2000.10.30-2001.10.29
- ヴェルレエヌ「智慧」1881
- 撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
- われにその値なし、されどわれまた君が寛容を知れり、
- ああ!こは何たる努力ぞ!されどまた何たる熱心ぞ!
- カフカ「あるたたかいの記」1904
- とある夜会で知り合ったばかりの「私」と「連れ」の男とが宴が果ててのち、ふとしたいきがかりで、真冬の深夜に、プラハの街を抜けて郊外のラウレンツィ山へと、いとも酔狂な散歩をする破目になる。その道行と二人の会話を叙している第一部と第三部を、いわば枠組のようにして、その間に挿入された第二部は、二人の放恣な幻想を内容にしているが、そこでは、「祈る男」や「太っちょ」などと呼ばれる、すべて固有の名前をもたない人物が、いれかわりたちかわり登場しては、さまざまな挿話を語り継いでいく複雑な構成になっている。認識論的、言語論的な問題意識や、のちのカフカとはやや趣きを異にした文体に、いわゆる世紀末思想のあらわな影響を看取することができる。
-
- カフカ「アメリカ(失踪者)」1911
- 16歳の少年カール・ロスマンが、生家から追われて、移民船に乗り、ニューヨーク港に着くところから、話がはじまる。かつての移民で、いまは上院議員を務める伯父に迎えられるものの、彼は、やがてこの伯父からも縁を切られる破目になる。かくのごとく、新大陸での少年の運命は、追放と受容、そしてドロップ・アウトの連続である。編纂者のブロートが選んだ構成では、最後に、「オクラホマ大劇場」と名乗る奇妙な劇団の団員となったカールが、汽車で一路、オクラホマへ向かう所で、この小説は中断している。
- 「オクラホマの野外劇場」が何を意味しているのか、何よりも、この小説はハッピー・エンドのはずだったのか、それとも悲惨な結末を予定していたのか、伝えられているカフカの発言そのものが矛盾していることもあって、容易には判断し難い。ともあれ、ディケンズに学んだというだけあって、他の作品とは異質な、それなりの独特の魅力をもった小説になっている。
-
- カフカ「審判」1914
- 大手都市銀行の業務主任たるヨーゼフ・Kは、突然、「ある朝、逮捕され」る。最初の審理に呼び出されて、Kがでむいていく裁判所事務局のある場所は、こともあろうに、郊外の貧しい労働者街の酒屋である。その後、彼の裁判は、いつまでたっても上級審へ移る気配もない。かくして、「何もわるいことをしていないのに」、「逮捕され」、裁かれるという、受身でとらえられた不条理な体験は、ただしく裁かれたいという能動的な願望にとってかわられていく。不可視の最高裁判所は、いつしか彼の心中で、そのレゾン・デートルをささえるべき根拠と化している。
- 未完におわった四篇の長編小説の中では、唯一、「審判」だけは、け結末の部分が書き上げられていた。ついに最高裁に辿り着くことのなかった、その運命にふさわしく、ヨーゼフ・Kは、郊外の石切場で、「犬のように」処刑される。
-
- 三島由紀夫「芥川龍之介について」1956.4
- 私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだとは思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や、一騎討と同一戦上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。日々の製作の労苦や喜びを、作家の行為とするなら、自殺は決してその同一線上にある行為ではあるまい。
-
- 三島由紀夫「小説家の休暇」1955
- 芸術家における生活とは、奔馬のごときものである。要するに芸術家の必要悪である。どうしても御し了せなくてはならぬ。
- 三島由紀夫「小説家の休暇」1955
- 小説を書くことは、多かれ少なかれ、生を堰き止め、生を停滞させることである。
- 三島由紀夫「戯曲の誘惑」1955
- 私の中にあって、戯曲の地形は、小説よりももっと低いところにあるらしい。より本能的なところに、より小児の遊びに近いところにあるらしい。
-
- 三島由紀夫「文章読本」1954
- おそろしくひどい悪口がすばらしい力強い見事な文体で書かれてゐるといふことはいつも私を下手な小説を読むよりも喜ばせます。
-
- 三島由紀夫「太陽と鉄」1968
- 「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねること…
-
- 太宰治「津軽」
- 信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせることができない。
- 太宰治「右大臣実朝」
- アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
- 太宰治「二十世紀旗手」
- 罪、誕生の時刻に在り。
- 太宰治「道化の華」
- ここを過ぎて空濛の淵。
- ゲーテ「神性」
- 人間は気高くあれ、
- なさけ深く 善良なれ。
- それのみぞ
- われらの知る
- あらゆる存在より
- 人間を区別する。
- …
- そしてわれらはあがめる、
- 不滅なる存在を。
- あたかも そもまた人間であるように。
- そして最善の人間が
- 小さき圏においてなすこと なしうることを
- そが大いなる圏において なしつつあるように。
- 気高き人間は
- なさけ深く 善良なれ。
- …
- そしてわれらの予感する かのより高き存在を
- 写すものであれ!
