2000/7/18(火)

成田発 17:40 UA881便 ソウル/金浦国際空港着 20:05 定刻 晴れ。

入国審査、両替共にスムーズ。
2000年7月現在、1W(ウォン)≒0.1円。
Seoul

空港から
KALリムジンバスでソウル市内(ロッテホテル)へ(5,000W 約45分)。

ロッテ百貨店脇の小道にある屋台でラーメン(2,000W)を。

今夜の宿は鐘路2街にあるソウルYMCAホテルにする。

SEOUL YMCA TOURIST HOTEL 

特別市鐘路区鐘路2街9
Tel.82-2-734-6884
Fax 82-2-734-8003
S:38,000W
今夜


2000/7/19(水)

普信閣

 鐘路と南大門のぶつかる角にある鐘楼。1395年に鋳造された鐘と鐘閣を、世宗の時代に現在の地に移築し、1985年に建て替えを行った。昔は、朝夕たたく鐘の音で、ソウルにある門が開閉されたという。今でも大晦日には除夜の鐘が33回、ここでたたかれる。

警戒が続くロッテホテルへ。

板門店

 1945年8月15日、日本による植民地支配から解放された朝鮮民族は、すぐに独立国家の建設に着手したが、米ソ両大国の冷戦の影響などを受け、統一国家を樹立することに失敗した。そして1948年8月に北緯38度線を境にした南半部に大韓民国が、9月には北半部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。武力による国家の統一をそれぞれ目標としていた両国は1950年6月25日、北側からの進攻を契機についに戦争状態に突入した。いわゆる朝鮮戦争のはじまりである。

 米軍を中心とした国連軍(南を支援)と、中国軍(北を支援)を巻き込んだ戦争は国土の大半を荒廃させ、約126万人といわれる死者、さらに現在も1,000万人いるという離散家族を大量に発生させた。戦線はローラーをかけるように半島を往復した後、やがて半島の中央付近で硬直するに至った。

 休戦のための準備会談は1951年7月に開城で開始されたが、その後開城から10kmほど東の、昔からノルムン(ノルは板、ムンは門の意)と呼ばれていた地に場所を移した。藁葺き屋根の家が4棟あるだけだったというこの場所が、以後板門店として、世界の視線を集める場所となった。そして長く激しい交渉の末、ついに1953年7月、中朝両国軍と国連軍との間で休戦協定が結ばれた(当時休戦に反対していた韓国の代表は署名していない。また、この時休戦協定が調印された建物は、現在の共同管理区域よりも800mほど離れた北側の非武装地帯内にある)。

 休戦協定によって、板門店は双方からの代表で構成される軍事停戦委員会の本部区域として設定され、また中立国監視委員会の本部が置かれ監視委員会の本部が置かれ監視委員が常駐することとなった。以後、板門店は今日まで続く世界史上もっとも長いといわれる休戦を管理する場所となり、この間およそ500回におよぶ軍事停戦委員会本会議がここで開かれてきている。

 板門店は休戦ライン上の唯一の南北の接触点となっているということから、1971年に南北赤十字軍予備会談が行われて以来、軍事に関すること以外の、南北当局者間の直接対話の場所としても利用されるようになった。直接対話は80年代以降一層頻繁に行われるようになり、赤十字会談のほか、スポーツ会談など様々な会談がここで開かれてきた。

 朝鮮半島の中央を横切る軍事境界線が人々の自由往来を妨げている今日、板門店はまた、南北をつなぐ唯一の陸上の通路としての役割も担っている。捕虜の交換などがここで行われてきたほか、両国間で政治・文化・スポーツなどの交流が実施された際にも、双方の代表団はここを通って相手の国を訪れている。

 勿論この板門店を通じて行き来ができるのは、両国の政府に許可された者に限られており、一般の人々の自由通行は全く認められていない。90年代に入り、政治的目的を持った南の人が政府の許可を得ずに第三国経由で北に入国する事例が時折見られるようになったが、彼らも南へ帰ってくる際には分断の象徴を越えるという意味で、この板門店を通って帰ってくる。しかしその行為は国家保安法に違反するとして、いずれも休戦ラインをまたぐとすぐに逮捕されてしまっている(特に1990年に北を訪れた女子大生イム・スギョンさんの帰国は、当時南北双方で大きな注目を集めた)。

