2003.10.30-2004.10.29




藤枝晃雄『バーネット・ニューマン論』季刊藝術第44号 講談社 1978.1


 画面はタイトルに従って描かれたものではなく、描かれた結果によって名付けられたものである。
 ニューマンはシュールレアリスムのうちオートマティスムに感化されはしたが、シュールレアリスム一般に対しては批判的であった。かれはそれを「シュールレアリスムのゲーム」という言葉で揶揄している。
 ポロックやマザウェルが行なっていたオートマティックな詩作は芸術的な遊戯である。かれらは頭のなかに浮かんでくる言葉を次々と出し合って詩を構成する試みを楽しんでいたのであり、それはポロックのドローイングのなかに応用されている。
 「幻想的な視覚的錯覚」といわれているものこそ「シュールレアリスムのゲーム」という作品であった。現実によりながらその表面をいささか変形しこの世にあるまじきものと思われる光景を描き出すというトリックは、見るものに「不思議さ」や「面白さ」という心理的なイリュージョンの効果を与えるものであり、その効果の大小がゲームの基準となったのである。それはシュールレアリスムが対立した同時代の抽象芸術が色と形により、「造形的な視覚的錯覚」を生み出そうと苦心したことと大同小異である。
 ニューマンがシュールレアリスムのオートマティスムに影響を受けたのは、芸術そのものの問題としてである。それは自発的に湧出するイメージを表現する武器として用いられたのであり、それはニューマンが激しく批判したモンドリアンなどの抽象芸術はむろんのこと、現代芸術がもたざるをえなかった否定的、消極的な性格を救うためのものである。
 絵画とは、そこに「人間」がかかれていても手で触れれば「人間」などいるはずはなく木枠に張られたキャンヴァスと絵具の塊という平らな物体でしかない。見る者がそこに「人間」を発見するのはその物体を遠くから眺めたときにである。


ヴォリンゲル著、草薙正夫訳『抽象と感情移入』岩波書店 1917



 第一部 理論



  第一章 抽象と感情移入


 藝術唯物論的方法ーただし明確に強調されなければならないのであるーは原始的な藝術作品において、使用目的・素材・技術なる三つの要因からなる一つの所産を見た。この方法にとっては、藝術史は究極的には能力の歴史であったのである。それに反して新しい見方によると、藝術の発展史は、能力は意欲から出てくる第二次的な附随的現象であるにすぎないという心理学的前提から出発して、意欲の歴史と見なされる。従って、過去の時代のいろいろな様式の独自性は、能力の不足に帰せられるのでなくして、意欲がとるいろいろな方向によって決するのである。それゆえ、判決を下すものは、リーグルが《絶対的藝術意欲》と呼ぶところのものである。そしてこの藝術意欲はあの使用目的・素材・技術の三要因によってモディファイせられるにすぎないのである。
(p.25)

 cf.ヴェルフリン「個々の形式の技術的な発生を否定することは、私の思いもよらぬところであることはいうまでもない。素材の性質やそれの加工の方法や構成が無影響である筈は決してないだろう。しかし私が主張したいと思うことは、ー殊に若干の新しい要求に対してー様式を創り出すものは決して技術ではなくして、吾々が藝術について語る限り、一定の形式感情が常に第一義的なものであるということである。技術的に産み出された形式は、この形式感情と矛盾することは許されない。前者は、それがすでに現存する形式趣味に適合する場合に限ってのみ、存立することができるのである。」(pp.25-26)

 自然模倣と美学との関係を明確にしなければならない。模倣衝動というこの人間の原始的な要求は本来の美学の外に立つということ、そしてこのような要求の充足は原則的に藝術とは何の関わりもないということ。(p.28)

 藝術史は宗教史と殆ど同価値的な意義を獲得する。シュマルゾーが彼の根本概念に関してその出発点としたところの方式ー《藝術は人間と自然との対決である。》(p.29)

 吾々が美と呼ぶところの藝術作品の価値は一般的にいえば、幸福感的価値に存する。(p.30)