-
- ゲーテ「五月の歌」
- なんと晴れやかな
- 自然のひかり。
- 日はかがやき
- 野はわらう。
- …
- おお愛よ 愛よ。
- 黄金なすその美しさ、
- 峯にかかる
- あの朝空の雲に似て
- おんみは晴れやかに祝福する、
- 生命わく野を、花にけぶる
- みちみちた世界を。
- おお少女よ 少女よ、
- わたしは君を愛する!
- きみの眼はかがやく!
- きみはわたしを愛する!
- そのように愛する、
- 自由なひばりは
- 歌と高みを、
- 朝の花は空のかおりを、
- そしてわたしはきみを、
- 湧きたぎる血で。
- …
- キルケゴール「現代の批判」1846.3
- 現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代で、たまに感激に燃えたつことがあっても、如才なく、すぐにもとの無感動におちついてしまう。
- Cyril Connolly "The Unquiet
Grave"
- Life is a maze in which we take the wrong turning before
we have learnt to walk.
- Gertrude Stein "Ida, A
Novel"
- Little by little circles were open and when they were
open they were always closed.
-
- ゲーテ「徒弟時代」
- 「きみたちの一般的な教養やそのためのすべての施設は道化芝居である。人間がある一つのことを、周囲のほかの者にはなかなかできないほどに、根底から理解し、すぐれてなすということが大切なのだ。一つのことをよく知り行うということは、百のことに中途半端であるよりも高い教養をあたえるのである。」
- レーナウ「重い夜」
- くらい雲が くるしく
- おもく 垂れていた。
- わたしたち二人は かなしく
- 庭をあちこちした。
- 暑くて物音がない、くもって
- 星がない。
- わたしたちの愛とおなじように
- 泣くためにだけあるような夜だった。
- 別れぎわに あなたに
- おやすみなさいをいったとき
- わたしは ものがなしく
- あなたとわたし二人の死をこころの底に願ったのだ。
- ドロステ
- 沢のなかは、暗く、暗い。
- 野をおおうている夜。
- 葦だけがさらさらとささやいて
- 水車のわきに目覚めている、
- その水車の輻の一つ一つに
- 水つぶがふくれて走る。
- 蛙は沢にかがみ
- はりねずみは草にひそんでいる、
- くさってゆく木の株のうつろには
- ひきがえるが眠っているからだをひきつらす、
- そしてなぞえの砂地には
- 蛇がいよいよそのとぐろの輪をしめる。
-
- ヘルダーリーン「パトモス」
- …危難のあるところ
- 救いの力もまた近い。
- 鏡像段階(ラカン)
- 人間は神経系が未熟なまま生まれてくるため、幼児は身体が寸断された不安定な状態におかれている。そこで鏡に映る自己像に同一化することで、統一性を獲得する。しかしその歓喜は、自己の統合性を他者に委ね、主人性を外部の何ものかに奪われる危うさと背中あわせの関係にある。
- 三島由紀夫「憂国」
- 「二人が目を見交わして、お互いの目のなかに正当な死を見出したとき、ふたたび彼らは何者も破ることのできない鉄壁に包まれ、他人の一指も触れることのできない美と正義に鎧われたのを感じたのである。」
- 三島由紀夫「天人五衰」
- 「この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もいません。あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。」
-
- 三島由紀夫「死の分量」
- 「われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の画一化と画一化された生活様式の世界的普及による世界像の単一化が原因してゐる。」
- 三島由紀夫「太陽と鉄」
- 「死が日常であり、又、そのことが自明であるやうな生活が、私にとつて唯一の「自然な世界」であるならば、そしてその自然さが人工的な構築によつてはつひに得られず、却つて甚だ非独創的な義務の観念によつて容易に得られるならば、次第に私がこのような誘惑に牽かれ、自分の想像力を義務に変へようと企てるほど、自然な成行はなかつたにちがひない。死と危機と世界崩壊に対する日常的な想像力が、義務に転化する瞬間ほど、まばゆい瞬間はどこにもあるまい。そのためには、しかし、肉体と力と戦ひの意志と戦ひの技術が養はれねばならず、その養成を、むかし想像力を養つたのと同じ手口でやればよかつた。それといふのも、想像力も剣も、死への親近が養ふ技術である点では同じだつたからである。しかも、この二つのものは、共に鋭くなればなるほど、自分を滅ぼす方向へ向ふやうな技術なのであつた。」
-
- 三島由紀夫「終末感と文学」
