会報2014年春

 

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 皆様お変わりありませんか。昨年7月の参議院選挙は改憲派に3分の2を許さなかったものの、いわゆる「ねじれの解消」を好機と安倍政権の暴走が続いています。マニフェストにもなかった「特定秘密法」が法律としての体裁さえ不十分なまま、強引に「可決」されたことは、麻生副総理が言ったナチスのやり方を想起させるものでした。終盤で学者文化人芸術家など幅広い人々の反対の声が上がり、「可決」後も廃止へ向けた動きがすぐに始まっていることは心強く思います。しかし安倍首相は原発再稼働と輸出、靖国参拝など「戦争をする国」へと猪突猛進しています。また、学者や市民の粘り強い研究と運動によって積み上げられた村山談話に結実した歴史認識を反転させるべく、教育と文化に攻撃的に介入しています。この間に私たちは第16回平和教育研究交流会議を行いましたので概要をご報告します。

 

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関東大震災90周年記念
第16回 平和教育研究交流会議 報告
8月24日(土)12:30〜 横浜市 横浜開港資料館



 
横浜開港資料館の展示「横浜の関東大震災」を見学したのち、シンポジウムを行いました。展示は90年前の1923(大正12)年9月1日、マグニチュード 7.9 の大激震により横浜の街は一瞬にして灰燼に帰し、26,000人もの人々が亡くなりました。今回の展示は横浜市史資料室と横浜都市発展記念館との同時開催で、たくさんの写真資料に新資料を加え復興を視野に入れた展示となっていました。続いてT世話人の進行でシンポジウムが始まりました。

今井清一さん(世話人代表)開会挨拶




 「1970年代以降、久保野日記など新資料の発見があり、関東大震災下の中国人虐殺事件の究明が進んだ。自身は米国が作成した外務省マイクロフィルムの中に『大島町事件その他支那人殺傷事件』の綴りを見つけたが、仁木さんは被害者と王希天に対する深い思いを持って大島に住んで事件の解明を進めた。2003年の関東大震災80周年記念集会での講演『1923年の戒厳令と今日の有事法制』は、当時成立した有事関連法が“武力攻撃事態”を仮想して作られ、震災の混乱の中で戒厳令が“敵”を作り出し朝鮮人・中国人虐殺事件を生んだことを想起させるという趣旨だった。
 2012年には『内田康哉関係資料集成』(全3巻柏書房)が刊行されて、戒厳令発布に至る経緯がやっと明らかになった。2008年『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』を刊行した仁木さんは記録を残そうとした外交官守島伍郎の努力を評価している。この史料集刊行直前に大迫尚隆の遺稿集が見つかりその姿が明らかになった。彼は小村俊三郎や丸山伝太郎とともに王希天や中国人労働者虐殺事件の真相究明と謝罪、補償を求めた東京帝国大学学生だった。大迫の父尚道は横浜市内の豊顕寺の標札を書いた人で、身近なところに関係者がいる。また西園寺公望が日本はアジアと対等な関係の中で発展するべきと考え、嘉納治五郎に協力を求めて神田三崎町界隈を中国人留学生街としたことは歴史に別の可能性を見ることもできる」など、興味尽きないお話でした。
続いて I 世話人がコディネーターとなって4人のパネリストに発言を求めました。

