2000.10.30-2001.10.29

ヴェルレエヌ「智慧」1881
 撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
 われにその値なし、されどわれまた君が寛容を知れり、
 ああ!こは何たる努力ぞ!されどまた何たる熱心ぞ!

カフカ「あるたたかいの記」1904
 とある夜会で知り合ったばかりの「私」と「連れ」の男とが宴が果ててのち、ふとしたいきがかりで、真冬の深夜に、プラハの街を抜けて郊外のラウレンツィ山へと、いとも酔狂な散歩をする破目になる。その道行と二人の会話を叙している第一部と第三部を、いわば枠組のようにして、その間に挿入された第二部は、二人の放恣な幻想を内容にしているが、そこでは、「祈る男」や「太っちょ」などと呼ばれる、すべて固有の名前をもたない人物が、いれかわりたちかわり登場しては、さまざまな挿話を語り継いでいく複雑な構成になっている。認識論的、言語論的な問題意識や、のちのカフカとはやや趣きを異にした文体に、いわゆる世紀末思想のあらわな影響を看取することができる。
 

カフカ「アメリカ(失踪者)」1911
 16歳の少年カール・ロスマンが、生家から追われて、移民船に乗り、ニューヨーク港に着くところから、話がはじまる。かつての移民で、いまは上院議員を務める伯父に迎えられるものの、彼は、やがてこの伯父からも縁を切られる破目になる。かくのごとく、新大陸での少年の運命は、追放と受容、そしてドロップ・アウトの連続である。編纂者のブロートが選んだ構成では、最後に、「オクラホマ大劇場」と名乗る奇妙な劇団の団員となったカールが、汽車で一路、オクラホマへ向かう所で、この小説は中断している。
 「オクラホマの野外劇場」が何を意味しているのか、何よりも、この小説はハッピー・エンドのはずだったのか、それとも悲惨な結末を予定していたのか、伝えられているカフカの発言そのものが矛盾していることもあって、容易には判断し難い。ともあれ、ディケンズに学んだというだけあって、他の作品とは異質な、それなりの独特の魅力をもった小説になっている。

カフカ「審判」1914
 大手都市銀行の業務主任たるヨーゼフ・Kは、突然、「ある朝、逮捕され」る。最初の審理に呼び出されて、Kがでむいていく裁判所事務局のある場所は、こともあろうに、郊外の貧しい労働者街の酒屋である。その後、彼の裁判は、いつまでたっても上級審へ移る気配もない。かくして、「何もわるいことをしていないのに」、「逮捕され」、裁かれるという、受身でとらえられた不条理な体験は、ただしく裁かれたいという能動的な願望にとってかわられていく。不可視の最高裁判所は、いつしか彼の心中で、そのレゾン・デートルをささえるべき根拠と化している。
 未完におわった四篇の長編小説の中では、唯一、「審判」だけは、け結末の部分が書き上げられていた。ついに最高裁に辿り着くことのなかった、その運命にふさわしく、ヨーゼフ・Kは、郊外の石切場で、「犬のように」処刑される。

三島由紀夫「芥川龍之介について」1956.4
 私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだとは思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や、一騎討と同一戦上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。日々の製作の労苦や喜びを、作家の行為とするなら、自殺は決してその同一線上にある行為ではあるまい。

三島由紀夫「小説家の休暇」1955
 芸術家における生活とは、奔馬のごときものである。要するに芸術家の必要悪である。どうしても御し了せなくてはならぬ。

三島由紀夫「小説家の休暇」1955
 小説を書くことは、多かれ少なかれ、生を堰き止め、生を停滞させることである。

三島由紀夫「戯曲の誘惑」1955
 私の中にあって、戯曲の地形は、小説よりももっと低いところにあるらしい。より本能的なところに、より小児の遊びに近いところにあるらしい。

三島由紀夫「文章読本」1954
 おそろしくひどい悪口がすばらしい力強い見事な文体で書かれてゐるといふことはいつも私を下手な小説を読むよりも喜ばせます。

三島由紀夫「太陽と鉄」1968
 「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねること…

太宰治「津軽」
 信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせることができない。

太宰治「右大臣実朝」
 アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。

太宰治「二十世紀旗手」
 罪、誕生の時刻に在り。

太宰治「道化の華」
 ここを過ぎて空濛の淵。

ゲーテ「神性」
 人間は気高くあれ、
 なさけ深く 善良なれ。
 それのみぞ
 われらの知る
 あらゆる存在より
 人間を区別する。
 …
 そしてわれらはあがめる、
 不滅なる存在を。
 あたかも そもまた人間であるように。
 そして最善の人間が
 小さき圏においてなすこと なしうることを
 そが大いなる圏において なしつつあるように。
 気高き人間は
 なさけ深く 善良なれ。
 …
 そしてわれらの予感する かのより高き存在を
 写すものであれ!

ゲーテ「五月の歌」
 なんと晴れやかな
 自然のひかり。
 日はかがやき
 野はわらう。
 …
 おお愛よ 愛よ。
 黄金なすその美しさ、
 峯にかかる
 あの朝空の雲に似て
 おんみは晴れやかに祝福する、
 生命わく野を、花にけぶる
 みちみちた世界を。
 おお少女よ 少女よ、
 わたしは君を愛する!
 きみの眼はかがやく!
 きみはわたしを愛する!
 そのように愛する、
 自由なひばりは
 歌と高みを、
 朝の花は空のかおりを、
 そしてわたしはきみを、
 湧きたぎる血で。
 …

キルケゴール「現代の批判」1846.3
 現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代で、たまに感激に燃えたつことがあっても、如才なく、すぐにもとの無感動におちついてしまう。

Cyril Connolly "The Unquiet Grave"
 Life is a maze in which we take the wrong turning before we have learnt to walk.

Gertrude Stein "Ida, A Novel"
 Little by little circles were open and when they were open they were always closed.

ゲーテ「徒弟時代」
 「きみたちの一般的な教養やそのためのすべての施設は道化芝居である。人間がある一つのことを、周囲のほかの者にはなかなかできないほどに、根底から理解し、すぐれてなすということが大切なのだ。一つのことをよく知り行うということは、百のことに中途半端であるよりも高い教養をあたえるのである。」

レーナウ「重い夜」
 くらい雲が くるしく
 おもく 垂れていた。
 わたしたち二人は かなしく
 庭をあちこちした。
 暑くて物音がない、くもって
 星がない。
 わたしたちの愛とおなじように
 泣くためにだけあるような夜だった。
 別れぎわに あなたに
 おやすみなさいをいったとき
 わたしは ものがなしく
 あなたとわたし二人の死をこころの底に願ったのだ。

ドロステ
 沢のなかは、暗く、暗い。
 野をおおうている夜。
 葦だけがさらさらとささやいて
 水車のわきに目覚めている、
 その水車の輻の一つ一つに
 水つぶがふくれて走る。
 蛙は沢にかがみ
 はりねずみは草にひそんでいる、
 くさってゆく木の株のうつろには
 ひきがえるが眠っているからだをひきつらす、
 そしてなぞえの砂地には
 蛇がいよいよそのとぐろの輪をしめる。

ヘルダーリーン「パトモス」
 …危難のあるところ
  救いの力もまた近い。

鏡像段階(ラカン)
 人間は神経系が未熟なまま生まれてくるため、幼児は身体が寸断された不安定な状態におかれている。そこで鏡に映る自己像に同一化することで、統一性を獲得する。しかしその歓喜は、自己の統合性を他者に委ね、主人性を外部の何ものかに奪われる危うさと背中あわせの関係にある。

三島由紀夫「憂国」
 「二人が目を見交わして、お互いの目のなかに正当な死を見出したとき、ふたたび彼らは何者も破ることのできない鉄壁に包まれ、他人の一指も触れることのできない美と正義に鎧われたのを感じたのである。」

三島由紀夫「天人五衰」
 「この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もいません。あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。」

 

三島由紀夫「死の分量」
 「われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の画一化と画一化された生活様式の世界的普及による世界像の単一化が原因してゐる。」

三島由紀夫「太陽と鉄」
 「死が日常であり、又、そのことが自明であるやうな生活が、私にとつて唯一の「自然な世界」であるならば、そしてその自然さが人工的な構築によつてはつひに得られず、却つて甚だ非独創的な義務の観念によつて容易に得られるならば、次第に私がこのような誘惑に牽かれ、自分の想像力を義務に変へようと企てるほど、自然な成行はなかつたにちがひない。死と危機と世界崩壊に対する日常的な想像力が、義務に転化する瞬間ほど、まばゆい瞬間はどこにもあるまい。そのためには、しかし、肉体と力と戦ひの意志と戦ひの技術が養はれねばならず、その養成を、むかし想像力を養つたのと同じ手口でやればよかつた。それといふのも、想像力も剣も、死への親近が養ふ技術である点では同じだつたからである。しかも、この二つのものは、共に鋭くなればなるほど、自分を滅ぼす方向へ向ふやうな技術なのであつた。」

三島由紀夫「終末感と文学」
 「…文学はいつの日も終末観の味方である。この説明はまことに簡単で、文学の意図するところは、いつの時代にも、ことばによる世界解釈・世間認識にはかならず、その時代々々の宗教や哲学の終末観は、このための恰好な見取り図を提供してくれたからである。末世とは小説の終章であり、小説家の脳裡に最初に浮かんでゐなくてはならぬものだ。終はりのはうから世界を見通すこと、これが各時代の末世思想の思考の技術だった。世界がやがては終はるといふ考へほど、文学的想像にとつても、文学の記録的機能にとつても、心を鼓舞してくれる考へはなかつた。「美しい者よ、しばし止まれ」。もし美しい者が永久にとどまつて、すべてに終はりがないならば、あらゆる文学の一回性はナンセンスにほかならない。」

ミルトン「失楽園」
 「あなたがどこへ行き、どこから帰ってこられたか、私は知っています。神は眠りのなかにも常に在し給う方であり、夢はいろいろなことを私たちに教えてくれます。神は慈悲の心からそのような夢を送り、そのなかで、悲嘆と心の悩みに疲れ、眠り込んでしまっていた私に、或る喜ばしいことを告げられました。とにかく、今こそ先に立って私を導いて下さい。私にはもはや躊躇はありません。あなたと一緒なら、ここを出ることはここに留まることです。あなたと別れてここに留まることは、心ならずもここを出てゆくことと同じです。あなたは私の身勝手な罪のためにここを追放されるのです、-今の私には、あなたこそ、大空の下におけるすべてであり、すべての場所なのです。私のせいですべてが失われたとはいえ、私から生まれるあの約束された御子が、すべてを回復し給うという、身に余る恩寵を示された今、私はその慰めを心にしっかりと抱いて、ここを立ち去りたいのです。」

ギュンター・アイヒ「夢」
 「世界という歯車のなかで砂となれ、油となるな」

三島由紀夫「豊饒の海」1970.11.25
 「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るやうな蝉の声がここを領してゐる。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……」

Gertrude Stein "Rooms" in Tender Buttons
 A silence is not indicated by any motion, less is indicated by a motion, more is not indicated it is enthralled.

三島由紀夫「行動学入門」
 待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を発揮することであり、そこにこそ賭けのほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められなければならない。

三島由紀夫「金閣寺」(創作ノート)
 「僧房生活を芸術生活のアレゴリーとし、それより離脱して、髪を脱ばし、一見人生へ乗り出すも、ニセ物の意識脱けず、しかし人生は容易にして、一層成功し、勝者となり、強者となり、「人生は変へ得る」といふ確信を抱くにいたるも、ニヒリストにして、根底的に何一つ信ぜず、完全にニセ物也。何事も可能なり。この世に不可能事なし。この世は凡て相対的にして、虚無のみ。絶対の強者、-絶対のニヒリスト-への道を歩み、この世に何ものも軽蔑すべからざる者をなくすために、最後のコムプレックスを解放せんとし、金閣に火をつける。」

三島由紀夫「美しい星」
 「時間の法則が崩れて、事後が事前へ持ち込まれ、瞬間がそのまま永遠へ結びつけられるなら、人類の平和や自由は、たちどころに可能になる。」

三島由紀夫「仮面の告白」
 「この瞬間、私のなかで何かが残酷な力で二つに引裂かれた。雷が落ちて生木が引裂かれるやうに。私が今まで精魂こめて積み重ねてきた建築物がいたましく崩れ落ちる音を私は聴いた。私という存在がが何か一種のおそろしい「不在」に入れかはる刹那を見たやうな気がした。」

沢木耕太郎「彼らの流儀」ギャラクシー
 「時代は変わり、時代は変わらず……。」

カルヴィン
 「選びの目的は人生を潔めることであるから選びはその目的を到達するようにわれわれを眼ざまし励ますのであつて、決して選ばれたが故に怠惰になつてよいという口実にはならない。」

沢木耕太郎「彼らの流儀」星と虹
 「この世に十全なものがあってどうして悪かろう……。」

安部公房「燃えつきた地図」1985.1
「都会-閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
 だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。」

三島由紀夫「音楽」1970.2
「『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』という諺が、実は誤訳であって、原典のローマ詩人ユウェナーリスの句は、『健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし』という願望の意を秘めたものであることは、まことに意味が深いと言わねばならない。」

安部公房「燃えつきた地図」1985.1
「誰もが帰ってくる。出掛けた所へ、戻ってくる。戻ってくるために、出掛けて行く。戻ってくることが目的のように、厚いわが家の壁を、さらに厚くて丈夫なものにするために、その壁の材料を仕入れに出掛けて行く。
 だが、ときたま、出掛けたっきり、戻ってこない人間もいて…」

フロイト「ある幻想の未来」
「文化とは、一面においては、人類が、自然のもろもろの力を支配し、自分の必要をみたすよう自然からさまざまの物質を奪い取るために獲得した知識と能力の一切を包含するとともに、他面においては、人間相互の関係、その中でも特に、入手可能な物資の分配を円滑にするための全社会制度を含んでいる。」

