1920年代に書かれたとおぼしきカフカのノートの中に、こんな文章がある。

 その街は太陽に似ている。中くらいの円周の内部に、ありとあらゆる光が蝟集していて、それは眼も昏むばかりで、ひとはただ茫然自失するほかはない。街路はなんとか判別できるものの、家屋となるともうまるで見分けがつかない。いったん足を踏み入れたが最後、文字どおりでられなくなってしまう。その外にひろがっているはるかに大きな円周の内部は、依然として狭隘ではあるが、もはや光線が間断なく放射されることもなく、暗い路地や隠れた通り抜けがひそんでいるばかりか、薄暗くひんやりとしたたたずまいの小さな広場さえ、そなわっている。その外に、さらに大きな円周が控えていて、ここまでくると光はもはやまばらで、あえて眼で追わなければならないほどだ。このあたりには、郊外特有の大きな空地が、ひたすら冷たい灰色の薄明のなかに横たわっているばかりである。そして、そのはてには、茫漠とした曠野がつづいている。鈍色の光のもとで、晩秋の気色をたたえつつ、殺風景そのもので、ある種の稲妻が閃くことさえほとんどないままに。


1999/5/4(火)

成田発 10:55 LH711便 フランクフルト着 14:50 定刻通りのフライト トランジット
フランクフルト発 16:15 LH3310便 プラハ着 17:20
時差-7時間(summer time)
入国手続き、両替共スムーズ。
('98年11月現在1Kc≒4.1円)
インフォメーションでホテルを予約。
市バス119番(12Kc)で市内(Dejvicka)へ。街全体が美しい。20時だとういうのに明るい。30分程でDejvickaへ、道を尋ねながらホテルへ。人が皆おだやかだ。フラッチャニ、プラハ城、マーチス橋、旧市街広場、火薬塔と抜け、1時間程でホテルAXAに。ここで2泊する。
Hotel AXA
Na porici 40,praha1
TEL.(02)57320565 Fax (02)57320611
S 2350Kc V,Mカード可

1999年5月5日(水)

朝食はホテルで。パン、ハム、果物、紅茶等。
ホテルを出発し、プラハ・ マサリク駅へ。通勤客が多い。
火薬塔(火薬門)
 くすんだ黒が印象的な火薬塔は、もともとは1475年にゴシック様式で建てられたもので、旧市街を守っていた城壁にあった門のひとつであった。17世紀に火薬倉庫として利用されたため、こう呼ばれるようになったという。
ヤン・フス像
 ヤン・フスは15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者。本職はカレル大学の総長だったが、プラハのベツレム礼拝堂で説教師もつとめており、民衆にもわかりやすい説法で幅広い層の支持を得た。ローマ教会の堕落を激しく批判したため、異端として1415年に火あぶりの刑に処されてしまった。
「ヤン・フスのとらえどころのない長いシルエットが、ブロンズの火刑台の薪の先に浮かび上がる。」

スィルヴィ・ジェルマン

フランツ・カフカの生家
Franz Kafka(1883-1924)
近代の悪夢を予兆する異化と夢幻の作品世界。

 「カフカはプラハであって、プラハはカフカであった。かくも完全に、典型的にプラハであったことはかつてなかったし、カフカが体験したようにプラハがあり得ることももはやない」と、ヨハネス・ウルズィディルは断言している。「彼の友達であり、幸福な少数者である私達にはわかっていた。カフカの作品の中の至る所に微細な粒子となってプラハが含まれていることが。彼と共に消え去るこのプラハが、もしもカフカの死と同時に葬られなかったとしたら、まさしくカフカの功績といえる。」一介の地方人ともいえる彼の生涯が、プラハの古い街並みの織りなす錯綜の中で展開された。が、子供の頃から夢だった遥かな国へ行くことは一度もなかった。

