「天五のふるほんや」

さかもと けんいち [青空書房]      


 戦前篇
 ものごころついた時 そこに坂があった。坂は市電停、天神橋五丁目から南へ昇り 扇橋に降りて行く。下を梅田から天王寺へ汽車が煙を吐いて走り 坂の上を市電がポールをゆらしながら行き来していた。昭和7、8年ぐらいまでの天五の風景である。(天五とは天神橋五丁目、天六が天神橋六丁目、上六は上本町六丁目をつづめた大阪独特の云いまわし)

 私は大正十二年関東大震災の年に生れた。翌十三年は甲子の年。西宮に甲子園球場が生れ、大阪古書籍商協同組合が発足。わが友嶋田秀老氏が誕生(古本やの甲子堂)している。

 十丁目(じっちょうめ)と云う大阪で一番長い商店街がある。かつては映画館、カフェー、喫茶店、呉服屋 、仏壇店まであって歴史も古く、現在ますます繁昌している。


 その五丁目に、もと吉本の寄席から松竹映画常設になった「都館」と云う小さな映画館があって、その南隣りに第二天牛書店があった。三間ま口はあったかと思うが、全集ものをうず高く店頭に積上げ、一つの風格を持つ堂々たるお店であった。

 向いにも映画館葵ニュースがあって洋画を安く観せていたが、戦時中はニュースを上映して大へんはやっていた。

 十丁目を北へ進むと二つ目の辻、北東角饅頭屋の斜向い吉村長七さんの古書店があった。目利きの主であったせいか、小さなお店のわりに、しっかりした上質の古書が棚にぎっしり詰まっていた。

 戦後、吉村さんは更に北、天六近くに移り、三間間口の立派な古書店に発展されたが、やがて洋品店に転業。現在二代目店主 盛業中。

 十丁目筋の一つ西を並行しての通りが堺筋から長柄、都島へ向う市電通り。この電車道、天五の停留所の東側 鯱ほこ湯(銭湯)の高い煙突を背に一軒、ちょっと屋号が分らないがたしか天五書店といったかと思う。ここにはわりと安い本や掘出しものが多く、貧しい夜学生の私にもちょくちょく手に入るものがあった。

 薄田泣董の「茶話」、「草木虫魚」、横瀬夜雨の随筆、織田作の「夫婦善哉」、里見クの「金の厘の鍵」−すばらしい装幀−「大道無門」、モーパッサンの短篇集、ズーデルマンの「猫橋」等 みんな十銭均一で買った。それぞれが新鮮な感動で多感な心をゆさぶった。

 天六に近く西側に天文堂。重たい硝子障子の向う 海坊主みたいな巨体の主人が坐っていた。多くの雑誌や大衆小説の類が几帳面な主の性格そのまま きちんと整頓されて並んでいた。まだ古本屋になっていない夜学生の私。財布の中を覗き覗き古本を漁っていては大きな声でよくどなられたものである。こわいおっちゃんやなあと思ったものだ。が、後年業界の先輩としていろいろ教えてもらう事になろうとは夢にも思わなかった。

 十丁目筋を南へどんどん進むと長柄大橋。そのちょっと手前、本人に云わすと天神橋九丁目と云ったらしい、西側に昭和2年11月、一軒の古本屋さんが開店した。藤木松三郎氏19の年である。爾来66年、孜孜として倦むことなく陽気に明るく市井の古本屋さんとして本に埋もれ、本を愛し、人を愛し、組合に限りなく愛着を持ち続け84歳。ちょっと口は悪いが、本当は心優しい元気な元気なおじさんである。藤木さんの出発は夜店だと聞いたことがある。

 天五停留所を西に渡ると角に三階建ての鰻の出雲屋が目を引く。西へ歩むと喫茶店、紙屋、豆屋、小間物屋、漢方薬店の隣りに藤野惣一郎書店。すこし暗い店だったが、やさしい夫婦が番をしていた。ここを過ぎてアイスクリンやの手前に四方文潮堂(今は新刊専門)。

 小さな井路川を渡ると、洋画の大阪座、日活の旭座が並んでカフェー、弓屋、ブロマイド屋さんもあってこの地域一番の繁華街。更に西紅屋化粧品店の前に市嶋書店。ここは新刊と月遅れ雑誌を置いていた。上品な女主人が優しかった。宮尾しげをの○□(マルカク)サン助を小遣い貯めてやっと買えた嬉しさは忘れられない。林不忘の「丹下左膳」志村立実の表紙が素晴らしく、欲しくってたまらなかったが、とても入手出来るような値段ではなかった。(1円50銭ぐらいだったか)

