会報2013年春

 

CONTENTS
先頭へ戻る

 

 厳しい冬を乗り切って明るい春をお迎えでしょうか。東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から2年たちました。被災地では生活の再建がなかなか進まず、特に原発事故から避難している人々は家族や地域の絆が破壊され深刻な状況であると伝えられています。昨年末、憲法9条改定を容認する勢力が衆議院の8割近くを占めることになり、集団的自衛権容認と「国防軍」創設を主張する安倍自民党政権が成立しました。安倍氏は「河野談話」「村山談話」を覆す主張をしてきたバックラッシュ派の政治家なので心配です。
今年は関東大震災から90周年に当たりますが、震災後の処理はその後、日本のアジア太平洋地域への侵略に繋がるものとなりました。阪神淡路大震災と東日本大震災を経て、私たちは何を克服し学んできたでしょうか。今年の第16回平和教育研究交流会議は下記のように計画しておりますのでどうぞご参集ください。
昨年8月私たちは前事務局長の仁木ふみ子さんを失いました。3ページ以降に追悼特集を組みました。

昨年は「いじめによる中学生の自死」、今年の年頭には「教師の暴力に追い詰められた高校生の自死」が明らかになりました。昨夏の第15回平和研で伺った大田先生のお話からこれらのことを考える示唆が得られると思います。9ページ以降にまとめました。

 

先頭へ戻る

関東大震災90周年記念 
第16回平和教育研究交流会議 案内
     8月24日(土)12:30〜17:00 神奈川県横浜市 横浜開港資料館

内容 T部 横浜開港資料館展示「横浜の関東大震災(仮)」見学
        調査研究員による解説あり


U部 シンポジウム「関東大震災後の民衆と復興」
パネリスト
鐙屋 一さん  (目白大学教授,当会世話人)
後藤 周さん  (元横浜市立中学校教員)
吉良芳恵さん  (日本女子大学教授)
コーディネーター  
飯田助知さん (当会世話人、横浜市日中友好協会会長)

翌25日(日)午前中に希望者によるフィールドワークも予定しています。

パネリストのプロフィル

吉良芳恵さん
1975年早稲田大学文学研究科修士課程修了後、朝日新聞連載萩原延壽著『遠い崖』の資料助手を経て、横浜市開港資料館に勤務。1993年には関東大震災70周年の展示を担当。1999年日本女子大学に移り2005年より文学部史学科教授。日本近現代における地域史の展開をテーマとしている。

後藤周さん
1972年横浜市に勤務。勤務校の学区にある宝生寺の朝鮮人追悼会を知ったことから、関東大震災の朝鮮人中国人への迫害と虐殺の歴史に関心を持ち、横浜の歴史を研究。2004年市内南吉田小学校から『震災記念綴方帖』を発見し、当時の子どもたちの震災作文を調査、また鶴見警察署長大川常吉が、朝鮮人約300名中国人約70名を守ったという史実など、子供たちや教師たちに「関東大震災から学ぶこと」を伝え働きかけてきた。

鐙屋 一さん
筑波大学大学院歴史人類学研究科単位取得満期退学。東洋史学特に近現代中国政治史を専攻している。政治学と歴史学とが接する領域の研究を行っている。興隆の旅に参加すること多数回。

飯田助知さん
元神奈川県立高校長、世界史の授業を担当しつつ、自主教材の開発に携わり、「興隆の旅」にも参加。現在(財)神奈川県高校教育会館理事長

 

横浜開港資料館企画展示「(仮)横浜の関東大震災」
 2013年7月24日(水) 〜 10月20日(日)
 今からちょうど90年前の大正12(1923)年9月1日、マグニチュード 7.9 の大激震が南関東地方一帯を襲いました。横浜の街は一瞬にして灰燼に帰し、26,000人もの人々が亡くなりました。本展示では、新たに見つかった写真、映像、手記など、数多くの資料を紹介する予定。

先頭へ戻る

仁木ふみ子さんを悼む




 2012年8月8日夜、仁木ふみ子さんは体調不良を訴えて入院され、翌朝帰らぬ人となりました。享年85歳でした。日頃から葬儀も墓もいらない、骨は日中間の海へとおっしゃっていましたが、急遽集まれる者たちが集まって8月13日ささやかなお別れの会をしました。その際、最初からこの会の理事・世話人として仁木さんを支えていらした大田堯さんが駆けつけて、下記のようにお言葉を述べられました。


先頭へ戻る

大田堯さんお別れの言葉    
           (2012年8月13日 川越メモリードホール)

 仁木さん ふみ子さん 長い間ご苦労様でした。あなたは日中友好のために心身の全体を使って努力し続けられ、平和の夢をめざして、日中の友好をめざして生涯をすごされました。行動においても思想においても実に一貫したすばらしい生き方でした。あなたは、本当は人生を心から夢見、かつ穏やかな心でこの世を去ることができたのではないかと私は確信をします。
 私より10歳も違うのに早くもこの世を去ってしまったというのはいかにも残念でたまりません。時あれば電話を通して「大丈夫ですか」というふうに私の健康を確かめてくれたのがあなたです。そのあなたが私に先立つというのは私にとってはなんとも残念です。
あなたの、仁木ふみ子という肉体はなくなりますけれども、「いのち」は、私は生き残ると思っております。「いのち」というものは、重さもなければ形もないけれど、多くの人々の心の中にいろいろなものを送りこんで生かしてくれるものです。あなたは永遠に生きているというふうに私は思うのです。
  遅ればせながら、私もあなたと同じようにこの人生の中で、そして厳しい状況の中で、平和をめざしてのかすかな光を夢見続けて生涯を終えたいと思っております。本当にご苦労様でした。そしてありがとうございました。さよなら。

