「自由からの逃走」(Erich Fromm 1900-)
近代人は、個人に安定を与えると共に彼を束縛していた前近代的社会の絆から自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な感情的な諸能力の表現という積極的意味における自由は未だ獲得していない。自由は近代人に独立と合理性を与えたが、他方、個人を孤独にし、不安定な無力なものにした。現代人はこの自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、或いは人間の独自性と個性とに基づいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られている。我々はなぜ全体主義における人間が自由から逃避しようとするかを理解する必要がある。
「自殺論」(Emile Durkheim 1857-1917)
社会関係の組織がよく統合され、高度の社会的結集のあるところでは、人々は自分の属する社会の一成員であることを強く自覚して心理的孤独や寂しさから抜け出すことができ、これが自殺への志向を思いとどまらせる強力な要因となる。逆に社会的結集力の低い社会では、文化的価値は普遍性を失って個人はアトム化され、相対化され、孤立化されて、成員の経済や健康や気候などの条件とは関係なく、人々を自殺に追込む原動力となる。
「社会的・文化的動学」(Pitirium A.Sorokin.1889-1968)
文化は、観想的、観念的、感覚的の三種に区別され、この三つの文化の波動は循環的に繰り返される。観想的文化とは宗教的神を中心とした、或いは彼岸的価値を中心とした文化や制度をさし、感覚的文化とは逆に此岸的・俗世的価値観念に基づく文化である。観念的文化とはこの両者の混合形態であり、一方では神的、他方では現世的なものを併せもった文化である。人類の文化史を顧みると、観想的文化、観念的文化、感覚的文化という順序でそれぞれの文化が優越しつつ波動的循環が行なわれていることが実証される。現在は五回目の波動に直面しているのであるが、これは過去のものには比較しがたいほど大きな波であって、このようなところにも現代文化の特徴が見出される。
「社会的性格が新しい社会的条件の下でいかに歪められるか」について
実例をドイツの中産階級に求める。この中産階級は中小企業者、サラリーマン、職人等から成り、倹約、慎重、疑心、強者への憧れと弱者への軽蔑等の社会的性格をもっている。彼らは資本主義の高度化につれて自己中心的な努力を自由競争に向ける余地を失い、それは国家的な競争意識に転化されてナチスの熱烈な信奉者となる。また経済的貧困やその他の圧迫による種々の欲求不満は攻撃に転化してユダヤ人排斥や対ソ戦への協力を結果するようになった。労働者階級や自由主義者やカトリック教徒などは多年の精神的圧迫の故にナチズムへの屈服者となり、結局これらはナチズムの跳梁に都合のよい温床を与えたと考えられる。
「社会行動」(George C. Homans 1910- )
<交換理論>
社会行動の一般命題は次の如くである。
(1) 成功命題
ある人のある特定の行為が、多く報酬を受ければ受けるほど、それだけその人はその行為を多く行うであろう。
(2) 刺戟命題
もし過去においてある特定の刺戟あるいは刺戟群の出現が、ある人の行為に報酬をもたらしたものであるなら、そのとき現在の刺戟が過去の刺戟に類似していればいるほど、それだけ彼はその行為を多く行うようになるであろう。
(3) 価値命題
ある人の行為結果がその人にとって価値があればあるほど、それだけ彼はその行為を多く行うようになるであろう。
(4) 剥奪-飽和命題
ある人がある特定の報酬を多く愛ければ受けるほど、それ以後のその単位報酬は彼にとって次第に価値がなくなってくる。
(5) 欲求不満-攻撃命題
ある人の行為が期待した報酬を受けなかったり、或いは予期せぬ罰を受けたりする時彼は怒るだろう。また彼は攻撃的行動を多く行うようになるであろう。そしてそのような行動の結果は彼にとって一層価値のあるものとなる。
AGILL理論 (Robbert F.Bales. 1916-)
AGILLとは、社会体系(集団)が均衡ないし存続するために必ず満たされねばならない機能的要件をさしたものであり、元来人間の相互作用の内容分析を示したものである。その機能的要件は(1)状況への適応(Adaptation)「経済」(2)目標の達成(Goal-attainment)「政治」(3)諸単位の統合(Integration)「社会統制」(4)潜在的パターンの維持及び緊張の処理(Latency:latent
pattern matintenance and tension-management)「道徳,教育,宗教,文化」 から成る。
AGILLの図式が意味しているのは上位の体系に対して下位の体系が分担している機能の内容分析である。
「民習論」(William Graham Sumner. 1840-1910)
社会生活を営む人間には2つの根本的要因がある。1つは彼が周囲の生活条件に支配されることであり、他は彼自身が抱く生活上の欲望(飢,性欲,虚栄,恐怖)である。この生活条件対欲望の関係から種々の利害が生じ、多数の人々が同時にその欲望を満たそうとする努力は、(1)その運動が一様性を帯びること、(2)反復されること、(3)広範囲の競争を引き起こすこと、によって社会に一種の団体的行動様式を出現せしめる。この過程は人々が本能や人間の快苦を弁別する能力によって試行錯誤を繰り返しながら、最も生存競争に有利な一定の集団行為の類型をつくりあげる過程である。これが民習(folkways)である。民習は最初は無意識的に作用しているが、時間の経過とともに伝統や宗教的強制によって強い力となる。それが意識的反省を加えられ、集団の継続的な幸福や繁栄を確保するのに適合したと思われる段階に達すると、それはもはや民習ではなくモーレス(mores.原始規範)となる。この民習をモーレスに転化せしめるのは民衆ではなくそのエリートである。なぜならば、高度の精神の持主のみが社会を古い民習から救い、モーレスを通して人々を新しい民習に導くことができるのである。
「興論と群衆」(Tarde,J.G.,L'opinion et la foule,1901)
ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団はそれを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。即ち意識的な個性が消滅し、あらゆる個人の感情思想が同一の方向に向けられるのである。一個の集団的精神が生れるのであって、これは勿論一時的なものではあるが、非常に明確な性質を示すものである。その時この集団は、他に適当な言い方がないので、組織された群衆、いや何なら心理的群衆と名付けよう。ともかくそういうものになるのである。それは単一の存在を構成して群衆の心的一致の法則に従っているのである。
G.Le Bonの心理的群衆の概念
(1) 心理学的観点から見るとLe Bonによって定義された群衆は単なる個々人の集合ではなく、かかる人々の集合の中に群衆心と称せられる一種の特殊的・心的状態の出現を意味する。