 感情移入の要求は藝術意欲が生命の有機的な真実、即ち一層高い意味での自然主義に傾く場合に限ってのみ、藝術意欲の前提と見なされることができるのである。(p.31)

 感情移入の要求というものは常に有機的なものに向かうものであるということは解りきったこと(p.32)

 感情移入に対する反対極として現れるものが抽象衝動なのである。(p.32)

 感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生まれた結果である。またそれは宗教的な関係においては、あらゆる観念の強い超越的な調子に一致するものである。吾々はこのような状態を異常な精神的空間恐怖と呼びたい。ティブルが、恐怖が世界において先ず神を作ったというように、この同じ不安の感情もまた藝術的創造の根源と見なされるであろう。
 病的状態を呈せしめるあの生理的な恐場症との明白な比較によって、恐らく吾々があの精神的な空間恐怖と呼ぶところのものが一層うまく説明せられるであろう。人間が自己の前に広がっている空間に信頼できないような、即ち専ら視覚印象に頼ることができなくて、まだ触覚の保証を頼みとしていたような人間の正常な発展の一段階の名残りであると解せられている。人間が立って歩むようになった当座は、即ち眼の人となった当座は、軽微な不安の感情が残っていたに相違ない。ところが人間が漸次進歩するに従って、彼は慣れと戸的な思慮とによって、広い空間に対するこの原始的な不安を免れるに至った。
(p.34)


 この事情は、現象の広大にして、無秩序な、混沌たる世界に対する精神的な空間恐怖とよく似ている。人間の合理主義的な発展が、世界全体のうちで人間が占めている孤独な地位によって条件付けられていたあの本能的な不安を却けた。(p.34)

 混沌不測にして変化極まりなき外界現象に悩まされて、これらの民族は無限な安静の要求をもつに至った。彼らが藝術のうちに索めた幸福感の可能性は、自己を外界の個物をその恣意性と外見的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式に当てはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見い出すことであった。彼らの欲求は、いわば自然的関係のうちから、即ち存在の無限の変化流転のうちから、外界の対象を取出すことである。対象において生命に依存せる一切のもの即ち恣意的な一切のものから対象を純化することであり、それを必然的ならしめ、確固不動のものたらしめて、存在の絶対的価値へそれを近寄せることである。以上のことを彼らが達成することができた場合、彼らは有機的・生命的な形式の美が吾々に与えるのと同じあの幸福感や満足感を得るのである。しかも彼らはそれ以外にいかなる美をも知らないからして、吾々がそれを彼らの美と名付けることが許されるのである。(p.35)

 藝術作品が観照される場合、俗に我を忘れるといわれるが、それはまさに適切な言葉である。(p.44) 

  第二章 自然主義と様式

 藝術の一類としての自然主義は、自然原理の純然たる模倣と峻別されなければならない。というのは、近代的な藝術観における数多くの誤解の出発点がここに存在しているからである。(p.46)

 古代とルネッサンスとに関する吾々の誤った解釈から生じた現象であるという事実である。この両時代は自然主義の全盛を意味する。しかしこの場合自然主義というのはいかなるものだろうか。その答は次の通りであるーそれは生命の有機的な真実性への近迫である。ただしそれは自然物を形体のうえで実物通りに描写することを目的とするからではない。即ち本物という幻想を与えることを目的とするからではない。却ってそれは感情が生命の有機的に真実な形式の美に目覚めたからであり、吾々が、絶対的藝術意欲によって支配されたこの感情に、満足を与える幸福感であって、生が与えられるそれではない。これらの定義においては、あらゆる藝術的表現における第二次的なものとしての内容的なものが考察の外におかれていることはいうまでもないのである。
 それゆえ内容的なものが事実を隠蔽することができないところの装飾において、常に最も純粋に現れてくるような絶対的藝術意欲は、たとえばルネッサンス時代におけるごとく、外物を模倣したり、それを現れた通りに再現したりすることに存するのではなくして、有機的に生命の満ち溢れたものがもつ線や形、その快いリズム、それの全内的存在などを、理想的な独立性と完全性において外に向かって投射し、あらゆる創造に対して、自己固有の生命感情の自由自在な活動のために、いわば舞 を提供しようとするにある。
 従ってこの心理的前提は、藝術的描写と対象の一致における遊戯的なありふれた悦びではなくして、有機的な形式がもつ神秘的な力によって幸福感を得ようとする要求であって、このような有機的な形式において、吾々は自己自身の有機体が高められるのを享受することができたのである。まさに藝術は客観化された自己享受であったのである。
(pp.47-49)