- 「…文学はいつの日も終末観の味方である。この説明はまことに簡単で、文学の意図するところは、いつの時代にも、ことばによる世界解釈・世間認識にはかならず、その時代々々の宗教や哲学の終末観は、このための恰好な見取り図を提供してくれたからである。末世とは小説の終章であり、小説家の脳裡に最初に浮かんでゐなくてはならぬものだ。終はりのはうから世界を見通すこと、これが各時代の末世思想の思考の技術だった。世界がやがては終はるといふ考へほど、文学的想像にとつても、文学の記録的機能にとつても、心を鼓舞してくれる考へはなかつた。「美しい者よ、しばし止まれ」。もし美しい者が永久にとどまつて、すべてに終はりがないならば、あらゆる文学の一回性はナンセンスにほかならない。」
- ミルトン「失楽園」
- 「あなたがどこへ行き、どこから帰ってこられたか、私は知っています。神は眠りのなかにも常に在し給う方であり、夢はいろいろなことを私たちに教えてくれます。神は慈悲の心からそのような夢を送り、そのなかで、悲嘆と心の悩みに疲れ、眠り込んでしまっていた私に、或る喜ばしいことを告げられました。とにかく、今こそ先に立って私を導いて下さい。私にはもはや躊躇はありません。あなたと一緒なら、ここを出ることはここに留まることです。あなたと別れてここに留まることは、心ならずもここを出てゆくことと同じです。あなたは私の身勝手な罪のためにここを追放されるのです、-今の私には、あなたこそ、大空の下におけるすべてであり、すべての場所なのです。私のせいですべてが失われたとはいえ、私から生まれるあの約束された御子が、すべてを回復し給うという、身に余る恩寵を示された今、私はその慰めを心にしっかりと抱いて、ここを立ち去りたいのです。」
- ギュンター・アイヒ「夢」
- 「世界という歯車のなかで砂となれ、油となるな」
-
- 三島由紀夫「豊饒の海」1970.11.25
- 「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るやうな蝉の声がここを領してゐる。
- そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
- 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……」
- Gertrude Stein "Rooms"
in Tender Buttons
- A silence is not indicated by any motion, less is indicated
by a motion, more is not indicated it is enthralled.
- 三島由紀夫「行動学入門」
- 待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を発揮することであり、そこにこそ賭けのほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められなければならない。
- 三島由紀夫「金閣寺」(創作ノート)
- 「僧房生活を芸術生活のアレゴリーとし、それより離脱して、髪を脱ばし、一見人生へ乗り出すも、ニセ物の意識脱けず、しかし人生は容易にして、一層成功し、勝者となり、強者となり、「人生は変へ得る」といふ確信を抱くにいたるも、ニヒリストにして、根底的に何一つ信ぜず、完全にニセ物也。何事も可能なり。この世に不可能事なし。この世は凡て相対的にして、虚無のみ。絶対の強者、-絶対のニヒリスト-への道を歩み、この世に何ものも軽蔑すべからざる者をなくすために、最後のコムプレックスを解放せんとし、金閣に火をつける。」
-
- 三島由紀夫「美しい星」
- 「時間の法則が崩れて、事後が事前へ持ち込まれ、瞬間がそのまま永遠へ結びつけられるなら、人類の平和や自由は、たちどころに可能になる。」
-
- 三島由紀夫「仮面の告白」
- 「この瞬間、私のなかで何かが残酷な力で二つに引裂かれた。雷が落ちて生木が引裂かれるやうに。私が今まで精魂こめて積み重ねてきた建築物がいたましく崩れ落ちる音を私は聴いた。私という存在がが何か一種のおそろしい「不在」に入れかはる刹那を見たやうな気がした。」
-
- 沢木耕太郎「彼らの流儀」ギャラクシー
- 「時代は変わり、時代は変わらず……。」
- カルヴィン
- 「選びの目的は人生を潔めることであるから選びはその目的を到達するようにわれわれを眼ざまし励ますのであつて、決して選ばれたが故に怠惰になつてよいという口実にはならない。」
- 沢木耕太郎「彼らの流儀」星と虹
- 「この世に十全なものがあってどうして悪かろう……。」
-
- 安部公房「燃えつきた地図」1985.1
- 「都会-閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
- だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。」
- 三島由紀夫「音楽」1970.2
- 「『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』という諺が、実は誤訳であって、原典のローマ詩人ユウェナーリスの句は、『健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし』という願望の意を秘めたものであることは、まことに意味が深いと言わねばならない。」
- 安部公房「燃えつきた地図」1985.1
- 「誰もが帰ってくる。出掛けた所へ、戻ってくる。戻ってくるために、出掛けて行く。戻ってくることが目的のように、厚いわが家の壁を、さらに厚くて丈夫なものにするために、その壁の材料を仕入れに出掛けて行く。
