりと別の観念の始めとがあなたに提出される。そして、そのような手段によって、途切れのない進行−有限の事物に無限の性格を刻印する唯一のもの−を続けることが不可能になるのである。(pp.108-109)

崇高を生じると考えられる色
色のなかで、落ち着いたもの、または陽気なもの(おそらく陽気な濃い赤色)は壮大なイメージを生じるのに適しない。(中略)それ故、建築物において最高度の崇高さを意図する場合、その材料と装飾物は、白、緑、黄、青、薄赤−これらのいずれの色にもすべきでない。また、斑にもすべきでない。そして、黒、茶、または、暗紫色などのような、沈んだ黒ずんだ色にすべきである。金、モザイク画、彩色画、彫像の多くは、崇高さに貢献することがきわめて少ない。(中略)いやしくも明るい陽気なものほど全体の崇高な感じを著しく殺してしまうものはないから、かようなものに対しては、厳密な注意を払わなければならない。(p.120)

 崇高の観念と美の観念とは非常に異なった基礎の上に立っているので、いずれか一方の感情に及ぼす効果を著しく減少させないでこの両方を同一のものの中に調和させることは困難である。(p.157)

巨大なものは、崇高とは立派に両立できるが、美には相反する。(p.210)

 偉大な容積をもつものが美と両立し得ないこと、容積が大きくなればそれだけいっそう両立し難いことを示すのが、いまわれわれのしている仕事であるから。ところが、小さいものが、たとえ美に失敗するとしても、その失敗は、それの大きさに帰せられるべきではない。(p.211)

 バークは『崇高と美の起原』において、崇高という全く独立した別の範疇を美学の分野に創り出すことを試みている。彼によれば、崇高の概念と美の観念とを引き起こすものは互いに対立している。つまり、崇高は苦に美は快にそれぞれ依存し、ともに絶対的のものであるから、快の減少が苦を増さないように、苦の除去が快を生じることもない。そして、人間の心は、苦でも快でもない、不偏の状態にあることが多い。さらに具体的に言えば、脅怖、または、それに類似した作用を及ぼすものはすべて崇高の源であり、愛、もしくは、それに類似した感情を引き起こすものは、すべて美である。そして、崇高と美は、いずれも感覚器官を通して直接に神経系統に働き、両者の知覚は判断力の領域に属しない。以上の観点から、バークは、第一部と第二部において論じた諸観念の効果を、第四部において、心理学と生理学の立場から十分に説明している。

 バークは、この論文において、終始、自分および他の人々の経験を取り入れ、哲学、文学、絵画、彫刻、建築、医学、物理学等、広くあらゆる分野からの幾多の実例と実験とによって巧みに自説を立証し、たとえ、ロックのような権威者に対しても憚ることなく、論駁している。なかんずく、第一部第十九節の結論において、彼は過去の芸術家、哲学者、批評家などが、いずれも自己の経験を全く無視して、余りにも模倣的で伝統にのみ捕われて、そこから一歩も踏み出さなかったことを痛切に非難し、「芸術の真の基準は、だれの力ででもきるものである(79頁)」と述べている。この見解こそ、この研究における彼の審美的思想の焦点である。(pp.244-245)


木島俊介、『アメリカ現代美術の25人』、集英社、1995

 エドマンド・バークが1753年に発表した『崇高と美の観念に関する哲学的考察』以来、ヨーロッパ思想の中に展開することとなるあの美的範疇に関連しているのである。バークによれば、美には2つの基本的類型である「崇高」と「美」とがあるとされる。そして美は、積極的な快の感情によってもたらされると主張された。すなわちわれわれは、苦痛や危険に直接襲われるのではなく、単にその観念のみを持つときには、消極的な快ともいうべき「悦び」の感情を味わう。つまり芸術作品の中に単なる表象として現われる「大洪水の響、荒狂う嵐、雷光、あるいは砲弾の雨」、こうしたものは、「心に恐るべきセンセイションを呼び起こす」。この悦びの感情や大いなる驚きの感情こそ、崇高の観念の源泉だとされたのである。(p.184)