 cf.ヴェルフリン「ルネッサンスとは美しい静かな存在の藝術である。それは吾々にあの解放的な美、即ち吾々が一般的な幸福感や吾々の生命力の均整的な高まりとして感受するところの美を提供してくれる。それの完全な創作においては、抑制されたり妨害されたりしたもの、或は不安であったり、興奮的であったりするようなものは何一つ見い出されない。形式はすべて自由に、極めて軽快に現れている。吾々がこの天国のような安らかさと満足のうちにこそ、まさにあの時代の藝術精神の最高の表現を認めるとしても、それは誤りでないと信ずる。」(p.49)

 自然主義の心理的前提が感情移入作用であることは、いうまでもなく自明のことである。感情移入作用の最も明白な対象は、常に有機体と類似のものであるからである。換言すれば、人間の内部における自然的・有機的傾向に合致するところの形式活動、即ち美的直観によって内的な生命感、内的な活動欲求をもって、何らの障壁もなく、このような形式生成の流れの中に入って幸福感を獲得することを人間に許すところの形式活動は、藝術作品の内部において行われるのである。従って、人間はこのような名付けることも理解することもできない運動に荷負われて、あの無欲性を獲得する。けだしこの無欲性は、人間がー彼の個人的意識の雑多性から解放されてー純粋に有機的な存在の濁りなき幸福感を享受することができるや否や現れるものである。
 このような自然主義の概念に対して吾々は様式の概念を対立せしめる。
(p.55)

 自然主義の概念を感情移入過程と結合したのであるから、こんどは、様式の概念を藝術感情の他の極、即ち抽象衝動と結合しようと思うのである。(p.56)

 安静と幸福感は、吾々が絶対的なものに直面した場合にのみ現れることができる。(p.58)

 空間は一切の抽象的努力にとって最強の敵となる。従ってまた物を描く場合には空間はまず第一に抑制されねばならないものであった。この要求は、ものを描く場合には、第三次元的延長、即ち奥行を避けねばならないという第二の要求と不可分離的に結合している。というのは、奥行こそは本来的な空間的延長であるからである。(p.62)

 奥行は絶対的に不必要に思われる。そればかりでなく奥行は質料的個体性に対する明晰な印象を濁らす傾向があるからして、それは古代藝術によってできるだけ抑制されているわけである。(p.63)

 重要なのは表象であって、知覚ではない。(p.64)

 抽象作用というものが存在したという事実と、この抽象作用はそれ自体として、吾々が感情移入と称するものと両極的に対立するものであるという事実を確証するだけで充分である。(p.66)

 心理的説明を人間の抽象欲求において見い出すところの、あの藝術作品の要素はすべて様式の概念のもとに総括さるべきである、然るに、自然主義の概念は、感情移入に由来するところの、藝術作品の要素をすべて包括する(p.74)

 第二部 実証

  第三章 装飾藝術

 装飾の本質は、その中に一つの民族の藝術意欲が最も純粋に、最も明瞭に表現されているという点に存する。装飾はいわば一つの範例であって、それによって吾々は絶対的藝術意欲がもつ種々の特殊な個性を明瞭に読み取ることができるのである。(p.77)

 ヴェルフリンが企図した区別には、或る非常に微妙なものが感ぜられる。合法則性は抽象衝動と不可分の関係に立っている。それに反してあの「規則正しいということ」の基礎的現象はすでに感情移入の可能性の領域の中への秘かな移行を露呈しているということを、吾々は暗示することができる。(p.93)

第四章 抽象と感情移入の観点から選び出された建築及び彫刻の例

 柱身の膨らみ(エンタシス)(p.110)