- だが、ときたま、出掛けたっきり、戻ってこない人間もいて…」
-
- フロイト「ある幻想の未来」
- 「文化とは、一面においては、人類が、自然のもろもろの力を支配し、自分の必要をみたすよう自然からさまざまの物質を奪い取るために獲得した知識と能力の一切を包含するとともに、他面においては、人間相互の関係、その中でも特に、入手可能な物資の分配を円滑にするための全社会制度を含んでいる。」
-
- マルクス「ドイツ・イデオロギー」
- 「従来の歴史観は歴史のうちにただ派手な政治的大事件と宗教的そして総じて観想的な闘争をしかみることができなかったし、そしてとりわけ、それぞれの歴史的時期にその時期の幻想を一緒にもたざるをえなかった。たとえばある時期が純「政治的」もしくは「宗教的」な動機によって自身が規定されると思い込むとすれば…その時期の歴史記述者はこの思い込みをそのまま受け入れる。これらの特定の人々が自分達の現実的実践に関してもちところの「思い込み」や「観念」がこれらの人々の実践を支配し規定する唯一の規定的能動的な力に変えられる。」
- マックス・ウェーバー「職業としての学問」
- 「ものによっては、それが美でないにもかかわらず、いやそれ以上に、美でないがゆえに、そして美でないかぎりにおいて聖でありうる。…またものによっては、それが善でないにもかかわらず、いや善でないという点においてこそ美でありうる。そのことを我々はニーチェ以来またしても知っている。…また日常的な知識であるが、ものによってはそれが美でも、聖でも、善でもないにもかかわらず、いやそうでないことによって真でありうる。」
- フランツ・ローゼンツヴァイク「救済の星」
- 「我々の民主主義の時代は、悲劇的なものに対する平等の権利を貫こうとしたのだが、やはり徒労であった。魂の貧しい者にその天国を開こうという試みは全て失敗に帰した。」
- →市民社会には、強度の経験はあり得ない。
- ツァラストゥストラ「汚れなき認識」
- 「太陽は海を吸い、その深みをみずからの高みに吸い上げようとする。その時海の欲望は百千の乳房を高くもたげる。海は太陽の渇きによって接吻され、吸われようと願う。それは大気となり、高みとなり、光の歩む道となり、また光そのものとなろうと願う。まことに、わたしは太陽と等しく、生とすべての深い海を愛する。」
- フッサール「厳密な学としての哲学」
- 「われわれの窮乏を癒そうとして、時代のために永遠を犠牲にしてはならない。窮乏の上に窮乏を積み重ねて、結局は根絶しがたい害悪としてこれを子孫に伝えてはならない。窮乏はこの場合、学に由来するのである。そして学に由来する窮乏はただ学によってのみ決定的に克服されうるのである。」
- フロイト「抑圧」
- 「衝動の代表が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に、豊かに発展する。」
- アドルノ「否定弁証法」
- 「形而上学への能力が麻痺しているのは、思弁的な形而上学的思想が経験と調和するための基盤が、現に生じた出来事によって破壊されてしまったからである。」
- マルクス「エピクロスの哲学」
- 「状態は本来、偶然的存立である。」
- 江國香織「すいかの匂い」2000.7
- 「身体の中に深い井戸をもっているような、静寂を抱いているような。」
- 「雨に閉じこめられる感じが好きで、雨足が強ければ強いほど嬉しかった。足元にできる無数の水の輪、傘を打つ雨の手ごたえ、そして、外界からすっかり遮断されるような、快くはげしい水の音。」
- 「いま二人で旅にでれば、永遠に戻らずにすむような気がした。あたためられた地面からたちのぼる陽炎の、めまいにも似た感じ。」
- 「胸のなかが不穏に粟立つ。」
- 「枝と葉っぱ、ごく弱い風。」
- キルケゴール「現代の批判」
- 「大衆とは一切にして無であり、人は、大衆の名において全国民にむかって語ることができるが、しかもその大衆というのは、ただ一人の人間がどれ程少ないとしても、このただ一人の人間がどれ程少ないとしても、このただ一人の現実的な人間よりももっと少ないのである。大衆という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それと比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。大衆は、個々の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のお伽話である。」
- T・ハリス「ハンニバル」
- 「自分の切なる祈りが一部しか聞き届けられなかったこのとき以来、ハンニバル・レクターが神の意図について思いを凝らすことは絶えてなかった。例外があったとすれば、神による殺戮に比べれば自分のなす殺戮など何程のものでもない、と思い知ったときくらいだろう。」
- ヤーキズ・ダッドソンの法則
- 人は中程度の覚醒の時、つまり適度の緊張や不安のある時に最もよく遂行する。困難な課題を遂行する際の最適覚醒水準は、容易な課題の時の水準よりもずっと低い所にある。。困難
- ブーバー
- 「はじめに関係がある。それは存在の範疇、とらえる形式、魂の原型としてあるのである。それは関係のアプリオリ、生得のなんじである。」難
- 三島由紀夫「葉隠入門」
