成田発 10:45 OS556便 ウィーン着 16:10 定刻 晴れ トランジット
ウィーン発 17:25 OS661便
コペンハーゲン着 19:15 定刻 快晴。
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ニューハウン かつて長い航海を終え、やっとの思いで陸に上がった船乗り達が羽根を伸ばした居酒屋街である。現在では南岸がアンティークショップ街、北岸がレストラン街となっている。 童話作家アンデルセンはこの通りの20番地の家で最初の童話集「子供のための童話集を1835年に書き、67番地に1845年から1864年まで住み、18番地の家で最後の2年間を過ごしたという。 |
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アメリエハウン公園 アメリエンボー宮殿と海の間にあるアメリエハウン公園は、デンマーク最大の船会社A.P.Moller社が自社の土地を公園にし、市に寄贈したもの。付近にはオスロへ向かう大型フェリーや停泊するヨットが並ぶ。 |
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人魚の像
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Kobenhavn H 発 8:30 Odense 行INTERCITY Odense 着 10:08 (178 Kr)
「少女は新しいマッチを擦りました。今度は炎の中に、この世のものとは思えない美しいクリスマスツリーが現れました。何百何千というろうそくが、緑の枝の上でツリーよりずっと大きくて、しかもきれいに飾りたててありました。少女はおもわずそのクリスマスツリーに手をのばしました・・・。そのとたん、燃えていたマッチがすーっと消えてしまったのです。」
(H.C.Andersens「マッチ売りの少女」より)
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アンデルセン博物館 アンデルセンは、1805年、この家で生まれたといわれているが確証はなく、日本では子供時代の家で生れたという説もある。この一郭は彼の時代の建物を復元しており、凹凸の石畳道が童話的雰囲気を漂わせている。内部にはアンデルセン愛用の道具類、手紙類、原稿、彼の生涯を描いたフレスコ画、外国で出版された彼の童話集などが展示されている。 |
聖クヌート教会 オーデンセを代表し、ゴシック様式としてはこの国で最も貴重な教会で13世紀の建築。 |
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アンデルセン公園 園内にはアンデルセンの像や白鳥群の彫像などもあり、ハーブ園も有名。 |
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アンデルセン子供時代の家 アンデルセンが2歳から14歳までの幼い時代を過ごした家で、父が靴修理を家業にしていた場所。一部屋しかなく、そかもその部屋も極端に狭い。当時の貧民階層の生活が偲ばれる。けれども作家自身が「私の生涯は一編の美しい物語だった。それは充実し幸福に満ちていた。」と述懐しているように、貧しくとも恵まれた環境であった。 |
Odense 発 12:47 Kobenhavn H 行INTERCITY Kobenhavn H 着 14:25 (178 Kr)
コペンハーゲンカードを購入(24時間有効:155 Kr)
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アンデルセンの像 アンデルセン Hans Chitian Andersen (1805-1875) 本来のデンマーク読みだとアンナセン。1883年、イタリア旅行をもとに創作した「即興詩人」がドイツで認められ、ヨーロッパにその名を知られるようになった。のち近代童話の確立に力を尽くし、「絵のない絵本」「みにくいあひるの子」「親指姫」「赤い靴」「人魚姫」「マッチ売りの少女」など数々の童話を書き続けた。彼の作品は子供ばかりでなく、世界中の大人にも読まれ、今や70カ国語にも翻訳されている。70年の生涯を終えた時、デンマーク国民は喪に服し、葬儀は国葬をもって行なわれた。 |
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クリスチャンスボー城 アブサロン大主教によって築かれ、現在みられるようなコペンハーゲンの基礎となったのがクリスチャンボー城。現在は国会議事堂として使われている。 |
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国立美術館 17世紀、オランダからルネッサンスの文化が入ってきたことにより、デンマークでは王室をはじめ、有力貴族達が競ってオランダ絵画を買い集めた。その中でも、特に王室によるコレクションを一般に公開しようという機運が高まり、コレクションを展示する場所としてエスターアンレッグ公園にある現在地が選ばれ、1889年から1896年にかけて工事が行なわれた。こうして煉瓦を主体とした華麗な建物が造りあげられた。その後もカールスベア財団の寄贈や、個人の寄贈が相次、今日に至っている。 特筆すべきは、17世紀のフレミッシュとレンブラントなどオランダ絵画のコレクションである。他にもスペインのエル・グレコやゴヤなどの作品が集められている。近代絵画では、マチス、ピカソ、ムンクなどの作品が見られる。特にマチスのコレクションは抜群で、フォービズムの全体像を眺めるのに適している。 フランス印象派の出現の前後にデンマークで活躍したコンスタンチン・ハンセン、ヨイ・ルンドビュー、デオドール・フィリプセン、ハラルド・ギエアシング、エドヴァルド・ヴァイスなどの作品がある。 |