 1912年、『芸術における精神的なものについて』を刊行したロシアの芸術家カンディンスキーは、そのなかにおいて、彼のいう「物質主義の時代」を激しく告発し、芸術は精神的なものではなくてはならないと宣告するに至る。「
永い間の物質主義の時代を経て、今ようやくめざめはじめたわれわれの魂は、無信仰、無理想、無目的といった絶望の芽をそのうちに秘めている。この宇宙の生存を、無益有害な遊戯としてしまった物質主義的世界観の悪夢は、まだまったく消え去ってはいない」(西田秀穂訳)。彼のいう「精神的なもの」とは、この宇宙の生存の法則と照応しうるような人間の魂のうちなる何か、彼の言葉にいう「内的必然性」を発見することを意味しているのだが、当時、故国ロシアを離れて異国ドイツのミュンヘンにあった彼の芸術上の素地は、ゴーギャンとは対照的に、追想される故国とこちら側との間にある。だが、自己の立つ側がどちらであれ結局は同じことだ。ともに彼らは、自身の生き方と、カンディンスキーが「宇宙の生存の法則」と呼んだような自身の外側にある世界の生命がひとつのものとして表現できるような芸術を生み出すことを切望しているのである。
物質主義を排斥するものとしてカンディンスキーは、それを精神的なものに求めたから、必然的にその絵画は、彼が「自然の殻」と呼んだ自然的外貌をすててしまうこととなった。絵画が抽象的な世界に向けて解き放たれることとなったのである。(pp.211-212)

 抽象表現主義者の画家たちの初期の絵画は、芸術家自身の象徴ともいうべき原形質的な生物体を生存させる、内包的な、胎内のごとき空間を求めている。抽象表現主義者たちの絵画の中に共通して認められるこのような閉鎖的な傾向は、実存哲学者カール・ヤスパースがいったような「生存の根元的恐怖」から来ているのかもしれない。彼らのうちの多くは移民として祖国喪失を体験している者たちであったし、ニューヨークという大都市が人間に彼のアイデンティティを強く迫ったことも影響したと考えられる。ところが、1950年代になると彼らの空間は広がりを見せ始める。これは、自らを限定から解放することを意味している。(pp.231-232)

 ニューマン、マーク・ロスコといったユダヤ系のアーティストたちにとってのみならず、第二次大戦はやはり重い現実である。先に祖国喪失から来るアイデンティティの危機と述べたが、大戦による大量殺戮のニュースはヨーロッパにおけるそれも東洋におけるそれももちろん彼らの不条理感を倍増させたのである。二重三重の実存的不安から彼らはまず、彼らの内なるぎりぎりのアイデンティティを求めて、あの原形質の生物形態をつかみとり、神話世界に救いを求め、彼らの先住民である北米インディアンが自然の中で行う神秘的で謎めいた儀式に関心を寄せたのだ。ロバート・マザーウェルは1948年に著した『崇高への旅』の中で、ギリシアのホメロスが記す悲劇的な英雄アイアースが、オデュッセウスとの名誉をかけた戦いに敗れて、死にゆくものたちの亡霊とともに沈黙のままただ暗黒界への道を行くのを例にあげながら、「絵画は、芸術家が彼の個人的苦悩を超克したとき、崇高なものとなる」と記している。
 だが、抽象表現主義のアーティストたちにとっては、インディアンたちがアメリカのあの広大無比の原野、大地の上に直接にしるしてゆく図形や彼らの動作の痕跡の方が一層示唆的であったに違いない。その大地と表象とは彼ら自身の生命であり、同時に自然や宇宙の不可視の生命の表象でもあったからだ。
 1940年代のうちに、抽象表現主義のアーティストたちは一様に、彼らの初期の生物形態的なフォルムから離れて大型のキャンヴァスを採用し始め、そのキャンヴァスの空間の中に彼ら自身が入ってゆこうとする。ポロックやデ・クーニングのごとく彼らのアクションにおいてであれ、ニューマンやロスコのごとく彼らの感情によってであれ、この原野において彼らは、自己の内と外とが照応する時空を得たのである。ニューマンは1949年に、「私の絵画は空間処理にもイメージにも何も関係がない。時の感覚を味わっているのだ」といったが、この次元において彼らは新しい崇高の感覚を得ることができたのである。
 絵画は、それをひとつの対象として見るヨーロッパの伝統的なくびきから解放された。それは彼の生きるべき空間であり時間ともなった。ここにおいてアーティストたちは、実存的不安からようやく超脱することとなるのだが、20世紀のそれは、ゲーテやエマーソンのそれのように神的な啓示においてではなく、またモネやセザンヌのそれのような歓喜の感覚のカタルシスによってではなかった。マザーウェルのいうように、
悲劇のカタルシス以外ではあり得なかったように見える。(pp.235-236)