「天五のふるほんや」

さかもと けんいち [青空書房]      


 戦后篇:廃墟…翼なき 羽搏き レクイエムの伝えしもの
 復員して見ると大阪は一面 廃墟 瓦礫の山 大阪駅から大阪城が望まれた。人々は物も心も失って茫然 虚脱の中にあった。食うに糧なく炊くに燃料無く停電が何日も続いた。梅田、天六、上六、鶴橋、アベノ。人寄る処、闇市が拡がり 衣食求めて雑踏していた。

 闇米なんか食わないと変に意固地な父。一家は飢餓状態。何とかして食を手にいれねば、と云っても交換する何物も持たない私。たった一つの財産が100冊そこそこの岩波文庫。黄帯の日本古典、赤帯の翻訳もの。私にとって魂の分身のように愛しい奴だが、せっかく拾って来た命や 捨てるとこから出発や こわいもんなんてあれへん。戸板に並べたらまたたく間に売れてしまった。それが私の古本屋開業の第一歩。戦友であった紡績会社の重役が、羽衣の地下室に隠してあった左翼本を頒けてくれた。マルクス、レーニン、トロッキー、赤旗、ナップ、戦旗などリュック一杯詰め込んで運び、闇市にずらっと並べる。そこへ亦、戦友が蔵にあったと立川文庫を持って来て……食うものもない時代なのに活字にも飢えていたものかよく売れた。

 栄養失調の父が肺炎で倒れ、それから十八年間 喘息で苦しむ。ヒロポンとかエフェドリン、今から思うと恐ろしい薬を服用。毎日看護婦さんが来て注射してもらった。社会保険もない時代。費用はお札に羽が生えるよう。いくら稼いでも働らいてもおっつかない。

 間口1m70、奥行1m30cmの戸板、5cm角の柱。軍用天幕を張り 鉄輪4コでごろごろ曳いて 朝8時焼跡闇市に行く。夜は11時か12時まで。カーバートを灯して小雨の日も雪降る夜も頑張った。屋号を青空書房と定めボール紙に書いてぶら下げて。売れたら松屋町へ仕入れに行く。一日三回も自転車を走らした事もある。紙も配給の時代。仙花紙…悪い紙質に汚ない印刷でバクロものエロを売りものにした「真相」「猟奇」「黒と白」「りべらる」など、自由解放即性とでも云いたいような俗悪な雑誌がそれでもよく売れた。(カストリ雑誌)

「横になった令嬢」 舟橋聖一
「肉体の門」 田村泰治郎
「土曜夫人」 織田作之助

 いづれもあまりすぐれた作品とは云い難い。たとえばわが織田作の「土曜夫人」。スタンダールの影響をうけ、すぐれた資質のこの作家にしても、官能的な世界を売りものにしたとしか思えない作品。読みながらわびしい思いに襲われたものである。

 しかし、終戦後一年もたてば鎌倉文庫「人間」、筑摩書房「展望」、世界文化社「世界文学」など良い雑誌が相次いで出版されたのは嬉しかったが、新刊屋さんへ買いに行っても仲々入手出来ず、十丁目N書店など「米を持ってこい」など云う始末であった。

 もっとも風呂屋にも薪を持って行く時代。私の焼跡店の隣りはもと班長。闇の衣料品を売っていた。帰ったら盗人に入られて一文無しになったと嘆いていたが、腹を立てた挙句警察官になった。

 とにかく混沌、エゴがむき出し、無法まかり通るへんな世相。曽根崎署が露店商を集め、署長が「明日から この人に面倒を見て貰え」と紹介したのがこの辺の顔役であったのには唖然。早速、翌日からニッカポッカにジャンパー、黒眼鏡のおっさんが場銭(ショバ代)を集めに廻って来たのには驚いたが、とにかく彼等のお陰で一応の治安が曲りなりに保たれた。妙な時代であった。

 血まみれのヤクザが倒れこんで来たり、刑事だと云って一冊を脅しとっていったり、家の売り食いですと少年が大きな洋書を抱えて来たり、九州から天児屋根命の子孫だと、剣術、馬術、捕手術の極意書に系図をつけて売込みに来たり、毎日毎日が波瀾と驚きのくり返しであった。

 朝令暮改、一年ほどして闇市はとり払われた。私は十丁目、天五南西角に一坪ちょっとの店を開いた。ここでもよく売れた。

 カストリ雑誌はもとより手塚治虫のマンガ、今から見ると粗末な本だが「新宝島」や「罪と罰」などの出現にはびっくりもしたし、たのしかった。この「新宝島」が今どき稀覯本として高値を呼んでいてクスぐったい。と云うのは手塚マンガの大好きな私は当時、治虫さんを売りまくっていたからだ。