 二つの国家が対峙しながら存立し、南北間の自由な往来を妨げている現在の朝鮮半島の状況は、本来一つであるべきものが分断されている状況だと朝鮮民族には認識されているそうである。ゆえに本来あるべき姿として国家が再び統一されることが、今日において全民族的な悲願となっているといえる。

午前9時、現地旅行会社ツアーに参加。板門店へ行くには今のところこの方法しかない。

ガイドさんの主な説明
・板門店は軍事施設であることを念頭において行動してほしい(特に写真撮影可能箇所は限られた所のみ)。
・韓国では38度線とはいわず、「軍事境界線」もしくは「休戦ライン」という(S字を描いているため)。
・韓国では、勿論北との統一を願っているが経済に関して大きな懸念がある。
(ガイドさんは歴史を勉強してガイドになることを決意したそう。歴史と日本語両方勉強されている。日本語がとても流暢。)

自由の路を北へ。ソウルのベッドタウンを右手に。

オドゥサン統一展望台。これより先、写真撮影禁止。

この後、20分ほどで統一橋に到着。

韓国軍兵士によるパスポートチェック。

統一橋上は片側一車線であるが交互に杭がうたれている。

従ってジグザグ運転で進むことになる。

 この橋は、南が北を援助するために牛を運搬する際、使用されたことがある。500台のトラックに501頭の牛を載せて渡った。500頭ではなく501頭にしたのは、これで終わりとしたくはなく継続を意味させるためとのこと。

(DMZ Tour Guide Bookより)

 橋を渡り、5分ほどで一旦停車、軍からの司令でサイレンが鳴ったら即時停止するようとの要請。再び走り5分ほどで、国連軍のバスに乗り換える。2人の国連軍兵士が乗り込む。更に5分程でスライドの説明を受けるためブリーフィングルームへ。ここで訪問者宣言書にサインをする。この後、スライドを使い、板門店の歴史、敷地内の施設の配置等説明を受ける。

 説明後、バスに乗り込み自由の家へ向かう。雨が降り出す。板門店内は基本的に傘をさすことが許可されていない。バスに乗り込んでいた国連軍兵士が北朝鮮軍側に傘をさす旨連絡をとってくれる。許可がおりる。

自由の家に到着。指定された所を2列になって歩く。写真撮影が許可される。

自由の家

 現自由の家は1988年7月9日建立された。各種南北会談の接触、交流を支援し、南北間の連絡業務を遂行する。

韓国側監視台

北朝鮮の板門閣(後方)。手前の白い建屋中央を横切っているのが軍事境界線(休戦ライン)

板門閣

 北朝鮮の板門閣は自由の家から北に80mの地点に1969年9月、2層建物で建てられた。この建物は北側の警備兵の事務室で使用され、軍事停戦会談や南北会談の代表待機室にも使われている。特に、8.15には北の宣伝煽動の場で積極活用されている。

青い建屋が軍事停戦委員会本会議場

韓国側監視台よりみた南側。

板門店内北側所有建屋。

徒歩で軍事停戦委員会本会議場へ。

 軍事停戦委員会本会議場内部。テーブル中央を軍事境界線(休戦ライン)がはしる。左手が南側、右手が北側。撮影は会議場内部のみ許可される。

軍事停戦委員会

 軍事停戦委員会は休戦協定の遵守及び履行のために、休戦協定の締結後から軍停委の本会議場・秘書長会議及び共同日直将校会議を開催してきた。

 '98年3月25日、国連司軍停委の首席代表職に韓国軍の将軍が任命された後、軍停委の本会議が中断されたが、その代わりに98年6月から将星級の会談が開かれている。北朝鮮側が94年5月に設置した板門店代表部と国連司の間には秘書長級の非公式の接触がなされている

 共同日直の将校会議は現在も必要な時、一方の要求によって開かれている。

この会議場内だけ唯一、北側のエリアに踏み込むことができる。

テーブル上のマイクのコードが軍事境界線(休戦ライン)にあたる。

 南側からみた軍事停戦委員会本会議場内部。この日は韓国軍兵士2人が配置されていた。一般人がここを訪れた時に、このようにして我々を保護しているのだという。この直後、北朝鮮側の観光客が訪問した。滅多にないとのこと。

