SINGAPORE




2000/11/23(木)

成田発 17:15(20分早) UA853便 シンガポール/チャンギ国際空港着 23:30(20分早) 
曇り。入国審査、両替共にスムーズ。2000年11月現在、 S$1≒64 円。時差:-1時間


2000/11/24(金)

市バスで市内( ラッフルズ・シティ)へ(S$1.5、約40分)

 

 

グッド・シェファード教会  

 アルメニアン教会 

 ドーリア式の白い教会。1835年、シンガポール在住のアルメニア人12家族の基金によって設立されたので、この名前が付いた。別名をセント・グレゴリー教会ともいう。

チャイムス

 チャイムスは約150年前にフランスの尼僧によって造られた修道院を改築した建物。

セント・アンドリュース教会

 典型的ゴシック建築のこの教会は、1856〜63年に建てられたもので、イギリス国教会派に属している。


シティ・ホール

 1929年に建てられたヴィクトリア様式のシティ・ホールは、第二次世界大戦終結後の1945年9月12日に日本軍のイギリス軍に対する降伏調印が行われた歴史的意義のある場所として有名。現在は、外務省をはじめ各政府省庁が置かれている。

 1945年9月、連合軍の東南アジア方面最高司令官だったマウントバッテン卿と日本軍の板垣征四郎大将との間で、日本軍の降伏調印式が行われた。その場所に使われたのがシチィ・ホール。

    


最高裁判所

 丸いドームを持つコリント様式。

国会議事堂

 アイルランド人の建築家ジョージ・コールマンが、1827年に裕福な商人の依頼で設計した建物。その後空家となったが、1841年にS$1万5600で政府が買い取り裁判所にした。国会議事堂として使われるようになったのは1860年代から。建物正面の前の象の銅像は、1871年にシンガポールを訪れていたタイ国王ラマ5世が、多大なる歓迎に感謝してお返しとして贈ったもの。

ラッフル上陸記念の地に立つ像

背後にはシンガポール川を挟んでUOBプラザ等のビルがそびえ建つ

脇に大きく葉を広げる扇椰子(トラベラーズ・パーム)

ラッフルズ上陸地点

 1819年1月29日早朝、東インド会社の官吏、スタンフォード・ラッフルズが最初の一歩を印したといわれている。19世紀初め頃、アジアの貿易を独占していたオランダに対抗して、ラッフルズはシンガポールを、マラッカ海峡を自由に航行するための拠点とした。その後、街はシンガポール川を物資輸送の重要な水路として栄えていった。

 シンガポールの建設者スタンフォード・ラッフルズは1781年、イギリス商船の船長の息子として、西インド諸島ジャマイカ沖合の船内で生まれた。イギリス東インド会社の植民地行政官となったラッフルズは、ジャワ副総督などを務めた後、1819年1月末にシンガポールに上陸した。当時のシンガポールはマレーシアのジョホール王朝の領有地で、住民は数百人ほどしかいなかったという。

 ラッフルズはジョホール王朝の王位継承争いに乗じてシンガポールでの植民地と商館建設の許可を得ることに成功し、シンガポールをイギリスの中国貿易の拠点とした。彼の手腕により、イギリスはシンガポールの他にペナン、マラッカの植民地も保有することになり、のちのイギリスのマラヤ支配の出発点となった。ラッフルズはジャワのボロブドゥール遺跡の復元にも尽力し、動植物の新種の発見にも熱心であったという。大著「ジャワ誌」を著し、1824年イギリスに帰国した。シンガポールの生みの親といえるといえるラッフルズの上陸地点には彼を記念して白いブロンズ像が立ち、サマセット・モームなど多くの作家や芸術家に愛されたラッフルズ・ホテルをはじめとして。ラッフルズ・シティ、ラッフルズ・キーなどいたるところに彼の名が冠されている。


ビクトリア・コンサート・ホール&シアター

 白亜の時計塔を持つ美しい劇場で、その前には黒いラッフルズの像が立っている。なお、ここのラッフルズ像は、ラッフルズ上陸記念の地に立つ像の元になったものである。

エリザベス・ウォークから

フラートン・ビルを背に

マリーナ橋からの正面

マリーナ橋からの側面

マーライオン

 シンガポールのシンボルとして、1972年9月15日20:45にリー・クアンユー首相(当時)が除幕のボタンを押し公開されたのがマーライオン。上半身がライオン、下半身が魚の像。上半身のライオンはシンガポールの名前の由来であるシンガ( サンスクリット語でライオンの意味)に由来し、下半身の魚は港町シンガポールを象徴しているという

 全長8m。シンガポールの彫刻家ナン・レン・ソンによるもの。$100,000のお金をかけ、40tものセメントを使って造り上げた。

マーライオン・パーク

小マーライオン・パーク

ラッフルズ上陸地点(UOBプラザから)

マーライオン(UOBプラザから)

シンガポール川、ハイ・ストリート・ショッピングセンター、フォート・カニング/パーク(UOBプラザから)

戦争記念公園

 1942年2月15日、シンガポールが日本軍に占領されてから10日間にわたり、数万人の華人が虐殺された。その犠牲者の霊を慰めるため、またこのような惨事を二度とくり返さないようにと、シンガポール、日本両政府の協力で1967年に68mの高さを持つ「日本占領時期死難人民記念碑」が建てられた。塔は4本の柱から成っており、それぞれ中国人、マレー人、インド人、ユーラシアンを表わす。