マルクス「ドイツ・イデオロギー」
「従来の歴史観は歴史のうちにただ派手な政治的大事件と宗教的そして総じて観想的な闘争をしかみることができなかったし、そしてとりわけ、それぞれの歴史的時期にその時期の幻想を一緒にもたざるをえなかった。たとえばある時期が純「政治的」もしくは「宗教的」な動機によって自身が規定されると思い込むとすれば…その時期の歴史記述者はこの思い込みをそのまま受け入れる。これらの特定の人々が自分達の現実的実践に関してもちところの「思い込み」や「観念」がこれらの人々の実践を支配し規定する唯一の規定的能動的な力に変えられる。」

マックス・ウェーバー「職業としての学問」
「ものによっては、それが美でないにもかかわらず、いやそれ以上に、美でないがゆえに、そして美でないかぎりにおいて聖でありうる。…またものによっては、それが善でないにもかかわらず、いや善でないという点においてこそ美でありうる。そのことを我々はニーチェ以来またしても知っている。…また日常的な知識であるが、ものによってはそれが美でも、聖でも、善でもないにもかかわらず、いやそうでないことによって真でありうる。」

フランツ・ローゼンツヴァイク「救済の星」
「我々の民主主義の時代は、悲劇的なものに対する平等の権利を貫こうとしたのだが、やはり徒労であった。魂の貧しい者にその天国を開こうという試みは全て失敗に帰した。」
→市民社会には、強度の経験はあり得ない。

ツァラストゥストラ「汚れなき認識」
「太陽は海を吸い、その深みをみずからの高みに吸い上げようとする。その時海の欲望は百千の乳房を高くもたげる。海は太陽の渇きによって接吻され、吸われようと願う。それは大気となり、高みとなり、光の歩む道となり、また光そのものとなろうと願う。まことに、わたしは太陽と等しく、生とすべての深い海を愛する。」

フッサール「厳密な学としての哲学」
「われわれの窮乏を癒そうとして、時代のために永遠を犠牲にしてはならない。窮乏の上に窮乏を積み重ねて、結局は根絶しがたい害悪としてこれを子孫に伝えてはならない。窮乏はこの場合、学に由来するのである。そして学に由来する窮乏はただ学によってのみ決定的に克服されうるのである。」

フロイト「抑圧」
「衝動の代表が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に、豊かに発展する。」

アドルノ「否定弁証法」
「形而上学への能力が麻痺しているのは、思弁的な形而上学的思想が経験と調和するための基盤が、現に生じた出来事によって破壊されてしまったからである。」

マルクス「エピクロスの哲学」
「状態は本来、偶然的存立である。」

江國香織「すいかの匂い」2000.7
「身体の中に深い井戸をもっているような、静寂を抱いているような。」

「雨に閉じこめられる感じが好きで、雨足が強ければ強いほど嬉しかった。足元にできる無数の水の輪、傘を打つ雨の手ごたえ、そして、外界からすっかり遮断されるような、快くはげしい水の音。」

「いま二人で旅にでれば、永遠に戻らずにすむような気がした。あたためられた地面からたちのぼる陽炎の、めまいにも似た感じ。」

「胸のなかが不穏に粟立つ。」

「枝と葉っぱ、ごく弱い風。」

キルケゴール「現代の批判」
 「大衆とは一切にして無であり、人は、大衆の名において全国民にむかって語ることができるが、しかもその大衆というのは、ただ一人の人間がどれ程少ないとしても、このただ一人の人間がどれ程少ないとしても、このただ一人の現実的な人間よりももっと少ないのである。大衆という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それと比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。大衆は、個々の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のお伽話である。」

T・ハリス「ハンニバル」
 「自分の切なる祈りが一部しか聞き届けられなかったこのとき以来、ハンニバル・レクターが神の意図について思いを凝らすことは絶えてなかった。例外があったとすれば、神による殺戮に比べれば自分のなす殺戮など何程のものでもない、と思い知ったときくらいだろう。」

ヤーキズ・ダッドソンの法則
 人は中程度の覚醒の時、つまり適度の緊張や不安のある時に最もよく遂行する。困難な課題を遂行する際の最適覚醒水準は、容易な課題の時の水準よりもずっと低い所にある。。困難

ブーバー
 「はじめに関係がある。それは存在の範疇、とらえる形式、魂の原型としてあるのである。それは関係のアプリオリ、生得のなんじである。」

三島由紀夫「葉隠入門」
 「毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。
 われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、「葉隠」は与えてくれるように思われるのである。」

キルケゴール
 「ユーモアとは、その振動が最大限にまで徹底的に行われたアイロニーのことである」

三島由紀夫「盗賊」1954
 「しかし目を合わせた途端に、二対の瞳は暗澹とみひらかれ、何か人には知られない怖ろしい荒廃をお互いの顔に見出しでもしたかのように、お互い相手の視線から必死にのがれようとし、この醜悪な予感が彼らの目から彼らの頬へと移行し、その頬を夜明けの海のような暗い青みがかった色調で覆い、その唇を死灰の色と味わいで充たすのに任せたまま、しばらくは恐怖に縛められて立ちすくんでいた。美子のほうが先に、戦慄しながら、辛うじて二歩三歩後ずさりした。
 二人は同時に声をあげてこの怖ろしい発見を人々の前に語りたい衝動にさえ駆られていた。今こそ二人は、真に美なるもの、永遠に若きものが、二人の中から誰か巧みな盗賊によって根こそぎ盗み去られているのを知った。」

キルケゴール
 「瞬間は、そこで時間と永遠とが互いに触れ合うところのある両義的なものである。」

鈴木光司「新しい歌をうたえ」.2000.5
 「たとえば、こんなふうに自問自答をしたことがある。自分の子と、その子に包丁をつきつける男がいたとする。どちらか一方の命が神に召されなければならなくなり、その決定権が自分に委ねられた場合、どちらの命を差し出すだろうかと自問する。考えるまでもなく、我が子の命を助けると答えるだろう。我が子の命と、包丁をつきつける男の命は等価ではなく、ずしりと重く前者に傾く。しかし、それは、自分の中にある「自我」の判断であり、人間を離れた「神」という視点に立てば、たとえ犯罪者であろうとも、子供と男のふたつの命が平等に併置されているとしか見えなくなる。平等なふたつの命である限り、神の恣意性に任せて、決定権を放棄すべきなのであろうかというさらなる疑問…。
 彼方に「神」の視点があると意識しつつ自我に縛られ、執着の中であがいて生きるのが人間にほかならない。」

日本国憲法 第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

鈴木光司「新しい歌をうたえ」.2000.5
 「「世も末ですね。昔はこうじゃなかったのに、どうなっちゃうんでしょうね」
などと暗い顔で言う連中に対してである。悲惨な出来事は、過去も現在も未来も、時代に合わせて形態を変えるだけで、決して絶えることはない。だからといって、人間に背を向けてほしくないのだ。政治的な理由はどうあれ、人間は奴隷制にせよ身分制にせよ、自分達の力で変えてきた。世界は刻々といい方向に向かっているのだと自身を持って肯定し、現実に対処する心構えが必要であろう。諦めや失望、悲観によって、何が変わるというのか。」

ティミエニェッカ「現象学と人間科学」1962
 「あらゆる個々人を含む社会的世界は、広い網のような個々人の関係の結果として生じるもの以外の何ものでもなく、社会形態は、人間の創造的な本質における根本的な緊張形態から余分に挿入されたものである。」

・キケローについて
 ラテン文学最大の散文家(106-43B.C)。「ロスキウス・アメリーヌス弁護」「ウェッレースを訴う」「クルエンティウス弁護」「カティリーナ弾劾」「アルキーアス弁護」「帰朝後元老院にて」「帰朝後市民に対して」。
 キケローの散文で重要なのは「対話」。「弁論家について」「材料の選択について」
 「国家論」「スキーピオーの夢」「法律について」「ブルートゥス」「最高の弁論家」「トピカ」「弁論術の区分」

・弁論のアシア風、アッティカ風について
  アシア風:ギリシア文化の流れを汲む誇張や警句の多い、技巧的で派手な弁論
  アッティカ風:従来の古典ギリシア的な地味な論風
  →キケロは影響を受ける。弁論術に関する作品は、これらが読者を目当てに書かれた純然たる散文の極めて古い例であることと、後生の文化に与えた影響を考えると、無視することはできない。
 「パラドクサ」「アポッローニウスに送る慰藉」「ホルテンシウム」「アカデーミカ」「至善至悪論」

 キケロー「トゥスクルム哲学論叢」1916
  肉体的苦痛が「悪」ではない所以、知恵とは忍苦と死の蔑視であること、「賢者」とは悲しみに不 感受で、いかなる心の動揺にも乱されない者であることを説き、「美徳」こそ至福への途であると説 得している。
 「神々の本質について」「占卜について」「宿命について」「ラエリウス・友情について」「大カトー・老年について」「義務について」
  キケローの哲学は浅薄だとか独創性がないとかしばしば言われ、そう認めざるを得ない面もあるけれども、彼の著作は当時の哲学に関する百科辞典的存在として、もしキケローが書き残しておいてくれなかったら、永久に失われてしまったに違いない多くの知識を伝えてくれた点と、抽象的なギリシアの哲学用語を巧みにラテン訳し、ラテン語fで哲学を論じ得る途を開いた功績には極めて大きなものがあると考えられる。
 「天象」「おのが執政官職について」
 キケローの諸書簡集(「友人宛書簡集」「アッチィクス宛書簡集」「弟クウィントゥス宛書簡集」「ブルートゥス宛書簡集」)
  キケローの諸「書簡集」は後日他人が公表することを意識して書かれなかった、いわばキケローの生地が出ていて、文体も簡潔であり、その意味でも価値のあるものであろう。

 散文は弁論術と切り離し難いかたちで発達したが、談話の文字化が「対話」という形式を生み、「歴史」が書かれる段階に至って、はっきりした一分野を確立した。

ウェルギリウス「アエネーイス」
 ウェルギリウスの意図は、ローマの偉大さ、アウグストゥスの築き上げた「黄金時代」を謳歌するにあり、歴史的叙事詩と神話的叙事詩を綜合させた。

・危機意識

近代思想の特質
 ヒューマニズム・個人主義・合理主義。

神格化された人間理性を現実的人間へと解消すると2つの方向
 マルクス主義:人間の現実的存在を社会的存在として捉える(マルクス)。
 実存主義  :人間の現実的存在を単独者的実存として捉える(キルケゴール)。

19C後半の哲学的諸傾向に共通すること
 現象の表面だけを見て、その根拠を追求せず、世界観的要求を放棄していること。

レーニン「帝国主義論」1916
 帝国主義とは、資本主義の独占段階である。レーニンはそこで、この段階を規定する指標として1.生産と資本の集中、2.産業資本と金融資本の結びつき、3.資本輸出による後進国支配、4.国際的な独占資本家団体の形成、5.先進資本主義国による地球の領土的分割の完了の5点を挙げている。だが、一口に先進資本主義国といっても、それらの国々の間には、資本主義の発達の程度に差がある。この資本主義諸国の不均等こそ、19C末から20C初頭にかけての市場再分割戦争の原因であり、その最大の現れが世界大戦であったとレーニンはしている。

「超人」について
 生命は、より高いものへとたえず自己を克服していこうとする「権力への意志」を持っている。ニーチェは、この権力への意志を徹底するところに、神も道徳もなしに、みずから価値を創造し、ただひとり生きる勇気を獲得した人間として「超人」と呼ばれる思想を描き出した。そして、この超人の立場に立って、「神は死んだ!」と宣告するのである。

近代思想の根本原理
 :人間理性に対する信頼

「実存」について
 ヤスパース、ハイデガー、サルトルなどは、人間のこの個体としての運命を、生きている自分自身の内側から掘り下げ、そこに、決して何ものかとして対象化しつくしえず、それ故に不安・孤独・絶望といった限界状況を背負いながらも、絶えず自分自身をのりこえていく人間の主体的な在り方を見出し、それを実存と呼んだ。

・大衆社会

「大衆社会」について
 企業規模の拡大・複雑化、産業経営技術の高度化、第三次産業の拡大、国家規模の膨大化に伴い、それらに従事する下層管理職員・技術者・事務職員・公務員等の新中間層と呼ばれる階層が増大してくる。そして、この階層を媒介として、異質の社会成員の間に、生活意識・思考様式・行動様式の画一化が行われるところに、「大衆社会」と呼ばれるものが成立する。

「官僚制」について
 ウェーバーは、古典的分析において、官僚制に関して以下の特徴を挙げている。第一は、権限の明確化であり、それによって職務は分化し、専門化される。第二は、職階制であり、それによって形成されるピラミッド型の組織に動脈を通じているのが、第三の特徴である職務執行の規則化であり、それによって事務処理の正確・迅速化が図られる。

 人は自律意志決定能力を奪われ、極度に専門化された職務において、自己の個性からその職務の要求する特定の能力だけを抽象して働かしめることを要求される。

・ニヒリズム

 実存主義者は、不安・孤独・絶望を人間の運命と見なし、この運命を自覚して運命を自覚して生きるところに人間本来の在り方を求める。

ニーチェ「権力への意志」
 「ニヒリズムとは何を意味するのか?至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ、目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。」

ニヒリズムとは
 世界が全面的に無意味化されるということである。現代は「疎外」ということが問題となっているように、人間と人間とが互いに引裂かれている時代である。人間的連帯性を欠いたこのような社会状況にあっては、各人の可能性はその統一的実現の基盤を失う。その結果、我々は、自己の可能性から現実を意味付けながら生きる存在である。ところが、いまやその可能性の実現が阻まれるのであるから、現実は意味を奪われた全く無理由なものとして現われて来ざるをえない。そこに現われて来るのが、ニヒリズムである。ニヒリズムは、自己の諸可能性が、人間的連帯性を欠いた社会状況において、その統一的実現を阻まれるところに成立する。

