「我々が今日、この地上で賞賛しているすべてのもの-科学、芸術、技術、発明-はただ少数の民族、おそらく元来は唯一の人種の独創力の産物であるにすぎない。アーリア人種は、その輝く額からは、いかなる時代にもつねに天才の神的なひらめきがとび出し、そしてまた認識として、沈黙する神秘の夜に灯をともし、人間にこの地上の他の生物の支配者となる道を登らせたところのあの火をつねに新たに燃え立たせた人類のプロメテウスである。アーリア人種に、最も激しい対照的な立場をとっているのはユダヤ人である。この世界にユダヤ人だけがいるのなら、かれらは泥や汚物に息がつまりながらも、憎しみに満ち満ちた闘争の中で相互にぺてんにかけよう、根こそぎにしようと努めるに違いない。我々民族主義国家は、人種を一般生活の中心に据え、人種の純粋維持に配慮しなければならない。」

(Adolf Hitler「わが闘争」1925 より)


2000/1/10(月)


成田発 21:55 AF277便(STAR WING) 晴れ



2000/1/11(火)


パリ現地時間2:00 ノルウェー上空、オーロラで空が薄紫色のベールに包まれている。
パリ/シャルル・ド・ゴール着 4:30 定刻通りのフライト 濃霧 -3℃ トランジット
パリ/シャルル・ド・ゴール発 7:40 AF1554便  チューリッヒ着 8:50 定刻通りのフライト 曇り トランジット
チューリッヒ発 12:20 SR3438便 クラクフ着 14:15 曇り後雪 定刻通りのフライト

スイスの山並み

入国手続きで外貨申告が必要。入国審査、両替共にスムーズ。
(2000年1月現在、1zl(ズウォティ)≒27円)
空港から市バスでクラクフ中央駅へ(2zl)。
クラクフ中央駅前にあるHotel Poloniaに2泊することにする。
Hotel Polonia ★★★
Basztowa 25
Tel.(012)4221233/4227349 Fax (012)4221621
S:113 zl
街を散策。

バルバカン

フロリアンスカ門

バルバカンとフオリアンスカ門

 クラクフ旧市街を侵入者から守っていた城壁は19世紀に取り壊され、現在では殆ど残っていない。過去の偉容を偲べるのがこの辺り。旧市街の北のゲートにあたるのがこのフロリアンスカ門。1300年頃に造られた。このフロリアンスカ門を守るように建っている円形の砦がバルバカン。15世紀に造られた。この円形の防塁は、今ではワルシャワなどヨーロッパに数カ所しか残っておらず、クラクフにあるものが現存する最大規模の防塁である。

 城壁のあった場所には木が植えられ、現在では旧市街を木々が取り囲んでいる。

聖マリア教会

 1222年に建てられた2本の尖塔を持つゴシック様式の教会。内部にあるヴィオット・ストウオシ聖壇は国宝にしていされている。この聖壇はヨーロッパ第2位の高さを持つ木造彫刻でできていて、12年の歳月をかけて造られた。

 モンゴル軍がクラクフを襲った際、敵襲を告げるラッパがこの教会の塔の上から吹き鳴らされた。ラッパ手はモンゴル兵の放った矢で貫かれて殺された。それを記念して、今でも1時間毎に塔の上からラッパが吹き鳴らされている。


聖ヴォイチェフ教会
夕食は、ケバブ(5zl) コーラ(3zl)。


2000/1/12(水)

晴れ

クラクフ中央発 8:05 JELENIA GORA行普通列車 オシフィエンチム着 9:42 (2Klass:8.7zl, 65km)


 アウシュヴィッツ収容所は第二次世界大戦中5年間にも及びナチス・ドイツによって占領された国の国民に恐怖感を与え続けた。この収容所は1940年にポーランド人虐殺の場として利用する予定であったが、時間が経つと共にナチスは全ヨーロッパの人間、主にそれぞれの国籍をもったユダヤ人、そしてジプシーとソ連軍の捕虜をここに送り込みはじめた。囚人にはチェコ人・ユーゴスラビア人・フランス人・オーストリア人、そしてドイツ人もいた。収容所が開放されるまでポーランド人の政治犯もここに送り続けられていた。

