「猪飼野の司馬遼太郎」

足 代 健 二 郎 [あじろ書林]      


 今年のゴールデンウイーク中の或る日、新刊屋さんの店頭に平積みされていた「新聞記者司馬遼太郎」(産経新聞社刊)という本の中に、私は次のような興味ある記事を見い出した。

 司馬遼太郎が終戦後、復員して来て初めて就職した会社は、大阪市生野区の猪飼野と呼ばれた地区に町工場にまじってあった”アブクのような曖昧資本の新聞”新世界新聞社であった。というのである。

 猪飼野といっても知らない人もいるかもしれない。

 その地名は現在の地図にはない。その範囲は、今の東成区玉津、生野区鶴橋・桃谷・中川西・田島等々の上に跨っていて、隣接地区との境界が分からなくなってしまっている。これを詳しく説明するのが目的ではないからやめておくが、おおよその位置は、JR環状線の鶴橋駅・桃谷駅の東方、平野運河の両側一帯と思って貰えばよい。

 私はかねてから自分の住所である旧猪飼野地区の三大特筆というのを唱えている。

 @ 日本最古”鶴之橋旧跡”
 A 世界の松下電器草創の地
 B 日本最大のコリア・タウン

 その他、細かい素材(自慢のタネ?)はいろいろとあるが、司馬遼太郎がはじめて勤めた新聞社がここにあったというのは、猪飼野の住民である私にとって大変うれしいニュースであった。

 ところが、ここで一つの問題点が浮上してきた。

 実はJR鶴橋駅のすぐ東側に鶴橋本通りというのが南北に走っている。その商店街に、つい数年前まで「ダルマ薬局」というのがあり、屋号は不詳だがその先代の経営者は司馬さん(本名・福田定一)の父・福田是走(しじょう)氏で、司馬さんは子供の頃、その辺で遊んでいたという話を耳にしていた。

 この話は間接的な伝聞であったので一〇〇パーセント確実かと聞かれたら困るけれども、さりとて根も葉もない作り話とは思えない具体性があった。


 そこへ最近になって先の記述に接したわけであるが、浮上した問題点とは、この薬局の所在地(生野区鶴橋二丁目15−35)は猪飼野地区とは目と鼻の先の場所であることだ。司馬さんは偶然のいきさつから(今里の闇市を歩いていて電柱の貼り紙で募集を知ったという)猪飼野の新世界新聞社に勤めることになったというのであるが、それなら幼い頃に近所の子供と一緒に遊んで過ごしたと思われる鶴橋本通りのことは当然意識にのぼったことであろう。この事に関する司馬さんの記述がどこかに残されていないだろうか−という点であった。

 年譜によると司馬さんの幼時の略歴は、

一九二三年(大正一二)八月七日 大阪市浪速区西神田八七九に、薬剤師の父・福田是定と母直枝の次男として誕生。3歳まで母の実家の近くの奈良県北葛城郡当麻町今市の仲川家で養育された。

一九三〇 (昭和五)四月 浪速区の大阪市立難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草小学校)に入学。

となっている。

 ここには鶴橋のことが全く出てこないが、これは一体どういうことなのだろうか。

 この疑問を解決するためにはとにかく、その司馬さんと幼い頃一緒に遊んだという子の身内の人を捜す必要がある。なぜ”身内の人”かというと、実はその幼な友達という女の子は、昭和9年9月21日の室戸台風で北鶴橋小学校の校舎が倒壊した時にその下敷きになって既に死亡している、ということを聞いていたからだ。

 余談ながら、その倒れた校舎の下から「天皇陛下万歳」という声を聞いたという或る生徒の証言によって、その声の主は四年生で級長をしていた「田村久子」という女生徒だということになった(これがその司馬さんの幼な友達という女の子である)。毎日新聞がその話を聞きつけ、”小国民の誉れ”といって大きく報道したことから当時は大変な英雄扱いとなり、そのため両親は外では涙を流すこともできなくなり、家の中で娘の死を嘆き悲しんでおられたという(「猪飼野郷土誌」P123)。

 それはともかく、この一件は今から十七年ほど前に郷土史家のW・H氏から開かされた話であったが、そのまた友人であるH氏の紹介によって、今回、田村久子さんの弟・田村善一氏(昭和10年生れ)の移転先に連絡がついた。 田村氏の談を要約すればこうである。