(2) この集合の中にある全ての人々の情緒と観念とは同一の方向をとる。
(3) 意識的な個性が消滅する。
(4) 一種の集合的精神(集団精神)が生じ、ここにLe Bonのいわゆる群衆の心的一致の法則が作用する。
(5) この集合的精神は主として我々の共通的遺伝として内在する性格の一般的性質からなる。そうしてまたそれは群衆をなす場合に表面に浮び出て各人独特の個人的意識を支配するような一種の無意識的基盤なのである。
(6) 群衆心の特徴を決定するものは次の三つの原因である。(a) 群衆中の個人は多数の人々の中にいるという純粋に量的なる事実によって一種の不可抗的な力を感得し、それによって自己の本能に無制約的に服せしめられる。(b) 心的感染、又は模倣、(c) 催眠術的暗示が群衆中の人々を全ての無意識的活動の奴隷たらしめる(脳の活動の消失と髄の活動の優勢)
(7) 以上の諸要因によって起こる群衆の特徴を列挙すると次のようである。(a) 群衆中の人々は文明の段階を幾つか降って野蛮人、原始人のようになる。(b) 単独にいる場合に比して一般に智力的低下を示す。(c) 道徳的責任感が消滅する。(d) 衝動的となる。(e) 軽信的となる。(f) 誇張的となる。(g) 不寛容的となる。(h) 群衆指導者に対し盲従的となる。(i) 一種の神秘的感激性に陥る。
(8) Le Bonによって群衆は大衆、庶民、俗衆などと、同一視せられ、終始一貫した意義に用いられていない。
群衆において注目すべきは単に密集して量的圧力を生ぜしめる多数の人々のみではない。寧ろその量的圧力を利用し動かす指導者こそは群衆活動にとって最も重要な役割を演ずるものである。Le Bonはまず人間のみならず他の動物においてもある数の生物が集合されるとたちまちそれは本能的に首領、即ち指導者の権力に服従するものであることを認めた。そうして人間の群衆にあっては指導者の意志が中枢となってその周囲に幾多の意見が形成され統一されるのであるから指導者は極めて重要な存在となり。群衆はまた何らかの統率者なしには済まされないような人々の集りと考えられている。けれども指導者と被指導者との区別は最初から明確なものではない。即ち指導者となるような人も最初はやがて自分が後にその思想の使徒となるようなある思想に心酔せる被指導者に過ぎない。けれども彼がその思想に全く心魂を奪われるようになると、それ以外の一切のものは消え、いかなる反対意見も彼には誤謬か迷信に思われてくるのである。即ち指導者は群衆の信頼を受けるに足るだけの強い信念を持ち。かつそれ自体の意志を持たない群衆にこれを与え得るところの圧迫的な意志を持たなければならない。このような信念と意志とを持つに至ってはじめてその人は指導者となり得るのである。「群衆は強固な意志を備えた人の言葉に傾聴する」「群衆中の個人は全く意志を喪失して、それを具えている者の方へ本能的に向う」(Le Bon)
指導者たる者の資格としては以上のほか更に、思想家ではなくて実行家であること、人々を懐疑と非行動とに導きやすい透徹した頭脳を具えないことなどが挙げられているが、これと連関してLe Bonは指導者に二つの類型のあることを認めた。即ちその一つは強固な意志を具え、かつ一時的にそれを発揮する気力旺盛な人々である。そうしてこの種の指導者はしばしば兇暴、果敢、大胆な行動に出やすい。けれどもその気力は結局一時的のものであるから、それを呼び起こした刺激がなくなると衰えて遂には驚くほどの弱気に陥ることさえある。これに反して第二の種類の指導者は強固でしかも永続的な意志を具えた人々で、外観は前者ほど華々しくはないが、遥かに重大な影響を及ぼすものとされている。
群衆と公衆とを比較するとそこには種々の相違点が挙げられる。
(1) 人は誰でも一時に数個の団体又は党派に所属することができるように、数個の異なる公衆に属することができる。けれども群衆の場合には一時に一つの群衆にしか属することができない。これは勿論公衆が人々の身体的接近を必要としない純精神的存在であることから生ずる特徴である。
(2) 群衆がいずれも自然力に服従し、晴雨、寒暑に支配され、冬においてよりも夏において多く出現し、また夏期の群衆は冬期の群衆よりも熱狂的である。けれどもこれらの物理的環境や、季節、陽気の変化などは公衆の成立には無関係だとみられている。
(3) 群衆に比すれば公衆に現れる人種的痕跡は甚だ浅く、また群衆は一般に公衆よりも同質的ではない。
(4) 公衆の行為は群衆のそれに比して遥かに智的にしてかつ聡明であり、また生産的である。
(5) 公衆は群衆のように盲目的・暫時的ではなく遥かに理性的・持続的である。
(6) 群衆に比して公衆が余り醜悪でなく、復讐の観念少なき打算において勝り、狂暴性は少ないが、狡猾であり、また確実に無刑罰を保証されている。
「民族進化の心理的法則」(G.Le Bon,1841-1932)
元来個人を支配し個人の行動を指導する影響力には、祖先の影響、直接の父母の影響、及び環境の作用の三つがある。このうち、祖先の影響は最も重要な決定力を持つものであって、民族はその生ける成員よりはむしろ死んだ祖先によって遥かに多く導かれている。民族はこのような死者により、否、死んだ祖先によってのみ築かれている。数世紀にわたって我々の死せる祖先は我々の観念と情操ー従ってまた我々の行為ーの一切の動機を形作ってきた。そうして同一の国に属する全ての住民が生れながらにして受け継ぐべく運命づけられているこれらの観念及び情操の総体がそのまま民族精神となるのである。
「冷静と情熱のあいだ」辻仁成 1999
修復、修復、修復...。
「冷静と情熱のあいだ」江國香織 1999
静かな生活。穏やかな、過不足のない、とても上手く流れていく日々。
「社会理論と社会構造」(Robert K. Merton. 1910-)
これまでの機能主義は(1) 現存する一切の事物が社会に対して果す積極的機能のみに注意し、また、(2) 社会体系の中に含まれている個人の動機づけを仮定し、しかもそれは客観的態度、または行動の結果と混同されてきた。(1)に対してMertonは正機能と共に反機能の概念を提出して社会の動的把握に途を拓いた。(2)に対してMertonは顕在的機能と潜在的機能とを区別した。Mertonにおいて「機能」とは一定の体系の適応ないし調整をうながす観察結果として定義されているが、顕在的機能とはその客観的結果が体系の参与者によって意図され認知されたものであり、潜在的意識とはそれが参与者によって意図されず、認知されないものである。
「そこに僕はいた」辻仁成 1995
どことなく芥川の雰囲気が漂う?
「村上春樹、河合隼雄に合いにいく」河合隼雄,村上春樹 1999
「人間はいろいろに病んでいるわけですが、そのいちばん根本にあるのは人間は死ぬということですよ。おそらくほかの動物は知らないと思うのだけれど、人間だけは自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければならない。それはある意味では病んでいるのですね。」
「ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。」
「村上朝日堂の逆襲」村上春樹/安西水丸 1989
短時間の暇つぶしには最適?