先頭へ戻る

仁木さんの活動を振り返る―当会にかかわって―
                           
事務局 J


 先生は一貫して事務局長の立場を通しましたが,当会の事実上の創設者であり、その後の活動を牽引してこられました。
 『宋慶齢選集』(ドメス出版)を翻訳出版した翌年の1980年、大分県立高校を休職して上海華東師範大学で日本語教育に携わり、宋慶齢さんとの親交を深める一方、上海社会科学院歴史研究所で解放前の労働運動関係資料を調べていた時、1923年の関東大震災下の中国人虐殺事件に出あいました。“その時の衝撃は、3日程食事ものどを通らず存在の根底から揺るがされて全く萎えてしまったのである。地震とはいえ平和な時の、日本国内で起こった軍隊と警察と民衆までもが加担した民族的犯罪であった”(『震災下の中国人虐殺』−青木書店)と記しています。

 1982年帰国して大分の高校教員に復帰し、事件について日本側の資料や研究成果を調べ、翌年日教組中央執行委員・婦人部長として上京すると、事件現場の大島町に住み時間があれば現場を歩き関係者を訪ねて大島町事件を明らかにしていきました。日教組を退任(89年)すると、90年から温州現地を訪れ温州市政治協商会議文史資料編集室主任黄勝仁氏の協力と支援を得て被害者と遺族に会い、謝罪しながら検証の旅をしました。(3回の旅のまとめが前掲書)。その間に「関東大震災の時殺害された王希天および中国人労働者の殉難記念碑の再建と、遺族のための教育基金設立への協力おねがい」という呼びかけを始めます。呼びかけ人として、一番ケ瀬康子、今井清一、大田堯、小島晋治、斉藤秋男、関屋綾子、武田清子、田中寿美子、田畑佐和子、日高六郎、松井やより、安江良介、山下正子、山住正己の皆さんのお名前があります。日教組各県の婦人部長など友人知人のみならず紳士録などをもとに各界の人々に発送しています。数千通のあて名書きをほぼ一人でやったため指が動かなくなったと聞きました。「関東大震災のとき殺された中国人労働者を悼む会」の始まりです。一面識もない方からの応答もあり、3年間で21,987人の方々から2,026万円が寄せられました, 93年9月3日、温州市で「吉林義士王希天記念碑(震災時に暗殺された王希天を慰霊するため、彼を慕う温州の人々が建て、侵略した日本軍が破壊して放置してあった)」を再建して除幕式(碑の背面には「温処旅日蒙難華工記念碑」と刻む)を行い、同日募金の中から1000万円を基金として「温州山地教育振興基金会」を設立して殉難遺族への助学金(奨学金)の贈与を決定しました。9月11日には王希天の遺族と温州の黄勝仁氏をお招きして東京山手教会で関東大震災・70周年の<王希天と中国人労働者問題を考える>記念集会を開催しました。翌94年には日本の小・中・高校の教師たちからなる授業団(日中教育研究交流友好訪中団)を組織して、教材(算数セット、鍵盤ハーモニカなど)を持参し、山村の子どもたちと交流する活動を行いました。のちの家庭科の先生たちによるミシンの授業団(1997〜99年の3回)につながっていきます。


 1995年五鳳ヨウ 寄宿舎落成式

 温州に対する教育支援は外務省の小規模無償援助資金を得て山の学校の子どもたちのために寄宿舎を立てること、職業教育のための特別教室棟建設のために郵政省ボランティア貯金の配分金を申請することなど次ぎ次ぎと活動を広げて行き、興隆での活動へつながったのでした。会員の皆様からのカンパのほかに公的資金を求めて、外務省、北京の大使館、上海総領事館を訪ね、丁寧に支援の必要性を説くと耳を傾けてくれる外交官に出会うこともあり、さりげ1995年五鳳? 寄宿舎落成式  ない援助も受けたと語っていました。(支援の詳細は会報『2003年7月中間報告とおねがい』『ある戦後』p.300)
 温州への支援活動の一方、1994年から95年にかけて、外国人に対して未開放だった興隆県の「無人区」の実態調査をしました。仁木さんを信用して未開放地域を案内してくださる方々がいたということです。遡る1985年、日教組婦人部長時代「侵略の爪痕を見る訪中団」を率いて訪中した時、盧溝橋のたもとにあった建築準備中の抗日記念館仮展示の中で「無人区」を知り、心に引っかかっていたものの解明を始めたのです。94年からの4回の調査は30数箇所を訪ね100人余りの人々に会い“こころを開いて語ってくれる老人たちの話を虚心に聞いて”まとめたものが『無人区 長城のホロコースト―興隆の悲劇』(95年刊青木書店)となり、“興隆の人々のこうむった災難をかれらに代わって、日本の人たちに伝えたいと思った。私は歴史学者でも戦史の研究者でもない。一人の人間の義務として、この事実の解明に努めた。かれらの死を無にしないために、一人でも多くの日本人が興隆の悲劇をこころに刻んでくださるよう願っている―あとがき”と思いを書いています。
 