 すべての抽象的傾向はピラミッドにおいて最も純粋に表現せられる。およそ吾々が立体的なものを抽象的に変形することができる限り、それはここにおいてまさに実現されているというべきである。質料的個体性の明確な再現、厳密に幾何学的な合法則性、立体的なものを平面的印象へ転化することなど、即ち極度の抽象的衝動のあらゆる要求は、ここにおいて充足されている。(p.124)

第五章 ルネッサンス前の北方藝術

 外界に対する不安、自然からの内的な隔絶感はあらゆる信頼感を、従って有機的なものに対する一切の感情を抑制するに足るほど充分に深刻なものであった。そこで、いわゆる組紐模様装飾や動物装飾において現れているような無機的なものが専ら藝術意欲を左右したのである。(p.143)

 ギリシャ人の構築術は生命化という点にその本質がある。還元すると、有機的生命が石におき替えられるのである。(p.150)

 ギリシャの建築思想に対して、他方エジプトのピラミッドが絶対的な対立をしている。即ちピラミッドは吾々の感情移入衝動を阻止し、純粋に結晶的・抽象的形象として現れるからである。(p.151)

附録 藝術における超越性と内在性について

 人間と外界との間の対決過程は、いうまでもなく専ら人間のうちで行われる。従って、それは、実際においては本能と悟性との対決に他ならない。吾々が人類の原初的状態について語る場合、吾々はややもすれば人類の理想的状態と混同し勝ちである。そして常にルソーのように、あらゆる生物が幸福な純潔と調和のうちに全体的に生きていたところの人類の失われた理想郷を夢みる。しかしながら、この理想的状態は原初的状態とは何らの関わりもないのである。古典期においてはじめて平衡状態に達した本能と悟性とのあの対決は、むしろ悟性に対する本能の絶対的偏重からはじまっているのである。そして悟性は最初は精神的発展の道程において、徐々に経験に依拠して導かれていったのである。しかし人間の本能は理性奉賛でなくして恐怖である。しかもあの身体的な恐怖でなくして精神的な恐怖である。即ち現象界の色とりどりな錯雑やとりとめなさに対する一種の空間恐怖である。種々な漠然たる印象を結合して、それを経験的事実たらしめるところの悟性が増々確実となり活発になるに及んで、はじめて人間は世界像を獲得する。それ以前にあっては、人間は単にいつまでも変化してやむことなき不確実な視覚像を所有しているにすぎない。もとよりかかる視覚像が自然に対する汎神論的な信頼関係を生ぜしめる筈はない。彼は宇宙のただ中に恐怖と困惑をもって佇む。そこで彼に対して確実性と精神的な安心感を一切留保するところの、虚妄なそして変化してやむことなき現象活動を見せられた結果、彼に対して物の真の存在を隠蔽するところのマーヤの眩惑的なヴェールに対する深刻な不信の念が彼の心の中で成長していった。現象界の問題性と相対性に対する朧げな知が彼の内心には生きていた。彼は本能の認識批判者となる。人間が彼の精神的発展に対する誇りから失ったところの、そして学的認識の究極的な結果としてはじめて吾々の哲学のうちに再び浮かび上がってきたところの《物自体》の感情は、独り吾々の精神文化の終極に存するばかりでなく、そのはじめにも存するのである。最初は本能的に感得せられたものが、終極には思惟的所産となった。ここに二つの極が生まれる。そしてこの両極の間で、精神的発展の劇が全部演ぜられるーただしそれは吾々がこの両極からそれを観照しない場合に限ってのみ、吾々の眼に大きく映るにすぎない。というのは、かくして精神的な認識と世界支配との歴史全体が吾々にとって無駄な力の浪費のように、無意味な空回りのように、思われるからである。そこで吾々は生起の他の反面を見るべき苛烈な強制に服する。そしてこの他の反面は、あらゆる精神の進歩がいかにして世界像を表面化し、平板化したかということを、そしていかにしてそれが物の不可知性を知るところの人間性に生具的な器官を侵害することによって一歩一歩に購いとらねばならなかったということを吾々に示す。吾々は出発点に帰ろうとも、或は吾々にとってはカントを意味するところの終極点に立とうとも、この二つの立脚点からして、吾々のヨーロッパ的=古典的文化は、一つの大いなる疑問性に対する同じ開明として現れるのである。(pp.171-173)