「ランゲルハンス島の午後」村上春樹/安西水丸
サマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(Max Weber 1864-1920)
近代の資本主義的経営や高級労働にたずさわる人々の中にプロテスタントに属する者の数の多い事実が統計的に示される。経済的に興隆しつつある中産市民階級がこの思想をうけ入れ、また擁護したのは何故であろうか。中世カトリック的職業観は一般に世俗的職業をその利潤追求の故に罪悪視した。ルッターは中世カトリック的職業観に対して、神の前ではすべての職業は同一価値を持つものであると主張し、職業を神の召命(ベルーフ)として積極的にその意義を基礎づけた。ピューリタン的宗教倫理は華美な消費を禁ずると共に、働かざるものは食うべからずという原則を信じている。かくてプロテスタントの事業家は新しい労働倫理も身に付けるのである。中世において義とされなかった無制限の営利はプロテスタンティズムにおいては神聖な義務となったように、宗教倫理は経済的生活態度の促進者であり、これは宗教のような観念形態をもっぱら経済関係の表現として捉える唯物史観に対する批判として意義を持っていると考えられる。
「人種闘争」(Gumplowicz 1883)
Gumplowiczによれば人間の精神や思惟は、すべて彼らがその中で生活している集団の所産に他ならない。それでは人間集団はいかにして出現し、存続するのであろうか。彼はまず人間発生の多元説を主張する。この地上には太古から無数の独特の生活や言語をもつ種族的小集団である群が存在したが、強力な集団が弱小な集団を征服して、これらの小集団は次第に、より大きな集団(例えば国家)に合体する。そしてこの集団内には支配階級と隷属階級、或いはカストの分岐が生ずるが、これは各種の群の人種的差別にもとづくものである。すなわち外部的な人種闘争は内部的な階級闘争に変化する。しかしこの対立が次第に緩められ、各群のもつ独特な「社会心理的要素」(言語、宗教、道徳、習慣、法律、芸術、技術など)がその集団的結合の中に融合すると、それはより高い文化と集団的統一を形成し、それはさらに別の集団によって征服され、統一される異質同化の過程を辿ることになる。このように集団の闘争は社会過程の永遠の完成のためには決して止むことはない。
「社会学」(Othmal Spann 1923)
Spann の思想は「全体は部分に先立つ」という命題に立脚する。社会は個人の中に根拠をもつか(個体主義)、個人は全体の肢体として存在するか(全体主義)のいずれかの立場から考えなければならないが、Spann によれば、個体主義は躍動する生命に代うるに死せる機械論を以てするものに他ならない。彼はジムメルの個体主義的な「人間の相互作用」としての社会概念を痛烈に批判し、相互作用の概念は一切の実存性を要素に移すことによって社会科学からその対象を奪い去るものであるという。即ち、部分の相互作用なるものがあるとすれば、実存性はただ部分的の中にあり、全体は単に一個の抽象、派生物にすぎず、それ自身作用する何物でもなくなるのである。社会は本質的に全体性であり、その核心は精神的共同体の裡にある。社会の精神性を捉えるものは全体主義を措いては他にない。個々の人間の相互作用が社会を生み出すのではないことは、国家に所属する前に国民なく、ある市場、経済界の肢体となる前に売買する人間がないことから当然である。これは時間的先行ではなく論理的先行を意味する。
→ 後にナチスの有力な理論的根拠となる。
「知識社会学」(Karl Mannheim. 1952)
知識社会学の基本的構造として、1.立場、2.距離化、3.関係付け、4.特殊化を挙げている。1.立場。現代において人々は諸国民、諸社会層、職業集団などでそれぞれ異なった立場に立って争っている。知識社会学は、反対者と対決するのに他人の議論の中に直接入っていくことをせず、彼の見方を、彼の社会的立場の機能として、即ちその思想の基礎を背後から全体的に把握することによって存在拘束的に暴露しようとする。2.距離化。1つの集団の内部で絶対的だと思われるものも他の集団から見れば部分的なものと見られる。この距離化は集団成員の社会的変化(社会的上昇、移住など)、集団の存在的基礎と規範や制度との関係の推移、多数の世界観の闘争などによって生ずる。3.関係付け。知識社会学は一定の陳述内容を一定の社会構造に関係せしめて議論する。この場合の相関主義とは、議論の中に決定がないことを意味するのでなくて、決定ということが立場と結合した視座構造の中に形成されることを意味しようとする。4.特殊化。知識社会学的分析は、関係付けのみならず、同時に視野領域及び妥当領域の特殊化である。それは特殊化することによって単なる関係付けによって行なわれる事実の設定異常に超越することになり、一層高い立場の統一へと討議を導くとしている。
「1789年から現在に至るフランス社会運動の歴史」(Lorenz von Stein. 1850)
Stein によれば、人間の共同体には国家と社会という2つの要素があり、この2つは密接な関係にあるが相互に矛盾しているという。即ち、無限の内的衝動と外界の制限との矛盾にある人間の生活は、外界と人格との絶えざる闘争である。この場合、社会とは「財貨の分配によって制約され、労働の有機組織によって規制され、欲求の体系によって動かされ、そして家族とその権利によって一定の人間種族に永続的に拘束されている人間生活の有機的統一体」と定義される。つまり、社会は国民経済の要素を財貨生活の有機体の欲求として捉えられる。社会の原理は他人を隷属せしめて各人が完成する非人格的なものであり、自然的生活要素を基礎にしている。人間の社会は所有者に対する無産者の隷属の制度である。一方、国家は人々の完全な自由、人格発展の意志を持つ生活共同体である。人間は経済的に行為するだけでなく、自由な人格でもあり、その自由な実現の場が国家である。然るに現実の生活共同体の生命の内容は国家と社会との絶えざる闘争であり、両者の完全な調和は不可能である。現実の国家は社会の要素によって歪められた階級国家にすぎない。即ち、支配的な社会階級が国家機構を彼らの支配確立のために利用するところから、国家は自由人格の結合でなく不自由なものとなる。このような矛盾の解決方法としては社会改良と社会革命が考えられるが、社会革命は暴力による独裁政治になる。従って社会改良による社規問題の解決が望まれ、かくて国家を対象とする国家学と社会を対象とする社会学が成立する。国家と区別される社会においては、個人は独力で自分の目標に到達することができないので他人と結合せざるをえなくなり、それ故に生活を支配する欲求充足の活動があるわけであるが、これは利害といった生活活動の中心であり、社会の原理である。財の所有によって他の階級より優越している人々の利害は、これを克服しようとする隷属階級の利害と対立する。この一般的性格は、その所有が土地、貨幣、産業的所有のいずれかによって、また、それに伴う隷属の関係に従って、異なってくるのであって、その規則性について体系的な認識が要請されるわけであるが、その秩序や運動に関する科学的研究が社会学の領域を形成するといえる。
→ マルクス主義が資本主義社会の破壊と社会主義社会の建設という「下から」の革命理論であるのに対して、Stein の社会学は社会的王政にふさわしい国家の手による「上からの」強力な社会政策を基礎付けるものであったといえるのではなかろうか。
「菊と刀」(Ruth F.Benedict1850)