シンガポール・アート・ミュージアム

 かつて聖ジョセフ学院(カトリックの男子高)だった建物を改装してオープンした現代アートの美術館。十字架がそびえるドームを中心にシンメトリックに建てられており、その建築美はシンガポールでも有数のもの。シンガポールに現存する19世紀半ばの建物としては貴重な存在で、ナショナル・トラストにも指定されている。

18:30 出港







沖合いで停泊する船

 シンガポール・スリング



20:30 帰港

クルーズ

 クリフォード桟橋から出るクルーズは、シンガポール沖の島々やコンテナ、そして海の上からシンガポールの街並が眺められる。

夜のマーライオン

ビルを背に

ビルを背に

夜のラッフルズ

昼のラッフルズ

国旗がたなびく

ラッフルズ・ホテル

 「ラッフルズ・ホテルは、東洋のエキゾチックな神話のために存在している」

 かつてサマセット・モームは、ラッフルズ・ホテルのゲスト・ブックにこう書き記した。モームばかりではない。ヘッセもコンラッドもキップリングも、あるいはグレース・ケリーやエリザベス・テーラーもここに泊まりラッフルズの神話を感じている。

 現在のラッフルズは、1989〜1991年に改装された建物だが、美しい白亜の館の雰囲気は、神話を作り出していた当時そのままといえる。前庭ではトラベラーズ・パームが大きく葉を広げ、車寄せ脇にはオースチン型のクラッシックなリムジンが停車している。

 ラッフルズ・ホテルは1887年12月1日にオープンした。当時のシンガポールには、在住ヨーロッパ人たちの社交場がなく、そこに東南アジア各地でホテル事業を行っていたアルメニア人サーキーズ兄弟がやってきて、このホテルをオープンさせた。。以後、ラッフルズ・ホテルは在住ヨーロッパ人の社交場として、また東南アジアや南大平洋を旅するヨーロッパ人たちで賑わうことになる。「東洋のサボイ」と呼ばれるようになり、旅人たちの間では「またラッフルズで会いましょう」が合い言葉になったという。モームが秀作「雨」を書き上げ、キップリングやコンラッドが訪れたのもこの時代である。

 しかし、そんな平穏な時代は長くは続かなかった。1942年、シンガポールが日本軍に占領されると、ラッフルズは昭南旅館と改名させられる。ホテルのグリルも日本料理店に変えられ、従業員は着物を着せられた。ホテルからラッフルズという名前の消えた不幸な時代である。また、戦後も反植民地思想の誇張された標的としてやり玉に上がるなど、順風満帆に歩んできたわけではない。それでも、このホテルは多くの人に愛され、親しまれてきた。

今夜のホテルはビーチ・ホテルに。

 95 BeachRd.,189699
 エ336-7715
 FAX:336-7713


2000/11/25(土)

ラッフルズ・ホテル中庭

ゴーゴープラム

信者はインド系の人が多い

供物や布施が捧げられる


スリ・ヴィラマカリアマン寺院

 ゴープラムにはヒンドゥーの神々や神聖な動物の牛、戦士が彫り込まれている。寺院をひと回りする壁は、紅白に塗り分けられている。

 

スリ・スニバサ・ペルマル寺院

仏像

寝釈迦仏

千燈寺院

 正式名をシャカ・ムニ・ブッダガヤ寺院という。中には、高さ15m、重さ350tの極彩色の仏像が鎮座している。仏像の周りに、1,080個もの法灯がめぐらされていることから、千燈寺院の通称が付いた。

サルタン・モスク

 シンガポール最大最古の回教寺院(1928年建造)。

旧日本人街

 現在、西友、パルコ、インター・コンチネンタル・ホテルなどが集まったブギス・ジャンクション。この中にハイラム・ストリート、マラバー・ストリート、マレー・ストリートという通りがある。この辺りが、戦前日本人街として賑わった所である。

オーチャード・ロード

 19世紀までこの辺りはナツメグなどを栽培する果樹園があった。このことからオーチャード(果樹園)という名前が付いたといわれている。今でこそメインストリートになっているものの、その頃は小さかった市街地の郊外で、富裕なヨーロッパ人や中国人が屋敷を構えた高級住宅地だった。広い庭を持つコロニアル様式の屋敷、そしてその周りには緑豊かな果樹園が広がる、そんな当時の様子を今のオーチャード・ロードから思い浮かべることはできない。20世紀中頃、マレー鉄道はオーチャード・ロードを陸橋を渡って横切り、エメラルド・ヒル・ロードの家々の裏手を走っていたという。今、大量輸送鉄道MRTが地下を走るようになったので、オーチャード・ロードで列車の汽笛を聞くことはできない。

 20年ほど前、リー・クアンユーがオーチャード・ロードを一大ショッピング・センターにすることを唱える。この時から果樹園は消え、コロニアルな屋敷は消え、列車の汽笛は消えた。代わりに世界中の物を集めたショッピング・センターが軒を並べ、巨大なホテルが林立した。すべてのものを新しく、そんな政府の政策を、ものの見事に実現して見せたのが、オーチャード・ロードである。

夕食はラーメン。

ナイトサファリ

 約100種1,000頭の動物の夜の生態が観察できるナイトサファリは、世界でも類を見ない。しかもここで見られる動物の約半分は、現在絶滅の危機に瀕しているといわれている。

 


2000/11/26(日)

シンガポール/チャンギ国際空港発 7:00 UA852便 

マレー半島東岸
沖縄上空
富士山
ブロッケン現象

成田着 14:25 定刻 曇り。