- 「毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。
- われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、「葉隠」は与えてくれるように思われるのである。」難
- キルケゴール
- 「ユーモアとは、その振動が最大限にまで徹底的に行われたアイロニーのことである」難
- 難
- 三島由紀夫「盗賊」1954
- 「しかし目を合わせた途端に、二対の瞳は暗澹とみひらかれ、何か人には知られない怖ろしい荒廃をお互いの顔に見出しでもしたかのように、お互い相手の視線から必死にのがれようとし、この醜悪な予感が彼らの目から彼らの頬へと移行し、その頬を夜明けの海のような暗い青みがかった色調で覆い、その唇を死灰の色と味わいで充たすのに任せたまま、しばらくは恐怖に縛められて立ちすくんでいた。美子のほうが先に、戦慄しながら、辛うじて二歩三歩後ずさりした。
- 二人は同時に声をあげてこの怖ろしい発見を人々の前に語りたい衝動にさえ駆られていた。今こそ二人は、真に美なるもの、永遠に若きものが、二人の中から誰か巧みな盗賊によって根こそぎ盗み去られているのを知った。」難
- キルケゴール
- 「瞬間は、そこで時間と永遠とが互いに触れ合うところのある両義的なものである。」難
- 鈴木光司「新しい歌をうたえ」.2000.5
- 「たとえば、こんなふうに自問自答をしたことがある。自分の子と、その子に包丁をつきつける男がいたとする。どちらか一方の命が神に召されなければならなくなり、その決定権が自分に委ねられた場合、どちらの命を差し出すだろうかと自問する。考えるまでもなく、我が子の命を助けると答えるだろう。我が子の命と、包丁をつきつける男の命は等価ではなく、ずしりと重く前者に傾く。しかし、それは、自分の中にある「自我」の判断であり、人間を離れた「神」という視点に立てば、たとえ犯罪者であろうとも、子供と男のふたつの命が平等に併置されているとしか見えなくなる。平等なふたつの命である限り、神の恣意性に任せて、決定権を放棄すべきなのであろうかというさらなる疑問…。
- 彼方に「神」の視点があると意識しつつ自我に縛られ、執着の中であがいて生きるのが人間にほかならない。」難
- 日本国憲法 第十三条
- すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
- 鈴木光司「新しい歌をうたえ」.2000.5
- 「「世も末ですね。昔はこうじゃなかったのに、どうなっちゃうんでしょうね」
- などと暗い顔で言う連中に対してである。悲惨な出来事は、過去も現在も未来も、時代に合わせて形態を変えるだけで、決して絶えることはない。だからといって、人間に背を向けてほしくないのだ。政治的な理由はどうあれ、人間は奴隷制にせよ身分制にせよ、自分達の力で変えてきた。世界は刻々といい方向に向かっているのだと自身を持って肯定し、現実に対処する心構えが必要であろう。諦めや失望、悲観によって、何が変わるというのか。」難
- ティミエニェッカ「現象学と人間科学」1962
- 「あらゆる個々人を含む社会的世界は、広い網のような個々人の関係の結果として生じるもの以外の何ものでもなく、社会形態は、人間の創造的な本質における根本的な緊張形態から余分に挿入されたものである。」難
- ・キケローについて
- ラテン文学最大の散文家(106-43B.C)。「ロスキウス・アメリーヌス弁護」「ウェッレースを訴う」「クルエンティウス弁護」「カティリーナ弾劾」「アルキーアス弁護」「帰朝後元老院にて」「帰朝後市民に対して」。
- キケローの散文で重要なのは「対話」。「弁論家について」「材料の選択について」
- 「国家論」「スキーピオーの夢」「法律について」「ブルートゥス」「最高の弁論家」「トピカ」「弁論術の区分」
- ・弁論のアシア風、アッティカ風について
- アシア風:ギリシア文化の流れを汲む誇張や警句の多い、技巧的で派手な弁論
- アッティカ風:従来の古典ギリシア的な地味な論風
- →キケロは影響を受ける。弁論術に関する作品は、これらが読者を目当てに書かれた純然たる散文の極めて古い例であることと、後生の文化に与えた影響を考えると、無視することはできない。
- 「パラドクサ」「アポッローニウスに送る慰藉」「ホルテンシウム」「アカデーミカ」「至善至悪論」
- キケロー「トゥスクルム哲学論叢」1916
- 肉体的苦痛が「悪」ではない所以、知恵とは忍苦と死の蔑視であること、「賢者」とは悲しみに不 感受で、いかなる心の動揺にも乱されない者であることを説き、「美徳」こそ至福への途であると説 得している。
- 「神々の本質について」「占卜について」「宿命について」「ラエリウス・友情について」「大カトー・老年について」「義務について」
- キケローの哲学は浅薄だとか独創性がないとかしばしば言われ、そう認めざるを得ない面もあるけれども、彼の著作は当時の哲学に関する百科辞典的存在として、もしキケローが書き残しておいてくれなかったら、永久に失われてしまったに違いない多くの知識を伝えてくれた点と、抽象的なギリシアの哲学用語を巧みにラテン訳し、ラテン語fで哲学を論じ得る途を開いた功績には極めて大きなものがあると考えられる。
- 「天象」「おのが執政官職について」