 ベストセラーも今日から見ると良いものが多い。

 尾崎秀樹 愛情は降る星のごとく
 戦没学生の手記 きけわだつみのこえ (昭和24年)
 大岡昇平 武蔵野夫人(昭25)
 ロレンス チャタレー夫人の恋人 伊藤整訳
 カミュ ペスト (昭25)
 安田徳太郎 人間の歴史 (昭26)

 その他、私の店ではマルタンデュガール「チボー家の人々」やプルースト「失われし時を求めて」、サルトル、カミユ、カフカのものもよく売れた。

 小さい小さい店ではあったがやっと一軒の店を持つようになって、大阪古書組合に入会した。西も東もさっぱり分らず 闇市あがりの私など戦後派とさげすまれ、さっぱり相手にされない。その中で曾根崎支部の先輩たちは厳しいながらも丁寧に指導して下さった。桜橋 高尾彦四郎書店の二階で度々催された支部会。吉村長七さんが議長で、商いのこと 税金のこと etc. 学ぶ事が多かった。

 私の店の近くに藤野惣一郎さんが居た。この方、無類のお酒ずき。店番しながらちびちびやっていた。

 茶屋町 綱敷天神社境内の「一粒の麦書店」稲山春太郎さん。人柄も大らかで白髪の優しい方、このお店の二階で梅田交換会があった。稲山さんのお店はもと梅田中央病院前にあったが移られたそうである。梅田交換会は浪花町法正寺に代り、藤野さん、稲山さん、天文さん、藤木さん、吉村さん、豊中の青林さん、老松町の伊藤光三さんも加わられた。

 すこし世の中も落着き、停電もなくなり、お米に苦労もなくなって来た頃。税金攻勢が厳しくなり、古書組合でも税務部を置き豊中の原田さん、アベノの中川末一さん、宮本、池田さん等が委員として記帳指導や税務署折衝に苦労された。声の大きく明るい村田新之助理事長の時代である。曾根崎支部では梅田の幸田書店などが税の厳しい追求を受け、日本橋へ移転された。零細な業者にも酷税の嵐吹荒れ、藤野惣一郎さんは税金ノイローゼ。思いつめられてか御夫婦で命を絶たれた。割腹というすさまじい死。余りに傷ましく一瞬声を失ったものである。(昭和29年頃)遺子貴志也君は更に心弱く温和しすぎる青年であった。暫く店頭にあったが一年ののち、梅ヶ枝町宇治電ビルから投身自殺。自殺というものは他からどんな励ましや力付けあっても止めることは出来ないと、痛いほど思い知らされた。かくして戦前からの藤野書店は消え、そのあと今 民謡酒場「三楽」として栄えている。私にとってさんざめく太鼓や三味線の賑やかな音が空しく聞えてならない。悲しい残響である。

 藤野さんの親友 稲山春太郎さんは道路拡張のためこの地を去り、運送店に転業。吉村長七さんは古本屋では進歩がないと洋品店に転業してしまわれた。テレビが普及し文字離れが云われる可成り前の事。先見のある方であった。人にはそれぞれの生き方があるものだと時の変転のなかに考えさせられた。

 天六に近く電車道に鳥山与四郎さんの天文堂書店があった。大きな丸刈り頭 巨体 声も大きくとにかく頑固で几帳面。どんな本でも市で落札すると、すばやく頁を繰り一枚の落丁も乱丁も即座に発見される特技があり、一円のまちがいも許さず、計算ミスでもし受取りが多かったら必ず返され、反対の場合の請求も早い。商いの時は飯は食わんと、交換会の帰りがどんなに遅くなっても外食せず、日本橋から自転車のペダルを踏み続ける人だった。金には厳しかったがケチではなく、組合行事の寄附などは気持よく応じられたし、旅行は必ずタクシーで集合地へ急がれた。酒豪、琉球料理「梯梧」で純度の高い泡盛を好まれた。子供はいらんと口癖、無類の愛猫家。昭和43年閉業の後、13匹の猫と千里山に閑静な居を持たれた。豪毅のようだがどこか淋しがりやの先輩。今は没い。