国連軍のバスで展望台に移動。

 休戦ラインの北朝鮮側の非武装地帯(DMZ)にある平和の村。中央には高さ160mの鉄塔に幅30mという北朝鮮の国旗がさがっている。この住宅がたち並ぶ平和の村は、全て同じ時間に電気が灯り、同じ時間に消え、また洗濯物も干しっぱなしだそうで、無人の北朝鮮宣伝村だろうとの説明である。

 休戦ラインをまたぎ、これに対峙する形で韓国側非武装地帯(DMZ)の中には大成洞自由の村がある。この村は、1972年、当時の朴大統領の指示によりつくられ、先祖代々この地に住んでいた人たちと、一定の条件を満たした人たち(元公務員、3年以上の農業経験者等で国の審査にパスした人)が住むことができる。村の中には、小学校、中学校、教会等も建ち、村人には国民の負っている3つの義務(納税、兵役、教育)のうち、納税と兵役が免除されている。また、土地所有権こそないが、韓国の一農家の平均的耕作面積を遥かに上回る農地が与えられている。しかし夜12時〜4時は外出禁止、日中一人での外出も禁止で、農作業も特別の警備兵がつく。

帰らざる橋ポプラ事件の現場

 バスでポプラ事件の現場と帰らざる橋に向かう。

国連軍の先導車がつく。ここからは降車することは許されない。

ポプラ事件の現場。

ポプラ事件

 1976年8月18日午前11時、国連軍側が哨所の視野を妨げていたポプラの木を切ろうとした際、北朝鮮軍がこれを妨げた。ボニファス大尉(死後 少領 進級)とバレット中尉が殺害され、国連軍4名と韓国軍4名が重傷を負った。(DMZ Tour Guide Bookより)

帰らざる橋

 軍事境界線の真中を通る「帰らざる橋」。1953年休戦後ここで戦争捕虜の交換がなされた。この時、捕虜達がこの橋の上で一旦、方向を選択すると、二度と帰ることができないことからこの名が付けられた。対岸は北朝鮮。

最前線補給基地グリフィスキャンプに到着。将校クラブで昼食となる。

 キャンプの名前グリフィスは、1976年板門店で起ったポプラ事件で殉職したアメリカ人将校の名前に因んでつけられている。

 朝鮮戦争参加16カ国の国旗。 アメリカ、カナダ、イギリス、ベルギー、フランス、トルコ、ニュージーランド、ルクセンブルグ、タイ、オーストラリア、コロンビア、エチオピア、南アフリカ、フィリピン、ギリシャ、オランダ。

ツアー会社のバスで統一公園へ。

 介馬高原反共遊撃隊慰霊塔

 この塔は朝鮮戦争の時介馬高原一帯で遊撃戦を展開し、犠牲になった200余命の遊撃隊を追慕するために建立された。

肉弾10勇士忠勇塔

 この塔は1945年5月ソンクア山戦闘で戦死した歩兵1師団11連隊の勇士達を慰めるために1980年5月3日建立された。

sソウル市内までの帰路の写真撮影は禁止。

Seoul

晶徳宮敦化門

 晶徳宮

 晶徳宮は李氏朝鮮第3国王太宗の時代の1405年に、離宮として建てられた。豊臣軍の侵略の際に焼失したがその後再建され、景福宮が再建される19世紀中盤まで代々の国王はここに住んで執務を行った。

 起伏のある地形や自然環境を生かして造営されたという特徴をもつこの王宮は、その文化的価値の高さが認められ、1997年にユネスコの世界文化遺産目録に登録された。

 晶徳宮の正門は敦化門である。晶徳宮は豊臣軍の侵略後に再建されてからも度々火災にあったが、この門は1607年に再建された当時のものがそのまま残っている。

光化門

勤政殿

景福宮

 李成桂(太祖)が1392年に李氏朝鮮王朝を興し、1394年に都を漢城(ソウル)に定めた際、正宮として建てたのがこの景福宮である。以後壬辰倭乱(1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略)で焼失するまでの約200年間、この王宮を舞台に李氏朝鮮王朝前期の歴史は展開された。第4代国王世宗が優秀な学者を集めハングルを発明させたり、天文などの科学技術を研究させたのもこの景福宮においてであった。