ニヒリズムの原因について
 ・人間の運命とする見方。つまり人間は死すべき運命である。故に人間は無意味な存在である。
 ・特定の社会の産物とする見方。

ドストエフスキー
 「もし神が存在しないとすれば、すべては許されるであろう」

 現代社会における人間の孤独に完全に孤立した状況の下では、通常の手段では自己の要求を実現しえないために、極端に破壊的な行動に訴えるのである。

・社会参加

 現代思想の中でサルトルの占める独自な位置は、彼がニヒリズムの克服を社会変革に求めている点にある。現象学は意識の基本構造を「指向性」と規定する。サルトルは、近代思想の根底にある「自我」(Ego)とその内面性を否定する。指向性という概念は、事物を離れた意識はありえないとすると同時に、事物をあくまでも意識の相関者として捉えることを要求する。意識の常に自分自身に対してあるという在り方をサルトルは「対自存在」と呼んでいる。意識の持つ否定、超越の働きがサルトルの言う「無化」であり、それによって、無意味な塊である存在から特定の意味と輪郭とを持った対象が切り取られ、多様な現象が現れる。

サルトル「実存主義はヒューマニズムである」
 「実存は本質に先行する」人間はあらかじめ決まったあるべき在り方を持たず、自らつくるところのもの以外の何ものでもない。もし神が存在しないとすれば、すべては許されている。

 主体としての他者によって客体化された私が、対他存在である。人間は現実を自分にとって一定の意味を持った状況にまで構成するという仕方で、自分の世界の中に存在している。ところが、そこへ他人が登場し、自分にまなざしをむけるや否や、私の世界は崩壊し、他人を中心として再構成されることになる。このようにして、私が他人のまなざしのもとに、自分の世界ごと一個の事物と化し、自由を奪われることを、サルトルは「疎外」と呼んだ。

 サルトルが他の実存主義者と違うのは、後者が特権化した知識人の孤立状態を、階級対立の中でのプチ・ブルジョアの根なし草的状況として直視しようとした透徹した自意識にある。

・状況倫理学

ヤスパース「現代の精神的状況」1931
「いまや、たしかに、ひとつの意識がひろがっている。すなわち-何もかももう駄目だ、疑問でないものは何一つない。ほんものだという確証のあるものは何もない。イデオロギーによって瞞しあったり自己欺瞞をやったりしているなかで依然として存続するものといえば限りのない渦巻だけだ、という意識が。」

倫理とは行為における善悪もしくは正邪というような区別の基準を意味する。

状況とは倫理的行為において主体によって理法と価値が結び付けられ、それらが共に現実化される局面を意味する。

行為の倫理的区別の根拠は行為主体のその時々の個別的・一回的状況の中にしか求め得ないというのが、状況倫理学の考え方である。

 状況倫理学は、倫理的価値の問題を形式的な原則によって考えるのではなく、個々の行為主体の実践的決断の問題として取り扱う。即ち、一般的に「善とは何か」、「人間はどうあるべきか」を問うのではなくて、「わたしはこの状況においていま何をすべきか」、つまり幾つかの行為の選択可能性を前にして「どの行為を選ぶべきか」を問おうとするのである。状況倫理学のこのような主張にはJ・P・サルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義のテーゼと相通ずる面が含まれているとも言い得るであろう。

・今日の危機の性格

1.いわゆる全く不可解な出来事が突発的に起る。
2.アイロニカルな出来事、つまり、自己矛盾や自家撞着になるような出来事が、しかも大規模な仕方で起る。

 現代人は別次元の世界から問題をつきつけられて当惑している人間として描くことができる。
 今仮に一次元の世界にだけしか生きることのできない人がいるとする。彼の世界は線の世界だけであり、従って彼の頭の働きも行動も前方か後方かのこの二方向にしか働かない。そこでこの彼に誰かが横の方から石でもぶつけたとしよう。すると、彼の頭は前方と後方の二方向にしか働かないから、彼はどんなに頭脳をふりしぼってその石を投げた男を探そうとしても、それを自分の前を歩いている者か後ろを歩いている者かにきめつけざるをえなくなる。こうして彼がそれを実行に移せば、前の者とも後ろの者とも大喧嘩になるだろう。その有様は少なくとも二次元の世界に生きている人間から見るならば、滑稽でもありそれ以上に憐れである。彼は、この問題が二次元の世界から起こされていることを知らないし、知る能力すらもっていないからである。
 それならそれを笑う二次元の世界にだけ生きている人間はどうであろうか。この人間は面の世界に生きているのだから、彼には、前と後ろのほかに横というものがある。しかもその横とは、単に真横だけでなく、四方八方ななめという具合にいくらでも開かれた可能性となっている。従って彼は、一次元の男とは違って、自分の周りからならどこから問題が起ってもその原因をつきとめることができる。ところがこの男の世界には「高さ」というものがない。従ってこの男に誰かが高い所から石をぶつけたとしよう。彼はその原因を自分の周りにいるありとあらゆる人間に求めようとするだろう。そして喧嘩が起るであろう。この有様を三次元の世界に生きている人間から見るならば、滑稽でもあり憐れでもある。彼には、その原因が三次元の世界から起こされていることは知るよしもないからである。
 それならそれを笑う三次元の世界に生きる男はどうだろう。彼は立体の世界に生きているので、線、面の他に、上下の世界が加わっているわけである。要するに、空間の世界ならどの方向にも彼の頭は働き行動ができる。ところがその彼も、空間とは別のもう一つの世界、つまり、時間の世界から問題が起ってくる場合、彼はその原因を空間の世界のなにがしかに求めるために、結局は前述の二人の男の場合と同じ悲喜劇になってしまう。彼も、自分の世界より高次の世界から起こされた問題に関しては、考える能力すらないからである。
 それなら四次元の世界に生きる人間はどうだろうか。彼は、空間のみならず時間の世界にも生きている人間である。従ってこの男は、いかなる方向から問題が起ってきても、前三者とは比較にならない開かれた自由さのもとにその原因をつきとめることができる。ところがこの男も、もしそこに起っている問題の根が超時空の世界にあり、そこからその問題が起っているとするならば、やはり彼も前述の前三者と同じ状況に置かれることになる。超時空の世界とは、強いて形容するならば。「深さ
」の次元の世界である。もしこの世界を「深さ」の次元の世界と形容するならば、前述の四次元までの世界は全部一応「面」の次元の世界と形容しても差支えなかろう。今日の問題というのは、この「深さ」の次元の世界から起っていると思われる。

キルケゴール
「問いは知らないものによって発せられる。しかもその知らない者は、何が自分をしてそのような問いを発せしめているのかということをこそ知らない」

・今日という時代の位置

 ボールディング.は、歴史を文明社会史として捉え、その歴史の全時期を3つに分けている。即ち、文明前社会の時期、文明社会の時期、文明後社会の時期としている。文明前社会の時期というのは、人類発生以来文明社会に移行するまでの長い時期である。その文明社会の時期というのは、今から約1万年前から5千年前の間に始まり、その時から大体20世紀の中葉までの時期を指す。文明後社会の時期とは、20世紀になって今までの歴史にない兆候を見せじはじめた時点からはじまっている。

精神:科学や哲学や思想の根底をなしている主観の「意識」の態度或いは姿勢を指す概念。

「今日」という時代:今まで実に長い間続いたところのその時代が終焉しつつあることを、従ってその次の時代が始まりつつあることを意味する時代。450年から500年も長く続いた時代の終りをむかえた時代、そしてそれとは全く異なった新しい時代の地平が始まりつつある時代であり、それ故当然にその「危機」の意味するものは並大抵のものではないことが推測される。

・今日の危機の構造

今日の危機:根本的には文化の危機

「近世的思惟」の特徴
 1. 主観の登場とそれの絶対化 → 人間は自らを全知全能なる者と信じ込むようになった。
 2. 進歩の思想及び進歩史観
 3. 実証主義及びその思考方法
 以上、近世的思惟の特徴とは、主観の絶対化、その座からの進歩という名における人間の絶対的自己主張(即ち絶対的他者否定)、更にそれの中身としての実証主義と実証主義的思考方法の固定的軌道化にあると言えるだろう。

 
今日の危機が政治と経済の危機としてだけ、要するに社会現象としてだけ見られているその見え方自体こそが今日も危機の実相を表しているものだと考えられる。そこでそのような見え方をつくっている思考様式そのものを根本から転換することこそが基本的な課題となろう、

近世的思惟の非倫理性が破壊したもの
 1. 「世界」というものを破壊し、「世界喪失」という状況をもたらした。
   ハイデガーはこれを故郷喪失と呼んでいる。
 2. 人間存在が基づいているところの根源的諸関係。
   ゼールドマイヤーは「中心の喪失」と呼んでいる。
   (1) 人間の神に対する関係
   (2) 人間の自分自身に対する関係
   (3) 他人に対する関係
   (4) 自然に対する関係
   (5) 時間に対する関係
   (6) 人間の精神的世界に対する関係
  この6つの根源的諸関係を失い、中心を喪失することにより次の3つの型の人間が登場する。
  (1) ドン・ジュアン的人間(享楽をカテゴリーとした人間)
  (2) ファウスト的人間(懐疑をカテゴリーとした人間)
  (3) アハスヴェルス的人間、或いは、永遠のユダヤ人的人間(絶望をカテゴリーとした人間)
  これらが中心を喪失した「近代人」の3つの型である。

今日の危機の問題を打開する2つの方向
 1. 近世の「思考」と「学問」の枠組を規定している近世的思惟そのものの枠組を根本から検討して、新しい枠組みのもとでのそれらの新しい在り方、或いは、本来的な在り方を探究する方向。
 2. 近世的思惟の問題もその根本は、近世における「人間の在り方」と深く関係しているので、この「人間の在り方」を根本から検討して、人間の新しい在り方、或いは、本来的な在り方を探究する方向。

・批判という言葉

 批判は批評ではない。批評における最も本質的な点は、批評するものは、あくまで第三者の世界にとどまっておりながら、しかもその根本的な関心事は、その世界の自分のことにはなく他人の世界の他人のことがらにあるという点である。
 批判は非難ではない。非難は、自分はあくまで第三者的世界にとどまっておりながら、そのままの状態で他人の世界に介入していること、しかもそれは、その相手に対して断定をとっていることである。なので多くの場合非難は自分の手を汚さないで自分の正しさを立証するだけに終る。
 批判は否定ではない。否定は非難における断定の場合以上に、その判断や行動に絶対性が支配している点に特徴がある。その根本的な関心事は、自分に対してではなく、他人のの事柄にあるということが、注目されなければならない。

カント「純粋理性批判」
 カントは、理性によって理性それ自らの権能を、認識能力を、問いただすということをした。それはいわば、理性による理性自らも批判、つまり、理性の自己批判であり、これが批判という言葉で呼ばれた。

1. 批判とは、真理、或いは、真なる知識を得るために、それを、「真理ならざるもの」から「分ける」或いは「区別する」ことである。
2. 批判とは、知識の前提を問うという営みのことである。
3. 批判とは、問うている自己自身を問うことへと通じている営みであると同時に、その自己自身を問うということが根底叉は根幹をなしている営みだということができる。

 批判の場合は、その根本的関心事が自分にあるという点である。なので批判とは、何よりも第一に、自己批判に基礎づけられている営みだということができる。

・否定の構造

現大文明は、リヴァイアサン。それは人間のありとあらゆる営みを呑み込んでしまう巨大な怪獣のようなものである。(トマス・ホッブス)。
今日の社会は情報化社会であり、また、大衆社会である。

マスコミと大衆の関係
 1. マスコミは、この社会を、感性と刺激の論理が支配するドラマの世界に化してしまっている。
 2. マスコミは、本質的に、無精神性であり、非道徳であり、そして人間性の裏切りである。
 3. マスコミは、社会全体を劇場化し、感性と刺激の論理だけが支配する虚構の世界をつくるにあたって、そのような虚構の世界に人々が住みやすいようにするため、人々から精神を放逐させて、人々全体を異様な怪物へと仕立て上げることをやってきた。
 この世にマスコミが顔色をうかがわなければならないものがあるとするなら、それは唯一つ、「大衆」であろう。
マスコミは、いかにも大衆を支配し大衆を操っているようでありながら、実はこの大衆の方こそがマスコミを支配し操っている。従って、この時代に真の絶対権力を持つものは「大衆」だということができる。

大衆:1つの巨大な「幻」。(キルケゴール)

キルケゴール
「大衆とは一切にして無であり、人は、大衆の名において全国民にむかって語ることができるが、しかもその大衆というのは、ただ一人の人間がどれ程少ないとしても、このただ一人の現実的な人間よりももっと少ないのである。大衆という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それと比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。大衆は、個々の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のお伽話である。」

大衆は、互いに異なる三つの声を発するものであり、しかもその発した声の背後にはいつもいないのである。その三つの声とは、叫声と建前の声と本音の声とである。

絶対理念の正体:空無。従って絶対的理念を主張すること自体が「絶対的理念の行動」であり「絶対的否定性」の威力の下に支配される。

近世の思弁主義:「無」の「絶対的否定の威力」を知らないで「絶対的理念」の自己主張をなし、その否定の威力の餌食になって空無としての自己としか出会えない状態にある。

・否定の構造

アイロニー:一切を「むなしい」とすることによってその一切に自己倒壊を起こさせそれを「無」と化す「絶対的な否定性」の威力。

アイロニー的無:アイロニーが物の化のように出没しておどける死の静寂。

批判という営みの最も高次なものは文化批判であり、それは文化の中における人間の自己批判である。

・科学を考察する方法

1. 科学を人間の理性的な認識活動の所産としての理論的、体系的な知識と考えて、それの方法的側面や論理的側面を論理学的に考察する仕方。
2. 科学も人間の他の認識活動や更に精神活動と同じように社会の歴史的な所産として、つまり、社会的な実践活動、即ち、生産的な実践活動を基盤としかつ条件として発生し発展したものと考え、科学の在り方をそれぞれの時代における社会、技術、思想等の在り方との相互関係のもとに考察しようとする仕方。
3. 人間と科学の本性に相応しい科学の在り方と知識の在り方とを求める。
4. 現象学の立場。フッサールは、科学というものを、人間の精神活動から引き離して独立した方法技術のようなものとしては考えない。彼の極めて基本的な見解は、科学も哲学も「理性」の出来事として考える点にある。また彼は科学及び科学的思惟を、人間性の意識化の過程における1つの位相として捉えている。フッサールの方法は、科学を精神史の一様式として捉える精神史的方法に通じるものを持っている。