 未知のもの、認識不可能のもの、に対するあの精神の恐怖は、単に最初の神々を創出したばかりでなく、最初の藝術をも創出したからである。換言すると、藝術の超越主義は常に宗教の超越主義に合致する。そして吾々は、藝術的事物における数え切れないほど多くの材料を、吾々のヨーロッパ的・古典的な見方という唯一の狭い視覚だけから評価することを頑強に主張することからして、藝術の超越主義に対しては、吾々は理解の器官を失っているからである。吾々は内容的なものに関しては、超越論的な感情を確認することはできるが、藝術の創作活動の、即ち形式を決定する意欲活動の本来的な核心に関しては、吾々はそれを看過するからである。というのは、藝術は別の異なった前提の下においては、同様に全く異なった精神機能の表現を意味するという観念は、およそ吾々のヨーロッパ的な一面性からは遠いものであるからである。
 藝術に関する吾々の一切の定義は、畢竟古典藝術に関する定義である。これらの定義は個々の点においてはいかに異なっていようとも、あらゆる藝術的生産と享受とは、あの内的な精神的な高揚状態を伴うという一点においてすべて一致するものである。そしてこの点において吾々の現在の藝術経験は局限されているといわねばならないのである。
(p.175)

 あらゆる超越的藝術とは、畢竟有機的なものの反有機化、即ち変化するものや被制約的なものを絶対的な必然性の価値へ転移せしめること、ということになる。しかし人間はかかる必然性を、ただ生けるものの広大な彼岸においてのみ、即ち無機的なものにおいてのみ感得することができたのである。そしてこのことが彼を生硬な線や死せる結晶的な形へ導いたのである。彼はあらゆる生命を、この恒常不変にして絶対的な価値の言語へ移入した。というのは、あらゆる有限性から解放されたこの抽象的な形式こそは、人間をして世界像の混沌状態に直面して平静を得せしめうるところの唯一のそして最高のものであるからである。(p.177)

【ヴォリンゲル『抽象と感情移入』1907 に対する一考察】

 抽象とは?

太陽、月、人の顔の形  ⇒ ○
土地の区画、田、畑の形 ⇒ □
山、鼻の形       ⇒ △

抽象の形は自然界にあるものの形から来ているのではないだろうか?
        ↓
自然界を見渡している結果、「鼻から三角△」というふうに抽象化衝動が働いた。
『そこに芸術の最初の根源的な衝動があったのではないか』(ヴォリンゲル)
        ↓
人間は抽象的な形にも感情移入ができる。
        ↓
抽象芸術にもリアリティと存在感がある。

 では、抽象表現主義が一般に難解とされる理由は何か。

 『感情移入の要求が、芸術意欲の大前提である』(ヴォリンゲル)
  このことは、作家と観者両方についていえる。
  例えば…
  <作者の立場>
  ニューマンが描いた絵に『ワンメントI』がある。あのような絵を描いたとき、ニューマンは自分の絵に少なからず「すばらしい」という感情が湧いたはず。なのでニューマンは『ワンメントI』に代表されるような絵を完成させた。
  <観者の立場>
  一般の人々はまだニューマンのような進んだ目を持っていなければ、「ただの線だ」となる。優れた芸術家の作品には跳躍的な創造があり、芸術家が優れていればいる程、一般の人々よりずっと先を行っている。