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シンポジウム「関東大震災後の民衆と復興」

鐙屋一 さん(目白大学教授)のお話  



 仁木ふみ子さんが「関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会」を立ち上げるに至った経緯から、2008年『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』を刊行するまでの歴史を振り返りながら、シンポジウムのタイトル「民衆と復興」に即して仁木先生のメッセージを読み解きました。たとえば 「《脱亜入欧をめざす日本の近代化がもたらしたアジア人蔑視は・・・多くの日本人を毒していた。民衆の狂気は、敵を示す流言を信じたからであり、竹やりを持って走り出した人々は普段はいい人たちである。しかし彼らは、容易に権力の作為に踊る“いい人”たちである。祭りで神輿を担ぐように、同一性の中に埋没し,陶酔する限り個人の責任は問われない。裏返せば“他と異なることの恐れとなり”それは大衆のものだけなく、隠蔽劇の主役たちも常に右へ習う習性をもっていた。結局声の大きいものが勝つ。ここに大きな国民教育の欠陥がある(91年ブックレット)。》  『復興』について、《この関東大震災を契機に軍隊は完全に復活した(93年『震災下の中国人虐殺』)》と仁木さんは指摘する。そして戒厳令、治安維持法公布、国内の総動員態勢を敷き、満州事変、日中戦争を経て太平洋戦争へ、戦争ができる体制へ向かった。背景に朝鮮の三一独立運動や中国の五四運動など反日運動が燃え上がっていた。そして労働問題が顕在化し、ロシア革命がおこって、コミンテルンの支部がアジア各地にもできていた。権力にとっては、それは恐怖であったろう。
 3・11後ナショナリズムが高揚し、“がんばろうニッポン”というスローガン流布したが、きな臭さを感じないだろうか。2008年外交に関する調査では中国が嫌いという答えが8割を超え、韓国を嫌いとするものが6割に達している。今ネット上では若者たちが中国のことを“シナ”と表記している。原発再稼働の問題、隠蔽の問題も抱えて復興の問題を非常に見えにくくしている。政権が代わり、改憲論議が行われている。集団的自衛権の容認という動きもある。昨今は教育現場で行われている平和教育に対して上からの締め付けが厳しいという現実がある。時代が次第にきな臭くなっている。《現代の状況はあまりにもあの時と似ている》今から20年前の仁木先生の言葉である。
 さらに『民衆』とは加害者であり被害者でもあるわれわれのことであるが、事件の生き証人である温州の老人たちが生きて帰れたのは民衆によってかくまわれたからだった。仁木先生は《彼らは自分を助けてくれた日本人と仲間を殺した日本人の二通りの民衆を知っている。そのことは、新たな発見であり慰めであった》と書いている。
  もうひとつのメッセージを紹介したい。この史料集の約80ページ分は犠牲となった中国人の名簿であるように、過去を振り返る者はとかく犠牲者何千人とか歴史を抽象化しがちだが仁木先生は、《一人一人を歴史の中から立ち上げなければならない》と言っている。仮に700人の犠牲者という時、一足す一タス一…と700回繰り返さなければならないと。」