・近世科学の構造

近世科学の基本概念
 1. 秩序の概念
   プロノフスキー「科学は、世界は秩序だった存在であるという信念、もっと適切にいえば、世界は人間による排列によって秩序づけられるという信念とともに始まる」
 2. 原因の概念
   近代科学を決定付ける基本概念が「原因」(原因-結果)であることにより、近代のあらゆる学問を決定付ける基本概念は「必然性」であるということができる。ニュートンは、神学者の主張する第一原因と天文学者の記述とを折衷し、それによって原因の概念を形成し、これを決定的なものにした。中世では「原因-結果」の関係が世界の外に求められ、世界の外との関係で求められたのに対して、近世では、その関係が世界の中に。メカニズムの中に内在するものと考えられた。中世の神学的世界観では、神は世界の外にある(第一)原因であったが、ニュートンの近代科学では、世界が一個の機械になった時、原因はその機械に内在する神になった。この意味において、中世では、原因と結果は、いわば神の意志にようなものであったが、近世では、法則、因果法則を見出す源となった。
 3. 偶然の概念
   ライヘンバッハ「現代科学において、真理とは確率のことだ」

以上より
 1. 近世科学は、その誕生といい発展といい、神学のパターンに非常に強く依拠しているものであり、それなくしては近世科学の存立は考えられない。
 2. 近世科学の基本概念そのものが時代と共に大きな変化をしてきたこと、しかも現代科学においてはその基本概念が偶然という概念になったことは、少なくとも、科学というものは、通常我々がそれについて抱いている常識をはるかに裏切るような性格ではないという点にある。

従来は、科学と倫理、或いは、科学と思想等と関係を問題にする時、両者を全く別個のものとして扱い、接点のないまま両者を関係付けていたが、この科学哲学の成果を踏まえるならば、科学それ自身が思想を含んでいるのであるから、その接点がはっきり出てくると共に、これによってはじめて科学を正当に評価する仕方がとられることになる。

科学自身の本質を構成している世界観
・自然主義
・プラグマティズム

・科学の実論的意味

プロノフスキー
「18Cの体系家達の野望は、歴史や生物学や地質学、それに採鉱や紡績に対しても、数学的な決定性を課すことであった。科学をニュートンの場合のように数学的秩序と適合させようとする野心は全く僭越なことである。実際、数学的方法があらゆる科学の方法に相応しいと考えるべきいわれは全くない。」
「科学とは世界についての記述であり更に適切な言い方をするならば、科学とは世界を記述するためのことばなのである。」
→ プロノフスキーは、科学を、世界についての記述、世界を記述するためのことばとして性格付けた。

1. 科学は、世界を記述するための「ことば」であるだけでなく、文化の中において「ことば」である。
2. ヨーロッパ文化の中で、科学は、人々に「人間のことば」を語らせる働きをしている。科学とは「ことばの広場」。

ハッチンス
「西洋文化の本質は会話(或いは対話)であり、他の国の文化が他の意味でどんなに優れていようとも、この点では西洋文化に比肩できるものは他にない。他のどんな文化も、西洋の意味での対話こそがその文化を輪廓づける特色なのだ、と主張することはできない。西洋社会が目指して進んでいる目標は、対話の文化である。」

・近代進歩史観

 ホッブスの「万人の万人に対する闘争」をはじめとして、チェルゴは、歴史は理性によってではなく盲目的な情念や野心によって導かれているとし、この考え方はカントの「敵対関係」ないし「社会的非社会性」、ヘーゲルの「情欲劇」としての世界史に受け継がれている。

理性の狡智:ヘーゲルは世界史を、絶対精神の自己実現過程と見た。諸個人は、自分の欲望にしたがって生きているのであるが、その行為の結果は、人倫のつながりの中で、彼らが意図した以上のものを生み出すことになる。こうして絶対精神は、自分の欲望を満足させるために行為している諸個人を、彼らの思いを越えて、絶対精神自身の意図を実現する手段とする。

・マルクス

 キルケゴールは、神の眼(観察者)にとっては、世界史と倫理は同一であるが、実存する人間にとっては、両者は根本的に異質なものであるとする。

マルクスは、人間の活動(労働)を、対象的活動、つまり対象によって規定されつつ対象に働きかける活動と規定する。

エンゲルス「シュタルケンブルクへの手紙」1894
「人間はその歴史を自らつくるが、それは人間を条件付けている所与の環境においてである。」

・マルクス主義の展開

エンゲルス「フォイエルバッハ論」1894
「歴史は無数の個人意志の衝突から偶然によって支配されているようにみえるが、究極的には、無数の偶然を貫く一般法則によって支配されている。」

物象化:品形態において、人間自身の労働の社会的性格が、労働生産物そのものの対象的性格として反映せしめられ、その見かけ上完結した法則性のもとに、本来の人間関係が覆い隠されている、ということにある。

ルカーチの主張:プロレタリアートこそ、社会的、歴史的発展過程の主体-客体としての役割を果す立場に立つ。

・サルトル

サルトル「弁証法的理性批判」1960
「人間は、事物が人間によって媒介されているそのかぎりにおいて、事物によって媒介される。(弁証法的循環性)」

階級闘争こそ歴史の原動力である、とサルトルは主張する。

・メルロー=ポンティ

サルトルに欠けていたもの:メルロー=ポンティによれば、人間の主体性と歴史的社会的現実を媒介するものとしての身体である。

メルロー=ポンティにおいて、意識・身体・他者・事物は、「共存」の関係にある。
人間の社会的共存が存在するところに成立するのが、歴史の意味である。

メルロー=ポンティ「弁証法の冒険」1955
過去とは眼前にある光景にすぎず、それへの問いかけは我々に由来するのであって、それ故その答は、答を待って存在したわけではない歴史的現実を汲みつくすことなどは原理的にいってありえない、とする。

近代進歩史観の根本的問題性は、人間を抽象的個人に分解する近代思想における主観・客観の二元的問題設定にあるように思われる。

・進歩史観の構造

アウグスチヌスのキリスト教神学における特徴
 1. ユダヤ教は、人類の生存の時間に関し、極めてはっきりと、「始まり」(創造)と「終り」(最後の審判と永遠の救い、つまり神の国の到来)とを設定したこと。
 2. この「始まり」も「終り」も超越的意味のものであるため。この二点間を占める人類の生存の時間は、その超越的関係のもとでの「中間時」となること。
 3. しかしこの「中間時」は、本質的に「終り」へ向かっての行程であるため、この「中間時」は「終り」の方から意味付けられていること、即ち、この「中間時」は「神の国」へ向かっての突進として意味付けられていること。

人類の生存の時間を「中間時」として位置付け、それを「終り」の方から意味付けられる仕方であった。

ギリシア的思惟の特徴
 1. ギリシア的思惟のモデルは常に自然にあり、即ち、自然を眺め、そこに美しい調和のとれたコスモス(宇宙、世界)を見ていること、これが基本型をなしていた。このような態度と方法は、観照といわれた。
 2. このように自然を観照することを型としているギリシア的思惟には、それなりに独自のカテゴリーがその根本で働いている。

レヴィット
 「 神の国を実現したいという革命的な願いが、すべての進歩的な教養のバネとなり、近代史の始まりをなしている。」

・キリスト教的終末史観の本質

キリスト教的終末論の諸説
 1. 救済史を客観的に存在する歴史としてみなす立場。
 2. 徹底的に自由主義的な、そして倫理主義的な立場。
 3. 神の国はイエスの来臨によって、既に完全に実現されているとみる立場。
 4. 弁証法的神学の立場。
 → イエスの言葉と宣教の業の内に、永遠の現在化を見ている点において一致している。

キルケゴールは、永遠は時間とは異質のものであり、永遠は時間に対して垂直にかかわってくるものであることを見抜き、その質的弁証法的関係を捉えようとする。
「瞬間は、そこで時間と永遠とが互いに触れ合うところのある両義的なものである。」
「瞬間は、本来は、時間のアトムではなく、永遠のアトムである。瞬間は時間における永遠の最初の反映であり、いわば時間をくいとめようとする永遠の最初の試みである。」
瞬間が措定されることによってはじめて時間は時間性を、即ち、現在、過去、未来の区別を獲得する。
キルケゴールによるなら、瞬間の中で時間が時間性を獲得するが、その瞬間と共に歴史が始まるという。「自然は歴史をもたない。」「自然の安定性は、自然にとって時間が全く何の意味をももっていなかったことによっている。瞬間によってはじめての歴史が始る。

キルケゴール
 「精神が措定されるや否や、そこに瞬間がある。」

瞬間:精神として規定されている人間の根本問題としての自由の構造を、時間の言葉で表現したもの。

・進歩史観と終末史観の倫理性の問題

進歩史観に倫理性が認められない理由
 1. 進歩という概念は、自然史観の上に、即ち、必然性に基づいて、更にいうならば、時間の規定に即して形成されたものであること、要するに、「過ぎ去るもの」「終るもの」「ないもの」に即して形成されたものであること、従ってそれは終りへと向かって走ってゆくコースを内実としているものといってよい。とするならば、少なくともそこには生きる目的も意味も見出せない。従ってそのコースから倫理という名に値するものが引き出される筈がない。
 2. そこからはロゴスが引き出されるとしても、そのロゴスは、本質的に単一のロゴス(モノロゴス)であり、一本の河の流れを横から見ているようなもので、それは理性的認識の対象としてのみ意味をもつにすぎず、それについて語る理性のことばは、本質的にモノロゴス(独語)以外の何ものでもなくなる。

終末史観に倫理性が認めらる理由
 1. エスカントにおいてはじめてこの世の時間が単に「過ぎ去るもの」「終るもの」「ないもの」のままでなく、そのようなものとしての「意味」をもったものとして資格づけられると共に、それによって現在が基点として獲得され、それと共に過去と未来ができ、要するに、過去・現在・未来の時相ができ、「時間」として意味あるものとなる。
 2. 人間は、エスカントの瞬間においてはじめて「根源的なことば」(ロゴス)に出会う。

ディアロゴス:人間が、時間の終末性を語るエスカトンの根源的ことばをきき、時間規定から自由な人格的主体として応答するその対話関係を意味するものであり、これはすべての対話の原型である。ディアロゴスにのみ倫理が認められる。

終末史観に立つ場合は、倫理学は教義学によって基礎付けられるという関係をとる。

絶望:時間の終末性の意義を内実としているが、そこに発現する逆説的弁証法的なものは教義学的なものへの媒介者として働く。

 進歩史観の根源的批判をするためにはそれを成り立たせているこの「思惟の枠組」を根本から照らし出さなければならないが、それにはその光源をどこかに求めなければならないが、その光源として唯一の有効なものはキリスト教的終末史観であるということが明らかにされた。そしてこのキリスト教的終末史観にのみ倫理性が認められうることがつきとめられた。なぜかというに、ここにのみ人格的応答関係を根拠づける「ディアロゴス」(対話)の根源が認められうるからである。モノロゴスには論理しか認められない。ディアロゴスにのみ倫理が認められる。

・倫理学のモデルの問題

 モデルの検討は最も重要でかつ最大の急務となっている。
 倫理学が今日の危機的問題に真に有効に対応するには、単に新しい学説を考えだそうとしたり新しい気のきいた方法を用いようとしたりする程度では到底不可能であり、もっと根本的全面的に、即ち、倫理学の従来の「仕組」や「体制」そのものを根本から変えて、文字通り全く新しい仕組と体制で臨むのでなければ、どうにもならないところにきているという点にある。しかももう1つは、今日みる科学の驚異的な発達により、従来の倫理学を構成していた学問的条件や科学的条件そのものがすっかり変わってしまった点にある。

・モデルの意味

モデル:模型を意味する。

類比的思考:さまざまなレベルにおいて隠喩を使う思考。

理論的モデル:事実の説明をするための基本的なカテゴリーを提供する働きをするもので、要するに、その事実を「あたかも…であるかのように」或いは「…とみなして」説明してみる試案のようなものを指す。科学的説明が行われる際に、それの理論的原型となるようなもののこと。

K・E・ボールディング
「通俗的知識と科学的知識の本質的相違点は、通俗的知識が、その推論を経験的観察から引き出すのに反して、科学的知識は、その推論を理論的モデルおよび必然的結合から引き出すというところにある。ヒュームの言葉を借りるなら、通俗的知識が主として恒常的結合に関心をもつのに反して、科学的知識は必然的結合に関心をもつということになる。」

パラダイム:大きいスケールの独創的な理論的モデル(クーン)。

クーン
「…物理光学のパラダイムが変ることは、科学革命である。1つのパラダイムから他のパラダイムへ、革命を通じて段階的に移行してゆくことは、成熟した科学の発展の普通の型である。」

 理論的モデルには非常にスケールの大きい極めて独創的なものが考えられ、古いモデルがそのような新しいモデルへと変化することは、その科学の革命を意味する程に大きな出来事である。今日のように全く新しい時代の全く新しい事態に、しかも科学的条件そのものも大きく変ってきた状況のもとで一つの科学が十分に対応するためには、単なる新しい1つの理論とか方法をあみ出すくらいでは全く不可能なのであって、その科学そのものが全く新しい型のものへと根本的に変らなければならないということ、しかしそれには我々は、その科学が今までそれに則っていた古い理論的モデルを見抜き、それに代る新しい理論的モデルを探究して、それに基づいてその科学を再構築しなければならないのではないか。

・今までの倫理学の科学的モデル

考えられうる最も高次のそして最も意味深い理論的モデル:複数個の科学で成り立っているモデル。

多くの倫理学は、それらが採用する方法や主張する学説においてはそれぞれ非常に異なっているが、モデルとしてはそれらの殆どがカント倫理学に基づいている。

カント倫理学を構成している2つのモデル
 1. 神学的形而上学
 2. ニュートンの自然哲学

カント以後今日に至るまでの殆どすべての倫理学がこの「カント倫理学」をモデルにしたものだとするなら、それらは結局「物理学」をモデルにしたものということができる。

フッサールの見解
あらゆる科学が本質的には物理学でしかないため、それらにおいては、人生や歴史や文化等の目的や意義を問題にすることが本質的原理的にできなくなっているとなし、ここに危機の象徴をみた。