 十丁目筋の天五の辻には当時マルエスと云う喫茶店があり、生バンドで「国境の街」などを演奏していた。

 その南の辻を東へ行くとすぐ大きな銀杏の樹がそびえ、妙見さん。ここから北へ五の日、十の日は夜店が出た。国分寺電停への途中 東へ折れると臭いので有名な公衆便所。その前からずらっと古本屋さんが並び、済美第六尋常高等小学校の前を過ぎる。十五軒から二十軒ぐらい裸電球眩ゆく、なかなか壮観であった。文学好きだった父はよく連れていってくれた。あんまり買うので母が好い顔をしない。懐ろにかくして帰ったものである。

 時々ご機嫌とりに落語全集や講談本を声色いりで読んでいた。寄席好きの父は仲々話術に富み、神田山陽も、春団治も自由に真似して聞かせた。

 父がもっとも愛読していたのは雑誌「新青年」。表紙はいつも松野一夫、写真は若き日のドモンケン。色ページにはカミの利いたコント中村篤九や乾信一郎のユーモアショート、探偵小説専門誌だったのでヴァンダインやエラリークイン・クロフッツなど海外秀作を森下雨村、水谷準などの名訳でたのしませてくれた。江戸川乱歩はもとより甲賀三郎、大下宇陀児、小栗虫太郎、正木不如丘など才気溢れる新作に会えるのは胸ときめく喜びだった。

 昭和10年前後は大衆小説花咲りの時代でキング、講談倶楽部、冨士、大衆文芸、日の出、譚海などの雑誌がよく売れていたようである。今日ほとんどお目にかかれない作家も多い。

 「時代小説」 直木三十五・村上浪六・吉川英治・大仏次郎・白井喬二・湊邦三・国枝完二・村松梢風・国枝史郎
 「股旅小説」 長谷川伸・子母沢寛・土師清二
 「歴史小説」 大田黒克彦・海音寺潮五郎・驚尾雨工・木村毅
 「家庭小説」 菊地寛・吉屋信子・小島政二郎・中村武羅夫・久米正雄・佐藤紅緑
 「恋愛小説」 丹羽文雄・片岡鉄兵・武田麟太郎・竹田敏彦・長田幹彦・平山芦江
 「ユーモア小説」 佐々木邦・南達彦・サトーハチロー

 忘れられないのは挿絵画家たち活躍である

 「お伝地獄」の小村雪岱
 「逢魔ヶ辻」の岩田専太郎
 「宮本武蔵」の矢野橋村・石井鶴三
 「墨東綺談」の木村荘八
 「少年一直線」の斎藤五百枝
 「大東の鉄人」の樺島勝一
 武者絵・・・山口将吉郎・羽石弘志・伊藤幾久造
 股旅小説・・・小田富弥
 「人生劇場」の中川一政
 探偵小説の吉田貫三郎

 などなど 心血を注いだ名作の1シーン1シーン、今も瞼にありありと刻まれている。大衆小説の消滅と共に、美しい挿絵に触れる機会も消えた。

 その他の挿絵画家思いつくまま。

 鈴木朱雀、石井滴水、井川洗涯、玉井徳太郎、川目悌二、富永謙太郎、鴨下晁湖(ユーモア)、田中比左良、水島爾保布、清水対岳坊、和田邦坊、細木原青起、池部均。

 私がはじめて文学に触れたのは小学五年。夜店で父が買ってくれた一冊 藤村読本「桃の雫」。今まで読んでいた小説とは違うもっと深いところで、ずしっと心にしみてくる簡潔な詩人の章句だ。

 改造社の日本文学全集
 春陽堂の明治大正文学全集
 新潮社の世界文学全集

 10銭均一で入手できるもの片っぱしから読みまくった。

 鴎外、漱石、芥川、谷崎、荷風、康成、犀星、春夫、利一。

 やがて私は有名な巨匠の他、生田春月や葛西善蔵、近松秋江、加能作次郎など地味な作家にひかれていった。その時やはり均一台で太宰治の「晩年」、三好達治の詩集「花筐」、「宮沢賢治論」を見出した感動。生きることの意味の深きを強めた。

 粉雪ちる夜 水っ鼻すすり背をまるめ 火鉢を抱いて店番していたおじさん達。やがて古本屋になる私の輝かしい大先輩であったなど、幼年そして少年であった当時想像も出来ないことであった。

 大正ロマンをうけついでおだやかで平和な昭和初期、満州事変勃発。だんだん惨烈な戦争への傾斜。その中で月給十六円の少年給仕は渇きが水を求めるように手当り次第読耽った。

 ゲーテ、モーパッサン、ドストエフスキー、バルサック、アナトールフランス…すべてが師であり友であった。

 やがてジィド、プールジェに巡りあった頃、大東亜戦争が始まり 幼い文学への夢はこっばみじん。愛読書と訣別 九九式短小銃サマを担ぐ身となる。

   :戦後篇に続く:        (イラストも著者)

        大阪古書月報 平成5年12月掲載 [不許無断転載] 大阪古書店ネット