Benedict の観察によれば、一般に日本人の性格は、礼儀心が厚いがその反面不遜であり、頑固保守的であるが、その反面西欧文化を好んで摂取し、従順であるが、反抗心も強く、勇敢であると共に憶病なところがある。言い換えれば、日本人は菊(平和)を愛すると共に刀(戦争)を愛する国民であるという。そうだとすれば、この矛盾はいかなる原因によるものであろうか。日本人の物の考え方は欧米の物質的・合理的思考法に比べると著しく精神的・非合理的であり、精神力を重視する。合理的に行動するよりも名誉とか社会的身分秩序に従って行動する。即ち、戦争中の虜囚や撤退が極度に忌避される名誉心、第二次世界大戦における詔勅「各国にその処を得しめる」といった階層的秩序への信頼感、日常言語における多様な敬称、成金への非難などに表現される態度は、日本歴史を通じてその制度から摂取した一貫した文化型式であった。過去の日本の最高道徳は忠孝に集約されるが、その道徳的価値は恩の思想にある。恩は返済(恩返し)を要求する。これは義理であって、不義理や恩知らずは最も恥ずべき行為だとされている。日本人は出生と同時に過去や現在の世界に負目を負わされ、一定の階層の中で生涯限りなくその義理を果すことによって徳を全うするように要求される。行為はその内容が善か悪かによって評価されるのでなく、自発性を抑制してまでも世間の期待に背かぬ人間を尊重するのである。日本人の義務は良心の義務よりも各人の階層的役割の責任を果たすことであり、これを果たさぬことは面子即ち体面を汚すことになる。このように多面的階層の網の中で自己の地位に安住する恭順さと、「恥を知る」ことに日本文化の統合的原理がある。徳は常に他人の批判や陰口を意識する緊張の中にあり、この警戒と抑鬱、慢性的欲求不満における攻撃と内攻、公衆の面前とその眼の届かぬ所における行為の相違などがパーソナリティ形成の矛盾となって表われ、日本人の矛盾的性格が説明される。Benedict はこのような文化型式を「恥の文化」と名付けて、これを欧米の「罪の文化」と対比せしめた。
→ Benedict においては、いかなる孤立した行動も相互に何らかの体系的関連をもっていることが前提されており、特殊な文化構成を一つの特殊な態度や情意によって統合しようとしている。
「ホリー・ガーデン」江國香織 1998 新潮社
「物理学と政治学」(W.Bagehot 1872)
Bagehot は人類の歴史における進歩の三段階を区別し、それぞれ予備時代、国家形成時代、及び討論の時代と名付けた。こうしてこれら三つのいずれの時代においても、また特に予備時代にあっては最も著しく、模倣が慣習の普及を生じさせ、従ってそれぞれの時代の社会的統一を強化する根本条件であることを主張している。Bagehot はまず人類の社会に無秩序・無統一の時代のあったことを想定し、やがて秩序あり統一ある集団生活に入ったときに人類は最初の進歩の段階に達したものと考えた。それならばこのような秩序と統一とは何によって遂げられたかというにそれは模倣が生じさせる社会慣習の普及と一様化とのゆえんとしている。模倣によって社会内の慣習が一様化されると、それに基づいた生活上の規則を強制し得るような権威が確立される。部族社会の秩序と統一とはこのような権威によって保持されたといえる。
→ Begehot の模倣についての研究はただ模倣が社会的慣習普及の心理的条件であることを強調したこと、また他のある種の動物と等しく人間もまた群居的動物であり、従って群居的動物として人間もまたその生得的模倣本能によって集団全体の生存上の安定を得させるに必要な一致的活動を為すようになることを認めたものといえる。そして Begehot が、模倣には無意識的なものがあり、人間は他の動物におけると同様にこの無意識的模倣によって知らず知らずの間に多くの慣習を体得してゆくものだと認めた点は注目に値するのではなかろうか。
個人表象と社会表象との関係及び成立性について(Emile Durkheim 1858-1917)
「科学哲学の形成」(H.Reichenbach 1951)
「平和および戦争における群居本能」(Trotter1916)今
Trotter はまず群の根本性質を群成員の同質性に求めた。この同質性を得るため群内の諸成員は互に仲間のものたちの行動に対して敏感であり、かつ各自の行動を群の正常な慣習の範囲内に制限しなければならない。もしそれらの成員の中であまりに甚だしく独自性を発揮して、そのため群の行動規範から著しく逸脱するものがあれば、そのものは自然淘汰によって除去されてしまう。また各成員は彼等に共通な衝動に応ずるばかりではなく、群そのものを自己の正常な環境と見なす。したがって群の中におり、いつまでも群と共に生活しようとする衝動は最も強い本能的重要性をもつことになる。要するに群居的動物を客観的に見ると、それは群を自分の住むべき唯一の環境であるかのように見なして行動し、かつ群内から来る刺激に対しては特に敏感であり、群外の動物の行動に対してはこれとは全く違った反応を示すものである。まで
「暗示心理学」(Sidies 1910- )
被暗示性は群の接合剤であり、原始的社会集団の中核である。人間は疑いもなく社会的動物であるが、しかし彼が社会的なのは被暗示的であるからである。しかもまた被暗示性は意識の分散を要求するから、社会は当然精神の分裂を予想する。こうして社会と心的流行病は密接に結ばれている。なぜならば社会的の群居的自我は被暗示的、下意識的自我であるからである。
→ Sidiesは被暗示性をもって意識の分散の結果正常の心に侵入してくるもののように考えたが、Trotterは被暗示性を全ての正常な心の1つの必要な性質であり、常にその中に存在し、かつ人間の思想の切り離し難き随伴物であると考えている。
グレン・グールドの語った自らのピアノ演奏について→「ディタッチメント」。
「精神発達の社会的および倫理的解釈」(Baldwin 1897)
Baldwin はまず人間たると他の物体たるとの区別なく、与えられた一切の外界対象を非人格的存在として感覚するに過ぎない初生児の客観的段階からどのようにして個人意識が発達していくかを発生論的に考究して、次の三段階を認めた。即ち第一の投影的段階、第二の主観的段階、第三の放射的段階である。
→ 自我意識は他を模倣することによって生長し、他に対する認識は自我の認識によってますます深められ、そこに道徳的、倫理的自我が生れてくるものと考えられる。
近代写実主義文学(前期)
硯友社
・近代文学の意味
明治39年発行の島崎藤村の「破壊」、国木田独歩の「運命」、夏目漱石の「漾虚集」などの諸作品は新しい近代意識に目覚めて個性とその表現に著しい進化をみせたものであり、これ以来日本の散文壇はとみに勃興し、大体世界文芸と歩調を共にするようになった。そしてその特徴として写実精神が挙げられる。
・明治の写実派の特徴
近代写実主義の特徴はその自然科学的方法に基づき、扱われる題材が事実であるということで、その事実とは作者の体験によって得られる経験的事実でなければならない。
・近代の概念
封建制崩壊後、資本主義社会が成立した19世紀後半以降。よって、明治、大正時代、或いは明治以降第二次世界大戦以前までをさす。(即ち現代に近接する時代という意味、したがって現代を昭和以降ととれば明治、大正となる。大戦以降ととれば昭和の十数年は近代の中に没せられる。)
・硯友社の機関誌
「我楽田文庫」「文庫」「江戸紫」「千紫万紅」山田美妙,尾崎紅葉,巖谷小波,石橋思案,丸岡九華
・言文一致
書言葉と話言葉とを一致させること。また、話言葉体の文章。口語文。明治から大正にかけて、国語改良運動として進められ、成功した。
・美妙の文学史的意義
言文一致体小説の文献上の創始者である。また、坪内逍遥「小説神髄」の主張に応じて在来の勧善懲悪風なプロットを破壊した。
・美妙の文学の表現方法
近世(徳川時代)写実派の表面描写を避けて分析的比喩的な表現を用いた。殊に西洋文学的な擬人法、例えば「月は雲の布巾を携えて折々はみづから拭ってゐます」といったような表現にその特徴が現れている。また、書き出しの一字下げや書き出しの始めの一字を花文字にする、句読点を欧風にする、分かち書きをするなど欧文の形式を模倣した。
・美妙の文学上の欠陥
内容の詩的分子の欠如によって無味乾燥に陥った。更に詩的天分がなかったことと、その表現が行き過ぎのために失敗した。