物理学に規定されているということ
 1. その学問は主観-客観の分裂を前提とした構図に立って対象を客体化し物体化して認識することを思考の基本的な方法とするようなものになるため、それによって対象の一切が物体化されると共に、主観(人間)はそれとは無関係な所に離れて位置を占めるようになる。
 2. その学問は因果の図式に縛られ、物的概念への還元主義に落ち込んでしまう。
 3. その学問は自らを結局は「法則」追求の科学へと限定してしまう。

最も重要なことは、この学問的枠組そのものを根本から変えて全く新しい体制の倫理学を求めること。

・新しい科学的モデルの条件

新しい科学的モデル
 1. 科学そのものの驚異的な発達により、時代の科学的条件がすっかり変ってしまったので、この新しい科学的条件に即してそれが求められるべきだとう点。
 2. 新しい科学的条件のもとで、既に新しい科学的モデルへの変換の試みがあったかどうか、もしあったならその試みは有力な手掛りになるという点。

科学的モデルの基本的な条件
 1. 科学は根源的に「生を愛する意志」(生の倫理)の上に基礎付けられるべきもの。
 2. 科学は、思考と知識の固定的な枠組を決定するものではなく、思考と知識の生化と有機化を不断に促進することを本質とすべきもの。

オリエンテイション:人間の意識または精神の根底でその人間の思想や在り方を根源的に規定してしまっている性向のようなもののこと。(フロム)

ネクロフィリアのオリエンテイション
:生ではなく、死が価値をなし、死が興奮をさせ満足を与えるような人。ex.ヒットラー、スターリン。

フロム
 「ネクロフィラスな人間は、過去に住んで未来には住まない。彼らは昨日までもっていた感情、或いは持っていたように信じている感情の記憶を心に抱いている。彼らは法と秩序の冷淡な信奉者である。ネクロフィラスな人の特徴は、力に対するその人の姿勢である。シモーヌヴェイユの定義によれば、力とは人間を屍体に変貌させる能力であるという、性欲が生を創造しうるように、力は生を破壊しうる。人間の力にはすべて、煎じつめると殺人への物理的な力がその根底にある。私がある人を殺さず、その自由を奪うだけであったとしよう。だが何であれ、私のこれらの行為の背後には、殺しうる可能性をもつ力と、殺すことに喜びを感ずる気持ちが必ず存在する。死を愛する者は必然的に力を愛する。彼にとっては、人間の最大の目的は、生を付与することではなくて、生を破壊することであり、力の使用は、環境により強制された一時的行為ではなくて-それ自身生きる道になっているのである。」

バイオフィリアのオリエンテイション
:自分が、進歩と飛躍と創造を本質とする「生」の躍動の真只中にいることの実感をもち、この地上の生きとし生けるあらゆるものに、その同じ「生」の躍動を見ることができ、「生」と「生の喜び」にひきつけられている傾向性を指す。

シュヴァイツアー「文化と倫理」
 「人間の意識の最も直接的な事実は「私は、生きんとする生命にとりかこまれた生きんとする生命である」という事である。これは頭で考えだされた命題ではない。日々、時々刻々に、私はそのなかを歩んでいる。」

・新しい科学的モデルの基礎

 フッサールは、近世諸科学の目覚ましい発達について、それらはすべて本質的に物理学になっており、そこに実証主義の支配と哲学的基礎の排除が起っていることをみてとった。そしてここにヨーロッパ的人間性(=人間を永遠にして絶対的価値をもつ理性的存在としての神に対応する理性的存在とみる立場からみたその人間性)の危機の象徴をみた。そこで彼は、それら諸科学に哲学的基礎を与えることこそが現代の危機を救う根本課題であるとした。

 フッサールは、カントの哲学を先験的哲学となし、カントがそれにおいて科学的認識の、そしてそれの客観的意味の発生の「前提」として、つまり、そこから存在する世界を意味形象ならびに妥当形象として形成するその意味の発生の根源として、主観性の先験的根拠を求めていった仕方を、要するにカントが科学的認識とそれによって与えられる客観的意味の発生の根拠を主観における「先験的なもの」に求めていった仕方を高く評価し、その仕方を更に徹底的化させて深く推し進めることを自らの現象学的還元の方法の根幹とした。

 現象学は、還元の運動の全体を「理性」のことがら、つまり、理性がそれ自らの完全な自覚に達するよいういわば理性の全く自由な能作となしている。

 思考の自由の問題は、その根底においては、実存或いは精神の自由の問題と関係している。

第一哲学:形而上学を前提とした哲学、その原理が人間精神に内在しており、要するに、「内在」(=想起)を本質としたところの哲学

第二哲学:教義学を前提とした哲学、その原理が人間精神に超越しており、要するに、「超越」(=反復)を本質とするところの哲学。

キルケゴール
 「内在的な学問が形而上学と共に始るように、新しい学問は教養学と共に始る。」

 キルケゴールの見解は、倫理学が「現実性」(人間存在の現実としての罪、原罪)を認めてそれから出発するのかどうかによって「第一倫理学」と「第二倫理学」とに分れるというのであり、彼自身は、倫理学の真にあるべき在り方として後者を提唱している。

 
この新しい時代の問題に倫理学が対応するためには、倫理学の学問的枠組そのものがそれに相応しいものへと根本から変らなければならないが、それがためには倫理学が新しい科学的モデルに基かれなければならない。そしてその新しい科学的モデルの探究は、科学が真に「科学」であるための条件の究明に即して行われる。即ち、科学が真に「科学」としての在り方をするためには、科学的思考がバイオフィリアのオリエンテイションに基づき、その方向で思考と知識の生化と有機化が行われ、つまり、科学的思考が人類の生存の目的実現のために無限に自由に開かれて働かなければならない。しかしそれがためには、その基礎に理性が完全なる自覚に到達するという理性の自由の働きがなければならないが、それが可能となるためにはその根底に実存域或いは精神の自由の問題があり、この問題を真に扱うことができるのは「第二倫理学」のみである。つまり、この第二倫理学」こそが倫理学を真に「倫理学」たらしめ、そのことによって哲学を真に「哲学」たらしめ、そのことによって科学を真に「科学」たらしめることができるからである。従って倫理学の新しい科学的モデルは、いわゆる新しい個別科学の何かに制約されることによってつくられるのではなく、少なくとも究極的には、最も古い、いや、古いという以上に古い天地創造の始源における人類の永遠に変ることのない永遠に生き生きとした原体験の「瞬間」にこそ求められるべきものといえよう。

・実存の概念

実存:私の意識

キルケゴール
 「人間は、人生の果実をみのらせるためには、その人の本来属している土壌に移植されなければならない。しかしその土壌はすぐに見つかるとは限らない。」

二種類の人間(キルケゴール)
 1. 一定の方向に向うはっきりとした傾向をもっていて、ひとたび踏み出した道を心静かに歩んでゆくところの内的な絶対命令を持った人。
 2. 外的な環境の導くがままにすっかり身を委ねきって、どっちへ行ったらよいのかわからない人。

大谷愛人「続キルケゴール青年時代の研究」.
 「私にほんとうに欠けているものは、私は何をすべきか、ということについて私自身はっきりわかっていないことなのだ…私に欠けているものは、決して、私は何を認識すべきか、ということについての理解ではない-いかなる行為にも認識が先だたねばならぬということは言うまでもないとしても、つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが重要なのだ。すなわち、神はこの私が何をなすべきことを欲しておられるのが、これを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、…私がそれがために生き、そして死ぬことを心から願うようなイデーを見出すことが必要なのだ。…そのようにしてこそ私は、私の思想の展開を、決して私自身のものではないものの上にではないものの上にではばく、…私の存在の根の最深部とつながっているものの上に、それによって私が神的なもののなかにいわば根をおろしており、たとえ全世界が崩れおちようとも、それにしっかりつながって離れることのあり得ないものの上に、基礎づけることができるのである。…真理とは、イデーのために生きること以外の何であろうか?」

キルケゴール「不安の概念」1844
 「人間とは心霊的なものと身体的なものとの綜合である。けれども、綜合ということは、それら2つのものがある第三者において統一されるのでなければ考えられない。この第三者が精神である。」

S.Kierkegaard: Sygdommen til Dφden. (S.V.XI),S.143.
 「人間は精神である。しかし、精神とは何か?精神とは自己である。しからば、自己とは何か?自己とは、一つの関係のことであって、つまり、関係それ自らへと関係してゆく関係のことである。あるいは、その関係において、その関係がそれ自らへと関係するということ、そのことである。自己とは、関係そのものではなくて、関係がそれ自らに関係するということなのである。人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然性との綜合、つまり一つの綜合である。綜合というのは、二つのもののあいだの関係である。二つのもののあいだの関係にあっては、その関係自体は消極的統一としての第三者である。そしてそれら二つのものは、その関係に関係するのであり、その関係においてその関係にしかすぎない。これに反して、その関係がそれ自らへと関係するそのような関係、即ち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それともある他者によって措定されたのであるか、そのいづれかでなければならない。それ自らへと関係する関係が他者によって措定されたのであるならば、その関係はもちろん第三者である。しかしこの関係、即ち第三者は、やはりまたひとつの関係であって、その関係全体を措定したものに関係しているのである。このような派生的な、措定された関係が人間の自己なのであって、それは、関係それ自らへと関係する関係であるとともに、それ自らへと関係することにおいて、他者に関係するところの関係なのである。」

サルトル
 「実存は本質に先立つ」
本質:キリスト教、特にカトリック・キリスト教の人間観。

サルトル
 「人間は存在するのではない。人間は実存する。」
 人間とは、自分の存在において、自分の存在が問題となるような存在である。」
 ものは、自らの存在を問うという在り方をしていない。このような在り方をするのは人間の特徴である。

対自存在の在り方が実存の姿であり、サルトルは自由と呼んでいる。

サルトル
 「自由であるとは自由であるように呪われていることである。人間は自由であるように呪われているのだ。」

実存の概念
 1. 実存という概念は、他の何もののことでもなくまた他の誰のことでもなく、人間としてのこの「私の意識」「我ここにあり」の意識の真実そのもののことである。それは「私」の一回性、無代替性を意味する。
 2. 実存という概念は、人間特有の在り方を意味し、つまり、人間は、自らの存在(自己)を選びそれに自らを賭ける自由をもっているということ、従って、他の動物と異なって、自己を企て、自己創造的であるということ。

・実存問題と時代的環境

 実存の考え方は危機の意識と結びついている。

危機意識の4つの時期
 第1の時期:キルケゴール同時代とその直後にあたる19C後半。キリスト教の衰退、ニヒリズムの支配
 第2の時期:第一次大戦後。ヨーロッパ文化の衰退
 第3の時期:第二次世界大戦後から1960年代。大衆の出現
 第4の時期:1960年代後半から現在を通っている時期。情報社会、科学技術の支配

 今日というこの時期に実存の問題を考えるには、この生態学的危機の問題を責任倫理の問題として引受け、その近世の原理に代る新しい「原理」を求めることを通じて、この危機に真に立ち向うことのできる新しい「主体」の誕生を追求することこそ課題とするのでなければならない。

・他者の問題

E・ムーニエ「実存主義案内」
 「他人の問題は、実存哲学の最も偉大な業績の1つである。古典哲学は、まことに不可解なことに、この問題を遺棄したままでありつづけた、古典哲学の第一線級に属する諸問題を数えあげてみるがよい。-つまり、知識、外的世界、自我、魂と肉体、物質、精神、神、来世が即ちこれにあたる。-ところがこれに対して、他人との関係という問題は、他の問題と決して同列には呈示されていないのである。実存主義はこの問題を一躍第一線級の中心問題に押し上げた。」

・他者という言葉

実存哲学者の「他者」
 1. 他人を意味し、他人との関係が究明された。
 2. 絶対他者としての意味で、いわば神を意味し、神との関係が究明された。

・実存哲学の立場からの諸学説

ロバート・G・オルソン「実存主義入門」1966
 「20世紀の人間の最も注目すべき特質の1つは、人間関係の問題にますます心を奪われつつあるということである。人々が神を見棄てた程度において、彼らはお互いを頼りにするようになっている。…20世紀よりずっと前に、多くの思想家たちは人間関係を強調した。例えば、アリストテレスは、人間は本性上社会的動物であると言明した。また19世紀のヒューマニストはそれと同じことを一層強調した。けれども一般に哲学者の人間に対する関心は、永遠の対象に対する関心ほどには大きくなかった。それはアリストテレスについてさえ本当であった。更に哲学者は、人間関係という問題に着目することはめったになかった。伝統的哲学者は、殆ど必ず、理想的な人間関係を調和的なものとみなし、また殆どつねに、個々人の間の調和的人間関係を実現する可能性をかなり強く信じていた。これに反して20世紀の思想家は、理想的な人間関係を、調和的なものと考えていない。もしくは、そうした人間関係を実現する可能性に対する信念を、アリストテレスやヒューマニストと分け持ってはいない。」

他者の問題についての実存思想家達の考え方の問題点 → 彼らの思想は心理学と精神医学に寄与した
 1. 実存という問題は、たとえひとまずでも孤独的な存在として扱われ位置付けられた実存から出発して、そこから他者との関係をつけようとする時、それは必ず不成功に終る。
 2. 実存思想家達は、実存と他者の関係の問題は、その問題の立て方を根本的に変えることを示した。
 3. 他者との関係は、もしそれが単に他人との関係だけであるなら、即ち、単に社会や人類との関係だけを意味するなら、その関係のもとで実存しようとする者は必ずや行詰まりと挫折に終るということ、他者との関係の真の構造はそのような水平の関係項に対して、垂直の方向との関係項をも含んで成り立っているものであるということができる。