吉良芳恵 さん(日本女子大学教授) のお話



 横浜開港資料館で70周年の展示の時、虐殺された中国人の名簿を展示した当時を振り返りつつ、今回さらに新たな資料が加えられ、横浜は優れて地道に多方面に研究を続けている証だと前置きして、朝鮮人と関東大震災の関係で3つの資料を紹介しながら資料の読み方・扱い方に注意を喚起しました。
 「資料@ 佐久間権蔵の日記。 70周年の記念展示資料の一つ。佐久間は地域の名望家である。
 9月3日鶴見署に保護されていた朝鮮人約200余人について、佐久間権蔵ら町の有力者が、大川署長に《いつ町の人々と衝突するかもしれないので、東京方面に送り出してほしい》と強要したが、大川署長は《温良なる弱者(朝鮮人)を保護するのは職責上当然》として拒否、押し問答の末、その日は暗くなってしまったので警察署の2階に保護し、翌日4日、大川署長は県庁へ出向いて相談し、《朝鮮人を退去させることに県の方も不賛成で、いずれ戒厳令(2日午後発せられた)がここにも施行されれば人心も落ち着くであろうからと熱誠を込めて語り、警察が全責任を持つとも言ったので町の人々は納得し、朝鮮人は警察署に保護され難を逃れることになった。》この日の佐久間の日記、通信が途絶えてしまって東京方面の状況が分からないまま朝鮮人を他へ移送することを求めていることが読み取れる。3日の日記の最後には《しかし果して朝(鮮)人が悪事をするかどうか確証はない》と流言への疑問を書き記している。実は9月3日8時15分、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から呉鎮守府副官宛の打電で各都道府県長官に宛てに、朝鮮人を取り締まるよう求める打電をしている。この情報が鶴見署まで届いていたのかどうか、地域と東京の政府・内務省との時間差に気を付けておかなければならない。
 資料A 海軍省公文備考 大正12年(変災災害付属巻7)
横浜港に停泊中の崋山丸に(9/23)収容されていた朝鮮人のリスト。70周年の時、防衛庁は貸し出しに応じてくれたもの。収容月日、引き取り場所、本籍、震災当時の住所、本邦来住月日、職業、氏名、年齢、離収容記事。ほとんどが労働者、ただこれは鶴見署の2階に収容された人たちを含めさまざまなところから収容された人たちだとわかる。
 資料B 横須賀鎮守府『大正12年 震災誌 前篇』昭和6(1931)年11月 横須賀地検が昭和6年満州事変の時に作っているもの。《震災直後不逞鮮人に関する流言蜚語は・・その虚伝なることを確かめ朝鮮人保護のため、これを一団として不入斗(いりやまず)−三浦半島にある−練兵場に収容》したこと。それらの朝鮮人133名を海軍機関学校及び海兵団焼け跡整理のため有給で使役したこと、彼らは保護に感謝満足し、朝鮮に帰る際100余名は謝意を表し、賞与金全部(約百円)を拠出して横須賀市復興会に寄贈した、など収容された後の朝鮮人の消息を伝えている。」
3つの資料を読み解きながら、資料の伝える時間、地域など慎重に検討する必要があることを強調されました。