・「小説は涙を主眼とす」という言葉について
坪内逍遥「小説神髄」は宣長の「源氏物語玉の小櫛」の「源氏物語おほむね」(概論)の系統を引き、小説の主眼は世態人情を写す方法にあり、世態人情の機微はもののあわれであるという理論に基づき、この世態人情を写す方法として近世写実派の表面的描写を避け、近代西欧文学のリアリズムを用いた。即ち描写において事件の変化より人間の心理、性格に力を注ぎ、その個性にまで掘り下げようとした。
・尾崎紅葉「金色夜叉」の主題
金力が人を支配するが結局は金力に支配されない世界があることを結論とするヒューマニズムの小説。
・石橋思案日記と紅葉の日記について
紅葉の「十千万堂日録」は硯友社の側面史を語るものだが、思案の日記はさらに同人達の内部生活を暴露したものである。
・硯友社における石橋思案の位置及び業績
初期には戯文調の小説を発表し、間もなく編集者に転じたが、彼の円満かつ洒脱な性格が硯友社の分裂を防いだ功績は少なくない。
・小波はなぜ少年文学に転向したか。
現実的傾向よりも詩的傾向が強かったため。
・川上眉山の初期作品より後期作品に通貫する陰鬱な精神と近代精神とどのような連関があるか。
眉山の作品に共通するものは彼の人間性或いは社会機構が基調となっている点である。彼は一つの人間観、社会観をもって小説を描いていくということから起ったが、その人間観、社会観は鋭く矛盾を衝き相反の原則を提示はしているものの、それを整理統一する思想に欠けているために作風が常に動揺し、割り切れない印象を与えるばかりでなく、作品自体が非常に暗い感じを与えている。しかも彼の文学的教養が一応江戸時代から出発したために硯友社的な戯作趣味からも抜けきれず、近代性を負いながらそれにも徹しきれないという不幸な結末を迎える。三十九年以降自然主義一派の近代文学流行時代になっても、その波を乗り切ることができず、三十九年に発表した長編「観音岩」は自然主義な作風からは全く孤立してしまったために文壇的にも問題にならず、遂に作の行き詰まりと生活的な破綻のために自殺してしまった。
・斎藤緑雨の「小説八宗」に通じる彼の文学観
冷罵皮肉の精神
・緑雨の小説の特徴
緑雨の作品は花街を中心として、下町を背景にしたもので、人物の性格描写には鋭い掘り下げはあるがやや見方が偏狭で、人物に対する愛情よりも、それらを冷罵する傾向があって、それが作全体の客観性や円満性を欠く結果となっている。
・硯友社作家の文体で最も俳文に近いものの一例
川上眉山「ふところ日記」(1901)
・樋口一葉文学の特徴
一葉の作品の特徴は彼女の主観を基底とした情緒的な点にある。
・一葉の代表作
「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「われから」「たけくらべ」
・紅葉、露伴、一葉の西鶴享受の差
明治二十九年、雑誌「明治評論」の記者(田岡嶺雲)が「それ紅葉は西鶴の筆を得たり。露伴はその気を得たり。一葉はその趣を得たり。」と評した。
・坪内逍遥「小説神髄」の主張を実作の上に現したのは「浮雲」であると言われる理由
事件と人間との葛藤が写実小説の特徴だが、小説主題である葛藤が事件や人間の対立によって行なわれるのでなく一人の人間の内部の心理的葛藤によって形成されているため。
・二葉亭四迷「浮雲」の主人公文三の性格
内海文三の性格はもちろん英雄的なものとはおよそ遠い弱々しいものであるが、その弱々しさに対する作者の解釈は人間の価値批判ではなくて、むしろその人間のもつ反省力の強さの指摘となって現れている。つまり一つの矛盾に気付いた青年がその矛盾を克服しようとするにもかかわらず現実的大勢に圧されて苦悶していく点に近代的興味がかかっている。
・「あひびき」が後の文学に及ぼした影響
精緻を極めた自然描写は、明治文学における新しい自然を見る目を教えた。
・明治三十年代の前半期における社会現象と文学現象との相関
日清戦争後の経済不安と社会的矛盾は勢い国民を現実主義的傾向に導き、自然科学的知識は次第に浪漫主義の主観性、抒情性から離れ、現実から飛躍した空想的分子を批判するようになってきた。この傾向が文学界に現れないわけはなく、一時は浪漫主義に圧倒されていたが、徐々に文壇の大勢を占めていった過渡的現象とみられるものが写実的文学であった。
・「写実小説」と「写実派」小説との差
写実小説はまだ時代的影響もあり、世態人情的でありストーリーが中心であったのに対し、自然主義小説は全く過去の伝統から脱皮して、客観的スタイルを完成し、かつ作家の人生観においても過去の封建性あるいは詠嘆性から抜け出て、観察による実験記録ともいえる描写法が完成したところに進歩性があった。
・後期写実小説に及ぼしたゾラの影響について
ゾライズムとはテーヌの「文学史的方法」にも明らかなように、人間を決定するものは歴史や環境であるということから、特にゾラは環境や遺伝を重視し、かつ世俗的道徳の無価値を叫び、動物的な本能の強さを説いたのだが、永井荷風自身も「地獄の花」の跋文に「人類の一面は確かに動物的たるを免れざるなり。予は専ら祖先の境遇に伴ふ暗黒なる幾多の欲情・腕力・暴行などの事実を憚りなく活写せんと欲す。」といっている。
・観念小説の概念
観念小説とは作者の人生観、社会観が観念的に作品を支配した一種の主題小説的な性質をもっているが、在来の写実方法に一展開を与えて作者独特の観念の世界を知的に構成したもので、傾向はむしろ平面写実小説から離れた浪漫的傾向をとったもの。
・粗笨自然主義
明治三十年代前半の写実小説は一括して自然主義の前駆とみられ、粗笨自然主義といわれる。その特徴は前期写実派文学が大体近世江戸写実主義の伝統を汲んでいるのに対して、後期写実小説はその文体、内容からもこれから離れて西欧の写実主義文学の影響ないし示唆を受け、観察が客観的になり、かつ作家の態度も経験主義的立場をとろうとしたことにある。
・花袋におけるモーパッサンの影響
花袋の「村長」は二葉亭の翻訳によって有名になったツルゲーネフの「猟人日記」及び彼の愛読したモーパッサンの短篇などを継ぎ合わせたような作品である。
・「地獄の花」の主題
「人類の一面は確かに動物的たるを免れざるなり。予は専ら祖先の境遇に伴ふ暗黒なる幾多の欲情・腕力・暴行などの事実を憚りなく活写せんと欲す。」即ち、「地獄の花」は暗黒な事実を憚りなく活写しようとした自然主義風の試みであった。
・明治三十年代前半に地方の自然描写が勃興した理由
文壇的にいって、中央の伝統的都会文学が行き詰まったことと、これに対して郷土文学が注目され出したことが原因。
・「武蔵野」国木田独歩
→ 独歩の自然描写は核心から形状に及んでいった内面的な深さがある。そして彼の自然は常に人事と交錯し、すべての人間の紛争や葛藤や愛情などがことごとく自然の中に吸収され、悠久の世界に生滅していくところに特徴があると思われる。また独歩はワーズワースの影響を受けて自然の中に神を見ようとする神秘的傾向を持ち、自然描写においてはツルゲーネフの影響を受けている。独歩の写実小説は観察や手法において近代的なものであるが、その人生、世界への把握態度はあくまでも浪漫的作家であったといえるのではなかろうか。但し、後に自然主義作家に変化していった(=正統派自然主義作家)ことには留意する必要があるであろう。
・当時の自然描写と絵画上の自然描写との連関
藤村の自然描写は信濃の特徴である山岳描写にある。彼はその描写法を西洋画家三宅克巳や丸山晩霞の画法から暗示を受けているといわれ、特に「写生帖(雲の日記)」のような記録を日記風につけている。丸山晩霞は画家としての立場から、雲の研究をし、ある夏の日に、東南の空に雲の現れたことを日記につけ、次の年の夏の同じ頃みると、やはり東南に出る雲の姿が同じであったことから雲の特殊な型に注意した。この観察は山岳を一つの有機体とみる科学的観察であって、どのような自然現象も決して偶発的なものではなく、一定の秩序をもって行なわれるという法則を彼はスケッチの上にも重視した。そして、彼の自然描写は絵画の手法を重視し、線と色とに注意している。