他者の問題に関し、現在そぐわない点
 1. ブーバーの場合を除いて、社会科学の問題が殆ど扱われていないこと。
 2. 実存思想を成り立たせている思考の枠組、或いは、思考図型の問題。

・現象学の立場からの見方

フッサール現象学があげた画期的な功績
 1. 存在するものを精神と身体という2つの実体とみなしたデカルト以来の近世ヨーロッパの二元論に関して、フッサールはこの見解の原因を、形而上学の次元で問題にしたのではなく、むしろ近世哲学の思想に先立ちそれの前提として働いていることによってそれをすっかり規定していた近世科学の方法それ自身のうちにみたことがあげられる。
 2. フッサールは、身体を主観性の標識と考えたことがあげられる。
 3. フッサールは、この身体の主観性を介して、他者についての経験を、感情移入または代理表出の方法として解明していることがあげられる。

フッサールにおいては、その自我は、精神の領域では、「人格」と呼ばれる。
人格:周囲世界の中心にあって周囲世界を「自分に向き合って」もつことによって、それの関心に生きる志向的主観性のこと。

相互主観性、或いは、間主観性は、共同主観性ともいわれ、一個の主観、即ち、個々の主観を越えて多数の主観に共通し、共通に成り立つということを意味している。

社会及び社会体制に存在するアプリオリの基礎
 1. 人間の個人の本質は、実存的にみるなら自己創造にあるといえるが、この個人の本質は、社会的な構造の具現化をするものであること、つまり、個人は、本質的に、仲間(他者)と関係しており、従って本質的に互いに社会的存在として社会の構造を創造するものである。
 2. 従ってまた、彼らが創り出す社会の型は、相互依存という様式に依拠しているものである。
 3. 人間の社会制度というものは、外部から課せられることによってできるのではなく、個人の最も深い本質の表れであるということ、従って社会形態は、正にそれ自身の意味を、社会がそこから生じた筈の人間関係の型から、そして究極的には、個々人の人間的な自己表現の型から、取っているということである。

フッサール現象学が社会科学の基礎づけに寄与しうる点
 1. すべての科学が、その基礎において、我々の生活世界の根源的領域に関係付けられている。
 2. この生活世界は相互主観性の世界だという点。

・世界の問題

現象学の特色:他者の問題をこの「世界」との関係で考察した。

・世界という言葉

ヘラクレイトス
 「目ざめている者には1つの共通なコスモスがあるが、眠っている時には、各自はそれぞれ、それに背をむけて、自分だけのコスモスにおもむく」

・世界像

 ハイデガーは、近世を、世界像の時代と称した。即ち、近世という時代は、自然科学が支配的な力を持ってしまったので、世界を「像」として捉えることを本質特徴とする時代になった。言い換えれば、「世界」が「像」になった。
 ハイデガーによるなら世界が像になるということは、世界を表象するということであり、この表象ということは、世界を「自分の向こうへとそして向こうから自分の方へと立てること」である。
 世界が像となり
、人間は主観となることによって、ここに主観と客観の分裂が起る。このことにおいて3つの重要な事態が起った。
 1. 世界は、人間にとって支配され征服されたものに、つまり、完全に人間の処理に任されるものになってしまったこと。
 2. 人間は、そのことによって、主観となって、世界に向かって、ますます威上高にそびえたたつものになり、その高みから世界を前方に見下ろすものになった。
 3. このようにして世界は、人間から「向こう側」に行ってしまった。つまり、その中に人間が住っていることにおいて世界と呼ばれてきたものを、近世科学は、人間にとって「向こう側に」創ったのである。

・世界観

 哲学者は、「世界」を、何とかして「こちら側に」取り戻したいという動機が強烈に働いていた。この様な状況のもとで、19C末から20C前半にかけて、哲学には、世界についての根源的で統一的な見方を確立することを主たる任務にするものが多数あらわれた。即ち、その時世界観という言葉が極めて重要な意味を持って使われたのである。
 世界観は、人生観を意味し、そのまま人間学へと変貌する性格を蔵していた。

多くの世界観の形成の努力が、結局は所期の目的を裏切ることになった理由
 1. 哲学が、自分では自然科学の方法を批判したつもりであり、かつそれとは異なった独自の方法に則っているつもりでいたが、実際はそのつもりに反して自然科学の方法に徹底的に規定されていた為。
 2.哲学は、自然科学の方法の根底をなしている精神領域の問題に、即ち、自然や世界に対する人間の根本的態度の問題に、更に広くいうならば、自然科学そのものの根底をなしている人間の意識の在り方の問題に、全く注意を向けなかった為。
→ 哲学も、その動機においては、世界を「向こう側に」ある状態から「こちら側に」取り戻そうとしたが、結果的には、自然科学と同じように「向こう側に」立たせてしまった。

・世界

 現象学の偉大な功績の1つは、哲学を普遍的理性哲学にさせてゆくその試みの過程で、近世科学の実に徹底した根源的批判を行ったが、その際、近世科学が、そこから生まれ、それとの関係においてのみ意味を持っている筈の「世界」(生活世界)との関係を失ってしまっている事態をつきとめ、この「世界」の回復を図ろうとした点にある。

「世界」という語で呼ばれるものの性格
 1. 世界は、経験の地平、つまり、経験の地平現象である。
 2. 世界は、それに対して人間が「なれなれしさ」と「よそよそしさ」との感情を同時的にもっている周囲領域として、我々にあらわれているものである。
 3. 世界は、意味連関の全体系を含蓄している領域である。
  ハイデガーは、人間の現存在の本質的な構造を、世界-内-存在という言葉で現した。
 4. 世界は、「投げられたものでありながら企てられたもの」としての性格をもっている。
 5. その中に自己がそして他者が、即ち、人間が住まっているところの「住まい」のようなものである。

「世界」とは、要するに、「意味」世界ということになる。

・言語の問題

近年の倫理学研究に見られる著しい特徴の1つは、言語と倫理との関係の問題を盛んに取り上げている点である。
究極的には「意味」の問題を介して「世界」の問題とかかわっている点に特徴がある。

・分析哲学の立場

 哲学に関する論争がたえないのは、哲学者達が自分ではよく知っているつもりでいるが、実際には何の意味ももたないあらゆる種類の無意味にして曖昧な表現を用いているからで、そのようなものによる哲学的言明は、文字通り無意味でわけのわからないおしゃべりになってしまっていることによる。従って真なる有意味の知識を虚偽で無意味な知識から区別しなければならないが、それには何らかのテストが必要であるが、このテストを可能にするものが検証原理だという。その原理とは、ある文章が意味をもつのは、それが原則として経験的に確証可能な場合に限られる。

分析哲学の2つの潮流
 1. 論理実証主義の影響を強く受けて、科学的実験の言葉の代わりに事実的経験の言葉で翻訳しようとする流れ
 2. 人間の言語と経験の豊かさを大きく評価し、人間経験の全体を受け入れ、それを偏見なしに解釈しようとする流れ

ソシュールの言語本質論
 1. ソシュールは、言語を、ラング(言語、国語)とパロール(言、言葉)の2つに区別して考えた。
   ラング:或る社会に固有の言語習慣の全体系のこと。
   パロール:個人による言語の行使
 2. ソシュールは、言語を、時間と共に変遷するものとみている。
   共時的言語学:同一集団の言語を共存的諸事項の体系として考察する研究。
  通時的言語学:言語体系の継起的変遷を考察しようとする研究。
、 ソシュールの大きな功績は、通時的研究が支配的であった19Cの傾向に対して、共時的研究を強調した点にある、
 3. ソシュールは、言語の内的構造の考察において、言語は内的に有機的に統一された全体であるということを示した。
 → ソシュールの言語学上の功績は、ラングの研究の重視と共時的言語論とその内的構造論とにある。

・現実学的実存哲学の立場

言語に不可欠な構成要素(フッサール)
1. 表現の働き、それに意味を付与しようとする志向。
2. そしてこのような心理的な意味を付与された形成体と客観的な外界との関係における記号化。

 ハイデガーは「語る」という行為を、了解、解釈、陣述という関係のもとで考察しているが、この説明を通じて、ハイデガーが示している決定的な事柄は、「意味」は、解釈の一つの派生的形態としての「陣述」において表現しつくされるものではなく、また、言語形式としての「陣述」は、「語る」という行為のすべてをつくすものではない、という点を示したことである。

ハイデガー
「沈黙は語ることを様相として、現存在の了解性を根源的に分節するから、本当の聴く可能性と透明な相互存在がそこから生れてくる。」

・モノロゴスとディアロゴス

モノロゴス:独語(モノローグ)。自分自身と語ったり、ひとりごとを言ったりすることで、他者とのコミュニケーションの意図をもたずに或いは、他者とのコミュニケーションという状況なく発せられるいわば非社会的な言述。
1. 4歳か5歳ぐらいの幼児の集団内独語現象。ピアジェは、これを、児童の自己中心性を示す指標の1つと考えている。
2. 分裂病者の独語。
3. 正常な大人の独語現象。
モノローグの特徴は、他人とのコミュニケーションが成立していない点にある。またモノローグとは、本質的に閉じた言葉のことで、それを語る者も、その語りが交わされる相手も、その精神状態が閉鎖的になり、自由を失った状態になり、閉じた人間関係になるような言葉。
ディアロゴス:対話(ディアローグ)
1. 表現の働き、それに意味を付与しようとする志向。
2. そしてこのような心理的な意味を付与された形成体と客観的な外界との関係における記号化。
ディアローグとは、本質的に開かれた言葉のことで、それを語る方も語られる方も、精神が開かれ、自由な人格的関係になるような言葉。またディアローグとは、根源語を真実に語っているかどうかにかかっている。
根源語:一般には、言葉の基本を意味し、即ち、それ以上分析を許さない究極的要素、つまり、個々の語の語根や、合成語の根幹語等を意味する。

ブーバー
 「言葉による話しは、恐らく、はじめは人間の頭の中で言葉のかたちをとり、次にのどから音声となって出るのであろう。しかし、両者ともただ真の事実の切れはしにしかすぎない。なぜなら、実際には言う言葉は、人間のうちに内在しているのではなく、人間が言葉のなかにあり、そこから語りかけるからである」

 ブーバーは、人間の言葉がすべてそこから由来するより根源的な言葉を、ヘブライ精神の伝統に基づき、「神の言」と同義的に理解していた。
ものに帰属する「語る」という行為を、了解、解釈、陣述という関係のもとで考察しているが、この説明を通じて、ハイデガーが示している決定的な事柄は、「意味」は、解釈の一つの派生的形態としての「陣述」において表現しつくされるものではなく、また、言語形式としての「陣述」は、「語る」という行為のすべてをつくすものではない、という点を示したことである。

ブーバー
 「言葉は、ユダヤ精神においては、人間や世界の存在を越える出来事として認められている。ロゴスの理念が静的であるのに対して、ここでは言葉は全く動的な出来事としてあらわれる。神の創造の働きが言である。」

ブーバーは、人間がその存在のはじめより対話的・応答的存在構造を持つものとして創造したと考えている。

 真の言葉といえるもの、言葉中の言葉は、ディアローグだということ。ディアローグとは、神聖な根源語「我-永遠の汝」という原型の上に根源後「我-汝」の関係そのものが語られることで、そこにのみ成立する対話的・応答的関係のことだということ。そしてこのような観点に立つ時、形の上ではどんなに倫理的、或いは倫理学的名辞が語られる限りにおいてのみ、そこに「倫理」があるということが真実なこととして了解される。なぜなら、ディアローグのみが、自由な絶対的独立存在としての「人格」の相互主体的関係を内実とするからである。

 今日は情報化時代と呼ばれることでも明らかなように、自分の周囲に巨大な洪水のように氾濫している情報が、例えば、テレビや新聞や雑誌等々に見られる言葉や、街頭の演説や会議での言述が、外見はどんなに解り易くあらわされていようと、本質的にはモノローグではないかということが気付いてくる。そしてもしそうだとするならそのようなモノローグが何万何億発せられようと、そこでは人格的関係性が原理的本質的に排除されているのふぁから、それは死せる文字と単なる音響以外の何ものでもなく、そこには本質的に「倫理」は息づいていないことになる。そこでこの事から逆に「倫理」が息づくためには、どうしても「 ディアローグの世界」が成立していなければならないということが解ってくる。

・自然観をめぐっての1つの誤解

ギリシア的自然観の特徴
 人間を、自然をあらわす語ピュシスの一部として、更には、ピュシスの中にあるものとしてみた。

同質的親縁連続の関係
 ギリシアの自然(ピュシス)の中には、自然、人間、神が一緒には入って内的関係をもっていた。

ヘブライ的自然観
 ユダヤ教ならびにキリスト教の自然観として生きるているもの。

生態学についての批判的な見解
 1. 生態学は、結局のところ人間を生物の一員にみたててしまう。
 2. 生態学が我々に示してくれるのは、いわゆる「生き残りの科学」であり、つまり「生き残ること」だけである。

新しい科学としての生態学の意義
 1. 生態学は、我々に、自然が、人間の頭脳では到底考えられない程精巧微妙なる生態系のバランスから成っているものであることを具体的に示してくれることによって、自然の神秘を素直に感じることのできる感覚を回復させてくれる。自然のままなる感覚
 2. 生態学は、近世人としての我々が、ものごとを論理的、或いは、科学的に考えようとする時、それと知らずにもはや習慣のように物理学的モデルに則ってしまっている状態に対し、生物学的モデルに則って考えるよう促す働きをすることによって、我々の思考を、その本質に相応しく、より自由に、より柔軟に、より有機的に働かせることを迫るものである。自由な思考
 3. 生態学は、我々に、生物の中の最大の敵、極悪のバクテリア、V・R・ポッダーの言葉によるなら、「地球自身の癌」は人間であることを教えてくれることによって、我々人間が真に謙虚になるよう働きかけてくれる。謙虚な精神
 4. 生態学は、我々に、この地球上の生態系の存続か絶滅かの如何をきめるものは、我々人間自身の掌中にあることを教えてくれることによって、我々人間が真に責任の主体であることに目覚ましてくれる。主体的責任