「変身」 フランツ・カフカ
 布地のセールスマンであるグレーゴル・ザムザは、「ある朝、不安な夢からめざめたとき」、自分がベッドのなかで巨大な毒虫に変身しているのに気がついた」。そうした事実が存在しないかのように、あくまで日常的にふるまおうとするグレーゴルの思考及び挙動は、動かし難い事実によって否定されてしまって、彼は、結局は「毒虫」としての生存様式の中に追込まれていく。
 他方、グレーゴルの「変身」と共に、父親、母親、妹もまた、次々に「変身」する。老いぼれていたはずの父親は、生計をたてなおす必要から、働きにでるようになるが。「銀行」のものらしい制服を身に付けることによって、再び家長としての権力を回復する。もともと兄と親しかったはずの妹にしてからが、「変身」した兄を「けだもの」と呼んで、家庭から放逐すべきことを断固として主張するようになる。そして、最後に待ち受けているのは、グレーゴルの死後、それまでとはうってかわった明るい陽光のもとで、電車に乗って郊外にでかけていく三人の、ひさかたぶりの一家団欒の、そのマイホーム主義のおぞましさである。

城」 フランツ・カフカ
 Kと呼ばれる身元不詳の男が、「城」が宰領する「村」へやってきて。一夜の宿を求めるところから、物語がはじまる。滞在許可証明書の提示を要求されて、自分は「城」から招聘された「測量技師」であると咄嗟の嘘をついた結果が、他方で、「城」がかつて誰かを「測量技師」として招聘しようとしたことがあるらしいという事実と、いつしか錯綜していく。「城」の権力の中枢に位置すると思われる執事のクラムに連絡をとろうとするが、そうした努力は、全て徒労に終わってしまう。
 Kにとって「城」との関係を獲得することは、「村」に住みつくための不可欠の手続であるはずだった。しかし、Kと同棲する酒場の給仕女フリーダの眼には、「城」との直接的な関係こそが、Kの最終の目的であるかのようにみえてくる。「村」で村人達と、とりわけ女達と共に生きることは、Kにとって、どのような意味を持っていたのか。フリーダには、カフカが愛した唯一のキリスト教徒の女性であった、チェコ人のミレナ・イェセンスカの面影がうかがわれるといわれている。「城」に限らず、晩年のカフカの作品の中で、同じ民族共同体の中に生きる可能性と共に、他方で、疎外されながらも異なる民族と共生する可能性が、絶えず試されていたことは、やはり疑うわけにはいかないだろう。

旧市庁舎

 現在の姿は第二次大戦で破壊された後修復されたものだが、もともと旧市庁舎は一から建設されたものではなく、数世紀かけてもとからある建物を増改築したり、業務上の必要のため隣接する家を買い取ったりしてできたものだという。そのため装飾や大きさなどが異なる建物が連なっており、どこからどこまでが旧市庁舎なのかわかりにくいが、時計のある塔から黒地の壁面いっぱいに人物が描かれたスグラフィット装飾が目を引く角の建物までが旧市庁舎。もともと塔の横の現在芝生になっている部分まで建物があったが、第二次大戦中ナチス・ドイツにより破壊された。その記憶を忘れないようにと、そこは現在までそのままになっている。
 塔と、隣の建物の細かい装飾のある扉はゴシック様式。スグラフィット装飾はルネサンス期のもの。真ん中のピンク色の建物には、旧市街の紋章と「プラハ、王国の首都」と描かれた装飾が施されている。
スグラフィット装飾
 16世紀半ば、ボヘミア全土に広がった装飾技術。もとはイタリアからもたらされたもの。木炭などで黒に色付けした漆喰を塗り、その上に石灰などで作られた白い塗料を掻き削って装飾する。背景を削って下の漆喰の黒を出し、人物などを白く残す場合が多い。
カレル橋
 ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の石橋。14世紀から15世紀にかけてカレル4世によって建造されたゴシック様式の美しい橋。全長約520m、幅は約10mもある大きな橋で、両側の欄干に並ぶ聖人像が目を引く。
 夜になると一定の間隔をおいて並ぶ街灯が、あらゆる神秘、幻影、驚きに適した薄暗がりを演出する。霧が渦巻いてくると、訪れる人によっては魔法の場所や、戦慄の場所に感じたりする。
「カレル橋は神に選ばれた人々にとって運命的だ。」