  ⇒作者と観者の間で感情移入の大差が生じている。ここに抽象表現主義が難解とされる理由がある。

ところで、抽象の起源はどこにあるのであろうか。

  =紀元前3000年のエジプトのピラミッド。
   あの抽象芸術こそが本来持つ人間の芸術意欲の産物なのであって、いつの時代にも存在する写実的(リアリズム的)な絵画は素朴な模倣衝動の産物であって、本来人間の持っている芸術衝動とは決定的に異なるものである。写実的な作品は観察の確実性に関する純粋な産物に過ぎないのであって、その歴史は模倣の技術的能力の歴史であって、芸術の歴史ではない。そういうものと純粋な芸術衝動による抽象芸術とを同一線上に並べることが混乱を来している原因となっていると考えられる。
『芸術というものを、もっと意識的な、真面目な、強力な意欲による人間の営みと考えるなら、美術史上の資料がまさしく語っているとおり、人間の最初の美術意欲は抽象を目指していた事、根源的な芸術衝動は自然の再現とは何のかかわりもない、純粋な抽象への希求であった事を認めるべきだ。』(ヴォリンゲル)

<cf.URL:http://www1.mahoroba.ne.jp/~escargot/kozaburo/kozaburo.gallary/view/htmls/view2.html#top>

 

『ニーチェ全集第一巻(第I期)』白水社 1979

 浅井真男訳『悲劇の誕生 あるいはギリシア精神と悲観論』

自己批判の試み

 ショーペンハウアーなんぞは悲劇についてどう考えていたのか?彼はー『意志と表象としての世界』続編第三〇節ー言っている、「すべての悲劇的なものに特有の高揚への感動力を与えるのは、世界と生が決してほんとうの満足を与えず、したがってわれわれがそれらに執着する価値はないという認識の出現である。この点に悲劇の精神の本質がありー、したがってこれが断念へと人を導くのである。」(p.21)

音楽の精神からの悲劇の誕生

何よりもまず我々が明白にしなければならないのは、藝術という演劇全体は決して我々のために、例えば我々の改善と教養などのために上演されるのではなく、さらに、我々は決してあの藝術世界の本来の創造者ではないという事実である。この事実は我々のためには、屈辱と同時に高揚のたねになる。とうのは、少なくとも我々は藝術世界の真実の創造にとってすでに形象であり、藝術的投影であって、藝術諸作品の意味の中に我々の最高の品位を持つのだということを自分自身について想定してよいであろうーなぜならば、ただ美学的現象としてのみ、現存在と世界は永遠に是認されているからである。ー他面において右の意味についての我々の自覚はもちろん、画布の上に描かれた兵士がそこに描かれた戦闘そのものについて持つ自覚とほとんど等しい
のである。こうして藝術に関する我々の知識全体が根本においてまったく幻想的なものであるのは、我々が知る者であって、あの藝術という演劇の唯一の創造者及び観客として自らに永遠の享楽を仕上げる存在者とは、一致せず、同じではないからである。天才が藝術的産出の行為においてあの世界の根源藝術家と融合するかぎりにおいて、天才は藝術の永遠の本質について、あることを知っているのである。なぜなら、彼はあの融合状態において、不可思議にも、眼球を反転させて自分自身を観ることのできる気味悪いお伽話の人物に等しいからである。つまり、そのとき彼は主体(主観)であると同時に客体(客観)であり、詩人であると同時に俳優と観客であるがゆえである。
(P.53-54)

ギリシア悲劇の起源は迷宮と呼ばざるをえない。(P.58)



Stiles, Kristine, and Peter Selz 'Thories and documents of contemporary art: a sourcebook of artists' writings' University of California 1996


GENERAL ABSTRACTION Peter Selz

Characterized by an intensely personal and subjective response by artists to their own feelings, the medium, and the working process, it was an art in whichpainters and sculptors were engaged in the search for their own identity. (p.I1)


JACKSON POLLOCK Guggenheim Application (1947)
I intend to paint large movable pictures which will function between the easel and mural. I have set a precedent in this genre in a karge painting for Miss Peggy Guggenheim which was installed in her house and was later shown in the "Large Scale Painting" show at the Museum of Modern Art. It is at present at Yale University.
I believe the easel picture to be a dying fotrm , and the tendency of modern feeling is towards the wall picture or mural. I believe the time is not yet ripe for a full transition fron easel to mural. The pictures I cintemplate painting would constitute a halfway state, an attempt to point out the direction of the future, without arriving there completely.

