「言葉とがめ」

さかもと けんいち [青空書房]      


   (その一)

 領収書を書き「お宛名は何としましょう」と尋ねる。

 「上様にしといて…。」

 どうもひっかかる。いつの程から始まった商習慣か知らないが、士農工商の身分制の名残りか、便利かも知れないが、変な常套語だ。もっとも貴様(たうといきま)も蔑称であり、○○殿も官庁用語で使われてから○○様よりぞんざいな用法と見られ、人さまを呼ぶのも仲々難しい。

 とは云っても人間はみんな平等だと信じている私など、とてもお客様は神様だなんて思えないので、相手から「上様と書け」と云われて時々ムカっとしている。愚かな事ではある。

   (その二)

 「おっちゃん。単行本、ぎょうさんあるんやけど買うてんか。」

 子供ではない、大人が云うので・・・待っている。持って来たのは漫画と文庫ばかり。

 当節、文庫本を「たんこう」と呼ぶ慣しになっているようである。この部属の人々は短小(たんこ)本と思っているようである。そこで文庫本と区別してハードカバーと従来の単行本を呼ぶ人もあるが、此の頃のように柔らかい表紙が増えて来ては此の言葉も当てはまらない。

   (その三)

 ちょっと傍道に逸れるが、近頃の装訂の悪さはどうだ。

 物のなかった戦后も遠ざかって既に50年に近い。今だに戦前(昭和10年代)の装訂にどれも及ばない。函入り、布貼り、或いは皮表紙。恩智孝四郎・杉浦非水・佐野繁二郎・芹沢_介・武井武雄が、谷崎潤一郎や横光利一、川端康成らの作品を飾ったあの心ときめく贅沢なたのしみは奪われて永い。

 たまにあっても超豪華本で高価なものに限られている。物はあっても製本する職人さんがいない。機械化が進んで手仕事が間に合わなくなったのである。

 でも、うすっぺらな安っぼい装訂を見ると経済大国の名が泣く。

   (その四)

 私の話は更に逸れる。

 古書籍商、古書肆と呼べるのは古書籍や和本を扱える店で、他は古本屋だと エライ人が云った。

 でも私なんかは、古本屋と呼ばれるのは恥ではない。むしろ私が選んだ商道の誇り高い呼称である。

 古本屋、大いに結構。古書肆などそんな大層なものでなくてよい。

 隣りのおっちゃんや バイトの兄ちゃんが、小銭ジャラジャラで買える古本屋であってこそ、大衆の中にある喜びである。

   (その五)

 亦、話が逸れる。

 アンテークやレトロやポストモダンぱやりで、今、若い人達が好んで通い集う店に駄菓子屋がある。この「駄菓子や」の話はどうやら東京のヤングが堀出し、流行らせたものらしく、私の住む下町のお菓子屋のオバサンはとても嫌う。

 昔、横町にあってベッタンやラムネや独楽や凧、それにニッキや、す昆布や、飴を売っていた店を一文菓子屋と呼び、商う側もそう云われて苦にもしなかった。

 今、鈴菓子やオランダねじり棒や米菓子を扱う店を、若もの達は親しみこめて駄菓子屋と呼ぶが、呼ばれた方は見下されたと勘違いしてむかっとする。ジェネレーションのすれ違いとは云え、心無き言葉の誤用が生みだす一つの小さな軋轢である。

        大阪古書月報 掲載 [不許無断転載] 大阪古書店ネット