・ハイデガーの示唆

 ハイデガーは、この「世界」を、人間が自然の中に家を建てそこに住まうという営みになぞらえ、人間が存在してゆくにあたっての基本的な様態としての「建てる」と「住まう」という営みが、その根源的な意味においてなされる場として、考えている。即ち、ハイデガーは、「言葉は存在の住まいである」という前提に立ち、「建てる」という営みと「住まう」という営みの本来の意味を、それぞれの言葉の語源ならびに古代的な用法の説明を通じて、明らかにしてゆき、それを通じて「世界」の内実を明らかにしてゆく。そこでは、地と天、神的なものと死すべきものというこの4つのものは、根源的に統一性をもった1つのものなのとしている。「住まう」ということ、つまり「四辺形を四重の仕方で大事にすること」は、大地を救うことにおいて、天を天として受け取ることにおいて、神的なものを待つことにおいて、人間が死すべきものとして自らの本質を導くことにおいて、なされる。人間が人間として生存するということは、「地球を救う」ということであること、つまり、地球の生存そのものへの全責任をもつこと以外の何ものでもないことを指摘している。しかもそのことは、それだけが独立して営まれる性格のものではなく、他の3つのことが一緒に関係してきていること、即ち、あの四辺形がその本質を四重の仕方で保持されてゆくことである。ハイデガーの存在の言語、実存の言語は、それ自体モノロゴスである。けれどもそのモノロゴスはそのなかに、根源語のディアロゴスを反響させているところに、その卓越した特徴がある。

・新約の倫理

 旧約は律法を、新約は福音を意味するものであるということ、律法は神の「義」の現れであり、福音は神の「愛」の現れであること、律法は神の義であるから絶対的に徹底的に実行しなければならないが、それだけのレベルで自らの徹底をはかると必ず自己倒壊になること、つまり、自己否定に終ること、従って律法は福音のなかでのみ成就をされる。つまり、旧約の実現は旧約のレベルでは不可能であること、旧約は新約のレベルにおいてはじめて真の成就をみる。従って旧約聖書の意味は、新約聖書を読むことにおいてはじめて、理解されうるものであるといえる。新約聖書の光をあてることによって旧約聖書の真に意味するものが、その生命が蘇ってくるのである。永遠なるものは、永遠なる真理は、従って永遠なるものの愛は、この時間の世界においては、「逆説」としてしか現われようがない。
 万物は生きとし生けるすべてのものは、それがどんなにか弱い動物であっても生存する以上は「支配の原理」においてこそ生存している。しかし「人間」だけは「仕える原理」に生きることを神から命ぜられている。これこそが天地創造の瞬間を記したあの「創世記」の真の意味である。
 ハイデガーは「建てる住まう思考する」という営みを通じて、宇宙における人間の位置を示していった。

 世界観の形成という営みにおいて根本的な事項となる「宇宙における人間の位置」という問題に対する解答は「新約の倫理」の中に求められることが明らかになった。「新約の倫理」は、我々に真の「自由」ということを教え、その自由なる主体となった者は「愛」の倫理を生きることを教える。そのことの根源的了解は、我々を、天地創造の始源における人類の代表の原体験の「瞬間」に、同時的に立たせる。それは自由と合いの絶対的逆説の原体験であり、それにおいては、「支配する」ことでなく「仕える」ことが、宇宙万物と人類の進歩のための根本原理であり、根本的価値であることが了解される。そしてこのような主体によってのみ宇宙や自然や事物が真に意味付けられるであろう。

・価値研究の歴史と今日の設問

 古代及び中世においては、価値は存在の概念の中に含まれていた。ところが近世に入ると事態はすっかり変ってしまった。価値は、存在の概念から切り離されて、考えられるようになった。このような事態の決定的要因をなしたものは、自然科学の出現である。

・事実と価値

近年の倫理学が事実と価値の関係の問題を主題的に扱うことになった理由
 1.19C以来の科学主義の延長線上のことであるが、20Cにおいてもますます発達する自然科学とその科学主義的風潮が挙げられる。
 2. 社会科学の発達
 3. 分析哲学ならびに科学哲学の誕生は、科学の基礎の問題として、事実認識と価値判断の関係の問題

 根本的に問題になっていることがらは、「事実から価値が導き出せる」という自然主義と「価値は事実から導き出せない」という考え方との真向からの対立であった。

自然主義に対する反対の見解
 1. G・E・ムーアの「自然主義の誤り」の批判にみられる直覚主義擁護の流れ
 2. 何人かのカント主義者の流れ
 3. 現代分析哲学の価値情緒説も立場にたつ人々
 4. 現象学派の流れ

自然主義に反対する理由
 1. 事実を求める方法や論理と価値を求める方法や論理とは本質的に異なることを主張している点
 2. 価値の領域を情緒の領域に求めている点

 事実から価値が導き出せるかとか、価値は情緒的なものであるかとか、価値には独自の領域があるかという問題に関し、そしてまた、科学的情報は倫理的命題たりうるかという問題に関し、価値の問題は、この「逆説」との出会いを通じてという仕方以外では、問題にしえないものである。

・価値の相対性と絶対性

古代やとりわけ中世は、絶対主義が支配的であり、近世は、相対主義的傾向が強いといえる。

20Cにおいて価値の相対性と絶対性の問題が重要な課題になった背景
 
1. 科学技術の驚異的な発達と自然主義的な考え方の支配により、価値の超自然的根拠を認める考え方はおよそ空無ででもあるかのようなムードが一般的になってしまっている状況
 2. 社会の新事態、即ち、大衆社会、情報化社会等の出現により、人々の価値判断とその表明の様式は、多様化をみせ、どんなに価値の絶対性を主張してみても、それ自体が相対的立場たらざるをえないような状況
 3. ここ2C程は、新社会の建設、例えば、市民社会、社会主義社会等々の建設に忙しかった時代であるが、これらの建設をめぐって、理念と現実との格差が大きな問題としてクローズアップされ、理念と現実とは相反の関係にすらなることが経験されてきた状況

・新しい価値の創造という問題について

アイロニー:皮肉

 キルケゴールは、アイロニーを、世界史の中で主体性が登場してくる時の出現形態として捉え、つまり、話法の形式としてでなく、実存の形式として捉えた。

アイロニーの本質特徴
 
1. アイロニーは、無限にして絶対的な否定性の立場である。
 2. アイロニーは、主体性の規定であり、主体が否定的自由を、即ち、「現実」全体を否定することによって得られる自由を楽しむ立場
 3. アイロニーは、優越性を本質としており、それは優越的な、或いは、優越感的な笑いの立場

 アイロニーの立場とは、自我が、主体的に成ろうとして、現実全体に対して優越的な笑いの立場から、その現実全体の「むなしさ」を無限にして絶対的に否定することによって、自らの主体性、主体的自由をたのしむ立場といえる。従って、結局は「絶対的な自己主張による絶対的な他者否定の立場」ということになる。
 アイロニーの自我が、自分だけは別人と考えるその甘さが、アイロニーの運動の一切を全面的に虚構に転ずる。そしてこの虚構が、自我が真に主体的になることを、真の「イデー」にかかわることを妨げている。
従って真に「イデー」に達せんがためには、即ち、真に主体的に成るためには、その虚構を取り除かなければならない。それには、アイロニーの立場にある自我それ自身を笑う立場が必要である。その立場は当然にアイロニーを、アイロニーの笑いを更に徹底化した立場でなければならない。キルケゴールはそれをユーモアの立場と呼んでいる。アイロニーの本来的機能はユーモアの立場においてのみ可能となる。

キルケゴール
「アイロニーの永遠の妥当性の問題があるとすれば、この問題は、人がユーモアの領域へと入ってゆくことによってはじめてその解答を見い出すことができる。」

 アイロニーの立場は、現実全体を笑っているつもりではいるが自分自身に対してだけは笑わないことによって、大きな虚構のうちにある。


キルケゴール
「ユーモアとは、その振動が最大限にまで徹底的に行われたアイロニーのことである。」


 ユーモアの立場は、アイロニーの否定の働きと笑いがアイロニーそれ自身に遡及してくることを認める立場である。

キルケゴール
「ユーモアの人は、体系哲学が決して体系においては計ることのできないものに眼をむける…ユーモアの人は充実において生きようとするのである。従って彼は、もっとも幸福な気分で語ったものでも、それが不断にどんなに多く自分自身に遡及してくるかを感ずるのである」

ユーモアの特徴
 1. ユーモアは、共感性を本質としており、それは「共感的な笑いの立場」である。
   キルケゴール
   「アイロニーには共感というものが含まれていない。アイロニーは自己主張だからである。しかしユーモアには共感が含まれている。」
 2. ユーモアには苦悩が隠されている。
 3. ユーモアは、アイロニーよりもはるかに深いスケプシス(懐疑)に、いや、絶望と負い目に基づいている。
 → ユーモアとは、アイロニーが自分だけを優越の高みに置きそこから他者の一切を見下して笑うのとは全く異なり、自分もそれら一切の他者と同列のものであることの深い自覚のもとに、自分もそれら一切の他者と同列のものであることの深い自覚のもとに、自分もそれら一切の他者と同じに笑わせるべき位置におき、自他共に笑い合う立場である。


 ユーモアの立場は、自分を含めて現実の全体を相対化する立場であり、その相対化によって相互の人間性肯定をよろこぶ立場である。

 ルネッサンス以降今日に至るまでの近世という時代は、その間に生れた哲学、思想、そして生き方の殆ど悉くがアイロニーによって根本から規定されていた時代であった。そして今日はそれが極点に達した時代であることがわかる。そしてそうであるが故にこそ今日は危機の時代であるといえる。従ってこの今日の危機を救おうとして、この近世生れの、つまり根本的にアイロニーに規定された哲学、思想、生き方をどんなに駆使してみても、それは不可能である。そこでこの今日「新しい価値の創造」という問題が考えられなければならないとするなら、それは、近世の今までの価値の根本規定がアイロニーであったことを知り、これからの価値の根本規定はユーモアでなければならないことを理解し、このユーモアを根本規定とした哲学、思想、生き方をつくり出すことでなければならない。

・世界情勢
 1990年以降、第二次世界大戦後しばらく続いたイデオロギー対立(自由主義体制 vs 社会主義体制)は影を潜めた。これは、国民国家 nation-state を国際関係の基本単位とするとしたウェストファリア体制 Westphalian System (1648年〜)の崩壊の兆しと、国家の力の弱体化を意味している。現代はイデオロギー対立に代わって、世界を支配する「公正 fair ・自由 free ・世界化 global」という価値が大手を振るって闊歩している。その一方で、各国は多文化主義を主張している。同時に、国家の枠を超えた企業や個人の活動も盛んになった。しかし、こうした価値の推進は、国内国家間を問わず貧富の拡大、浅薄な商業主義の横行、米国文化の世界支配、世界化に乗り遅れた国で横行する自民族中心主義 ethno-centrism という問題を生み出した。
→「公正・自由・世界化」あるいは民主主義(自由主義)という価値は、普遍性をもつのか?

・大衆社会
 現代に入って、社会は大衆社会化を強めている。歴史を見ると大衆社会 mass society は全体主義を生み出す温床であった。大衆社会が出現した背景には、普通選挙制の確立、教育の普及、産業構造の変化、マスコミの発達が挙げられる。これ自体は良い悪いの問題ではない。むしろ普通選挙制の確立や教育の普及は「善きこと」として推進されたものである。ところが、人々が「善きこと」として推進した果てには、大衆民主主義 mass democracy の出現、情報の画一化による個性の消去、管理社会の進展に伴う人間疎外の状況が生じたのである。近代の逆説といってよい。
→疎外状況にある個人が、無自覚に悪に荷担する大衆社会は回避できないのか?

・官僚制
 大衆社会の進展とともに、社会規範が崩れていくことになった。そうした社会を支えていくために、現代社会は官僚制を採用していくことになる。社会を統制し、効率を求めていくために(意識的にではないにせよ)採用されたはずの官僚制が、時とともに社会の進展を阻害するものとなっていった。そもそも、個人的意見を排し、法的支配を貫徹していくことこそが善であるとしたのが近代社会であったが、現代においてはその弊害が目立ってきている。
→社会あるいは国家の効率的運営は可能か?可能とすれば、その基準はどこにあるのか?

・情報化社会
 20世紀前半の工業化社会に代わり、20世紀後半には情報化社会(脱工業化社会)が現れた。地理的距離・時間的距離という、これまでの科学技術ではいかんともし難い障害を乗り越えた情報化社会の出現である。日本では1995年以降爆発的に普及した、この情報化社会(ネット社会)は各種の障害を取り除く一方で、被害の巨大化、知的所有権の侵害、犯罪の高度化、管理社会の助長、デジタル・ディバイド、プライバシーの漏洩という問題を引き起こした。利便性を追求していく近代社会の発展のはてには、誰も統制できない情報の王国が生まれ、民主主義社会基盤を掘り崩しかねない。
→近代科学技術が発展していくことは、善なのか?
 近代社会の推進した「善きこと」は、ことごとく現代において「悪しきこと」へと変貌している。とすると、普遍的な「善きこと」は、結局の所どこにもないのか?現代人はニヒリズムや価値相対主義に陥るしかないのだろうか?積極的に「善きこと」を主張することはできないだろうか?