・写生文について
写生を俳句創作上に用いたのは正岡子規であり、いわゆる主観的、理知的な俳句を否定して、自然の客観描写を主張したのがその写生論の根本である。その写生は対象をみて、心に映じたその影を描くことであり、そこに俳句の別天地があるわけだが、これを子規が文章様式として、同じく洋画の写生の手法を文章に応用しようとしたのが写生文である。
・写生文の系統をひく作家
高浜虚子、坂本四方太、河東碧梧桐、伊藤左千夫、寒川鼠骨
近代浪漫主義文学
浪漫主義はルソー以後人間の平等、解放を目指したヒューマニズムと各国家興隆期における国民的情熱昂揚から生れでたものである。そしてヒューマニズムの文学精神はまず巌本喜治の率いた「女学雑誌」から始まった。
・近代において浪漫主義より前にリアリズムの運動が起った理由。
日清日露の両役を控えた発展途上にあり、国民は敗戦を知らずただひたすらに理想を追う時代であり、これは西欧大陸における浪漫主義時代の背景と一致する。従って、日本における浪漫主義文学が20世紀初頭に起り、それ以前に写実文学時代があったということは、一方日本国家の成長の変則的な形を示すものといえる。
・近世の人間解放をさらに強く深く発展させたのは近代であるが、この人間解放の精神について
浪漫主義の特徴は2つあり、1つは習俗つまり封建道徳に反抗した人間解放の精神、したがってそこから当然導き出されるものは自我の確立であり、他の1つは浪漫主義独特の感情昂揚の世界である。
・浪漫主義が強い近代的自我とその解放精神に根ざしながらなぜ擬古典主義時代に起ったのか
近代日本は明治時代、西欧の18世紀末から19,20世紀までを高飛びし、そこに大きな飛躍もあったが、また一方非常な不自然さがあったため。
・若松賤子の翻訳文学について
若松賤子は少年用語を用いて特殊な言文一致体を創造した。これがやがて「小公子」の翻訳文語となり、児童文学として一般に知られるようになった。
・「小公子」の文体について
少年用語を用いて特殊な言文一致体を用いている(翻訳文語)。
・「女学雑誌」について
「女学雑誌」はその文学論、文学作品などにおいてまず現実より美しいもの、高いものを描き出そうとした。あるがままの現実を直視する前にその中から美醜をえり分けた態度である。勿論これは一歩誤れば甚だしい主観的文学となり、あるいは作意に富んだ戯作と同列になる。しかし問題はその高きものを追おうとする心熱、即ち情熱の強さによるのである。この心熱が神に仕えるように文学に仕えさせ、文学を最も真面目に考えさせるべきものとした。「女学雑誌」はこのように情熱的であり、理論的でなかったため、その発展は望めなくなり、二十年代の後半期は文壇から一歩後退して宗教的な評論雑誌になってしまったが、しかしその分派として二十六年から「文学界」や「評論」が純文学雑誌として同社から発行されることになり、その基調は女学子の主張を踏襲発展させた。
・「文学界」の同人中主要な作家
星野天知(主宰)、北村透谷(客員)、島崎藤村、平田禿木、馬場孤蝶、戸川秋骨、上田敏
・「文学界」を通じて同人連が求めた東西の古典
小野小町、清少納言、紫式部、和泉式部、阿仏尼、西行、宗祇、ダンテ「神曲」、ゲーテ「ウェルテルの悩み」、シェリー、キーツ、バイロン、ハイネ
・透谷の評論の特徴
透谷の評論の特徴は、江戸戯作文学の影響を受けない清新な立場をもっていたこと、英文学特に浪漫詩人バイロンに傾倒していたこと、その他18世紀の古典、主としてファウスト並びにゲーテの作品が多いことである。彼は生活上の苦しみから現実における矛盾感にも悩んだが、それを超えるために神の世界を求めようとした努力の跡がその評論の上にも現れている。
・「極到を事実の上に具体の形となすものなり」(内部生命論)の意味
自然の権力は偉大であるが人間の精神も自由である。自然は宇宙精神の現れであり、人間は内部生命の現れである。また生命とは肉体と共に消滅するものではないのである。ところが現今の文学思潮にいかにこの生命観が欠如しているか、過去及び現在の勧善懲悪、写実文学はこの人間生命を見ないものであり、文芸上の理想派というのはこの内部生命を観察するにあたり、その極地を事実の上に具体的な形をとるものである。
・「国民之友」に寄稿した有力な作家
徳富蘆花、宮崎湖処子、矢崎嵯峨之屋、国木田独歩
・湖処子の「帰省」について
内容は故郷を出て6年後母を訪ねて故郷に帰る青年の紀行文で、その故郷の描写が中心となっている。作者が意図した新味はむしろキリスト教趣味ではないかと考えられ、ここにおける土への感情は著しく聖書趣味で宗教的である。「帰省」には田園の変遷を叙しながら封建制の没落を語り、新しい近代企業がいかに田園の美俗を毒してきたか、それに対して作者はワーズワース的な感慨をもらしている。彼の自然文学は美しい自然を叙しつつそこにも近代生活の悲劇を見出している。「帰省」が単なる自然描写並びにリアリズムだけの文学ではないことは、にもかかわらず彼の田園への憧憬が痛切に語られていることである。「帰省」の最後、作者が会った恋人は脂粉に彩られる代りに自然に薔薇色を帯び、些細な言葉にすら頬を染めるほど敏感でかつ純情である。ここに彼らしいリリシズムが完成されている。
・独歩とワーズワースとの関係
国木田独歩の自然観察はワーズワースの影響を受けて自然の中に神を見ようとする神秘的傾向を持ち、自然描写においてはツルゲーネフの影響を受けている。
・「独歩吟」について
浪漫的情熱の高調に比して彼の表白が観念的に過ぎ、雅順に乏しくその詩心を高く盛り上げきれなかった憾みがある。
・蘆花の「自然と人生」にみられる自然描写
ワーズワースを始め、バーンズ、ブレイクなどの自然観の影響がみられる。
・鏡花の生い立ちがその文学に影響を及ぼした点
鏡花の文学者としての素質は彫工師である父と鼓師である母から受けた芸術的血統によって定められたといってよい。これに加えて彼の母は十の年に没しそれが感受性の深い鏡花に大きな影響を与えた。鏡花文学における恋愛は母姉への思慕の変形であるといわれるが、この亡母に対する憧憬の念は彼の一生の文学を貫いているといって過言ではない。彼の作品では愛せられる女より愛する女が主であり、愛する女は熱情的に身も心も男に献げるのであるが、その献げ方はあたかも母が子に与えるような情とかばいと、そしてそのためには権力をも金力をもあらゆる強いものに反抗することを厭わないという形をとっている。鏡花の父の家も母の生家も極めて信心深い宗教的雰囲気に富んでいた。鏡花の芸術はこの神仏への信心が変形して強い永遠に対する信仰精神となって現われている。鏡花の母は早く死にその美貌と彼女に纏った江戸的な雰囲気はその早き死の故に鏡花には不滅の映像となった。彼が憂鬱な北国の空のもとに育ち、加賀百万石の伝統に保守化した金沢の土地に少年時代を送りながら東京に憧れたのは母のイメージへの追求であった。
・紅葉の文学が鏡花に影響を及ぼした点
鏡花が文学に志した直接のきっかけは、紅葉の「二人此丘尼色懺悔」を読んでからといわれている。当時彼は17歳であった。これより紅葉に仕えようとする念強く遂に上京してその門に訪れ間もなく彼の玄関番になった。鏡花は資質的に天才の部に入れられるが、しかしそれに表現力を与えたものは明らかに紅葉だった。処女作「冠弥左衛門」はお家騒動を中心にした旧式の作であるが、それが「夜行巡査」「外科室」を発表すると一躍その名を謳われ、「琵琶伝」「化銀杏」を書いてその作風に神秘主義的傾向を示すようになった。その間における表現技巧の熟達はほとんど師紅葉自らの加朱、訂正による指導の結果といって過言ではない。
・鏡花の文学を支配する正義観