G さん(元横浜市立中学校教員)のお話



 横浜には4つの小学校の作文が残っているが南吉田第2小学校(5,6年生96人)、寿小学校(65人)、石川小学校(高等科2年1クラス33人)の作文リストとそのうちの14人の作文を紹介しながらのお話でしたが、スペースの関係で作文を紹介できないのが残念です。
 「今回展示されていない石川小学校の作文は8割の子供が流言や自警団に触れている。この作文集のどこを開いても、自警団や虐殺に出会うことになるので回覧する。3つの小学校の学区は現在の市の中心部、埋め地にあり、子どもたちは丘陵地帯に避難した。家屋の大半が焼失した地域で警察署も被害を受け機能していない。警察資料は朝鮮人を保護したことを特に書くけれど、朝鮮人がどこでどのように殺されていったかについては全く記述がない。この作文ではいつどこで誰がどのように、ということが見えてくる。
 まず<朝鮮人騒ぎ>への恐怖、その中で警察官が流言を肯定し触れ回っている姿はあってもデマを否定したり自警団の暴行を制止したりしたことは出てこない。一方軍隊も2日夕方海軍陸戦隊が山下に上陸して武装巡回しているが、この陸戦隊報告でも流言を肯定し、市民が殺害していることも書きながら、朝鮮人保護に動いた様子はない。
また避難先で子どもたちは暴行の現場を目撃し、一緒に暴行に加わったりもしている。
 中には、暴行されている朝鮮人が顔をあげながら筆談するための書くものをくれと手まねしたことを書き留めているものもある。被害者は労働のために来日して1,2年の人が多く、日本語がしゃべれない出稼ぎ労働者だが、この人は漢文が書ける教養人だとわかる。
朝鮮人殺害への疑問 700人くらいの作文の中で、一人だけ《私は朝鮮人がいくら悪いことをしたというが、なんだか信じようと思っても信じることはできなかった。その日警察の庭でうめいていた人は、今どこにいるのであろうか》と朝鮮人殺害に疑問を書いている。
最も大きな被害を受けた地域の子供たちがこの避難先の平楽の丘で朝鮮人に対する暴行虐殺を目撃し、民族的迫害を実感を持って伝えている。作文の中に朝鮮人暴動の事実はなく、それがデマであったとわかる。
生徒とともに学ぶ
 震災学習で大切なのは、なぜ人々は朝鮮人暴動の流言を信じてしまったのか、信じたことが暴行や虐殺にまで憎しみが高まったのはなぜか、止めようとした動きはあったのかなかったのか、治安を守り正しい情報を伝えるべき警察や軍隊はどういう行動をとっていたのか、そういう当たり前の大切な問いかけが子どもの作文から迫ってくる。
 授業を組み立てるときのよりどころは二つある。(1)は横浜市の教育委員会の『在日外国人教育の基本方針』・・・横浜市では関東大震災の時の朝鮮人虐殺を直視しなければならないとある。(2)は2008年『中央防災会議1923関東大震災第2編』で1960年代からの研究成果によって以下のような教訓が書いてある。
@歴史の反省と民族差別 これをきちんと理解しなければならない。そうしなければ繰り返してしまう。
Aいつの時代もマイノリティはいる。彼らは災害弱者である。関東大震災のときは朝鮮人・中国人は災害弱者だったのだ。その人たちを怖いと思い、何をするかわからないとみなして、武器を持っていない朝鮮人を武器を持った日本人あるいは治安の責任を持つ警察や軍が殺していった、というのはいかに偏見や差別が深くその流言を信じ込ませ、広げたかということ。
B災害時は必ず流言が起こる、それへの備えが必要、どうやって打ち消していくのかが学習の課題として挙がってくる。
最後に
 当時の子供たちが、あの流言や迫害が何を意味するのかを教えられないで、3か月6か月後の作文に朝鮮人は怖いという気持ちのままで書いている。事件は隠されてきたが歴史の真実が今やっと明らかにされつつある。これをきちんと伝えていくことが大切だと思う。
学校でも必ずしも自由にできなかったり、いろいろな手かせ足かせがあったり、圧力が加わったりするので 市民とともに圧力を跳ね返していきたい。
 横浜は、90年前は本当にひどい状態だった。震災の翌年から宝生寺で毎年欠かさず朝鮮人の追悼会がおこなわれている。始めたのは李誠七さんという朝鮮人で、彼は9月2日は朝鮮人にとってとても悲しい日でしたと述べている。この悲しい日を二度と繰り返してはいけない、横浜を排外の嵐の吹き去った荒れた横浜からもう一度、多くの民族がともに生きることができる社会に変えていかなきゃいけないと思っている。」