 1997年 興隆県二道河

 調査を通じて仁木さんの目は子どもたちの教育環境の劣悪さに向けられ、興隆への教育支援を世話人会へ提案します。世話人(理事)会は興隆県も支援地域に加えることにして会名を「中国山地教育を支援する会」と改めました。さっそく国際ボランティア貯金配分金を申請して1996年開放された興隆県へ最初の配分金440万円を寄宿舎建設資金として届けました。興隆県教育局と相談して、最も大きな人圏が作られ犠牲者の多かったモクイに建設することになりました。この時仁木さんは、翌年の授業団受け入れを要請しました。開放されたばかりで旅館もない僻地に大勢の日本人を受け入れることはとてもできないと戸惑う県幹部たちは仁木さんの熱意に折れて受け入れを決定したのでした。50年ぶりに見る日本人・侵略者に連なる者たちを、民泊という方法で受け入れるために興隆県側が払った努力は大変なものだったと聞いています。一方、加害者が全幅の信頼を寄せて被害者の懐に飛ぶ込むことで、日本と中国の民衆同士の絆を結ぼうとした仁木さんの深謀遠慮は私の思慮を超えるものでした。翌年24名の授業団は第2次国際ボランティア貯金配分金を届けるとともに、無人区政策で行われた三光の現場で古老の話を聞き、小中学校では算数と音楽の授業を行い、校庭に出て子どもたちとフォークダンスで汗を流し、夜は民泊で大人たちと交流しました。“私たちの今回の旅は単なる謝罪の旅でも、贖罪の旅でも、ましてや調査やボランティアの旅でもありませんでした。歴史の現実を見据えて新しい友好を切り拓く旅でした”と会報『1997年秋の報告』は書いています。以後2010年の第11次興隆の旅までその精神は受け継がれてきました。(支援の詳細は会報『2005年秋の報告』『ある戦後』p.301)
先生は「興隆の悲劇」を掘り起こしていく過程で、加害者として日中友好、反戦平和を発信し続けてきた「中国帰還者連絡会(中帰連)」との関わりが深まり、2002年会員の高齢化を理由に中帰連が解散、継承団体として若者を中心に「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が発足するに際、懇請されて代表に就任しました(〜2010年)。分散していた中帰連関係の資料と元中帰連事務所の資料を集めて2006年「中帰連平和記念館」を設立し館長となりました(〜2011年)。


 2011.8.  第14回平和研にて

 改革開放政策以降、中国の経済発展は目覚ましいものがあり、中国の教育政策も進んで、温州での教育支援は必要なくなり、2004年「温州山地教育振興基金会」も日中理事の合意のもと解散を決めました。興隆についても?y峪病院にレントゲン設備を贈る(2006年)ことで支援は最後にしました。この時も会員から寄せられたカンパをより有効に生かすため、上海の宋慶齢基金会と国際平和婦幼保健院院長の援助を受けられるよう上海まで出向くなど骨身を惜しみませんでした。
支援は終わっても友好交流は続けるべき、ということで「中国山地教育を支援する会」は解散せず、「中国・山地の人々と交流する会」と名称を変え、事務局は神が受け継ぐことになったのでした(2007年)。
忙しい活動の合間をぬって2001年から編集を始めた『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』を今井清一さんの監修で2008年明石書店から刊行しました。翌年体調を崩して一時入院しましたが、2010年にドメス出版から『ある戦後―中国と日本のはざまを生きる』を出し、秋の「出版を祝う会」では宋慶齢さんからいただいたというドレスを着て、大勢の友人知人同志に囲まれ 終始笑顔でした。
 尖閣諸島をめぐる問題や2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故にはとても心を痛めていました。腰痛を抱え外出は控えていましたが、2012年8月4日〜6日、かつての活動の場であった大分県別府市を訪ねました。旧友や教え子、かつての同志と交流して帰宅後、体調をくずして入院、9日午前に帰らぬ人となりました。肺炎による急逝でした。

 

先頭へ戻る

 
弔電とメッセージ


 お別れ会に際してたくさんの弔電やメッセージが寄せられました。その中からいくつかを紹介させていただきます。

興隆県人民政府 副県長
仁木ふみ子先生の訃報に接し、驚きと悲しみの念に堪えません。
貴国山地教育を支援する会並びに仁木先生のご遺族各位に、心よりお悔やみ申し上げます。どうか皆様にはお力落しありませんように。

 
興隆県教育局 局長様  前局長様 
仁木ふみ子先生の訃報に接し、驚きと悲しみの念に堪えません。
長年にわたり仁木先生は、興隆県の教育事業発展に心を砕かれ、無私の支援をされました。このことに感謝し、貴国山地教育を支援する会並びに仁木先生のご遺族の皆様に、深甚なる哀悼と心からのお悔やみを申し上げます。皆様にはどうかお力を落とされませんようお祈り申し上げます。

