Art Collection

Peste a Rome Jules Elie DERAUNAY 1869

 ドローネーは、1857年、ローマのフランス・アカデミーの留学生となって以来、アカデミーの規則にかなうような「神話もしくは歴史に主題を求めた油彩エスキース」のテーマを探していた。彼はローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂を訪れたとき、そこにある1476年にこの町を襲ったペストのエピソードを描いた今日コジモ・ロッセリ(1439-1507)の作とされているフレスコ画を称賛した。こうして彼はこの主題を取り上げることにして、善悪両天使が次の犠牲者の家の戸口に現れる群像構図をそのフレスコ画から借用することを決めた。ナント美術館にある数多くの素描は、彼がゆっくりと時間をかけて構想を練っていたことを教えてくれる。まず1859年に彼は、留学3年目の必須課題として現在ブレスト美術館所蔵のエスキースを仕上げ、その後1869年にパリの美術館で開かれたサロンに出品された最終作品(作品番号684)に到達した。

 エスキースの制作からサロン出品作品の制作までには10年の隔たりがある。その間、ドローネーは、自分の時代と関わる個人的な様式を創出するために、アカデミックな教育から遠ざかり、17世紀フランス絵画に近い構図と色彩に代えて、より簡潔な情景とより暗い色彩を用いた。それはギュスターヴ・モロー(1826-1898)の作品と関係がないわけではなく、批評家エドモン・アブー(1828-1885)は、われわれは「大気のなかに広がる悪を表す、重苦しく、息を詰まらせるような空気」に直面すると書いた。ギリシャの医神アスクレピオスの像が画面右上にあるにもかかわらず、死は否応なくその残虐な行為を遂行するのである。おそらくドローネーは当時の社会状況-フランスは1870年、プロイセン軍に敗北を喫するが、その直前の危機的な時期にあった-と重ねあわせて考えていたのであろう。

《 Lenigme 》 Gustave DORE 1871

 アルザス生まれのドレにとって、1870年の普仏戦争による敗北とその結果としてのアルザス=ロレーヌ地方のドイツ帝国編入は、悲しみ以外の何物でもなかった。この《謎》は、故郷喪失者となった画家が、悲しみと怒りを込めて愛国的感情を寓意的に表現した作品である。

 戦争が終わった直後の1871年に、ドレは3点の大型作品を描いた。《謎》《プロイセンの黒い鷲》《パリの防衛》と題されたそれらの作品は、いずれもグリサイユ(単彩画)のようなモノクロームの色調で描かれており、1885年の画家の死後のアトリエ売り立て目録では、「1870年の思い出」と名付けられてひとくくりに分類された。

 普仏戦争当時はパリにいて従軍し、プロイセン軍によるパリの包囲戦をまのあたりにしたドレのこれらの作品における描写は、レアリスムを基調にロマン主義的感覚を散りばめたドラマチックな様式を示しており、第二帝政期のネオ=バロックとでも呼ぶべき画家の特徴が存分に発揮された作品群になっている。中でもきわめて劇的な内容を見せているのはこの《謎》であろう。兵士や市民たちの死体が累々と続く小高い丘の上に、人頭獣身のスフィンクスが坐る。遠景には地平線に至るまで炎と煙に包まれるパリの市街が遠望され、砲撃の被害にその激しさを物語る。暗い、嵐のような空を背景に、「フランス」を擬人化する翼を付けた女性がシルエットで浮かび上がり、涙を浮かべながら、冷たく押し黙ったままのスフィンクスに尋ねる。「何故?」

 ギリシャ神話のオイディプスの物語を下敷にしたこの画題は、1885年の売り立て目録によれば、以下のようなヴィクトル・ユゴーの韻文詩の一節に基づいている。

ああ!人々が作り上げるものが死んでいく光景よ!
このような過去は、魂にとって深き悲しみ!

 前景の犠牲者たちの描写には、グロの《アイラウの戦場のナポレオン》(1808年、ルーブル美術館)やドラクロワの《キオス島の虐殺》(1824年、ルーブル美術館)などの、先行する絵画の影響も指摘されているが、ドレのこの黙示録的イメージの奥には、特に彼が絵画や銅版画で好んで扱った壮大なテーマ、中でもダンテの《地獄篇》(1861年)などのヴィジョンが重ね合わされているのだろう。ドレはとりわけ挿絵画家としての関心から、ヂューラーやレンブラント、ゴヤやブレイクなどの作品を研究したが、絵画においても、細部の線的な表現や明暗のコントラストの強調によるドラマチックな効果などには、そうした探究の反映が見てとれる。

 普仏戦争の敗北がフランスの美術家たちに及ぼしたさまざまな影響については、戦後最初のサロンである1872年のサロンには、数多くの戦争をモチーフにした作品が出品され、その後もあらゆる機会を通じて、繰り返し美術家たちによって扱われる主題となったことが指摘される。