- キケローの諸書簡集(「友人宛書簡集」「アッチィクス宛書簡集」「弟クウィントゥス宛書簡集」「ブルートゥス宛書簡集」)
- キケローの諸「書簡集」は後日他人が公表することを意識して書かれなかった、いわばキケローの生地が出ていて、文体も簡潔であり、その意味でも価値のあるものであろう。
- 散文は弁論術と切り離し難いかたちで発達したが、談話の文字化が「対話」という形式を生み、「歴史」が書かれる段階に至って、はっきりした一分野を確立した。
- ウェルギリウス「アエネーイス」
- ウェルギリウスの意図は、ローマの偉大さ、アウグストゥスの築き上げた「黄金時代」を謳歌するにあり、歴史的叙事詩と神話的叙事詩を綜合させた。
- ・危機意識
- 近代思想の特質
- ヒューマニズム・個人主義・合理主義。
- 神格化された人間理性を現実的人間へと解消すると2つの方向
- マルクス主義:人間の現実的存在を社会的存在として捉える(マルクス)。
- 実存主義 :人間の現実的存在を単独者的実存として捉える(キルケゴール)。
- 19C後半の哲学的諸傾向に共通すること
- 現象の表面だけを見て、その根拠を追求せず、世界観的要求を放棄していること。
- レーニン「帝国主義論」1916
- 帝国主義とは、資本主義の独占段階である。レーニンはそこで、この段階を規定する指標として1.生産と資本の集中、2.産業資本と金融資本の結びつき、3.資本輸出による後進国支配、4.国際的な独占資本家団体の形成、5.先進資本主義国による地球の領土的分割の完了の5点を挙げている。だが、一口に先進資本主義国といっても、それらの国々の間には、資本主義の発達の程度に差がある。この資本主義諸国の不均等こそ、19C末から20C初頭にかけての市場再分割戦争の原因であり、その最大の現れが世界大戦であったとレーニンはしている。難
- 「超人」について
- 生命は、より高いものへとたえず自己を克服していこうとする「権力への意志」を持っている。ニーチェは、この権力への意志を徹底するところに、神も道徳もなしに、みずから価値を創造し、ただひとり生きる勇気を獲得した人間として「超人」と呼ばれる思想を描き出した。そして、この超人の立場に立って、「神は死んだ!」と宣告するのである。
- 近代思想の根本原理
- :人間理性に対する信頼
- 「実存」について
- ヤスパース、ハイデガー、サルトルなどは、人間のこの個体としての運命を、生きている自分自身の内側から掘り下げ、そこに、決して何ものかとして対象化しつくしえず、それ故に不安・孤独・絶望といった限界状況を背負いながらも、絶えず自分自身をのりこえていく人間の主体的な在り方を見出し、それを実存と呼んだ。
- ・大衆社会
- 「大衆社会」について
- 企業規模の拡大・複雑化、産業経営技術の高度化、第三次産業の拡大、国家規模の膨大化に伴い、それらに従事する下層管理職員・技術者・事務職員・公務員等の新中間層と呼ばれる階層が増大してくる。そして、この階層を媒介として、異質の社会成員の間に、生活意識・思考様式・行動様式の画一化が行われるところに、「大衆社会」と呼ばれるものが成立する。
- 「官僚制」について
- ウェーバーは、古典的分析において、官僚制に関して以下の特徴を挙げている。第一は、権限の明確化であり、それによって職務は分化し、専門化される。第二は、職階制であり、それによって形成されるピラミッド型の組織に動脈を通じているのが、第三の特徴である職務執行の規則化であり、それによって事務処理の正確・迅速化が図られる。
- 人は自律意志決定能力を奪われ、極度に専門化された職務において、自己の個性からその職務の要求する特定の能力だけを抽象して働かしめることを要求される。
- ・ニヒリズム
- 実存主義者は、不安・孤独・絶望を人間の運命と見なし、この運命を自覚して運命を自覚して生きるところに人間本来の在り方を求める。
- ニーチェ「権力への意志」
- 「ニヒリズムとは何を意味するのか?至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ、目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。」
- ニヒリズムとは
- 世界が全面的に無意味化されるということである。現代は「疎外」ということが問題となっているように、人間と人間とが互いに引裂かれている時代である。人間的連帯性を欠いたこのような社会状況にあっては、各人の可能性はその統一的実現の基盤を失う。その結果、我々は、自己の可能性から現実を意味付けながら生きる存在である。ところが、いまやその可能性の実現が阻まれるのであるから、現実は意味を奪われた全く無理由なものとして現われて来ざるをえない。そこに現われて来るのが、ニヒリズムである。ニヒリズムは、自己の諸可能性が、人間的連帯性を欠いた社会状況において、その統一的実現を阻まれるところに成立する。
- ニヒリズムの原因について
- ・人間の運命とする見方。つまり人間は死すべき運命である。故に人間は無意味な存在である。
- ・特定の社会の産物とする見方。
- ドストエフスキー
- 「もし神が存在しないとすれば、すべては許されるであろう」
- 現代社会における人間の孤独に完全に孤立した状況の下では、通常の手段では自己の要求を実現しえないために、極端に破壊的な行動に訴えるのである。
- ・社会参加