王 さん(在日中国人研究者)のお話



 「私が日本語を学んで日本と交流を始めたのが1972年、中日国交回復の年だった。中学校卒業後黒竜江省の方へ行き、そこで初めて日本人の残した要塞だとか鉄道の痕だとかを見た。それまでは日本軍が中国で犯した罪についての詳細を知らなかった。大学に勤めて、そこへ仁木先生が赴任して来られて、一緒に資料を調べたりした。
 上海で事件を伝える新聞記事に出会った先生から相談を受け、現場を見せてほしいと先生が書いた手紙を私が翻訳し、温州市政府に出しました。1回2回3回出してもナシの礫だった。 そこで歴史研究者を通じて、このことを調べたいという気持ちを事細かく長い手紙を書いたところ温州市政治協商委員会副主任の張致光さんたちから、一回来て見に来てくださいという返事がきた。行ってみると80年代の初めですから当事者や当事者の親戚がまだ存命中で、山奥の老人は≪体の動けない老人から、日本人あるいは天皇の赤子が来たら一発殴ってきてくれと頼まれてきました≫といった。あの時の恨みがずっと80年代まで残っていた。そういうものを一つ一つほぐしていかないと日中友好なんてものはあり得ない。仁木先生はそういう努力を70年代から亡くなるまでずっと続けてきた。
 私は日本に来てもう30年近くになるが、つくづく感じるのは恨みだとか怨恨だとかいうよりも、双方に誤解の方がもっと大きいのじゃないかということ。
 去る7月末中国の湖南省の『中国現代文学学会』に参加した。そのタイトルは『戦争と平和』で、私は『日本の戦争と平和の文学』について報告を頼まれたので話した。日本のことをあまり分からない中国人たちは“日本は反省のない民族だ”と思っている。私は報告のタイトルで“日本は反省している”とはっきり出した。しかし何を反省しているか、どのように反省しているか、反省する立場や内容が被害者に届いていない。いくら反省していても、向こうからはやはり反省していないと見られてしまう。誤解を解くにはどうしたらよいか、そのことに仁木先生は生涯をかけて実践してきた。
 先生は大正末、昭和の初めに生まれた人で、戦争の被害を受けているはずだがそれについて全く触れていない。完全に相手がどんな被害を受けたか、どう考えたか、そのことにのみに集中してきた。しかし日本社会では8月15日終戦記念日の様子や、他のもろもろの記念日のことを見ると、大体被害が前面に出ている。加害のことはあまり触れていないし触れようとしない。このことが間もなく70年となる戦後の、一番大きな問題だと思う。
 長崎・広島の被爆があり、それは核戦争という重大な問題ではあるが、一方では1874年や1894年からの一環として捉えないとおそらく周りの国からは理解を得られない。今年アメリカの誰かが平和記念式典に参加したが、意地の悪い新聞では“原爆廃止に賛成しないのは中国だけだ”と書いた。何も中国政府が原爆を容認するとか核戦争を擁護するということではない。なぜ広島、長崎だけなのか、ということでみなさんとは同じ立場で記念することはできないのだ。したがって平和時に起きたこの関東大震災の外国人(中国人韓国人)大虐殺、をどう総括するかが大事だ。特に一般民衆のパニック時の行動について、日本にいる外国人の間では、まもなく来ると予想される大地震を考えると非常にと落ち着かない。90年前の例があるからだ。
 『復興』の話も、どうしたら復興できるのか、日本人自身の努力は必要であるが、内に閉じこもるのではなく、もっとアジアの流れをつかんで初めて、東北震災も含め復興できるのではないかと考える。情報をコントロールする、情報を遮断するのはいつの時代のどこの政府もやっている。だからこそ民衆はそういった局面に立ち向かって、お互い信頼し合って共に行動していかなければおそらく復興は望めない。いろんな復興があるが隣人と和解し、今の世界の流れ、アジアの流れに乗って、初めて復興できると思う。どうやってその流れをつかめるか、どうやって隣人と和解するか、それが非常に大きなテーマだ。
 最後に、70周年の時は山手教会で大きな看板や大きな垂れ幕を出してやった。80周年、90周年と連続して開催し、今回横浜開港資料館で開催したのは意義のあるところとはいえ、年を重ね、回数を重ねて社会的に受け入れられていかなければまずいと思う。」

会場発言 H さん  



 神戸在住の在日中国人2世です。みなさんが行ってきた活動に敬意を表します。父は震災の時横浜にいて、100人近い中国人とともに警察に保護を要求して2,3日警察署で過ごしたそうです。90年前のあの惨劇は日本帝国主義の原型となり、南京虐殺に至るのです。現在、神戸の南京街でもヘイトスピーチが行われています。あの時と変わっていないのです。あの惨劇を繰り返してはなりません。
 花岡事件のあった大館では加害の側に立たされた人々が、毎年事件のあった6月30日を「平和の日」として慰霊祭を続けています。この姿が日本中に日中の中にもっともっと入っていかないだろうかと思います。
私はこの中国人虐殺を二度と起こさないために、在日中国人と日本人によって記録を残していきたいと考えています。大島町に地元の人々のご理解も得ながら記念碑を建てて残したいと思っています。9月8日には遺族を招いて追悼集会を行いますのでおいでください。