 天文さんと反対に子宝に恵まれたのは老松町の伊藤光三さんである。文学好きで画の造詣深く大阪古書組合きっての知識人であったが才を秘めて常に謙譲な紳士。私が兄と慕う人であった。老松町西北角に店あり、処せましと東西美術のおもしろい本を山積。良心的な価格で売って居られた。この方が組合機関誌部長の時、サブに就いた私。文章のいろはを教えて頂いた。今も冗文であるが、二十枚の原稿を五行に直して頂いたとき感動したものである。私が昭和43年「大阪ふるほんやまっぷ」を作製したとき全力で協力して頂いた。地図の構成、折り方、表紙デザイン、すべて彼の指導に依るものである。阪神百貨店の杉本要太郎さん、玉造の佐藤鉄心さん、スタッフの協力あって一枚のマップは出来た。当時125軒位の古書店を一軒づつ訪問し、写真取材した。池田町のひばり書房 大島さんや吹田の甲子堂 嶋田秀老さんが乗用車で案内して下さった。今も感謝している。あれから26年、組合70周年を記念して松宮さんが古書店地図帖を作られた。私の作ったものなんか比べものにならない立派なもの。しかも松宮さんひとりで制作された御苦労にはただ頭が下がる。組合歩みの二つ目の道標が出来たと心から喜んでいる。ところでわが畏友 伊藤光三さんは今は亡い。御子息真弓さんは立派な書店を開き、大へん御繁昌されていると聴く。嬉しい限りである。

 藤木書店は戦後、天六新京阪の西側 バス車庫の前にあった。関大天六学舎に近く、関大教科書や辞典を多く揃え、学生達のメッカであった。将棋好きでおだやかで優しい主は学生達のよき相談相手でもあった。天文堂さんと仲よく市や交換会はいつも膝を接して坐って居られた。夏よく昼寝して居られ、うず高く積まれた本の向うに帽子だけチョコンと見えて居る時はセンセイ御熟睡タイムである。老人今もカクシャクお元気である。

 池田町ひばり書房大島さん。誰がつけたかバロンと呼ばれる。お店には小説、全集の他、成人向資料を揃えて居られる。御主人は悠容せまらず お客が何時間滞在していても決して急がしたりしない・・・ひとり静かに小さなテレビに見入っている。多病な方で若い時何度も死線をくぐりぬけ この大らかな人柄をつくりあげた。

 大島さんのお店を過ぎ辻を右に曲ると中田書店。ここはヒゲオヤジ中田吉助さんが戦后創業。酔うと覗きからくり「八百屋お七」を一くだり歌うのが有名。面白い人だったが没くなって久しい。後継の方が盛業を続けて居られる。

 戦後間もなく国分寺市電停留所近くに丸三書店が開かれた。主人公、堀さんは誠実な人でカストリ雑誌の時代「お宅より2円安く売らしてもらいまっせ」とわざわざ断って見え、私の店で100円で売っている雑誌を98円で売られた。間口3間もあり、奥行も3間はユーにある広やかな店だが大衆向き小説を主体に埋めて居られたが、突然変異、全点週刊誌で深夜開店 朝まで営業と云う変った商法を採られた。その日出た週刊誌が安く買えるのが評判で、マスコミに度々紹介された。表てのテントまでぎっしり週刊誌が積上げられ、店内にまるで入れない。その時分であったが突然寡黙になり、人づきあいをまるで絶たれたようである。バブルまっ盛りの時、このお店をはじめ持家を処分されて移転、現在このお店は無い。

 JR環状線天満駅南口に近く天四文庫がある。昭和32年開業されて以来、繁栄に繁栄を続け、天五界隈最高の古書店を築く。すべて御主人の大胆緻密な才覚商法と奥さまの如才ない接客、努力とアイデアがこんなに結実した古書店はまづ少ない。ある時、小説、理工書をはずし歴史、研究書、美術豪華本に統一された目利きである。占易をもよくし予測予断に狂いがなく、お客さまの人生相談にも懇切に応えられるそうである。若い時の彼を獅子文六「大番」の主人公に擬して見たことがある。とにかく大阪古書業界成功の第一人者と云って間違いない。後輩の面倒見もよく彼の人柄を慕う若い本屋さんは後を絶たない。元、北東北書会の会長さんであり、特に御婦人にはとりわけ やさしい。

 突当りの天満ホテルは昔、錦座といって新興映画の上映館、しかもこの辺りは花屋敷と云って戦前から繁華街であった。

 十丁目を挟んで幸文堂 畑さんの店、お店は決して大きくないが御主人の個性が凝縮されその棚に光っている。錦絵版画にひかれ、やがて成人雑誌部門では特に優れた手腕を振われたと聞く。営業頗る発展的である。

 ・・・以上が戦後から昭和43年(明治百年)、「ふる本やまっぷ」作製の時期まで 波瀾に充ちた天五界隈の消長である。自然淘汰と云うには余りに惨い現実も有り、静かにカーテン引いた古書店もあれば、忽ち頭角を現わし大きな飛躍を遂げられたお店もあり、その消長はさまざま。世相文化の変遷の投影が古本屋という個性をもつ人間集団に見られる。

 ・・・私の店は天五角から黒崎町商店街の中に移ってもう五十余年、相も変らず も一つ冴えない営業を続けている。はづかしいことである。

   :戦前篇:      (イラストも著者)

        大阪古書月報 平成6年1月掲載 [不許無断転載] 大阪古書店ネット