中国・温州市 元温州山地教育振興基金会
  中国側副会長様  秘書長・李様  副秘書長
 すべての温州市人民の古くからの友人である仁木ふみ子先生の訃報に接し、私ども温州山地教育振興基金会一同は、驚きと悲しみの念に堪えません。仁木先生の親族友人の皆様に謹んで心よりお悔やみ申し上げます。
 温州人民の誰もが敬愛する仁木先生は、1990年代初め、自ら温州麗水地区に出向かれ、1923年(の関東大震災において)無実の罪で虐殺された中国人労働者の調査を開始され、以来十数回の多きにわたって温州を来訪し、基金会の活動に参加されました。仁木先生は甌海・瑞安・青田のほぼ全村に足跡を残されましたので、地域の古老は先生のことを熟知し、教師たちは先生を尊敬し、子どもたちは尚のこと先生を敬慕しました。山村の教育事業を支援するため先生は、日本側悼む会に熱心に訴え、また会員を動かして資金を集め、「温州山地教育振興基金会」を創設され、自ら日本側副会長に就任されました。高齢をも顧みず事業に没頭されたその熱意と、周到緻密なお仕事ぶりは、私たちが模範として永久に学ぶべきものです。
 十数年来のおつきあいを通じて私どもが心に刻みましたのは、仁木先生と日本の悼む会の皆様、温州の山村を訪問された日本の教師の皆様は、正義を貫き、中日人民の代々続く友好のために、また中国の山村の子どもたちの健やかな成長のために奮闘努力されたのだということです。
 仁木先生のこの度のあまりにも早いご逝去は、温州人民にとっては一人の真正なる友人の喪失であり、我々にとっては一人のよき師・良き友の喪失であります。
 仁木先生が自ら創設した「温州山地教育振興基金会」は中日人民の友情の結晶です。十数年来、仁木先生が温州に蒔かれた愛の種は、すでに色鮮やかな花を咲かせ、豊かな実りをもたらしています。こうして培われた中日人民の友情は、必ずや末永く続くことでありましょう。
 尊敬する仁木ふみ子先生、どうか安心しておやすみください。あなたは永遠に私たちの心の中に生きています。
  

大分県 K様、I 様、W様、A様
 いつもやさしいまなざしで私たちの活動を見守ってくださいました。何も知らなかった私たちを興隆へ連れて行ってくださり、そこでたくさんのことを知り、感じ、考えることができました。わたしたちは、侵略の事実を子どもたちに伝えていくことの大切さを強く感じ人と出会い、その場に立ち、そこで感じたことを伝えていくことが子どもたちの心に響いていくことを実感しました。
 わたしたちは平和教育を進めていくうえで今も大切にしています。自分たちの実践に自信をなくしそうになった時、先生の言葉で勇気づけられました。なかなかお会いする機会がなくても、先生の存在は私たちの心の支えでした。突然の連絡を受け、信じられない気持ちでいっぱいですが、先生との出会いをとおして学んだことを胸に、それぞれの場でしたたかにやっていくことが、今のわたしたちにできることだと思っています。
仁木先生、今まで本当にありがとうございました。これからも私たちを見守っていてください。
  (大分県教組「興隆の旅」参加者)

K 様
 訃報をいただきまして、大変驚愕の至りです。・・・仁木先生の永眠をとても信じられません。85年間の苦難・闘争・奔走を恐れない勇気、疲れを知らない精力的で多岐にわたるご実践、絶えず新しい事業を展開されるお知恵の持ち主である大先生に、近いうちにいつかまたお会いすることを楽しみにしていましたのに。
仁木先生を中心に数十年も団結している同志の皆様に、心から哀悼の意を表したいと思います。真理を追究することで我を忘れる仁木先生に後輩として学んで生きたいと思います。 以下略  (北京師範大学教官 「興隆の旅」など仁木先生の旅をしばしば援助されました。−編集部)

N 様
今は亡き仁木先生、ご笑覧ください。
 今はイケルカバネ(生ける屍)となった私に、訪れた興隆での?先生のスルドイ眼、副県長さんの御寛容な言葉を余生の教訓として生きていきます。
 (元中帰連会員。2006年積年の願いがかなって「興隆の旅」に参加し、現地で謝罪することができました。)

 

先頭へ戻る

第15回 平和教育研究交流会議 報告
 2012年8月25日(土)中帰連平和記念館にて




 仁木さんが亡くなって2週間後、ショックから冷めやらぬ状況の中でしたが、先生の御霊に参加者で黙とうをささげたのち、予定通り会議を開催しました。初めに I 世話人は主催者を代表して次のように開会のあいさつをしました。

 当会は「関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会」として1991年に発足しました。その後、活動の実態に合わせ「中国山地教育を支援する会」と名称を変えましたが、仁木ふみ子さんはこの会の生みの親であり育ての親でもありました。その主要な行事がこの平和教育研究交流会議です。・・・昨年は集会開催期間中に I 世話人が亡くなり、今年また直前には仁木さんを見送るという事態に襲われました。私たちは大きな試練に直面しているといえます。ご両人の残してくれた実績と提起された課題の検討が迫られています。
 ところで、今年は日中国交正常化から40周年です。1972年の「日中共同声明」は“日本国は中国国民に戦争を通じて重大な損害を与えた。その責任を痛切に感じ深く反省する”と明確に言いきっています。外務省の担当者がこの文案の作成に苦労した様子は最近出版の書物で知ることができるのですが、問題はその後の日本の行動はどうであったかということでしょう。中国人は言葉よりも行動で評価します。あたかも侵略がなかったかのような言動を取る政治家や一部マスコミの報道は裏切りと映るのではないでしょうか。
 一方、過去の日本の行為に心を痛め、情熱をもって中国の人々を支援してきた人は実業界にも学問、芸術、スポーツなどの分野にも多数います。40年前の国交正常化を促したのもそうした人たちの継続的な取り組みでありましたし、これからも平和と友好の基礎となるものです。
 私たちの実践も、日本の侵略の反省の上に立って、具体的にどういう風に教育支援をしていったらよいかを考えながら行ってきたものであり、乏しい財政の中であったとはいえ、一定の自負を持ってよいのではないかと思います。
 それを次代にどう伝えていくか,新しい参加者を加えて一緒に考えていきたいと思います。