Interview with William Wright(1950)
WILLIUM WRIGHT: Mr.Pollock, in your opinion, what is the meaning of modern art?
JACKSON POLLOCK: Modern art to me is nothing more than the expression of contemporary aims of the age that we're living in.
WW: Did the classical artists have any means of expressing their age?
JP: Yes,they did it very well.All cultureshave had means and techniques of expressing their immediate aims - the Chinese, the Renaissance,all cultures. The thing that interests me is that today painters do mot have to go to a subject matter outside of themselves. Most modern painters work from a different source. They work from within.
WW: Would you say that the modern artist has more or less isolated the quality which made the classical works of art valuable, that he's isolated it and uses it in a purer form?
JP: Ah- the good ones have ,yes.
WW: Mr.Pollock, there's been a good deal of controversy and a great many comments have been made regarding your method of painting. Is there something you'd like to tell us about that?
JP: My opinion is that new need new techniques. And the modern artists have found new ways and ne means of making their statements. It seems to me that the modern painter cannnot express theis ages, the aieplane, the atom bomb, the radio, in the old forms of the Renaissance or of any other past culture. Each age finds its own technique.
WW: Which would also mean that the layman and the critic would have to develop their ability to interpret the new techniques.
JP: Yes-that always somehow follows. I mean,the strangeness will wear off and I think we will discover the deeper meanings in modern art.
WW: I suppose every time you are approached by a layman they ask you how they should look at a Pollock painting, or any other modern painting -what they look for- how do they learn to appreciate modern art?
JP: I think they should not look for, but look passively -and try to receive what the painting has to offer and not bring a subject matter or preconceived idea of what they are to be looking for.
WW: Whould it be true to say that the artist is painting from the unconscious, and the -canvas must act as the unconscious of the person who views it?
JP: Most of the paint I use is a liquid, flowing kind of paint. The brushes I use are used more as sticks rather than brushes I use are used more as sticks rather than brushes -the brush doesn't touch the surface of the canvas, it's just above.
WW: Would it be possible for you to explain the advantage of using a stick with paint -liquid paint rather than brush on canvas?
JP: Well, I'm able to be more free and to have greater freedom and move about the canvas, with greater ease.
WW: Well, isn't it more difficult to control than a brush? Imean, isn't there more a possibility of getting too much paint or splattering or any number of things? Using a brush, you put the paint right where you want it and you know exactly what it's going to look like.
JP: No, I don't think so... with experience -it seems to be possible to control the flow of the paint, to a great extent, and I don't use-I don't use the accident-'cause I deny the accident.
WW: I believe it was Freud who said there's no such thing as an accident. Is that what you mean?
JP: I suppose that's generally what I mean.
WW: Then , you don't actually have a preconceived image of a canvas in your mind?
JP: Well,not exactly-no-because it hasn't been created,you see.Something new-it's quite different from working, say, from a still life where you set up objects and work directly from them. I dohave a general notion of what I'm about and what the results will be.
WW: That does away, entirely, with all preliminaly sketches?
JP: Yes, I approach painting in the same sence as one approaches drawing: that is, it's direct.I don't work from drawings, I don't make sketches and drawings and color sketches into a final painting. Painting, I think, today -the more immediate, the more direct -the greater the possibilities of making a direct-of making a statement...
WW: Well,now, Mr.Pollock, would you care to comment on modern painting as a whole? What is your feeling about your contemporaries?
JP: Well,painting today certainly seems very vibrant, very alive, very exciting. Five or sixof my contemporaries around New York are doing very vital work,and the direction that painting seems to be taking.
(pp.22-24)


MARK ROTHKO I Paint Very Large Pictures (1951)
I paint very large pictures. irealize that historically the function of paintong large pictures is painting something very grandiose and pompous. The reason I paint them, however - I think it applies to other painters I know - is precisely because I want to be very intimate and human. To paint a small picture is to place yourself outside your experience, to look upon an experience as a stereopticon view with a reducing glass. However you paint the large pictures, you are in it. It isn't something you command.
(p.26)


ヴィルヘルム・ヴォリンガー著、土肥美夫訳 『表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義4』 河出書房新社 1971