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ゲフィオンの泉 ゲフィオンは北欧神話中の女神で、スウェーデンの大地を雄牛を使って掘り、シェラン島をつくったという。1908年に第一次世界大戦で亡くなったデンマーク船員達の記念碑として造られた。 |
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人魚の像 「人魚姫は、すきとおった両腕をお日様の方へ高くあげました。その時はじめて、姫は涙というものを感じました。-船の中が、また騒がしくなりました。王子が美しい花嫁といっしょに、人魚姫を捜しているのが見えました。お二人は、姫が波の中に身を投げたことを知ってでもいるように、波の上に漂っているあわを悲しそうに見つめています。」(H.C.Andersens「人魚姫」より) |
Kobenhavn 発 19:00 Malmo行高速艇 Malmo 着 19:45 (コペンハーゲンカード利用のため44.5Kr(-50%OFF))
出国審査なし。
入国審査、スムーズ。パスポート提示のみ。麻薬犬による監視。
その昔、デンマークとスウェーデンとが争い続けていた頃、マルメは一時期デンマークに属していて、コペンハーゲンと肩を並べるほどの大都市だった。その後、1658年再びスウェーデン領になってから今日まで、マルメは人口25万のスウェーデン第3の都市として、商業を中心に栄えてきた。
Malmo 発 23:00 Kobenhavn 行高速艇 Kobenhavn 着 23:45 (コペンハーゲンカード利用のため44.5 Kr(-50%OFF))
S:350 Kr
Kobenhavn H 発 8:24 Helsigor行普通列車 Helsigor 着 9:28 (コペンハーゲンカード利用のため 0 Kr)
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クロンボー城 シェークスピアの「ハムレット」の舞台として有名な城。15世紀にエリーク7世王が通行税徴収のために城を造ったが1574年フレデリク2世の命により再建に着手、1585年完成した。1629年の火災で殆ど焼け落ちたが、直ちにクリスチャン4世により修復された。その後幾度かの戦争を経て、1924年現在の姿に改修された。 ほぼ四角型の城で、主に北棟は王の住居、西棟は王妃の住居でデンマーク・ルネッサンス様式が見られる。東棟は王族の部屋や厨房、南棟は教会で内部装飾はフレデリク2世時代のものである。 地下には兵舎や地下牢がある。地下室の一隅に、楯と剣を手に、伸びた髪を肩まで垂らして眠るデンマークの伝説の英雄「ホルガーダンスク」の像がある。デンマークの危機の際には、彼は数百年の眠りからすっくと立ち上がり、祖国を救うと言われている。 北棟入口の向かいの壁に、シェークスピアの胸像のレリーフがあり、その下に王子ハムレットの記述がある。文中に「...王子Amleth...」とあり、シェークスピアはAmlethの最後の"H"を頭にまわしてHAMLETとした。 |
Helsigor 発 10:59 Kobenhavn Lufthavn行普通列車 Kobenhavn H 着 11:55 (コペンハーゲンカード利用のため 0 Kr)
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ロイヤル・コペンハーゲン陶磁器工場 ロイヤル・コペンハーゲン陶磁器工場の基盤は、ユリアネ・マリーエ太后の主導により築かれた。しかしロイヤルブルーとして知られるようになったブルーフルーテッドとブルーフラワーの2つのデザインも、現在の発展と繁栄に大きく寄与した。 ロイヤル・コペンハーゲン陶磁器工場は1775年に創立された。王室の側からユリアネ・マリーエ太后の熱心な主導を得て、実現したもので、今日もロイヤル・コペンハーゲンの名は、世界最高品質の陶磁器の代名詞となっている。ロイヤル・コペンハーゲンは1985年以来、工芸芸術を扱う先端企業数社を包括する組織となった。すなわちロイヤル・コペンハーゲン陶磁器、ビング・アンド・グロンダール陶磁器、ホルメゴー・グラス、そしてジョージ・ジェンセン銀器。これらの製品はロイヤル・コペンハーゲンの名のもとに世界各国で愛用されている。 陶磁器の故郷は中国である。中国人は高嶺地方で産されるカオリンの含有度の高い粘土を世界最初の陶器の製作に使用した。白色の金と呼ばれる陶磁器の生産にはカオリン50%、長石25%、石英25%からなる粘土が使わる。 宗の時代(960-1279)に初めて高温で焼かれ、緻密で、光りを透かすような磁器が作成されるようになった。