 <司馬さんの父親が経営していた薬局はずっと昔に尾松市松という人に代替りしたあとだったので、自分は司馬さんとは面識はない。しかし母親同士は昵懇であったので、或る時、司馬さんのお母さんが自分の母(トメさん、明治30年生れ)を久しぶりに訪ねて来られたことがあった。その頃、自分は週刊誌で連載が始まっていた「上方(ぜいろく)武士道」を愛読していたが、ある日遇々その週刊誌に司馬遼太郎と今東光が並んで写っているグラビアページを見ていた処へ、司馬さんのお母さんの訪問があって、表から母親同士の話声が聞こえてきた。「今度うちの息子が直木賞を獲りましてん」とのこと。そこで表の間に出て行って「直木賞獲ったてこの人ですか」とグラビアを見せると、「これこれ、これうちの息子ですわ」と言われた。母も「やあ、定(さだ)ちゃん、こんな立派になりはったん」といって驚いていた。>

 田村さんの母は司馬さんの”福田定一(さだいち)”という幼名しか知らなかったのだ。(余談だが、つい先日天王寺図書館で行われた上町セミナーにおけるT氏の講演によると、司馬さんは子供の頃、阿部定をもじった「お定(さだ)」というアダ名を大変嫌って、自らは「さたいち」と濁らない読みかたをしていたという。なお定一の読みはほとんどの文献が「ていいち」としているが、後述の『図録』(P68)に「さだいち」とあるのが正しいように思える。)

 さて、田村氏がそのとき手にしていた週刊誌の種類だが、田村氏は今年三月に心斎橋大丸で開かれた「司馬遼太郎が愛した世界」展の図録によって、それが週刊コウロンであったことを知った。その巻末の年譜に、

一九六〇年(昭和三五)一月二一日、「梟の城」で第四二回直木賞を受賞。五・一二日「上方武士道」(週刊コウロン、八月二日三〇回)

 と記載されているからである。ただ上方武士道の連載開始日が五・一二日となっている点は一寸腑に落ちない気がしたという。(これは後に、5月12日号のことではなく、一月の5日・12日合併号の意味であることが判明した。)

 図書館へ問い合わせて、この雑誌のバック・ナンバーは京都府立総合資料館が所蔵していることを知り、そこへ電話をして調べて貰った結果、田村氏が手にしていた週刊コウロンは昭和35年1月19日付(第二巻第二号、上方武士道は連載第二回目)のものと判った。そして彼がそのグラビアページを眺めていた日、つまり司馬さんのご母堂が訪ねてこられた日は、直木賞受賞日(1月21日)からさほど隔たっていない頃だったと思われる。

 [直木賞受賞記念パーティーの記事の掲載号(昭和35年)筆者蔵]

 そんな細かい点はまあよいとしても、結局司馬さんが鶴橋本通りで過ごした期間はいつ頃のことであろうか。

 前掲の幼児期の年譜を再度読み返してみると、ここには”三歳まで奈良県の当麻町今市で養育された”とある。三歳までとは丁度三歳となるまでなのか、三歳の頃までなのか判然としないが、後者の解釈を採るのがまあ普通であろう。要するに一九二七年(昭和二)の初め頃までと理解しておきたい。

 次に司馬さんは昭和五年四月に塩草小学校に入学している。

 北鶴橋小学校は昭和九年の台風で校舎が倒壊して死者七十一名、塩草小学校では校舎は大破したものの死者はなかった。司馬さんがもし田村久子さんと同じ小学校だったら、後年の大作家は誕生していないかも知れない。

 この台風について、また田村さんの死について、当時五年生の定一少年には何か思うことはなかったのだろうか、というのが第二の疑問点である。

 あと手がかりは父・是定氏が薬局をいつ尾松市松氏に譲渡したかであるが、うまい具合に、この地域の名士を載録した「天爵」という本(大阪週刊新聞社・昭41刊)にこの尾松氏のプロフィールが次のように記されていた。

  社名 合名会社ダルマ薬局
  生年月日 明治三十二年…
  創業 昭和二年四月一日
  住所 八尾市…

 尾松氏が薬局を引きついだ年と”創業”の年とをイコールと仮定して、以上を勘案すると司馬さんが鶴橋にいた可能性の高い時期は、昭和二年四月一日以前の数ヶ月間ということになろう。

 それと尾松氏の住所が八尾市となっている点について田村氏は、この人は八尾の山本町の自宅からずっと店に通っていたという。この点から推測すると、福田是定氏もやはり同じように塩草の自宅から鶴橋の薬局まで通っておられたのではなかろうか。そのように考えれば、矛盾と思えた事柄は別に矛盾でも何でもなくなるわけである。