 

先頭へ戻る

大田尭さんのお話 「平和への願い」

森康行監督、映画「かすかなる光へ」(ひとなるグループ制作・著作、84分)を鑑賞後、お話を聞きました。

  


 私に関係のある映画をご覧くださり恐縮に存じます。ありがとうございます。この映画は大田堯が登場いたしますが、これは監督が作った大田堯で、私の自伝ではありません。一人の老いたる研究者が今この状態のこの社会とこの世界に対してどういう夢を持っているのか、夢の中身を表現するのがこの映画の目標です。
 その夢の中身は何か。この映画の一番の鍵になる概念は“いのち”、命を一番大事にしなきゃならない、モノ・カネじゃないよということ。“いのち”は平和に直結しています。“いのち”の観点から平和を考えるという意味でこの会議に一つの問題提起になるのではないかと思ってまいりました。


平和と人権はコインの表裏をなしている

生きるという、生きている生命というのは、我々今この場合は人間ですから、人間の“いのち”を大事にする、人間の尊厳―法律的に言えば基本的人権ということでもあるわけです―を大事にするということです。人間の尊厳、基本的人権とひとまとめに言われている“いのち”というものを生物学的に“いのち”の特徴から解きほぐしていくことがこの映画の目標なのです。“いのち”は「違うこと」「自ら変わるとこと」そして「かかわりあうこと」という、抜き差しならない事実です。“いのち”はそれによって組み立てられているのです。“いのち”を中心に、大事にしあうことが平和の中身にほかならないということなのです。そういうところをこの映画は主張しておるのです。
 現在の世界の社会状況の中での人間の“いのち”はどういう状態にあるか、それは人間がつくり出したお金―人間が発明した大したものですが―、そしてさまざまな高度な機械、この人間が生み出した偉大な発明であり産物であるモノとカネに逆に振り回されている結果が3・11などに表れてくるわけですが、現在の社会状況、世界の状況がそういう状況になっています。これは富める国も貧しい国もあるにもかかわらず、全部を包んでいるのはモノ・カネ優先の社会になっているとみていいわけでして、その中で“いのち”を大事にしようとするのは他の生物を含んでいると考えていただくと、現在の地球に住んでいる人類の責任である、と提案するものでもあると私は考えているのです。
 3・11前にできた映画ですが、3・11を経ても世界のどこで起きても不思議はない、−不幸にして私どもの身近なところで起きてしまったが―そういう社会状況地域状況にあるのだから、そういうものも含んでこの映画は考えてきたということです。
これが第一の点です。平和というものを、“いのち”を大事にすることを軸に考える。何か駆け引きで戦争をしなくするとかそういう問題ではないんです。根本は“いのち”から考えていく。人権と平和はコインの表裏をなしていると考えてほしいので、政治の問題や経済の問題に簡単に替えないでください。“いのち”という根本問題で人権と平和は表裏の関係になっているのです。なんとか“いのち”の絆をつくる、セイフティネットをつくっていく、このモノ・カネ支配の社会の中に“いのち”と “いのち”との関わり、連帯をつくることを小さいことでもいいから、かすかな光かもしれないが目当てにしていこうということなのです。


この映画は“反”教育映画

次に、ここで別の問題を出します。僕は教育の研究者ということになっています。それでこの映画を見られる方で、私をよく御存じの方は特にこの映画は教育映画だとお考えになる向きが多いんですが、実は教育映画ではありません。この映画はむしろ“反”教育映画であるとお考えいただきたい。今の権力が持っている教育に対する考え方とそれに同調する一般人民の通念が今の現実を支えていると私は思うから、そういう通念というものを本当に“いのち”の観点からひっくり返していこう、命を一番大事にする教育の観念とはどういうものなのか、それをお互いに分かち合っていこうじゃないかと訴えるのが、この映画の構想の中にもあるわけで、権力が考えるような教育、一般の人に信じ込ませたように思っている教育の観念を、いかに“いのち”の関係から突き破っていくか、裏返していくか、そういう意味で“反”教育映画だということを考えていただきたいのです。
 昨年の10月19日、私は韓国へ行く決心をしました。それはどういうことか。1985年私は日本教育学会の会長になったのですが、その時に真っ先にお詫びを言いに行かなければならないのは朝鮮半島だと思った。ところが当時の朝鮮半島は38度線で区切られていまして、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)と南韓国(大韓民国)にわかれていました。一方のビザを取ると他方のビザがとれないという状態でしたからあきらめたんです。
 で、それはいくらか和らいだと思ったんですが、南の韓国ではいわゆる独裁政権の時代が続くものですからとてもじゃないが近づけない、ということだったのです。何とか南北の関係の中に軽い関係でも開かれればいいなあというのが私の願いだったのですが、私の生きているうちに、あれが結び付く可能性はない、それなら半分でもいいから生きているうちに行って詫びて来ようと決心をしました。朝鮮を研究なさっている若手の先生にこれを申しましたら、背負ってでも連れて行きますと言われましたので、―背負われはしませんでしたが―ソウル大学へ行って日本研究室で講演をし、その時お土産としてこの映画を上映しましたし、向こうと意見交換をやりました。もう一つ別の有機農業をやっている広大な地域へ出かけていきましたが、その前に独立運動で殉死した人々の墓参りをしてお詫びを言うこともやりました。戦後の若い方はなんで今頃詫びるの?と思われると思うけれど、私は28歳まで帝国臣民―臣民という言葉も通じにくくなっているが―だったわけであります。だから戦争というもの対する責任というものを痛感しているわけですね。

