「司馬遼太郎先生を
       おもう」

今 木 芳 和 [天地書房]      


 『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』『菜の花の沖』など数多くの優れた作品を残し、国民的作家として大勢の読者に愛された司馬遼太郎先生がお亡くなりになった。 平成八年二月十二日、きらきらと輝いていた巨きな星が、消えてゆくように、七十二歳だった。

 新聞に雑誌にテレビ番組に追悼特集が相次ぎ、各分野の方々が思い出を語り、畏敬の念をもって深くその急逝を惜しまれていた。 常にこの国日本と、日本人の将来に心を砕いておられた先生を喪った衝撃と空白感は大きく、まことに悲しく寂しい限りである。

 昭和三十年代半ば産経新聞社におられて、『梟の城』で直木賞を受賞された頃から時々私どもの店にも足を運んで下さった。おしゃれな美男の紳士で、気さくに話しかけて下さったのをおぼえている。徳富蘇峰の『近世日本国民史』をお買上げいただき、自転車に積んで西長堀のマンモスアパートヘ配達した。当時その斬新な高層マンションは文化人、芸能人たちが入居されていて有名だった。

 若い美しい奥様が、「司馬さんは今、石浜さんのところへ行ってますので帰りに寄ってみたら」と言って下さる。近くに「石浜恒夫」という表札がすぐ見つかり、ドアが半開きで中からお二人の談笑が聞こえてくる。よほど楽しいらしく大きな笑い声が絶えない。表で十分余り立っていたが、こんな楽しい雰囲気をこわしてはならないと帰ることにした。

 その頃、大阪の古本屋がせっせとマンモスアパートヘ運び込んだようで、またたくまに本で一杯になり『竜馬がゆく』を書き上げられた頃、東大阪市中小阪へ引っ越された。植え込みの多い大きなお家だった。しかし『坂の上の雲』の頃には、東京をはじめ全国から続々と本が届き、またいつの間にかあふれるようになって、近くの更に大きな現在のお住居に移られたようである。近鉄「八戸の里」からの道は楽しく、畑があり校庭があり、美味しいコーヒー屋さんがあり、正月前には餅つきの風景が眺められた。

 昭和五十八年十一月、大阪古書組合創立六十周年記念行事として、司馬遼太郎先生、谷沢永一先生の対談が阪神百貨店で催された。司会は関西大学教授山野博史先生、その対談の要旨は、宮石弘司さんが熱誠あふれる筆致で、大阪古書月報第203号に掲載されている。一部を拝借させていただく。

「谷沢先生は、司馬作品の特徴は厖大な史料を卓抜に駆使されて、作品の中の人物像が生き生きと躍動感にみなぎっている。それが大きな魅力となって読者をひきつけているが、その資料蒐集と駆使について話を向けられる。
 司馬先生は、良質の木材を、うまく選び抜くのが仕事の銘木屋と、良い書物を敏感に見わけるのが生命の古本屋を例にあげて、森羅万象なにごとにも目ききになることが、いかに大事なことであるかを語られる。また歴史の現場に足を運んでみること、現地に何度も何度も足を運んでいるうちに、山川草木が教えてくれることがある。同時に事実を冷厳な目で、徹底的に調べあげて行くこともやらねばならないが、これには特別の方法があるわけではない。ただ直感と経験で、活字がむっくり起き上がってくる本、書物の中がわき立っている本、実感のこもっている本にめぐりあうことがあって、それを拠りどころにして一歩一歩仕事を推し進めて行く。例へば文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸』には、どれほど恩恵をこうむったかはかりしれない。と語られる。……」

 これについては著書『十六の話』にも書かれている。「この本はながく稀覯本として古書業界で珍重された。著者は明治三十年代から調査を開始し、半生をかけて本書を完成させた。咸臨丸のことだけでなく、幕府時代の軍艦については、本書を経ずして知ることは不可能にちかく、すでに堂々たる古典であるといっていい。」(元版:昭和13年厳松堂 復刻版は昭和54年名著刊行会)

 昭和三十年頃司馬先生は、参謀本部編纂『明治三十七、八年日露戦史』全十巻(大正二年刊)という厖大な本を、道頓堀の古本屋で買われた。おどろく程安く、目方で売る紙クズ同然の値段だったそうである。

「古書籍商人というものは本の内容についてじつによく知っており、値段は正直に内容をあらわすものなのである。」と、『坂の上の雲』のあとがきに書いておられる。

 この本は日露戦争後、一方で論功行賞が行われているときに、一方参謀本部で戦史の編纂が進められていて、あちらこちらの将軍たちから圧力がかかり総花的になり、価値のうすいものになってしまったということである。しかしその本には沢山の精密な地図がついていて、後にそれが先生によって大いに活用されることになる。膨大な本文は役に立たなかったが、「この地図と敗戦側であるロシア側の記録をつきあわせ、その局面に関するあらゆる資料や雑書のその部分と照合してゆくことによって、一つずつの局面が立体化して見られるようになった。」と記されている。大作『坂の上の雲』のみずみずしく展開される戦場風景、そのあたりの話を先生から直接うかがったことがある。