- 現代思想の中でサルトルの占める独自な位置は、彼がニヒリズムの克服を社会変革に求めている点にある。現象学は意識の基本構造を「指向性」と規定する。サルトルは、近代思想の根底にある「自我」(Ego)とその内面性を否定する。指向性という概念は、事物を離れた意識はありえないとすると同時に、事物をあくまでも意識の相関者として捉えることを要求する。意識の常に自分自身に対してあるという在り方をサルトルは「対自存在」と呼んでいる。意識の持つ否定、超越の働きがサルトルの言う「無化」であり、それによって、無意味な塊である存在から特定の意味と輪郭とを持った対象が切り取られ、多様な現象が現れる。
- サルトル「実存主義はヒューマニズムである」
- 「実存は本質に先行する」人間はあらかじめ決まったあるべき在り方を持たず、自らつくるところのもの以外の何ものでもない。もし神が存在しないとすれば、すべては許されている。
- 主体としての他者によって客体化された私が、対他存在である。人間は現実を自分にとって一定の意味を持った状況にまで構成するという仕方で、自分の世界の中に存在している。ところが、そこへ他人が登場し、自分にまなざしをむけるや否や、私の世界は崩壊し、他人を中心として再構成されることになる。このようにして、私が他人のまなざしのもとに、自分の世界ごと一個の事物と化し、自由を奪われることを、サルトルは「疎外」と呼んだ。
- サルトルが他の実存主義者と違うのは、後者が特権化した知識人の孤立状態を、階級対立の中でのプチ・ブルジョアの根なし草的状況として直視しようとした透徹した自意識にある。
- ・状況倫理学
- ヤスパース「現代の精神的状況」1931
- 「いまや、たしかに、ひとつの意識がひろがっている。すなわち-何もかももう駄目だ、疑問でないものは何一つない。ほんものだという確証のあるものは何もない。イデオロギーによって瞞しあったり自己欺瞞をやったりしているなかで依然として存続するものといえば限りのない渦巻だけだ、という意識が。」
- 倫理とは行為における善悪もしくは正邪というような区別の基準を意味する。
- 状況とは倫理的行為において主体によって理法と価値が結び付けられ、それらが共に現実化される局面を意味する。
- 行為の倫理的区別の根拠は行為主体のその時々の個別的・一回的状況の中にしか求め得ないというのが、状況倫理学の考え方である。
- 状況倫理学は、倫理的価値の問題を形式的な原則によって考えるのではなく、個々の行為主体の実践的決断の問題として取り扱う。即ち、一般的に「善とは何か」、「人間はどうあるべきか」を問うのではなくて、「わたしはこの状況においていま何をすべきか」、つまり幾つかの行為の選択可能性を前にして「どの行為を選ぶべきか」を問おうとするのである。状況倫理学のこのような主張にはJ・P・サルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義のテーゼと相通ずる面が含まれているとも言い得るであろう。
- ・今日の危機の性格
- 1.いわゆる全く不可解な出来事が突発的に起る。
- 2.アイロニカルな出来事、つまり、自己矛盾や自家撞着になるような出来事が、しかも大規模な仕方で起る。
- 現代人は別次元の世界から問題をつきつけられて当惑している人間として描くことができる。
- 今仮に一次元の世界にだけしか生きることのできない人がいるとする。彼の世界は線の世界だけであり、従って彼の頭の働きも行動も前方か後方かのこの二方向にしか働かない。そこでこの彼に誰かが横の方から石でもぶつけたとしよう。すると、彼の頭は前方と後方の二方向にしか働かないから、彼はどんなに頭脳をふりしぼってその石を投げた男を探そうとしても、それを自分の前を歩いている者か後ろを歩いている者かにきめつけざるをえなくなる。こうして彼がそれを実行に移せば、前の者とも後ろの者とも大喧嘩になるだろう。その有様は少なくとも二次元の世界に生きている人間から見るならば、滑稽でもありそれ以上に憐れである。彼は、この問題が二次元の世界から起こされていることを知らないし、知る能力すらもっていないからである。
- それならそれを笑う二次元の世界にだけ生きている人間はどうであろうか。この人間は面の世界に生きているのだから、彼には、前と後ろのほかに横というものがある。しかもその横とは、単に真横だけでなく、四方八方ななめという具合にいくらでも開かれた可能性となっている。従って彼は、一次元の男とは違って、自分の周りからならどこから問題が起ってもその原因をつきとめることができる。ところがこの男の世界には「高さ」というものがない。従ってこの男に誰かが高い所から石をぶつけたとしよう。彼はその原因を自分の周りにいるありとあらゆる人間に求めようとするだろう。そして喧嘩が起るであろう。この有様を三次元の世界に生きている人間から見るならば、滑稽でもあり憐れでもある。彼には、その原因が三次元の世界から起こされていることは知るよしもないからである。
- それならそれを笑う三次元の世界に生きる男はどうだろう。彼は立体の世界に生きているので、線、面の他に、上下の世界が加わっているわけである。要するに、空間の世界ならどの方向にも彼の頭は働き行動ができる。ところがその彼も、空間とは別のもう一つの世界、つまり、時間の世界から問題が起ってくる場合、彼はその原因を空間の世界のなにがしかに求めるために、結局は前述の二人の男の場合と同じ悲喜劇になってしまう。彼も、自分の世界より高次の世界から起こされた問題に関しては、考える能力すらないからである。