何を詫びるのか

 謝罪の内容が大事なのです。何を詫びるのか、ただ悪かったでは済まない、じゃその中身は何なのかというこということをちょっと申し上げたい。
 朝鮮半島全体は日本帝国の植民地だった。これが中国との違いで、中国は租界形式だったんですからちょっと風潮が違います。朝鮮半島は全部植民地だった。植民地というのはどういうところかということに私は関心があったわけです。さかのぼって1956年に私はイギリスに最初に留学するんですが、まだロンドンに飛行機が行かないので、しかもスエズ運河が戦争で通れないから、南アフリカを回って33日かかってリバプールへ上陸し、ロンドンへ行って大学へとなるような時代です。途中で植民地へ船が寄るんですよ。香港、シンガポール、それから南ア連邦のダーバン―フットボール世界選手権の会場になった大都市です―そこで初めて植民地というものを見た。それが砂漠の中にロンドンを置いたような場所、そこには白人が住んでおるんです。その周りをその都市に出入りして下働きをする黒人の、貧しい住宅が囲んでいるという状態だった。これは典型的なヨーロッパの植民地の姿。公園に降りていきますと公園のベンチにwhite only(白人だけしか座れない)と書いてある、トイレもそうです。2階建てのバスの上と下も、これもまた別であると、何から何まではっきりと区別をしている、はあ、これがイギリスの植民地なのか、よくわかったですよ。はっきりしてますよね差別が。
 さて韓国という国の植民地の状態はどうだったか。もちろん差別はあった。日本人と朝鮮人の間に差別はあった、西欧並みに近い差別はあったことは間違いない。しかしそれに加え創氏改名といって全部日本名を名乗らかければならない、つまり日本人になれということなんです。日本人にならなきゃならないだけでなく、皇室を尊敬し、神社を尊敬し、さらに都会の名前まで日本流に変えてしまい、全部日本流に同化せよという、いわばただ単に合理的な差別じゃなくて、目に見える差別じゃなくて、人間の内面精神、魂を抜き取って日本人になれというのが、朝鮮に対する植民政策の中心だった。これは恨みを深く残すんですよ、単純な差別、目に見える差別、じゃなくて、自分たちと同じようになれと魂を奪うんですよね。この恨みは世世代代につながるものなのだから私どもの世代は謝るだけでは済まなくて、これは長い時間がかかるからお互いにその点について努力をしなければなりません、ということをお話の中に挟んでいったのです。そういう怨念の深さというものが、ほかの西欧の植民地と違うのですよ。これは我々はっきり認識しておかなければならないことだと思うんです。

権力に同化を求める「教育」今も

 しかしもっと大事なことは、そういう日本人になれと魂を引き抜くようなことをしてそういう状況に置いた朝鮮半島に対して、我々人民はどうであったかというと、天皇の言うとおりになれと、教育勅語の精神に同化せよというふうに、朝鮮の植民地化政策とほとんど同じことを要求されたんですよ、つまり教育の名において権力に同化を求められる、同感ではないんですよ,同感ならいいんですよ、お互いに響きあうんですから、しかし同化というのはこっちのほうに画一的に変われという、極めて画一的な魂の統制ですよね。これが、法律となって表れて、ちょっと別のところで天皇をけなすようなことを言うと警察に連れて行かれ、獄中に入れられるというような状況の中に我々は置かれていたわけです。ほとんど同じようなことが日本人民に対して行われていたということを認識することも大事なんです。
 ところで、同化政策という朝鮮半島での施策というものは、実はわれわれ人民に対しても同化を求めるということが行われた教育というものに、長く私どもは浸りこんでおりましたから、敗戦後民主憲法なるものが生まれて、民主的な議員を選出する制度は外見上はできても、教育の考え方はほとんど変わらない。依然として権威あるもの、国益に合うような考えに同化を求める教育の観念にみんなが支配されている状況にあると考えることができるわけであります。つまり、この映画は教育映画ではないと申し上げたのは、植民政策で朝鮮人に行っているのと同じような教育の観念が日本人の頭の中に戦争が終わってもまだずーっとそのまま残っているということなのです。
 その証拠はいくらでもあげられるんです。これは教育基本法の改定の時、はっきり現れたわけです。教育基本法は戦争直後に生まれました。それは憲法の精神を前文に全面的に入れ、それに基いて政府というものはどういうことをしなくてはいけないかということを決めている法律だったのですよ。それが2006年でした安倍内閣の下での改定が行われ,前文が全部消されたということではないのですけれど、愛国心だとか、郷土を愛せなどという特別な価値観を入れてきました。本当は憲法違反なのです。なんで元の教育基本法の中に憲法の精神が長々と謳われたかというと、教育勅語とは違うんだということを知らせるために前文がついただけの話なんです。あれは「教育根本法」ではなくて「教育条件整備根本法」だったんです、本質は。だから前の教育基本法の一番最後の締めくくりは、政府というものは条件整備に一生懸命努力しなさいと、内面への立ち入り禁止をちゃんと示していた。それをぬけぬけと愛国心だの郷土愛だのという内面支配、同化を求めるという教育基本法に変えたので、橋下が現れたり、東京都知事の発言があったりしても、あれだけ教育に対してひどいことを言ってて、なにか5つの理念を押し付けると言っているんですよ、教育勅語まがいの理念を押し付けるなんて言っているんですよ、それがちゃんと市長に当選するんですから、いかに教育に対する観念というものが過去の尾を引いているかということがわかるんじゃないですか。