 いつか司馬先生の方から電話があった。「『井伏鱒二全集』の第二巻を探してほしい。その巻がどこかに紛れて見当たらない。」とのこと。目的は『多甚古村』のようで、それなら初版本や他の本ではと申し上げると、先生はその全集のその巻のものを読みなれているので、どうしてもその本をとのご注文である。さいわい間にあってお届けすることが出来た。さてそれはどの作品にあらわれるものか気になって、文藝春秋、週刊朝日、風塵抄など注意深く見守る日が続いた。二ヵ月程経って、週刊朝日の『街道をゆく』のオホーツク街道、紋別のところにあらわれた。「井伏さんの駐在さん」といううれしい言葉で登場して来た。

 数年前、先生の書庫を拝見する光栄に浴した。玄関のところまで進出している『大日本史料・大日本古文書』から始まって、応接室から書斎、奥の書庫につながる廊下にまで書棚が続き、整然とぎっしり本が並んでいる。書斎にはあの独特のかたちの机、ご愛用の万年筆、灰皿、辞書。机を囲む三面の書棚には今のお仕事に関する資料が用意されているようである。ここに地図を拡げてじっと見入っておられる写真のお姿を思い浮かべる。前には高原の雑木林のようなお庭が眺められるこの場所で、数多くの優れた歴史小説、文明評論が生まれたことを思うと感慨無量である。広い書庫へ案内されると、このあたりが『花神』の世界、このあたりは『翔ぶが如く』、ここは『項羽と劉邦』、『菜の花の沖』と書物と作品の情景が重なってくる。本が生きている。みんな先生の方に向かって生き生きしている。活字がむっくり起き上がってくる本、書物の中がわき立っている本たちが笑みをたたえてひしめき合っている。汗牛充棟、すみずみにまで先生の博学多識と心のゆきわたった文ぐらである。胸の高鳴るのを覚えながら、本に携わる者にとってこれこそ至福であり冥利につきる思いだった。

 司馬先生は上本町にあった大阪外国語学校(現大阪外国語大学)を昭和十八年にご卒業になっている。大阪古書業界にはその蒙古学科の卒業生が二人おられる。共にお亡くなりになっているが、西成区萩の茶屋、津田書店の津田喜代獅さんと、石橋の太田書店の太田吾郎さん(現太田剛介さんのご尊父)で先生の先輩にあたる。今年の一月、蒙古学科の雑誌『朔風』が出て来て、先生にお届けしたところ、ご丁寧なお礼状を頂戴した。太い万年筆のインクの濃淡がにじむ気品ある筆跡で、

「『朔風』はとくになつかしく、小生の先輩たちは、案外学問的なことに驚きました。うれしく、うれしく。一月十六日」

 少年の頃からモンゴルに深く心をよせておられることからか、こんな些少な事にも言葉を重ねて喜んでいただき、ほんとうにうれしく有り難い。後で聞き及んだところではその時期、先生にはご体調すぐれず大変お疲れだったようで、まことに申し訳なく心苦しく胸がいたむ。

 先生が亡くなられてひと月、三月十日、北区ロイヤルホテルで開かれた「司馬遼太郎さんを送る会」には、各界の著名人や一般の読者ら三千人を超える人々が参列した。遺影を前に先生がお好きだった菜の花が会場いっぱいに飾られていた。田辺聖子さんが、「司馬さんは終戦後の日本人に勇気と希望と愛とプライドを思い出させて下さいました。」と遺影に語りかけるように、切々とお別れの言葉をのべられた。前の席には谷澤先生、山野先生、桂米朝さん、藤本義一さん、瀬戸内寂聴さんらの姿も見られた。モンゴルの民族衣裳をまとったあの『草原の記』のツェベクマさんと思われる婦人も列席されていた。

 司馬先生が小学国語教料書の六年生のために書きおろされた『二十一世紀に生きる君たちへ』と題した文章、その全文が参列者に配られ、NHKのアナウンサーが朗読した。

「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。君たちはちがう。二十一世紀をたっぶり見ることが出来るばかりか、そのかがやかしいにない手である。(中略)
 助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。」
 (一部抜粋)

 その朗読に聞き入りながら、先生の温和で高潔なご人格を思い、古本屋に暖かく優しかったことを感謝し、心をこめて菜の花を捧げた。司馬先生、有難うございました。

        大阪古書月報 平成8年5月掲載 [不許無断転載] 大阪古書店ネット