ロジェ・グルニェ

聖ヤン・ネポツキー像
 橋に据えられた第1号の彫像(1683)。この聖人が列聖する38年前にブロンズで制作された。ヤン・ブロコフの制作したこの像はいたって凡庸である。台座にはこの聖人に関わるふたつの場面、王女の告解と川の流れに身を投げる瞬間が彫刻してある。また兵士が母子に暴力を振るう姿があり、無垢の人々への大量殺戮を暗示している。

カレル橋の像

 17世紀に橋を飾っていたのはキリストの十字架像、聖ヤン・ネポムツキー、ピエタと聖ヴァーツラフ像など僅かで、他の彫像は18世紀の初め、反宗教改革の機運が高まりを見せたころ制作された。新しい彫像加わったのは19世紀で、20世紀になって保存のため大部分が複製に取り替えられた。

キリスト十字架像

 橋の完成時にあった十字架は、フス戦争の年に消失。現在の像は5代目で、1627年から1628年にかけて鋳造された。ヘブライ語の「聖なる、聖なる聖なる神よ」の碑文の費用を払わせた判決文が3つの言語で記されている。

ピエタ像

 1859年マックス作。オリジナルは1659年。その前はここに十字架(1469-)が建てられていた。

聖ルトガルディス

 1713年ブロコフ作。傷口に接吻しようとする聖女のために十字架上のキリストが身をかがめている。橋の上でも最も美しい像。

聖フランシスコ・ザヴィエル像

 1711年ブロコフ作のコピー(1913年作)。彼の布教した東洋の人々が、聖人を楯に乗せて担いでいる。

 「カレル橋の上に並ぶ彫像はいつもヴルタヴァ川に姿を映していた。この川は学校の地理の時間には平和条約に引き裂かれ、モルダウと呼ばれていた。」

ルイーズ・ヴァイス著「あるヨーロッパ女性の回想」

プラハ城

 プラハ城は、9世紀後半に聖マリア教会が建てられて以来、様々な用途の建物が徐々に建てられた、複雑な城である。14世紀のカレル四世の時代までには、ほぼ現在の形となった。その中には、何百もの部屋がある宮殿、元修道院、美術館と庭園などがある。チェコが建国されたころから、プラハ城は地上の権力の本拠であり、また最大の文化的中心であった。現在、プラハ城にはチェコ共和国国会と大統領府が置かれており、民族のシンボルとなっている。

「プラハに住む我々の頭上に偏在し、全能のもの。それがプラハ城である。丘の上の建築物というだけではなく、それが街といえるほどのミニチュア都市といえる。」

ドミニク・フェルナンデス

聖ヴィート大聖堂(フラーム・スヴァテーホ・ヴィータ)

 カレル四世が建設を計画した大聖堂。1344年にフランス人の建築家マチアーシュによって工事がはじまり、そのあとを中央ヨーロッパの最も偉大なゴシック建築家、ペトル・パルレーシュとその息子たちが引き継いだ。しかしフス戦争で工事は中断し、資金難もあって工事が終わったのは1929年になってからだった。このときの工事で、早い時期に建てられたゴシック様式の部分は修復され、ゴシックでない調度類は全て取り払われた。現在見ることができる外観は、最後の工事の時にネオ・ゴシック様式で建てられた部分である。全長124m,幅60m,丸屋根は28の支柱で支えられている。

「そこには、下のほうで木々の緑がリズムをつけているマラー・ストラナのバロックと対照をなして、聖ヴィートのゴシック式の大聖堂が建っている。」

アンジェロ・リッペリーノ

ヴァーツラフの騎馬像

 ボヘミア最初の王といわれている聖ヴァーツラフは、国難が迫った際には中部ボヘミアのグラニークの洞窟に眠っている手兵の騎士たちを目覚めさせ、彼らを撃退するという伝説の主だ。