ユニークな設計図を大事にする演出家が教師

 だから何とかして教育というものが持っている、上から人を同化するという考え方をひっくり返して、そうじゃなくて一人ひとりの子供がユニークな設計図を持ってる ―設計図といってもこり固まった人間の設計図じゃないんです。そとから情報を取り入れてその情報によって設計図を変えていくという極めてダイナミックな設計図なんです。しかもその子その子にユニークな設計図があるんです。みんなそれぞれ違うんです。― それに対して同化を求めるというのは生物学原理に反するじゃないですか。一人ひとりのユニークさを大事にしていくという教育の在り方というものがあってこそこれは本当の教育であります。一人ひとりの子が持っているユニークな自己を作っていく設計図というものに目を注いでその子どもたちの能力が伸びていくように、環境を整備したり教材を用意したり、そういう風にやっていく演出家が教師なんです。そういう演出、プロデュースというアート・芸術。プロデューサーはアーティストでしょ? かけがえのないユニークな生命力が花開いていく環境整備をすると同時に必要な情報を提供してあげる、そういうアーティストが教師なんであり親なんであり世間である、世間全体が子供の世話をするというのが筋なんであるという方向へ理解を求めようというのがあの映画の企てだとお考えいただければと思います。
 最後に出てくる重い障碍者、あれは全部養護学校などを卒業した後の障碍者です。障碍者の方たちの状態がみな違っているでしょう、その違っている状態の好きなことを励ましてあげるわけですよね。好きなことを励ましてできてくる作品というものは素晴らしいものができることがあるわけですよ、今度東京都美術館で全員の作品を展示しますのでご覧いただきたいと思うんです。それを一人一人の人間がみんな違った設計図を持って成長するのを好きなことで励ましていって出番を持たせる、社会的な貢献をする。自分の持ち味で社会的な貢献をすればどんなに障碍が重くても、どんなに職業が一見貧しい職業であっても、自分が快く自分の持ち味を発揮できる場所で自分の設計図を展開する、これを助けていくのが社会全体の責任であり、親や教師の責任だということになるのだと私は思います。そういう教育というものが展開すれば、おそらくこの社会は“いのち”と“いのち”がお互いに響きあっていくという、そういう社会の基になるような根っこが本当の意味の学習と教育によって培われるようになるのではないか、というふうに私は考えたわけです。

かすかな光を求めて

 最後でございます。ここは平和教育研究交流会議ですが、平和とは最初に申し上げましたように命を守ることが第一義的なんです。それには“いのち”というものについて分かり合うことが必要なんです。ただ経済原理や政治原理だけで平和を考えるのではなく、私どもの“いのち”と“いのち”の日ごろの付き合い方の中で培われていくものでありまして、ユネスコ憲章にありますように「戦争は心の中におこるものであるから、心の中に平和の砦を作らなければなりません」と謳っているじゃあありませんか。平和っていうのは心の中から始まるんですから、小さなサークルでもいいから、そこで響きあいながら心というものが生命第一義の空間というもので交わりあっていくようものが方々に出てくるならば、おそらく未来をひらく光になるのではないか、「かすかな光」というのはこの映画の題ですが、確かに現状からいえばかすかな光に違いありません、でもね、そういう光が見えれば一歩でも近づくという希望ができるということじゃないですか、一歩でも夢を実現する方向へ歩みを進めるということを励ましあうような仲間をたくさんつくっていくということはとてもとても大事な未来を拓く鍵になるに違いないと心に思う次第でございます。
 平和の会議の内容にちなんで、あの映画に結び付けてお話申し上げた次第でございます。ご静聴ありがとうございました。
(文責はJにあります)


先頭へ戻る

大田先生のお話を聞いて〜 感想と質疑




有意義な質疑意見交換の中から一部紹介します。

Kさん(高校教員)
  今ゆとり教育は否定され学歴主義に戻ってしまい、学力一辺倒になっている。日本のこの状況はどうにかならないでしょうか。
大田さん:日本の社会の中には、教育の中に、学校中心の考えがある。ところが人間は学校の中だけで育つのではない。人間が育つには人との出会い、一冊の本、仲間の中で,人間が変わる可能性、チャンスはいろいろある。学校をもっと無力にすることが大事、学校だけで人間が発達するのではないと考えるだけでも学校が持っている意味をかなり相対化するということができるようになる。そして今の学校はあまりに画一的だから多様な教育機会を作ること、教育の機会の多様化ということをやらなきゃならない。
どの大学を出たかではなく、どんな好きなこと・力量を持っているかということで社会に根付くような方向をめざして我われが努力する。これはやりがいのある仕事です。容易ならぬ厚い壁があって、蟷螂の斧です。この映画は蟷螂の斧なのです。かすかな光へという谷川さんの詩の名前をとったのはかなたにある、かすかな光をめざしましょうということなのです。