ヴィルヘルム・ヴォリンガー『現代絵画の発展史について』(1911)
 芸術創造と原始的芸術創造との間に存する相違は、段階的なものではなく普遍的なものであるのを認識する。普遍的相違、それは芸術から期待される効果が今日のように感覚的あるいは精神的華美の感情の喚起にではなく、原初的な必然性の感覚の喚起に求められていたというところにある。
(p.22)


ユーリウス・マイアー=グレーフェ『芸術の担い手ー今と昔ー(抄)』(1913)
 かつては、教会において畏敬の念を伝え、神自身のように人の上方にあり、慰めを求める者の眼差が切願しながら仰ぎ見、軽率な人間にもこの場所の崇高な威厳を強烈この上なく印象づけた、あの至聖なるもののシンボルであった絵画は、この神的なものから、全くはかなく、空しい気晴らしの時間の埋めくさになりはててしまったのである。
(pp.28-29)


1.ベルリンのムンク
 1891年のパリ時代に、すでに印象主義を抜け出した段階で描き始められた習作を含めて、初期のベルリン時代には、生のほの暗い領域における極限状況の諸相であり、その基調となっているのは、生死や両性関係に示されるような自然の前における人間の虚しさである。
(p.35)


 世紀病としての頽廃、不安、孤独と憂愁における近代人の心理的ドラマ(p.35)


 ムンクは「自分が見るものを描くのでなく、見たものを描く」といっていたように、これらの作品の中核にあるのは、いつも観念でありイメージであり、ヴィジオンもしくは感情の象徴的描写である。大切なのは主題であり、フォルムや色は、装飾的効果とともに、それだけでは意味がない。ムンクの努力は、主題の意味を最も良く具現する内面化されたフォルムや色を見つけだすとともに、彼の想念の中にあるものを伝達しうる適切なイメージなりモティーフなりを絶えず追求することであった。そしてこの画想のための直覚的ヴィジオンを捕捉し、その端的な形象化に表現手段を集中することであった。(p.36)


 人間存在の本源的パトスを、その形而上学的基底からそのまま純粋な形で表わそうとしたムンクの芸術は、やはり表現主義芸術のまぎれもない一源流として、現代美術に対するセザンヌに擬せられるのも、また理由がないわけではない。(p.36)


 人間性喪失の近代美術に対し人間性回復の叫びをあげる表現主義芸術の少なくとも一面は、コルヴィッツの版画シリーズ『織工たちの蜂起』(1894-98)と『農民戦争』(1902-08)という2つの連作によって先駆的に切り開かれたのである。
 世紀末芸術のなかで、表現主義への底流として現れてきた要素に、社会的傾向と並行して幻想的傾向がある。ゴヤ、ルドン、アンソールなどとともに、それまで異端視されていたベックリーンが1890年代になって注目されはじめたのもそのことと連関があるし、いわゆる世紀末の画家の中でも、セガンティーニ、シュトゥック、クリンガーなどの作品には多分に幻想的傾向がみられた。そして、ドイツ・ロマン派とつながり世紀末に顕著に現れてきたこのような幻想芸術の傾向は、クビーンの出現によって、ひとつの頂点に達したといえる。
(p.38)


 エドヴァルト・ムンクの言葉
 芸術と自然 ヴァルネミュンデ(1907-08)
 芸術は自然と対立するものである。芸術作品はただ人間の内部からだけ生まれる。
 ー芸術は、人間の神経ー心臓ー頭脳ー眼を通して形づくられた映像の姿なのである。
 芸術とは人間の結晶への衝動である。
 自然は、そこから芸術が養分をとる永遠に偉大な王国である。
 自然はただ単に眼にみえるだけのものではないーそれはまた魂の内的な映像でありー眼の裏側の映像である。ー
(p.42)
 石が子供の一団に投げられると、彼らはちりぢりになる。ーそこには一種の再編成が生まれるーひとつの行動がおこるのだ。ーそれがコンポジションである。ーこの再編成を色や線や面で再現するのが芸術的、絵画的モティーフなのである。ー
(p.45)