 1939年9月の戦線の後、オシフィエンチム市(Oswiecim)を含むその一帯はドイツ第三帝国の一部に加えられた。同時にナチスはその名前をアウシュヴィッツに変更した。

 そして1939年末にはヴロツワフ市(Wrociaw)のSS司令官と警察局に、既に収容所建設構想が生まれていた。その発端は、シレジア地方の刑務所が囚人であふれていること、シレジア地方そして総督管区でのポーランド住民の大量逮捕の必要性だった。

 収容所に適した場所を決めるために、幾つかの特別委員会が仕事を始めた。そして戦前ポーランド軍の基地があったオシフィエンチム市軍撤退跡が選ばれた。その基地は町の人口密集地から離れたところにあって、増設そして更に隔離することが充分可能であった。また、オシフィエンチムは鉄道の要衝であったため、交通の便もよかったことも無意味ではなかった。

 収容所設立命令は1940年に下され、その所長にはルドルフ・ヘスが任命された。1940年6月14日にゲシュタポによってアウシュヴィッツ収容所の初囚人として、タルヌフ市から728人のポーランド人が政治犯として護送されてきた。

 収容所は設立された当時は、14棟の一階建て、そして6棟の二階建て、合計20棟の建物があった。1941年から1942年には、囚人の労働力を使って、一階建ての建物は全て二階建てに改築され、そして新しく8棟の建物が増築された。

 要するに厨房と管理棟を除いて、28棟の建物がその収容所にあったことになる。1942年には、一時、28,000人の囚人が同時に収容されていたことがあったが、平均収容者数は、13,000から16,000人であった。囚人達は地下室と屋根裏を含めたブロック(囚人棟)に、入れられていた。

 囚人の数が増大すると同時に、収容所地域も拡大していった。そして、収容所は巨大な絶滅工場に変わっていった。オシフィエンチムのアウシュヴィッツ1号は、新しい収容所建設の基本となった。1941年には、オシフィエンチムから3km離れたブジェジンカ村(Brzezinka)で、第2の収容所の建設作業が始まった。それはその後アウシュヴィッツ2号と名付けられた。そして1942年から1944年にはアウシュヴィッツ3号の管理下に約40カ所のミニ収容所が出現した。殆どは囚人達の労働力を利用した工場・鉄工所、炭鉱の近くにおかれたものである。

(参考資料:国立オシフィエンチム博物館「アウシュヴィッツ/ビルケナウ案内書」1999)

アウシュヴィッツ収容所正門。

「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」というプレートが掲げられている。この文字をよく見ると「ARBEIT」の「B」が上下逆さまに、つまり上の方が大きくふくらんでいることに気付く。これはアウシュヴィッツの囚人が作らされたものだが、せめてもの抵抗の証としてこう作ったという。この門をくぐった囚人達は毎日労働に出掛け、そして数時間後に帰ってきた。

有刺鉄線には高圧電流が流されていた。

「張り詰められた高い二重の鉄条網には「危険!注意せよ!」という標識が読まれ、機関銃や自動カービン銃を持った歩哨によって守られている塔と、生気のない吹き曝しの煉瓦づくりの建物-こういった収容所の光景がどの新来者をも、ここから決して自由世界に帰ることはできないということを心に植え付ける絶望状態に陥れるのであった。そして事実ここで拷問を受けずに済んだのは数える程しかいなかった。ここにやってきて数日経つと、自殺を計るものが多勢いた。そのため労働隊となって外出した際に、彼らは射殺されんがために歩哨の囲みを走り抜けようとしたが、このような行為は収容所の隠語では「鉄条網に行く」と呼ばれていた。こうすれば高圧電流のショックか機関銃の炸裂による死が、捕らえられて受ける拷問の苦しみを救ってくれるのであった。」

(V.E.Frankl「夜と霧」1961より)

 収容所の住居状況はいつも悲惨だった。最初の囚人達は、コンクリートの上においてあった藁の上に寝ていて、その後マットレスが配給された。40から50人用の部屋には、通常200人の囚人が住んでいた。その後に作られた3段ベッドも住居を改善したわけではなかった。大抵一段ごとに二人の囚人が寝ていた。掛布団は汚れた穴だらけの毛布だけだった。SSに協力した囚人だけが自分の部屋を持つことができた。