 焼失後長い間そのまま放置されていたが、王朝末期の1865年、失墜した王朝権力の威光を再び示すために大院君(国王高宗の父)李日応が国中の財力・労働力を集めて再建した。

 しかし日本による植民地統治が始まると多くの建物が取り壊されたり、晶徳宮やその他の場所に移されたりした(鎌倉の長谷寺大仏裏にもここから移設された建物が残っている)。そして正門である光化門を撤去し、正殿である勤政殿を覆い隠すようにして巨大な朝鮮総督府の庁舎が建てられた。高層ビルもない時代、かつての王宮を覆い隠すようにしてそびえたったこの建物は、植民地下に生きる人々に大変な威圧感を与えたという。

 歳月は流れ、去る1990年からソウル定都600年(1994年)を記念した景福宮内の殿閣の復元工事が開始され、王が住んでいた康寧殿、王妃が住んでいた交泰殿をはじめとする20の殿閣の再建が進められることになった。

 旧総督府庁舎は日本からの解放後には政府庁舎や中央博物館として利用されてきたが、復元工事の進む中1995年に金泳三大統領は撤去を決定、威容を誇った建物は姿を消すこととなった。撤去は完了し、今では光化門を正面から望んだ時、かつては遮られて見えなかった勤政殿や大統領総督府青瓦台の屋根が視界に入るようになった。

 勤政殿はかつて国王の即位式や公式的な大礼が行われた場所である。現存する韓国最大の木造建築であり、背景に見える北岳山と共に力強い印象を見るものに与える。

李舜臣将軍銅像

徳寿宮の大漢門

徳寿宮

 豊臣軍の侵略を受け一時都を離れていた宣祖(李氏朝鮮王朝第14代国王)は帰京した際、焼失した景福宮の代わりに成宗(第9代国王)の兄、月山大君の私邸のあった場所を仮の王宮として使用した。これが今日の徳寿宮の場所が、王宮として使われた最初である。その後、王が晶徳宮に移ってからは離宮の一つとなっていた(当時は慶雲宮と呼ばれていた)が、再び国王がここで執務をとるようになったのは、19世紀末、李氏朝鮮王朝最末期のことである。この宮殿を舞台に、国家の主権を奪おうとする日本やロシアなどを相手とした激しい政治史が展開された。1905年、韓国の外交権を奪う内容の「保護条約」を伊藤博文が暴力的手段によって強制的に時の政府に調印させたのもまさにこの王宮においてであった。日本の策略に最後まで抵抗した高宗皇帝は結局1907年には日本によって強制退位させられてしまう。続いて即位した純宗皇帝は晶徳宮に移ったが、退位した高宗は以後1919年に亡くなるまで悲痛な晩年をこの徳寿宮(1907年に改称された)で過ごした。

 このように近代以降に政治の中心となった王宮だけあり、徳寿宮には他の王宮にはない西洋風建築(石造殿)や東洋・西洋折衷の建築(静観軒)が残っている。一方、李氏朝鮮王朝全盛時代の歴史を感じさせるものとしては、自撃漏がある。これは中宗の時代、1536年に製作された水時計である。実際に使われていた当時のものには非常に精密、複雑な自動時報装置もついていたが、現在その部分は残っていない。朝鮮では、今日ここに残っているものが作られるより以前、世宗の時代、1434年にすでに最初の自撃漏がつくられていた。

今夜は明洞にある食堂で

ピビンパプ(交ぜ飯)(3,800W)

焼き饅頭(2,700W)

を。

今夜の宿も鐘路2街にあるソウルYMCAホテルにする。


2000/7/18(火)

ロッテホテルからKALリムジンバスで空港へ。(5,000W 約45分)

朝食を。ホットドッグとジンジャーティー。

両替、出国審査共にスムーズ(空港利用券:9,000W)。

ソウル/金浦国際空港発 11:40 UA882便 

朝鮮半島東岸

渥美半島

石廊崎

伊豆諸島

成田着 13:55 定刻