また明朝時代(1368-1644)になると上薬の掛った陶磁器が生産され、明朝後半になるとそれがヨーロッパへと輸出されるようになった。 ブルーフルーテッドはもともと中国アンチーク陶磁器の模様であった。ロイヤル・コペンハーゲンではこのデザインを200年以上続けて生産してきたが、未だに模様は1つ1つ手で描かれている。陶磁器にはそれぞれ絵付師のイニシャルとロイヤル・コペンハーゲンのロゴである3本の波が施される。おとぎ話のように美しく、そして完全なハンドメードなのである。たった1枚のブルーフルーテッド・ディナープレートだが、筆の動きをそんなにも重ねて、絵付けされていく。特別教育を受けた絵付師のみがこれほど精密に、力を込めて細部のデザインを描き出すことができる。陶器の絵付けはまさに熟練技術そのものである。 ぶるー |
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ローゼンボー宮殿 1615年クリスチャン4世王は、絶世の美女キアステン・ムンク嬢と熱烈な恋に落ち、彼女は王のもとにやって来ることになった。2人の愛の新居として定められたのが、ローゼンボー宮殿である。また1648年、王が死の淵へと赴いたのも、この宮殿であった。 |
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円塔 1716年、コペンハーゲンを訪れたロシアのピョートル大帝が馬で、エカリーナ妃が4頭だての馬車で、一気に駆け登ったといわれる円塔。高さ36m、直径15m、螺旋状に登り詰めていく通路の長さは209m。1642年、クリスチャン4世王によって、天文観測所として建てられた。 屋上に出ると、眼下にコペンハーゲンの旧市街を見下ろせる。北欧ルネッサンス様式の赤煉瓦の建物がモザイク状に眺められ、点在する城や教会の尖塔が視界に入る。クリスチャン4世が「自らつくり芸術作品」と呼び、町をしばしば満足げに見下ろした。 |
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Kobenhavn H 発 8:15 Kobenhavn Lufthavn 行普通列車 Kobenhavn Lufthavn 着 8:27 (18 Kr)
コペンハーゲン発 10:50 OS664便 ウィーン着 12:40 定刻 快晴。
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市立公園 ウィーンの町は、記念碑や銅像の多いことでゆうめいだが、この市立公園の中にも実に多くの像がある。シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブルックナー、レハール、ロベルト・シュトルツなどの音楽家、そして他にも多くの人々の像がある。 |
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ベルヴェデーレ宮殿 トルコ軍からウィーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公(1663-1736)の夏の離宮。 オーストリア風バロック建築の代表格にあげられ、左右対称の建物と庭の美しさもさることながら、上宮からゆるやかな斜面の庭園で続く下宮越しに見えるウィーン市内の眺望も素晴らしい。 上宮の赤大理石の間は、オーストリアの歴史上重要な部屋の1つ。1955年、英、仏、米、ソの占領軍と国家条約を調印したところ。英のマクラミン、仏のビドー、米のダレス、ソ連のモロトフなどの外相が参加している。これによって戦後10年にわたる4カ国占領時代が終った。 現在、上宮はオーストリア・ギャラリー。下宮はオーストリア・バロック美術館。 |
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19・20世紀絵画館(ベルヴェデーレ宮殿上宮) 19、20世紀のオーストリア絵画を収めている。クリムトの代表作「接吻」「ユーディト1」、 シーレの「家族」「死と乙女」をはじめ、ココシェカ、マカルトといった、分離派の作家達の作品を多く集めている。またビーダーマイヤー様式の作品や、ドナウ派の作品も収められている。 |
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国立オペラ座 オペラの中心であったイタリアに因んで、ヴェネチア式ルネッサンス様式の外観は、ヨーロッパ三大オペラ劇場にふさわしく、壮大でかつまた華麗である。 1869年5月、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」で、こけら落とし。第二次世界大戦で戦災にあうが、再建がすすめられ、1955年11月、べートーベンノ「フィデリオ」(カール・ベーム指揮)で再び開場した。 9月1日から翌年の6月30日まで、数日を除き、1年のうち約300夜にわたって、オペラ、バレエが上演される。演奏はウィーンフィルハーモニーと同メンバーで構成されるウィーン国立歌劇場管弦楽団。 |
列車で空港(Flughafen Wien-Schwechat)へ(38
S 30分)。
ウィーン発 21:00 NH208便(ALSO OS661便)
成田着 14:50 定刻