チクロンB

 チクロンBという毒薬は、デゲッシュ社が生産し、1941年から1944年の間にそれで約30万マルクの利益をあげた。

 アウシュヴィッツだけで、1942年から1943年の間に2万キログラムのチクロンBが使用された。ヘス元所長の証言によると、約1,500人を殺すのに6から7キログラムの毒ガスが必要だった。開放後、収容所の倉庫には使用されたチクロンBの缶の山が残り、中身の入った缶もあった。

髪の毛の山

人間の髪の毛で造られた生地

の山

眼鏡の山

 アウシュヴィッツ収容所が開放された時、ソ連軍は倉庫で袋に入っていた約7トンの髪の毛を発見した。それは本来ならば収容所管理局がドイツ本国にあった工場へ送って儲けようとしたものだった。専門家による髪の毛の検査によると、その中にはチクロン化合物に毒性をもたらすシアンが発見された。そしてその髪の毛を使って、ドイツの会社はマットレスと布地などを作っていた。

 また、殺された人々の死体から抜かれた金歯、金の延べ棒の形で、ドイツ中央衛生局へ運ばれた。

 人間の灰は肥料として使われたり、又は近くの川・池に投げ捨てられたりした。

 収容所に送られてきた人々が持参したものは分別され、SSや国防軍や一般市民が利用するために倉庫からドイツ本国へ運ばれた。勿論、毒殺された人々のものも収容所のSSは利用していた。奪った荷物を積んだ列車が、立て続けにドイツ本国へ向かっていたにもかかわらず、倉庫はいつも満杯で、その間には分別しきれない荷物の山が出来ていった。オシフィエンチムにソ連軍が接近してくると共に、倉庫から価値の高いものが運び出されるペースが早くなった。開放日前に、犯罪の跡を消すという目的で、SSは倉庫に火をつけた。35軒の倉庫のブロックから6軒だけが残り、その中から何万個の靴・ブラシ・洋服・眼鏡などが発見された。

死の壁への道

死の壁

死刑執行を見られないよう窓には木の板が取り付けられている

死のブロック

 第10と第11ブロックの中庭は、両側から高い壁で区切られていた。第10ブロックの窓に付けてある木の板は、そこで行なわれていた死刑執行を見られないための措置だった。「死の壁」の前でSS隊員は、約数千人の囚人達、主にポーランド人を銃殺した。

点呼広場

 点呼の時には、ssが囚人の数を確認していた。同時に移動絞首台又は集団絞首台が置かれ、見せしめのための死刑執行も行なわれていた。集団絞首台は1943年7月19日、3人の脱走者を助けた、そして収容所周辺の一般市民とコンタクトをしていたという疑いを受けて、12人のポーランド人が吊るされた。

SS管理局

SS病院

絞首台

 1947年4月16日、アウシュヴィッツ収容所元所長、ルドルフ・ヘスの死刑執行が行なわれた。

ガス室

 1941年から1942年にわたって、ソ連捕虜とシレジア地方のゲットーから運ばれてきたユダヤ人が毒殺された。

SSガレージ、管理棟


アウシュヴィッツ2号・ビルケナウ・ブジェジンカ

死の門

 収容所の面積は約175ヘクタール(約53万坪)で、300棟以上のバラックがあった。そのバラックは全て現在まで残っているわけではない。殆ど完全な形で残っているのは45棟の煉瓦造り、そして22棟の木造の囚人棟のみである。焼かれたか又は破壊されたバラックには、煉瓦造りの煙突しか残っていない。その数は、収容所がいかに大きかったかを物語っている。

 ビルケナウ収容所は幾つかの管区に分割されていた。1944年8月の点呼で囚人の数は男女合わせて10万人に達した。この収容所には水がなく、衛生的に欠陥があり、鼠の大発生が囚人の生活環境を更に悪化させた。ナチスは殆どの虐殺設備をビルケナウに設置した。4棟の焼却炉・ガス室に改造された農家、そして死体を焼くための野外焼却場である。