ヴァーツラフ広場

プラハの春」の1969年1月、学生 ヤン・パラフが聖ヴァーツラフの騎馬像の前で焼身自殺をはかり、ソ連の介入に死をもって抗議した。また、その事件から20年後の1989年、100万人にのぼるプラハ市民がこの広場に集まり、無血の革命を果した。まだ記憶に新しい「ビロード革命」である。
プラハの春
 1968年4月21日、ワルシャワ条約機構に属する5カ国の軍隊がチェコスロバキアに侵攻した。プラハでは、ソ連の戦車隊がヴァーツラフ広場に陣取った。自由のためにあえて対立を選び、聖ヴァーツラフ像の下に座り込んだ。ソ連の軍事介入に抗議する人々にとって、このヴァーツラフ広場は、チェコの抵抗のシンボルとなった。
ビロード革命
 1968年11月19日に、弾圧に対する抗議の表明が行なわれ、市民フォーラムが結成され大規模なデモが続いた。そして、11月23,24の両日には100万人もの市民がヴァーツラフ広場に集合した。反体制派の神父ヴァーツラフ・マリーやハヴェル、ドゥブチェク、市民フォーラムの代表者、プラハ大司教を中心として、労働者や鉱夫達が、メラントリフ出版社に集まり、そのバルコニーから内外に向けて声明を発表した。
1989年11月23日木曜日
 凍てつく寒さの中、数万のプラハ市民がヴァーツラフ・ハヴェルの声明を聞こうと集まった。その翌日、人々の興奮は頂点に達した。バルコニーにドゥブチェクが姿を現したのである。1968年の夏に中断された演説を、スロヴァキアの改革者が再びはじめるのを聴くために、人の波が大きくうねっていった。20年の時を経て、涙を流す人が大勢いた。この時
ヴァーツラフ広場は、自由に向かって押しあいへし合う人々を一人残らず迎え入れるのには狭すぎた。

我々は暗闇のなかで生きてきたが、

それはあまりにも長すぎた。

アレクサンデル・ドゥブチェク(1989年11月23日)

ストラホフ修道院図書館

 1143年創立。この修道院で圧巻なのは、中世から受け継がれてきた「哲学の間」や「神学の間」などと呼ばれる図書館だ。普通の建物の2階分はあろうかという高さの天井にまで届かんばかりの書棚に、びっしりと納められた蔵書に圧倒されそうな「哲学の間」。天井に多くのフレスコ画が描かれ、奥行きのあるホールに地球儀や天球儀がいくつも置かれている「神学の間」。
,
「本と呼ばれる小箱の中に、思索の患いに効く薬がしまわれている。その薬局のようなものが図書館である。」

コメニウス

ティーン教会

 現在は美しいゴシック様式の教会だが、その前身は1135年に建てられた外国の商人たちのための宿泊施設に附属していた教会だったという。今の姿は1365年に改築されたもの。金の飾りを頂点にいただく2本の塔は高さ80m。実際の名称は「ティーン(税関)の前の聖母マリア教会」というもの。裏手に税関があったのでその名がついたらしい。なお、この教会は15世紀前半はフス派の本拠地として機能していた。


1999年5月6日(木)

国立オペラ劇場

 もともとは国民劇場に対抗して、ドイツ人が「ドイツ人たちの劇場を」という隠れたスローガンのもとに造った劇場で、ドイツ劇場と呼ばれていた。

 国民劇場がチェコ人によるチェコの作品を上演することを身上としているのに対し、こちらは世界の作品を紹介することにおもむきが置かれている。

ユダヤ人地区(ヨゼホフ Josefov)
 ユダヤ人たちは、門などによって他と隔離されたこの地域に密集して住み、キリスト教徒による様々な迫害を受けていたが、18世紀後半に、時の皇帝ヨゼフ2世によりユダヤ人差別は多少緩和された。この地区をJosefovと呼ぶのはこのヨゼフ2世を讚えてのことである。
19世紀半ばにこの地区は正式にプラハ市の一部として認められ、19世紀後半、それまで迷路のような細い路地や秘密の抜け道、不衛生な建物などで構成されていた渾沌とした町並は取り壊され、現在のような町並に整備された。しかし、ユダヤ人にとって大切なシナゴーグ(ユダヤ教徒の祈りの家、教会)や墓地などはそのまま残された。取り壊され、整理される以前のユダヤ人地区の雰囲気は、カフカの作品の中にうかがい知ることができる。
 ユダヤ人といえば苦難の歴史がつきものだが、1389年にはプラハで既に大きな反ユダヤ暴動が起こったという記録がある。迫害の歴史は、第2次大戦まで続く。ナチス・ドイツに占領された後、ここにはドイツ占領下の各国からユダヤ人が狩り集められ、ここから更に強制収容所へと送られた。このユダヤ人地区で戦後まで生き残ったのは僅か2500人に過ぎなかったといわれている。