- それなら四次元の世界に生きる人間はどうだろうか。彼は、空間のみならず時間の世界にも生きている人間である。従ってこの男は、いかなる方向から問題が起ってきても、前三者とは比較にならない開かれた自由さのもとにその原因をつきとめることができる。ところがこの男も、もしそこに起っている問題の根が超時空の世界にあり、そこからその問題が起っているとするならば、やはり彼も前述の前三者と同じ状況に置かれることになる。超時空の世界とは、強いて形容するならば。「深さ
- 」の次元の世界である。もしこの世界を「深さ」の次元の世界と形容するならば、前述の四次元までの世界は全部一応「面」の次元の世界と形容しても差支えなかろう。今日の問題というのは、この「深さ」の次元の世界から起っていると思われる。
- キルケゴール
- 「問いは知らないものによって発せられる。しかもその知らない者は、何が自分をしてそのような問いを発せしめているのかということをこそ知らない」
- ・今日という時代の位置
- ボールディング.は、歴史を文明社会史として捉え、その歴史の全時期を3つに分けている。即ち、文明前社会の時期、文明社会の時期、文明後社会の時期としている。文明前社会の時期というのは、人類発生以来文明社会に移行するまでの長い時期である。その文明社会の時期というのは、今から約1万年前から5千年前の間に始まり、その時から大体20世紀の中葉までの時期を指す。文明後社会の時期とは、20世紀になって今までの歴史にない兆候を見せじはじめた時点からはじまっている。
- 精神:科学や哲学や思想の根底をなしている主観の「意識」の態度或いは姿勢を指す概念。
- 「今日」という時代:今まで実に長い間続いたところのその時代が終焉しつつあることを、従ってその次の時代が始まりつつあることを意味する時代。450年から500年も長く続いた時代の終りをむかえた時代、そしてそれとは全く異なった新しい時代の地平が始まりつつある時代であり、それ故当然にその「危機」の意味するものは並大抵のものではないことが推測される。
- ・今日の危機の構造
- 今日の危機:根本的には文化の危機
- 「近世的思惟」の特徴
- 1. 主観の登場とそれの絶対化 → 人間は自らを全知全能なる者と信じ込むようになった。
- 2. 進歩の思想及び進歩史観
- 3. 実証主義及びその思考方法
- 以上、近世的思惟の特徴とは、主観の絶対化、その座からの進歩という名における人間の絶対的自己主張(即ち絶対的他者否定)、更にそれの中身としての実証主義と実証主義的思考方法の固定的軌道化にあると言えるだろう。
今日の危機が政治と経済の危機としてだけ、要するに社会現象としてだけ見られているその見え方自体こそが今日も危機の実相を表しているものだと考えられる。そこでそのような見え方をつくっている思考様式そのものを根本から転換することこそが基本的な課題となろう、
- 近世的思惟の非倫理性が破壊したもの
- 1. 「世界」というものを破壊し、「世界喪失」という状況をもたらした。
- ハイデガーはこれを故郷喪失と呼んでいる。
- 2. 人間存在が基づいているところの根源的諸関係。
- ゼールドマイヤーは「中心の喪失」と呼んでいる。
- (1) 人間の神に対する関係
- (2) 人間の自分自身に対する関係
- (3) 他人に対する関係
- (4) 自然に対する関係
- (5) 時間に対する関係
- (6) 人間の精神的世界に対する関係
- この6つの根源的諸関係を失い、中心を喪失することにより次の3つの型の人間が登場する。
- (1) ドン・ジュアン的人間(享楽をカテゴリーとした人間)
- (2) ファウスト的人間(懐疑をカテゴリーとした人間)
- (3) アハスヴェルス的人間、或いは、永遠のユダヤ人的人間(絶望をカテゴリーとした人間)
- これらが中心を喪失した「近代人」の3つの型である。
- 今日の危機の問題を打開する2つの方向
- 1. 近世の「思考」と「学問」の枠組を規定している近世的思惟そのものの枠組を根本から検討して、新しい枠組みのもとでのそれらの新しい在り方、或いは、本来的な在り方を探究する方向。
- 2. 近世的思惟の問題もその根本は、近世における「人間の在り方」と深く関係しているので、この「人間の在り方」を根本から検討して、人間の新しい在り方、或いは、本来的な在り方を探究する方向。
- ・批判という言葉
批判は批評ではない。批評における最も本質的な点は、批評するものは、あくまで第三者の世界にとどまっておりながら、しかもその根本的な関心事は、その世界の自分のことにはなく他人の世界の他人のことがらにあるという点である。
- 批判は非難ではない。非難は、自分はあくまで第三者的世界にとどまっておりながら、そのままの状態で他人の世界に介入していること、しかもそれは、その相手に対して断定をとっていることである。なので多くの場合非難は自分の手を汚さないで自分の正しさを立証するだけに終る。
- 批判は否定ではない。否定は非難における断定の場合以上に、その判断や行動に絶対性が支配している点に特徴がある。その根本的な関心事は、自分に対してではなく、他人のの事柄にあるということが、注目されなければならない。