 最後にコディネーターの I 世話人が、このシンポジウムは平和教育研究交流会議の総集編として行ったこと、それぞれの立場から非常に貴重なご発言をいただいたので、私たちの課題、弱点をどう克服していくか、歴史の教訓をどう生かしていくかをそれぞれ覚悟を決めてお帰りいただければ、本日の会議が意義あったと締めくくりました。
 最後に事務局からJが閉会挨拶を行い、今回の平和研を開催するにあったって横浜開港資料館に様々な便宜を図っていただいたことに感謝し、第16回平和研の終了を以って「中国・山地の人々と交流する会」の活動も終了することをご報告しました(詳細は後述)。
翌25日(日)は午前中に横浜市史資料室調査研究員松本洋幸氏のご案内で震災遺構を見学するフィールドワークもおこないました。

参加者感想 後日寄せられた感想の一部をご紹介します。
 若いころ仁木先生に出会い、大きな影響を受けました。今回の集会で今井先生はじめ各先生方の濃いお話と資料に感動しました。 唯一の不満は、横浜開港資料館の展示と冊子。なぜここでも関東大震災時の朝鮮人・中国人“虐殺”の事実が消されているのでしょうか?・・・主催者の今回の集会にもご苦労があったと思うと、闘いの困難が予想されますが、仁木ふみ子さんのメッセージをかみしめて、粘り強くありたいものです。(東京都 Mさん)


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大田堯自撰集成1 生きることは学ぶこと 教育はアート 
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 昨年の暮れに大田堯先生から久しぶりの電話をいただきました。「ちょっと話しておきたいことがあるんだが……」と切り出されて、何事かとちょっと驚いたのですが、「安倍第二次内閣がまた出てきてね、教科書に介入したり、特定秘密保護法など、僕は本当に危機感を強めましてね。どうしても今やらなければと本を出すことにしたのです。全4巻、第1巻ができたので、家までご足労願えますか」と言うのです。
 「中国山地の人々と交流する会」の理事として会発足以来お世話になり、昨年、当会発起人の仁木ふみ子さんが急逝され、お別れの会に駆けつけて、心にしみる深いごあいさつをいただいた時以来、無沙汰を続けていましたので、さっそくJさんとご自宅を訪問しました。いつもにも増して新著について熱く語る大田先生に圧倒されました。
 第1巻「生きることは学ぶこと」は、最初から、なんと鮮やかでみずみずしく、しかもやわらかな言葉で語られていることか。この本には「いかに効果的に教育するのか」などとは一行も書かれていないのです。
 もうすぐ96歳になろうという大田先生が「教育とは何か」という問いを必死に考えぬいてきて、今やっと到達したのが「教育はアートである」との結論であると言い、それは「生命と生命の響き合いの過程の中でユニークな実を結ぶもの」だと語るのです。文字通り大田先生の「自撰集成」です。
 この本は、そもそも「教育の書」ではありません。「人間と生命の本質」とでも銘打った方が適当かと思えます。その「生命」のすばらしさとすごさを、最新の生命科学(化学)や生物学の成果をも縦横に活かし、しかも日常のこなれたやさしい言葉でむだなく厳格に語られています。それは現在の日本の教育が引き込まれつつある「教育再生」なる凶暴な政治行為に対する真っ向からの批判の書に他なりません。
 大田先生のこの渾身の著作は、安易な要約をまったく許しません。みなさんにまるごと読んでいただくしかないのです。やさしい語り口なので、すぐに読めますが、そこここで考えさせられ、もとに戻ったりして、なかなか読み終えられません。でも、その行きつ戻りつが、大田先生と会話をしているみたいで、ふしぎな喜びに満ちているのです。

 

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今井清一著『濱口雄幸伝』上下  朔北社
こんなすごい政治家がいたなんて!
    世話人 To