さん(幼稚園経営)
  私も日頃保護者に子供は生きようとする、育とうとする力を持っている、これが一番子どもを思う根本であって、幼稚園も教師も親もいかに見守り育てるかということと話をしています。小さな現場ひとつひとつから子どもが育っていく、その子どもが根を下ろしてしっかり考えて生きてくれればと思います。今日は来てよかったと思いました。ありがとうございました。

大田さん
  僕はただヒントを差し上げただけです。ヒントとして活用してください。今の状況はそんなに簡単にできるわけはありません。非常に難しい壁にぶつかることを覚悟したうえで、「かすかな光」で生きているんだなと思ってください。しかし「かすかな光」を持たなかったら、絶望しかなくなります。前向きになるかどうか大きな分岐点になると思います。


Aさん(川越市)
  のびのびと育つことは大事だが、でも人間は社会的存在であることを忘れているのではないか。社会的に生きるには規律というのが必要だと考える。規律を本来教えるべきなのは小中学校の義務教育、最低限身に着けなければいけない規律というものを先生はどう考えますか。

大田さん
  命の特徴というものは一人ひとり違う、違うこと、かかわりあうことを調節して自らを変えていく。自ら変わるという形をとることが本来の生き物の姿なんです。他人様のために変わるのではなくて自分が生きるために社会的に変わるんです。自分を含んだ社会性というものを頭に置いて考えれば秩序を無視するなんてことは言えなくなる。大事にしたほうがいいし、すべきだろう。ただそれを押し付けて同化を求めるだけだったら、命令されて仕方なくやるだけになるから、そうじゃない、自分の思いを他者に及ぼしながら自分の行動を判断する、内なる力と外なる力を調整する、そこが人間が生きる場だと私は思う、そういう風に信じたいです。

さん(記念館)
  Aさんの意見について。生きていくうえで大事なこと、社会人として生きていくうえで基本的なことは学校だけで教えることではない。親がいて、近隣社会もありますから。

大田さん
  そのとおり。子どもはお母さんの胎盤の上で育つが、生まれると社会的文化的胎盤の上で生きるのです。広い世界のその一部が学校なのであって、いじめが起こるとマスコミが学校に集中的に押しかけるのは間違い。もっと社会全体が責任をもたなくてはいけない。大人は自分自身の生き方を考えなきゃいけないだろうと私は思う。


さん(高校教員 受け継ぐ会)
  仁木先生は抵抗においてこそ連帯があるとおっしゃっていましたが、「万国の労働者よ、団結せよ」という意味かと思っていた。しかし先生はクリスチャンであったことを思うと、この理不尽な苦しみの下にある世界で共通の受難といいますか、十字架というものを、背負っていかなければいけないんだということを今回改めて思い返しています。
  
さん(川越市)
  今私は、在日の問題、朝鮮への戦後責任、慰安婦問題にかかわっている。独島(竹島)の問題を巡って今険悪なムードになっている。日本も頑なで口ばかりの謝罪がなされていて、市民サイドの交流もずっと続けていたけれど、先の見えないさらに状況が悪化してしているようで、それでもなお市民サイドの交流を続けていかなければいけないのでしょうか。考えると無駄骨のようでいつも挫折しています。

大田さん: 僕は「かすかな光へ」を掲げた以上・・・。壁があるから、夢が育つのであって、壁がなかったらぬるま湯の中にどっぷりとつかって何も考えずに生涯を終わるという気がします。しようがないですね、壁があるっていうのは。壁によって生かされてあるんですよ。
 島の問題で今イザコザをやっていますが、大地というものは誰かが独占するべきものじゃないと僕は思うんです。大地は天から与えられたものですから皆で協力して命を守るのにいい方向で知恵を出し合うというそういう方向に進んでほしいと心から願っています。


さん(熊本)
  熊本から一緒に来た6人の仲間はいろんな市民運動にかかわっているけれど、本当にむなしい気持ちを味わうわけです。しかし私の場合は腹の立つことばかりで、怒りがエネルギーに変わるわけです。今日のお話のように、自分自身が外に出てお話を聞いたり、本を読んだりして自分自身が変わったなと思えればそれでいいんじゃないかという開き直りで毎日を生きています。展望がないからやめるというのではな
く、―これは水俣病にかかわっている方がおっしゃったのですが―展望があるからやるのではなく、しなければならないことをやるのだとおっしゃっていたのと重ねてお聞きました。映画の中では英語の辞書を引いている姿を拝見して励まされました。

大田さん: ありがとうございました。

(以上の講演と質疑はビデオテープをもとに文字化しました。文責はJです。)

先頭へ戻る

閉会

続いてT世話人が次のような挨拶をして閉会しました。 

 昨年から仁木さんゆかりのこの場所で、平和研を開催してきましたが、仁木さんは大田先生にここまで来ていただくことを大変申し訳ないと言っておりました。それでもおいでいただくことになったので、お礼と閉会のご挨拶をするつもりでいました。敬愛してやまなかった大田先生のお話を、写真の中の仁木さんもしっかり聞いて、すぐに小さなサークルを作りましょうってまた走り出して電話をかけまくるのではないかとそんな感じがします。この笠幡での平和研の集会は今回で最後になると思います。お名残惜しゅうございますが、これで第15回平和教育研究交流会議を閉じさせていただきます。

 

先頭へ戻る