クレメンチィヌム

 カレル橋の旧市庁街のたもとにあるクレメンチィヌムは、強大化する一方のフス派に恐れをなしたフェルディナンドI世が、フス派に対抗する宗教勢力としてカトリックのイエズス会をプラハへ招き、1556年に修道院を創建したのがそもそもの始まり。1601年にはプラハで最初のイエズス会の教会である聖サルヴァートル教会Kostel sv. Salvatoraも建てられた。カレル橋を旧市街に向かって渡ると、正面に見えるのが聖サルヴァートル教会のファザードである。
 ハプスブルク家の手厚い保護もあって2haあまりの敷地に3つの教会、礼拝堂、図書館に講堂、天文台、出版局などが次々と建設され、最終的にプラハではプラハ城に次ぐ規模を持つ巨大な複合建築となった。
 修道院は1773年に廃止され、現在ではチェコ国立図書館、国立技術図書館として利用されており、550万冊の蔵書を誇っている。

ドヴォジャーク博物館

 スタメナと並びチェコを代表する作曲家アントニーン・ドヴォジャーク(ドヴォルザーク)の資料館。清潔な庭園に囲まれた、バロック様式の美しい建物。
 内部には、ドヴォジャークが実際に使用したピアノやヴィオラ等の楽器、机、直筆の楽譜、その他資料が展示されている。

聖十字架ロトゥンダ聖堂(11世紀)

 プラハでは珍しいロマネスク様式。崩壊を免れたこの建物は1864年から76年にかけて建築家V.I.ユングマンにより修復された。内部も同じ時代にB.ヴァックスマンによって改造され、ゴシック期の壁画をいくつか保存している。

ロマネスク様式
 11世紀から12世紀中頃までの様式。細長い楯のような形をしたシンプルな窓や、ロトゥンダと呼ばれる円筒形の建物が特徴的。

今夜は、ベツレム教会前にあるホテルBetlem Clubに泊まることにする。

 ヤン・ フスが説教をしていたことで名高いベツレム教会の正面にある小さなホテル。部屋がアンティーク調でとてもきれい。窓の外にはきれいな小道を挟んでベツレム教会が広がる。美しい絵画も掲げられている。
少し睡眠をとる。
Betlem Club
Betlemske namesti9,Praha1
Tel.(02)24216872 Fax (02)24216054
S 1600Kc

夜、カフカの歩いた道、旧市街、ユダヤ人地区を歩く。

 眠れぬ孤独な夜に綴られたカフカの辛辣で独特の諧謔に富む散文は、A.ブルトン,A.カミュ,そしてJ.P.サルトルの心をつかんだ。

「世界は逆さまになっていたのか。私は誰だ。何が起こったのだ、」

フランツ・カフカ


1999年5月7日(金)

朝、朝食をとりに地下の食堂へ。どうやらホテルは家族で経営しているようだ。おばあさんが厨房にたっている。パン、卵、肉、果物、どれもおいしい。部屋に戻り、出発の支度をして、チェックアウト。マーチス橋、プラハ城、 フラッチャニと歩き、Devickaへ。本当に美しい街だった。市バスで空港へ。

プラハ発9:50 LH3225便 フランクフルト着11:00 定刻通りのフライト。トランジット。

フランクフルト発13:30 LH710便。沈まない太陽が水平線ぎりぎりで、空を紫色に染めている。美しい。


1999年5月8日(土)

日本上空。快晴。佐渡島全体がくっきりと見渡せる。東海村上空から太平洋岸に成田へ。成田着8:30 定刻通りのフライト。