 
 1870年高知県に生まれ、大蔵官僚から政党政治家へ、そして首相となり、東京駅で狙撃されて、1931年62歳で死去するまでのその時その時が、臨場感をもって迫ってきます。丹念に史料にあたり、読み込みを深めて、生き生きとした雄幸像を幾つもの史料に語らせる手法。たとえばある場面の誰か1人の発言にしても、聞いた本人の日記だけでなくその場に居合わせたあと2人の自伝、回想などからその時の表現を抜き出して並べ、読者の想像を膨らませてくれるのです。(城山三郎『男子の本懐』の浜口雄幸像は、この本を得てくっきり形を成します。)
 政治家になることを夢見て勉学し人格をみがく姿、大蔵官僚としての長い下積み時代にも真摯に努力を重ね信用を得ていく姿、自ら求めて動くのではなく常に請われる形で政治の中枢に行き着く姿が上巻に描かれます。中でも「第8章野党・民政党総裁時代」は、与党の政策への対案の見事さや外交の姿勢、対中国観など、これから仲間と読書会をしたいと思わされる内容でした。下巻では首相になって金解禁、海軍軍縮会議に取り組んだ1929年から死までの2年間が詳細に浮かびあがります。特に「第10章ロンドン条約問題」では、「軍」をもつ国家というものの凄まじさを改めて思い知らされました。国として隠蔽を決めた王希天殺害や中国人虐殺を証明する『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』(今井清一監修・仁木ふみ子編集)の当時の時代的国際的背景が、この本からわかりました。 
 そして各史料をつなぐわかりやすい表現から、著者の共感の思いがあふれます。著者の活動に一貫する、記録に対する誠実な姿勢がここにもありました。

 50余年前の原稿とのこと。東大大学院時代の師丸山真男先生から頼まれて父君の丸山幹治氏を手伝い、集められた大量の史料を駆使して著者がまとめていた労作が、今、このひどい政治状況の中で出版されたことは、まさに僥倖の思いです。まるで現在のあれこれそのもののような政財界の人々の動きの中で、未来のために立憲政治のより正しさを求めて誠心誠意生きた「濱口雄幸」首相は、今の安倍首相と全く逆の人です。日本にもこんな政治家がいたのだと知ることができたこの本に感謝します

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事務局から



 「中国・山地の人々と交流する会」の活動の終了と知って唐突に思われたり驚かれる方もおありと思います。閉会挨拶で述べたことの趣旨を記します。

 「関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会」として1991年9月発足した時の趣旨は次のようなものでした。
@ 70年前の事件(中国人労働者と王希天が殺害された)に対する謝罪すること
A被害者への慰霊として東京と温州で追悼会を行い、温州に殉難記念碑を再建すること
B遺族への償いとして国家賠償とは別に民衆一人ひとりの意志を届けること。 以後、温州山地教育振興基金会を設立して被害者の遺族に教育支援を行ってきました。外務省資金やボランティア貯金も活用しました 。

 1997年「中国山地教育を支援する会」と改称して、河北省興隆県にも教育支援を始めたのも同様の考え方でした。同時に三光政策の現場で証言を聞き謝罪をするとともに子どもたちと授業やレクリエーションを通じて交流する活動は「歴史の現実を見据えて新しい友好を切り拓く」ものでした。交流を重ねて加害者に連なる日本人と被害者との間に友情と信頼が生まれ、山村の古老たちの戦いは権力に対して抗する私たちに勇気を与え、かつての被害者と加害者の溝をこえる連帯と和解の可能性が見えてきたと感じられました。

 この20年間の活動が、日中双方にささやかでも希望をもたらすものであったと確認したいと思います。中国の経済発展により支援の必要性はなくなった(温州は2004年,興隆は2006年支援終了)ものの、友好交流は引き続き重要です。しかし世話人の高齢化により授業団派遣などの活動の継続が困難になったので、世話人会では今集会を以て会としての活動を終わらせることにしました。中国側の事情が好転して興隆県からの来日が可能になれば、対応することと、長い間お世話になった興隆県へお礼のご挨拶にもうかがわなければならないと考えています。その他の残務整理もあるので解散のお知らせまでにはもう少し時間をください。これまで当会に心を寄せカンパをくださった方々に感謝申し上げます。
会員各員はそれぞれの場で、侵略戦争の責任を自分のこととして考え、平和の実現のために闘っている方々です。今後も志を同じくするものとして別の場で再会できることを確信しています。

 

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