《鮭》 高橋由一 1877

 右上からの光を帯び荒縄に吊るされた鮭の確かな存在感。身近な題材を鋭い観察力とリアルな質感表現で描いた屈指の名作である。

 身近な題材を迫真の写実美で描いた油画の傑作として広く知られる。明治30年(1897)に東京芸術大学収蔵品となり、昭和42年(1967)に重要文化財に指定された。作品は茶褐色に着色された洋紙に描かれ、修復を経て現在は表具仕立てになっている。本作の大きな魅力のひとつに質感表現の美しさがある。しかし全てを精緻な描写で描き尽くすのではなく、鮭の頭から尾に到るまでを適確な手順と描写でリズミカルに描き切っている。例えば、縄・頭・胴はやや厚塗りで、絵具の粘りや筆触を生かして素材感を表現している。逆に背景・切身・尾は、紙の地色や下塗りの色の発色効果を利用してさらりと描き、全体を均衡のとれた美しい色調へと導いている。形を適確に把握し、適所に西洋の伝統的な明暗法を生かして描いたこの写実美の成功は、師フォンタネージの影響とまだ当時困難だったはずの洋画学追及にむけた、由一の一途な信念の結実である。

《 Le palais en ruine 》 Paul Delvaux 1935

 荒れ果てた風景の中に、宮殿だけが建っている。あちらこちらに岩が転がり、宮殿に続く石畳の上には、 カリアティード(女性を型どった柱)の残骸のようなものが見える。これが建物の装飾だったものとすると、周りに転がる石も廃虚となり風化していった建物の一部だったのかもしれない。宮殿の窓も入り口も、真っ黒に塗りつぶされていて、入る者を拒むかのようである。それ以前に、この世界には全く人の気配がしない。単に人が描かれていないのではなく、人類が死に絶えてしまった後の世界のようである。デルボーがこれまで描いてきた風景画とは全く違う。この作品にもシュールレアリスム的な雰囲気が漂っている。デルボー自身は、この作品を最初のシュールレアリスム的兆候の作品としている。勿論、それ以前の作品にもシュールレアリスム的な傾向は見られるので、この言葉をそのまま受け取ることはできない。おそらくデルボーが、この頃から自らのシュールレアリスム的体質を自覚し始め、それがこの言葉となったのかも知れない。


《鱈梅花》 高橋由一 1877


 

《日本武尊》 高橋由一 1891


《The Stolen Kiss 》 Fragonard, Jean-Honore. France. Late 1780s

1921年3月18日に締結したロシア=ポーランド和平協定により、2世紀以上に渡って歴代ロマノフ皇帝がポーランドから運んできてエルミタージュ博物館の所蔵品としていた美術品等をワルシャワに引き渡すことになった。そこにはポーランド人にとって大切なベロットの連作『ワルシャワ風景』が含まれ、またレンブラントの『マルティン・ソールマンス肖像』やサロモン・ヴァン・ロイスダールの『ハールレム近郊の風景』があり、クラクフの王宮から姿を消し、バシフスキー家のコレクションとともにエルミタージュが取得していた歴代ポーランド国王の戴冠式用の剣もあった。ポーランド側は、エカテリーナII世が愛人のスタニワフ・ポニアトフスキに贈ったが後に取り戻していたフラゴナールの『キス』の要求していた。エルミタージュ側はアントワーヌ・ヴァトーの『ポーランド女』を代わりに提供することで、フラゴナールは手元に残すことができた。


《 Ads Apple (TP), (Regular) 》 Andy Warhol


Barnet Newman,"Onement I" 1948. Oil canvas,27×16". The Museum of Modern Art, New York.

「オレンジの要素は赤褐色を二つの等しい部分に分割し、それを引き離していた。オレンジはある形態でもなく分割でもなく、赤褐色を一緒にし引き離してもいる二つの縁のあるドローイングであった。かくてバック・グラウンドは廃棄された。」
Thomas B.Hess,"Barnett Newman",The Museum of Modern Art, New York,1971 P.31
『ワンメント・I』において中央に線を引いた時に生じたストライプとフィールドの分節とそれらの関係こそニューマンの絵画の独自の言語形式をひらく素朴な出発点になった。『ワンメント・I』以来の試みのなかで画面という全体は、一見すると面と線からなるように見えるが、実はそれらは同じ水準で相互に意味を与えあう、全体としての絵画の分節的かつ統合的な関係にほかならないのであった。
「私は(かつて)物事が育つようにキャンヴァスを埋めてきた。そしてこの意味で、事物が空虚であることを確かめながらキャンヴァスを空虚にしていたのである。そして突然、『ワンメント・I』というこの特別な絵画において、私は表面を埋めたことを理解した。それは充実していた。そしてその時から他のものは私にとって(単なる)アトモスフェアに見えるようになった。」
"Interview with Emile de Antonio" 1963,Barnett Newman,"Selected Writings and
Interviews",Ed.by John P. O'Neil, Alfred A.Knopf,1990 P.306