・古代ギリシア哲学・中世哲学
 ソクラテスの死から「ポリスの市民としての善き生き方とは?」「正義の国家とは?」「国法に従うのは常に正しいことか?」という社会哲学的問題が引き出せるだろう。これらをめぐって、西欧の社会哲学は展開される。まずはじめに、プラトンは魂の三分割説を唱え人間のあるべき姿を主張し、この三分割説を国家体制に応用して哲人王政治によってこそ正義の国家が実現できると考え、一つの解答を提示した。これに対し、アリストテレスはプラトンの理想(イデア)主義を批判し、現実主義路線をとる。すなわち、「人間は幸福を求めている」という点から人間観察を出発し、共和制こそが人間社会にふさわしいと主張した。そして、共和制を支えていくのに、倫理的徳の中でも友愛と正義を重視する(正義は全体的正義と部分的正義に下位区分され、部分的正義は配分的正義と調整的正義に下位区分される)。
 以上のように、古代ギリシアでは、ソクラテスの死を契機に社会哲学としての倫理学が発展した。しかし、紀元前四世紀に東方に生まれたマケドニア帝国によるギリシア世界の征服(=ポリスの崩壊)という現実を前に、「ポリスの市民としての善き生き方とは?」という問い自体が意味を失う。そのため、このヘレニズム期の人々の関心は社会哲学的なものから、激動する時代の中で、「いかにして個人の心の平安を達成するか?」ということに移っていった(ストア派のアパテイア、エピクロス派のアタラクシア)。もっとも、このヘレニズム期の人々の関心は社会哲学的に見ると、ポリスの崩壊によって生まれた、近代の自然法思想に影響を与えた「理性は万人に共通であり、すべての人間は同胞であり、平等である」コスモリタニズムが重要である。
 以上、古代ギリシアからヘレニズム期に、特徴的なことは、良くも悪くも人間の努力によって、善き生き方や心の平安や正義の国家が達成できると考えていたことである。しかし、時代はそれを許さなかった。そのため、西洋哲学では、ヘレニズム期以後、キリスト教思想が広まり、西洋を支配していくことになる。つまり、現実への挫折を契機に、善き生き方や心の平安や正義の国家の達成は人間の努力ではなく、神の御業として理解されるようになった。

・近代哲学
 キリスト教思想によって権威を与えられた地上の国家は、教会の腐敗とともにその正統性を失う(王権神授説のの崩壊)。さらに、教会の圧力から解き放たれた人間精神は、合理性のみを基準とした思想を展開する(デカルト、ベーコン)。そうした中、ルネサンスと宗教改革を経て、中間市民層が力を次第に持ち、市民革命によって市民社会が成立していく。とりわけ、宗教改革の先導者であったルターやカルヴァンの唱えた職業召命観は、市民社会において成立する資本主義を正当化するのに重要な役割を担った(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。
 この近代世界では、教会の失墜と共に、国家の正統性が疑問視される。これに対して、ホッブスやロックに代表される社会契約論者達は、自然権と契約を論拠に社会契約説を展開し、国家の正統性を主張した。ここで注目すべきは、自然権を有した自由な個々人によって、国家・社会が成立したという見方であり、更には古代ギリシア哲学・中世哲学では答の与えられていなかった「国法に従うのは常に正しいことか?」の問いに、ロックが1つの解答を与えたことである(抵抗権)。しかし、社会契約説によって市民社会国家は正統性を得たものの、社会契約説は前提からしてフィクションであったため、時代と共に省みられなくなる。次第に社会哲学者達の関心は、市民国家の正統性を根拠付けたり、「正義の国家とは?」の問いに答えることよりも、正義の国家に至る方法論(判断基準)を措定するようになった(善と正の混同?)。
 それに答えたのがベンサムやミルであり、彼らは社会や個人にとって「最大多数の最大幸福」こそが道徳原理として採用される唯一の基準だと主張する。とりわけ、ベンサムは「幸福」を量的に換算可能なものと考えた(=量的功利主義)。ベンサムらの主張は、原理的にいろいろな問題を抱えていたものの、近代以降に発達した科学主義の影響の下、数量という明晰判明なもので道徳的行為を判断することが可能であるという主張だから、古代ギリシア哲学のように究極目的という普遍性を持ち得ないもの(言葉の定義としては普遍的だが、実際は明確に規定できないもの)で倫理的命題を引き出す目的論的な社会哲学に代わる力を持つことになり、自由主義社会を支える原理となった。
 一方、市民社会の達成に遅れたドイツの哲学者カントは、心の内面から「善き生き方」を探っていこうとする(義務論)。つまり、カントは道徳的行為の判断基準の根拠を人間理性に求めたのである。カントは功利主義的道徳を否定し、形式のみを意志の規定根拠とする行為こそが、真に道徳的行為’モラリテートを備えた行為であると言う。ではその形式とは何か。
 カントによれば、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理と両立して妥当し得るように行為せよ」という命令形の形で与えられるものである。カントの倫理学は、ソクラテスの残した「ポリスの市民としての善き生き方とは?」から「ポリスの市民として」という前提を捨象することで成立した、普遍的な(超越論的な)道徳原理と言うことになる。では、カントは「正義の国家とは?」「国法に従うのは常に正しいことか?」ということに応えなかったのか。答は否である。カントにとって、正義の国とは、道徳法則に導かれた国(目的の王国)である。しかし地上の国は、そうした理想郷ではない。だからこそ、地上の国は、個々人の道徳義務と同様に、理想郷に接近する義務を負うのであるが、地上の国が理想郷ではないからといって、カントは臣民に革命権を認めなかった。このドイツ的な国家重視の立場を引き継いでいくのがヘーゲルである。
 ヘーゲルは、善は個人の内面的・主観的道徳によってではなく、社会の客観的な倫理秩序(人倫)によって実現されると考えた。歴史を弁証法的に解明しながら、最終的に善を担う国家を重視していくことになる。

・官僚制の特徴
 1)法的支配
 2)ヒエラルヒーの形成
 3)専門性の重視
 4)文書主義
 5)公私の明確化

・官僚制の弊害
 1)規則万能主義
 2)上意下達
 3)縄張り主義
 4)人間疎外

・現代哲学
 功利主義であろうとも、義務論であろうとも、近代哲学は自由と平等という価値を尊重・実現すべく考え出された道徳原理である。ところが時代を下るとともに、近代は次第にその容貌を変化させていく。すなわち、近代市民社会は理想と現実の矛盾の上に成り立ち、近代資本主義は制限のない自由競争を促し、自由と平等という近代の価値を実現するものではなくなっていったのである。更に近代哲学に大きな影響を与えた近代科学技術も制限のない物質主義を広めるのに一翼を担った。こうした近代の逆説とでも呼べる状況の中で、人間疎外の状況が露になり、この克服を目指して、マルクス主義、実存主義、リベラリストなど色々な思想が展開されるのが現代の社会哲学である。
 まず、近代を全否定し、自由と平等を実現するはずの共産主義国家建設を唱えたのがマルクスである。マルクスは現代における人間疎外の元凶を労働の意味の変化に見て取った。つまり、自己実現活動であるべきはずの労働が、資本主義社会では生産物は資本家のものとなり、労働者は増々貧しくなることで、苦痛以外の何ものでもなくなってしまったと看取する。そうして、この労働の意味を変えた資本家・労働者の関係を変革する必要を説く。なぜなら、マルクスによれば、下部構造(土台)が上部構造を規定する(「存在が意識を規定する」)からである。ここには近代科学主義の影響を見て取ることができるだろう。更に、こうした流れは歴史の必然として説明していった(史的唯物論)。ここにはヘーゲルの観念論との対決が見られる。しかし、マルクスの理論は必ずしも歴史の中で実現されることはなかった。とはいえ、人間疎外の状況の克服というマルクスの出発点を無視すべきではない(マルクスは倫理について語ることはあまりないが)。
 一方、近代を全否定するのではなく、近代を動かす原理である功利主義批判をしていったのがロールズである。『正義論』におけるロールズは、功利主義を批判するために、古びた理論と見なされていた社会契約説を現代的にアレンジして理論構成していく。ゲーム理論を援用した原初状態における合理的選択という仮説的理論装置を援用しながら、功利主義の原理に代わる「正義の原理」(=規範的原理)を見出そうとしたのである。「正義の原理」は、「平等な自由原理」の第一原理と。「格差原理」と「公正な機会均等原理」の組み合わせである第二原理の二つで表現される。こうしたロールズの営為は、近代の成立と功利主義の浸透に対抗する規範哲学を復権させるものであり、社会契約説とカントの規範的な義務論の再評価・再利用の作業であった。しかし、ロールズの営為は、善(the good)と正(the right)を区別するものであったため、ソクラテスの残した「ポリスの市民としての善き生き方とは?」という問いに傾注したものであると言える(ちなみに、「国法に従うのは正しいことか?」という問いに対しては、市民的不服従を擁護することで応えている)。なぜロールズは正にこだわったのか?それはファシズムや社会主義の経験を反省に、「善き生」の追求がともすると、他人の自由を奪うという権威主義的態度に結びつくからであったのだろう。
 ロールズへの批判は莫大な数になる。なかでもマッキンタイラーやテーラーに代表されるコミュニタリアン(共同体主義)は、正義の二原理を正当化する仮説的理論装置を否定し、さらにそこでの人間の理解そのものが間違っていると批判した。さらに彼らはロールズ批判にとどまらず、近代哲学の前提を否定しようとする。この背景には、善の探究を放棄し、価値相対主義を容認したことに起因する社会の混乱への反省があるのだろう。では、コミュニタリアンは何を批判したのか?それはサンデルが「負荷なき自我」、テーラーが「遊離せる自我」と呼んだ近代的自我-すなわち近代哲学の出発点にあるデカルトのコギトにまで遡ることができる近代的自我-と、近代的自我に依拠する倫理学理論といってよい。コミュニタリアンは近代的自我に代わって、人間を自己解釈的で物語的な存在であり、はじめから他者との言語共同体の中にいる存在と主張する。そして、こうした人間理解を前提とすれば、ロールズらとは異なり、善を問題にすることができ、善を見出すことができると主張したのである。こうした主張は倫理命題の絶対的普遍性の放棄と蓋然性を主張するものであったが、コミュニタリアンの思索は「ポリスの市民としての善き生き方とは?」という倫理学本来のあり方の回帰と見ることもできるだろう(もちろん善き生の前提が政治共同体から言語共同体という違いはある)。
 コミュニタリアンに批判されたロールズは黙っていたわけではない。ロールズは、ゲーム理論を援用した原初状態における合理的選択という仮説的理論装置が必ずしも有効ではないことを認めつつ、善を共有しない社会での「重なり合意」に重きを置きながら『政治的リベラリズム』以降、正義の原理の射程を拡張していった。1990年代初頭まで、自分の理論が「理想状態を想定し、そこにだけ当てはまる理論」だとして、現実の問題にコミットしなかったのであるが、アムネスティ・インターナショナルでの「人権」に関する講演に続き、雑誌『ディセント』に米国による原爆投下を倫理的に断罪した論文を寄稿した。最近のロールズは、現実社会との対話の中で倫理理論を作り出そうとしていると見てよいだろう。

J.ロールズ政治的リベラリズム」(Political Liberalism)1993
 戦時中の法・権利(justinbello)
 (1)正しい戦争の目標:戦争の中でまともな民主社会が行うなら、そこで成り立つ正しい戦争の目標はpeople間の平和のみである。
 (2)敵国の政情:まともな民主社会の敵国は非民主社会でなければならない。民主社会間では戦争は起こらない。
 (3)戦争責任を軽重を判別する原理:3種類の人間を考えなければならない。1.指導者=政府の要職者 2.兵隊 3.非戦闘員
 (4)人権の尊重:人権を尊重し、教えなければ成らない。
 (5)戦争の公示:仮に戦争を行うにしても世界に対し公示しなければならない。
 (6)目的と手段の選択:目標と手段をつり合わせる必要がある。
 原爆は(6)のみを考え、1〜5は考えていない。よって原爆は正当化できない。
 原爆の正当化
 1.戦争を終わらせるために必要だった→(6)のみしか問題にしていない。
 2.アメリカ人の命が失われるのを防ぐ→(4)に反する。
 3.原爆を投下することによって日本は恥から戦争を止める→(6)のみ
 4.原爆をロシアに見せつける→(6)のみ
 原爆投下=great evils 倫理に反するとんでもないもの
 ロールズは、ドイツ人も日本人も過去の克服を行っている、アメリカ人もやらなければならないと考え、重なり合う合意(善が共有されるところ)で正を考えていった=善に関する構想(conception)

J.ロールズ "A Theory of Justice"(正義論)
 貧困層を犠牲にして社会全体の幸福が増えることはOK?ロールズは認めなかった。功利主義の最大多数の最大幸福では疎外される少数者を救っていこうと考えた。・原初状態:人間が何も知らない状態で、個人が置かれている状態。・無知のベール:自分が資本家、生産者であることを忘れさせる。このような状況では、人はマキシミン・ルール(合理的判断)、最悪でも最善を選ぶような方法を取り入れるであろうと考えた。それに反照的均衡(反復してよく考えればわかるということ)を加えることで「正義の二原理」が出てくる。
 正義の二原理の内、
 第一原理:各人は全ての人々にとって同様な自由と両立しうる最大限の基本的自由への平等な権利を持つべきである。→平等な自由原理
 第二原理:社会的、経済的平等は、
 (a)最も恵まれていない人々の最大の利益となるように→格差原理
 (b)公正な機会の均等という条件の下にすべての人に開かれた職務や地位にのみともなうように→公正な機会均等の原理
 配分されるべきである。
 導き出し方には批判があるが、結果についてはそれなりに妥当性がある。
 批判1:人間は合理的に動くものではない。
 ロールズ:ゲーム理論は誤りであった。しかし導き方は間違っていたかもしれないが、結果については否定できないはず。
 批判2:第二原理は不平等を認めている。何故最大多数の最大幸福を犠牲にして少数の人を救わなければならないのか?富裕層を悪視して貧しい人が良い人といっているのみではないのか?どのようにして所得を得たかを問題にすべきではないのか。どこにもいないような人間を考えて哲学を組み立てているのではないか?

オルテガ・イ・ガゼー 「大衆の反逆」
 大衆社会が生じた理由
 1.普通選挙が確立したため:大衆民主主義が生まれた。
 2.教育が普及していった:オピニオンリーダでさえも消費材として扱われる状況が生まれた。
 3.蚕業構造の変化:大量消費社会
 4.マスコミの発達
 大衆社会の問題点
 1.有権者意識が薄らいでいく。
 2.情報の画一化が起こってくる:扇動される大衆が出現してくる。
 3.管理社会が発達してくる。