 なお、この薬局のある長屋は、細いロージによって三軒とか四軒毎に区切られていて、その長屋の列の表側は商店街、裏側はまたロージである。その裏側のロージには現在は使われていない昔の共同井戸の井戸枠が今も残っている。司馬さんと田村久子さんとはそれらの長屋をめぐる商店街やロージを縫うように走り回って遊んでいたという。

 最後に、始めの問題点に立戻るが、司馬さんは自分自身の経歴については無頓着で、余り多くを語ろうとしない性分であったらしい。全集を作るに当って、編集者側が作者自身の憶えていない”いわゆる断簡零墨の類いまで”集めてくるのには驚いたと語っている。従って幼少時の鶴橋のことがどこにも誌されていないとすれば、記憶に刻まれていなかったのか、語るほどのこととは思わなかったのかのどちらかであろうが、これは永遠のナゾと言うほかなさそうである。




 本文に書き切れなかったエピソードをここに書かせて頂く。

 話は大分昔に遡る。

 司馬さんの父・是定(しじょう)氏経営の薬局が入っていた長屋は、鶴橋本通りという商店街に面しており、この通りは江戸時代の平野街道である。明治末期、この街道に沿って向い合わせに、両側併せて十棟ほどの長屋(軒数では三十数軒)が建てられたが、その頃の風景は、そこから三百メートル南方に、「木野村(このむら)」という旧村の集落と神社の森が見える以外は一望の田畑であった。

 その街道沿いの村の、旧家の一軒が大阪外国語大の名誉教授、故長谷川信好先生のお宅である。弥栄神社のすぐ西側に位置するこの屋敷の周辺は今も旧村のしっとりとした佇まいを色濃く残している。

 是定氏が鶴橋本通りで薬局を開業された時期はよく分からないが、大正期に入るとこの辺りはかなり開けてくるとはいえ、それでもまだまだ田舎と思った方がよい。

 それはともかく、薬局のある明治末期の長屋と、司馬さんにとって後年(昭和十七年〜)恩師となる長谷川先生宅を含む旧村とが平野街道によってつながっていた、というのは面白い縁のように思われる。しかもたった三百メートルの距離である。

 先生の話では司馬さんと陳舜臣氏とは共に教え子で自分が叙勲を受けた時、二人が自分を神戸に招待して祝ってくれたとのことであったが、司馬さんが子供の頃その薬局に居たという話は聞いたことがないという。「一度先生、司馬さんに聞いて頂けませんか」とお願いしてみたが、「本人がすすんで言わないことをこちらから聞くのもなァ」と遠慮をされた。教え子とはいえ、あれだけ偉くなった人なので先生も「司馬さん」とさん付けで話しておられたが、丁度その頃、先生は歯の治療中だったので、こちらには「チバさんチバさん」と聞こえたのがおかしくて笑ってしまったことを思い出す。

 そんなことで、この薬局の件ははっきりしないまま、私が耳にしてから今日まで十数年の歳月が経過していた。

 数年前、長谷川先生が亡くなられた時、近くの宗玄寺での葬儀には司馬さんも参列されたように風の噂で聞いた。そのお二人の間柄からしても、鶴橋での幼少時代のことが恩師の耳にも届いていないというのはなんとも不可解な気がしてならない。

 なお、司馬さんの「嬖女守り(めかけもり)」という短編に、

 平野川まで出たとき、綱正は急に意を決して道を南にとり、川沿いの土手を行進しはじめた。やがて一行は舎利寺村・林寺(はやしじ)村に出、いよいよ南下して奈良街道に出た。

という文章がでてくるが、この一行の通った道こそ、鶴橋本通りとなった平野街道だ。

 (注)平野郷に集まる街道は、すべて平野街道なので、ここに出てくる奈良街道も一名平野街道と呼ばれた。

<追記>余録の原稿を出したあとになって「月刊神戸っ子」という本の一九七八年五月号に、長谷川先生の叙勲祝賀会 の写真と文が載っていることを知った。主催した”もと教え子”は司馬・陳・俳人の赤尾兜子(とうし)・歌人の吉田弥寿夫の 四名の人たちであった。

 なお本稿の続篇「八尾の司馬遼太郎」が大阪春秋第100号に、また「司馬さんのいた町のこと<守口編>」が河内どんこう第63号に、「司馬遼太郎年譜の<系譜>」が同、第64号に掲載されました。
        大阪古書月報2000年8月掲載 [不許無断転載] 大阪古書店ネット