鏡花は好んで狭斜の女性を書いた。それは美しいものが権力と金力によってもっとも蹂躙され易い世界だからである。そこに彼のヒューマニズムに対する熱意と封建道徳に対する反抗精神がみられるのだが、しかしながらなぜ彼が金力に反抗しいわゆる節操を守る芸者をヒロインとして扱わなければならなかったか、なぜ芸者が美しいか、なぜ彼女らがあわれか、世にはもっと悲惨でもっと美しく、もっと正当な生活をしながら虐げられていた女性がなかったのか、そういう点に関しては鏡花のヒューマニズムはすこぶる限定されたものになっている。つまり彼の江戸趣味と伝統主義感情とが結局特殊な世界の美を描き出しても、それより広い世界の美を見い出し得なかった理由である。
・「新体詩抄」の作者と刊行年代
作者は外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎、刊行は明治15年(1882)。
・藤村と晩翠の詩風
晩翠の詩は古語雅語を駆使して国民の理想と情熱とを謳い上げた詩は藤村の情詩と対照的な位置をとった。
・鉄幹の詩の一節にみられるその長所と短所
鉄幹の詩歌には和漢古典の素養や父礼厳や直文、愚庵などの影響をうかがえるが、漢語を駆使したいわゆる「ますらをぶり」の詩歌、すなわち男の子の歌は当時の青年に広く愛唱された。もちろんその表現は時に生硬蕪雑、活気にみち、あまりにも観念的なものがあり、歌として芳醇な香気と品位に乏しかったといえる。また当時繊弱婦女のような他の浪漫詩に対して一種の男性のおたけびを象徴するかのような感を与え、青年風に諷誦されたが、そこに現された想念は粗雑な自己陶酔であり、用字も無雑作で洗練を経たものではなかった。
・「みだれ髪」における女性解放を象徴する歌
「みだれ髪」所収の一連の韻文にまず感じられるものは青年の譜である。そこには近代女性の生への讃歌があり、新しい世界への憧憬がある。
・山川とみ子と与謝野晶子との歌風
山川登美子は晶子と同時に鉄幹を知り、その歌は悲恋の調を帯び、晶子の歌が太陽の輝かしさをもつのに対してこれは月光のしぶきにも似た哀憐のくすみがあった。
・「明星」の文学史的価値
「明星」は反自然主義的(浪漫主義的)な雑誌であり、近代文学史上の青春時代の花であった。
・露伴の「風流仏」
「風流仏」は珠運という青年彫刻師が百里のかなたにある女性を思慕して止まず、その一念を芸術作品に注いでその女の姿を彫刻する。出来上がった彫像は生きているかのように珠運に相対して笑う。像が女か、女が像か彼は恍惚として相擁し、その美しい2つの魂は天空に遊ぶという神秘的な構成をもつ。
近代写実主義文学(後期)
・自然主義文学の流行過程
自然主義の名が一般的に知られたのは、長谷川天渓の論文「自然主義とは何ぞや」からであり、さらにそれが文壇的名称となったのは、明治39年1月に島村抱月が「早稲田文学」冒頭論文に「囚われたる文芸」を発表し、その中で問題的作品としての自然主義に論究し、さらにその論の延長として藤村の「破壊」に自然派の名前を連結させた。
・日本自然主義
外国の場合には大体浪漫派の作家の時代と自然主義の作家の時代とは画然と分かれ、したがってそれぞれの時代において活躍する作家は異なるが、日本の場合には、かつて浪漫派作家であったものが自然主義作家に変化してゆく、いわば氷炭相容れざるものを同一作家がもつという特殊な現象が起っており、したがってそこに日本の自然主義の特徴が存する。
・「破壊」の文学史的意義
「破壊」には藤村の今まで発表した短篇の延長ともみられる信濃の自然と、そこに住む人間の習慣が書き出され、新しい自然文学としてその写実性が注目されたが、それと同時に容易に動かすことのできない強固な俗習に対する正義観と人道主義的抗議とが強く主張されたヒューマニズムの文学といえる。
・「破壊」と「罪と罰」
「ヴェルトシュメルツ」すなわち世界苦とは世紀末の社会的矛盾の中にあえぐ人間がしかもそのあがきの中から抜けきれず、ただ虚無的な暗愁を漂わすその苦しみをさすのであるが、両者共にその傾向が現われている。
・「破壊」「春」「家」に共通する文学的特徴
藤村には「破壊」に現われた一種のモラルが「春」や「家」にも流れてのちの藤村文学の有力な基調を形づくり、結局自然主義的なものから離脱していったとも考えられる。
・木下尚江の作品
「破壊」と同じく信濃を背景とした農民生活を書いた「良人の自白」。「破壊」が感情の上からは新鮮であるが思想の上からは個人主義的傾向をもっているのに対し、この作は、感情は古い19世紀的なものであるが、思想的には社会悪の暴露、社会制度の批判を扱ったものとして先駆性をもっている。
・独歩の作品に流れるモラル
独歩の本質はその自然科学的描写法にあるのではなくて常に現象の奥底をうかがい、その底に潜む不可思議な運命(いわば神のような存在)に驚きかつ恐れることにある。そして19世紀的現実の矛盾のためにいためつけられた人間性への愛着と、それらにからむ複雑な生の意識、それが独歩の作品の基調であり、その意味では独歩は自然主義作家というよりも藤村などと共通する人間主義的なモラリストであったと考えられる。
・花袋と独歩との相互影響について
独歩の自然描写は花袋と異なる。自然描写は、両者で同じく客観的であるものの、花袋にはどこかに詩歌的な詠嘆が伴うのに対して、独歩にはそれが少なく、むしろ描写に関する限り、その特徴の捉え方は花袋よりも遥かに直感的でありかつ的確であって、その効果も雄勁な趣がある。
・花袋の「生」について
「生」は「妻」「縁」の三部作の最初のものであり、主人公である作者自身を経とし、その家族及び「蒲団」の芳子などを緯としたある一家及びそれを取巻いた人々の厖大な歴史である。当時服部嘉香は「生は平面的背景をもつている人生の一断面を描写した観察の鋭い表裏に徹底したリアリズムの小説である」といっている。
・秋声の「新世帯」と「あらくれ」
夢も理想も美しさもない市井の風俗を描いた小説。
・泡鳴の一元描写について
耽溺はいわゆる一元描写であって、事件はことごとく作中人物である「僕」の目を通ったものばかりで、それ以外の描写はわざわざ「僕の聞いたところでは」と断ってある。
・「耽溺」の文学史的意義
生の跳躍のために美意識も倫理観ものり超えて新しい人生意味を自然的あるいは動物的意志のみに求めるというような破壊的行為がみられる。
・泡鳴の作品の現代的意義
泡鳴の作品の特徴としては底に張る強い我の主張がある。
・白鳥の自然主義作品の特徴
白鳥の自然主義作品としては、大体描写態度が非常にリアルなものと、作者の虚無的な人生観が基調を成しているものとの二つに分けられ、彼が自然主義作家として売り出したのは、前者に属する性格、環境を客観的に描写した作品である。しかし白鳥の本質はその底に流れる人生観がリアルな写実と結びついた後者に属するものである。
・白鳥のシニシズムとは
厭世的悲調
・「何処へ」の健次の言葉を通じた作者の世界観
伝道師を内心では軽蔑しながら一方それのもつ一種の熱情に心を惹かれることに自慰を感ずるという消極的な人生態度がほのみえる。
・白鳥の作品に現れた絶望観とそれを克服しようとする生活意欲との対立
「泥人形」は生活にけだるさを覚えている重吉が田舎から妻をもらうが、大した刺激にもならず、結局妻に甘みもいやみもとれた頃には平凡な夫婦の絆にひきずりこまれてしまうという筋。
・「コブシ」がプロット中心の小説といわれる理由
美青年をめぐる各女性というすこぶる陳腐な構成なため。
・風葉の「恋ざめ」について
叙景叙事の文章の豊麗さがみられる。また文章美のために著しく深みを失ったような場合もあり、ここに硯友社の典型的な残骸を見出すことがことができる。
・二葉亭の「浮雲」における諸要素が「其面影」にどのような形で継承されているか
「其面影」の作品自体は古い世話物の味が残っている。人物も多くは「浮雲」の型を追っている。描写は「浮雲」から一段の進境をみせており、文章も垢抜けているが、依然として筆に戯作的な余裕がある。
・「平凡」にみられる二葉亭の人生観
二葉亭が切迫した現実的情勢を意識しながら、その故に第一義的な生命の燃焼を欲しながら、それが果たされないところに苦悶があり、しかも生活的条件に惹かれて止むなく筆をとったという矛盾と焦躁とが現われているのが、「平凡」であったと考えられる。