 SSの中央衛兵所の塔からはその最大の絶滅収容所全体が見渡せる。真正面には囚人を運んだ鉄道の引き込み線がある。ブジェジンカには当時のままの囚人棟が残されている。煉瓦造りのバラックは、引き込み線の左側にある。湿地の上に基礎なしで建てられたバラックである。殆どのバラックには床がなく、多くは地面が土泥下していた。煉瓦造りのバラックには、女性の囚人が収容されており、3段ベットで、しかも腐った藁の上に寝かされていた。一段ごとに約8人が寝ていた。木造バラックは(引き込み線の右側)もともと52頭用の馬小屋であったのだが、多少改造されて約1,000人の囚人を収容するために使われていた。その真中を暖房用の煙突が通っている。

 鉄道の引き込み線の一番奥には、2棟の焼却炉・ガス室が瓦礫の形で残っている。それらは撤退するS隊員によって、犯罪の跡を消すために爆破された。しかし跡を見るだけでも、死刑を宣告された人達が裸になった地下の脱衣室、そしてガス室がはっきりわかる。一階には5台の焼却炉の跡とそのレールもはっきり見える。

 第4焼却炉・ガス室は1944年にあった、ユダヤ人の特別労働班の反乱の時に完全に破壊された。

オシフィエンチム発 19:07 KRAKOW GLOENY行普通列車 クラクフ中央着 20:44

ホテルへ。


2000/1/13(木)

晴れ

ヴァヴェル城

 歴代ポーランド王の居城として名高い。
 城門の脇には、3国分割に対して反乱を起こしたポーランドの英雄タデウシ・コシチェシコの像が建てられている。

クラクフ中央発 9:05 WARSZAWA WSCH行 INTER CITY ワルシャワ中央着 11:50 (1Klass: 50.69zl, 292km

文化科学宮殿

 デフィラト広場にそびえる、37階建ての高層ビル。塔の高さは234m、総床面積12万3000m2、部屋の数は3288。
 スターリンからの贈り物として1952年から4年かけて建てられたもので、建物それ自体はワルシャワ市内のどこからでも目に付く。しかし高層建築の少ない調和の取れたワルシャワの町には似付かわしくない権威主義的な建物である。「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと呼んでいる人もいる。

聖十字架教会

 ショパンにゆかりの深い教会で、本堂の左手前にある石柱の下には、ショパンの心臓が埋められている。第二次世界大戦中、ドイツ軍は他の建物同様この教会もダイナマイトで爆破した。その際にほぼ3分の1が破壊され、ショパンの心臓も持ち出されてしまったが、戦後教会は建て直され、心臓は1945年10月17日、ショパンの命日に元の場所に戻された。
 教会の中は、金銀がふんだんに使用されており、荘厳な雰囲気である。

ワルシャワ王宮

 王宮の歴史はワルシャワの歴史であるといわれる。ここはかつて王宮の住居だっただけでなく、国会や大統領執務室として、また士官学校や国立劇場が置かれるなど、文化、政治、経済の舞台でもあった。ワルシャワに遷都したジグムント3世の住居だった頃は、「ヨーロッパで最も美しい宮殿の1つ」とされていたという。ここも第二次世界大戦で破壊されたが、「王の広間」にあった最も価値の高い調度品は美術史家、復元専門家などの手で国外に持ち出されていたために難を逃れた。復元作業が完成したのは1988年のことで、バロック様式の建物の内部はジグムント3世王が暮らしていた当時のままに復元された。

キュリー夫人博物館

 キュリー夫人の生家で、現在では博物館として公開されている。

ポーランド統一労働者党本部跡

 現在は証券取引所になっている。

今夜のホテルはHotel Poloniaへ

Hotel Polonia ★★★
al.Jerozolimskie 45
Tel.(022)6287241 Fax (022)6253014
S:120 zl



2000/1/14(金)

ワルシャワの街を散策。

Marriot Hotelのエアポート・シャトルバスで空港へ(20zl)。
ワルシャワ発 13:40(60分遅れ) SR3435便 チューリッヒ着 15:40(60分遅れ)
チューリッヒ発 19:10(15分遅れ) AF2555便 パリ/シャルル・ド・ゴール着 20:25(15分遅れ)
パリ/シャルル・ド・ゴール発 23:35(20分遅れ) AF272便(STAR WING) 



2000/1/15(土)

成田着 19:05(定刻)