・近松秋江の作品について
中年ものの主人公の情痴を丹念に記録し、その心理描写のリアリズムは自然主義的傾向に合致したため注目された。
・小川未明が童話作家として成功した理由
未明はこの暗黒面から絶えず逃れようとする努力をもっており、他の自然主義作家のように、なげやりの気分に陥らず、諦めながらも何かを掴もうとする一抹の明るさをもっていたため。
・長塚節の「土」におけるリアリズム
長塚節の態度には特別な主張もなく、写実が一貫している。
・「土」の背景にある作者の人生観
写実的筆致の中には歌人らしい微妙な敏感さと愛のこもった見方とがこめられ、自然主義のとりあげた愛欲、生活苦、物欲などが都会人中心に書かれたのに比し、長塚節は田園の自然と人事に過不足のない観照態度がみられ、その描写には子規の写生文系統をひいた生々としたものがみられる。
・「土」を通じた自然描写
農民の陰惨な生活や素朴で卑屈な心理感情が、うつり変る四季の自然を背景として細々と描写されている。
・第二期「早稲田文学」の特徴
第二期の「早稲田文学」は明治39年1月に再刊されたものであり、これも第一期の編集態度を継いで客観主義を中心とした。すなわち毎年2,3月頃には必ず文学界、教学界の精細な年表を掲げて文壇現象の忠実な報告者をもって任じた。そしてこの客観主義が自然主義運動の一翼を成すと、その機運をいち早くとらえ、自ら自然主義文学運動の醸成者となった。これによった最初の評論家は島村抱月であり、次に片上天弦、相馬御風、服部嘉香などがあり、また白鳥、秋江、未明、星湖、秋田雨雀などの作家を出し、別に若山牧水らによる「創作」を別動隊として陣営を固め、明治40年代の文壇は本誌がほとんどその主潮流を導く形となった。
・内在批評と外在批評
「早稲田文学」片上天弦はやがて自然主義文学理論からプロレタリア文学理論に転向しようとし、すなわちいわゆる内在批評から外在批評に移ろうとする過程中に倒れた。
・「あるがままの現実に即して全的存在の意義を髣彿す。観照の世界也。味に徹したる人生也。此心境を芸術といふ。」
自然主義は自然素朴の出立を取り出すこと、物的現実を尊重すること、かつ現実現象は無解決無理想であるから、自然主義文学も無解決無理想であること、しかし自然主義の窮極に何を求めようというならば、現実の中に直ちに絶対をみようとする東洋的傾向こそその終極である。そこに現実の充実という限りない人生の意義が見出される。(島村抱月「自然主義の価値」明治41年5月)
・自然主義文学の功罪
自然主義の欠陥は現実尊重の理由のもとに、日常性や凡庸性が跋扈する危険をはらみ、実験の名において作家の身辺雑記が重要視され、描写は平面的になり、そうでなければ徒に病的なものの牙鑿に終始し、殊に否定的人生観が作品自体を救いのないものに陥れてしまった点にある。いわば真実なるが故につまらない感動性のない日常茶飯事が取り上げられ、面白くない無味乾燥な記録や、虚無や絶望以外の何ものでもない暗澹とした事実が記録され、窮極に滅亡を蔵しているような文学に化したのが、末期の自然主義であったといえる。
自然主義の特色
自然科学精神が重視され、帰納法が用いられ、実験された結果が報告され、その描写は精細。近代的知性を持つ個性を書くことに成功した。横たわる思想は虚無的人生観あるいは機械的宿命感。
自然主義の描写態度
・中原中也「中原中也全集」1930.1
・芥川龍之介「侏儒の言葉」
<告白>
完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は「懺悔録」の中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌った人である。しかし「コロンバ」は隠約の間に彼自身を語ってはいないであろうか?所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはっきりとしていないのである。
<人生>
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。
又
人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している。
<暴力>
人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往々石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかしまた権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我々人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或はまた必要ではないのかも知れない。
<神>
あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺の出来ないことである。
又
我々は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。
<処世術>
最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
<理性>
理性のわたしに教えたものは畢竟理性の無力だった。
オウディウス「変身物語」
「よいかな。イカロス、なかほどの道を進むのだぞ。あまりに低く飛びすぎると、翼が海水で重くなる。高すぎると、太陽の火で焼かれるのだ。その両方の中間を飛ばねばならぬ。」
Andrew Marvell, 'To His Coy Mistress'
The Merchant of Venice
三島由紀夫・東大全共闘「美と共同体と東大闘争」1969.6 新潮社
「私は無原則、無前提に暴力を否定するものではない。なぜならば、無原則、無前提の暴力否定は、却って暴力の性格をあまりにも普遍的にし、暴力の定義をあまりにも広げ過ぎるからである。そのことは、暴力に、大は体制側のいはゆる国家権力の本質をなすところの軍隊の力も警察権力をも論理的に包含せざるを得ないし、また町で行われるヤクザの喧嘩に見られる暴力をも同次元のものとして包括せざるを得ない。そのやうな無原則、無前提な暴力否定は暴力の定義自体を無原則、無前提に広げることになるのであるから、したがってその広がりすぎた暴力の根本的な、本質的な否定によって人は論理的に国家否定に陥らざるを得ないのである。私は、国家を暴力機構と規定し、あるひは軍隊を権力の暴力装置と規定する左翼の定義に同調するものではないが、正にこのやうな定義を誘導するものこそ、無原則、無前提の暴力否定であり、戦後的平和主義なのである。それだからこそ私は暴力といふものを否定しないのである。世上ごくセンチメンタルな、ヒューマニティックな見地から来る暴力否定は、目前の秩序のみにかかはつて、その秩序を成り立たせてゐる根本的な政治的状況の錯綜と矛盾に対して目をつぶることから始まつてゐる。これが三派全学連並びに私自身をいらだたせてゐるところの戦後の市民主義的な風潮であり、にせものの市民主義的な既成道徳の婦女子的な感覚に基づいた処理である。」
三島由紀夫「宴のあと」1969.7 新潮社
「人間とはただ雑多なものが流れて通る暗渠であり、くさぐさの車が轍を残してすぎる四辻の石畳にすぎないように思われる。」
THE TALENTED MR.RIPLEY
As You Like It
Ages of man
キルケゴール「死にいたる病」1849
ハイネ「嵐」
ゲーテ「ズライカの巻」
キルケゴール「死にいたる病」1849
絶望は精神における病、自己における病であり、それには3つの場合がありうる。絶望の内にあって自己をもっているということを意識していない場合(非本来的な絶望)。絶望して自己自身であろうと欲しない場合。絶望して自己自身であろうと欲する場合。