会報2012年初夏

 

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様々な記念日の連続する5月、皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。稼働中の原発ゼロというこの時が、子どもたちの未来を明るいものとする方向への転機であることを切に願うものです。遅くなりましたが会報をお届けします。

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第15回 平和教育研究交流会議 案内

日時 2012年 8月25日(土) 1時 〜 5時    
場所 中帰連平和記念館  埼玉県川越市笠幡1948−6
内容 「日中友好交流への願い」 大田堯さんのお話
     お話に先立ち映画『かすかな光へ』を上映します。  

 大田先生は1991年「関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会」発足当初から当会の世話人です。93年温州で「王希天と中国人労働者の殉難記念碑」再建と遺族のための教育基金を設立した際、記念碑除幕式典において次のように挨拶され、参列した人々に深い感動を与えました。
 (前略)・・私たちの今回の訪問は、謝罪すること、償いをすること、そして世世代代の日中友好、地球環境の平和をめざしての自己改造と自己学習でございます。何よりも過ぐる日中戦争において中国人民に筆舌に尽くしがたい苦痛をお与えしたことにたいして心からお詫び申し上げます。
 上からの権力によって欧化、脱亜政策が進められた日本の近代化は、アジアの他民族蔑視の気風を生み戦争以前にも数多くの過ちを引き起こしました。その一つが、70年前の1923年、関東大震災に際しましての朝鮮人中国人の大虐殺でありました。温州地域を中心にして700余人の中国人労働者のかけがえのない生命を奪い、その遺族に耐え難い苦痛をお与えしたのでした。・・(後略)
 昨年完成し、今全国で自主上映会がおこなわれている映『かすかな光へ』は2012年度良い映画としてキネマ旬報ベストテン入りしたそうです。教育学会代表として中国教育界との友好交流も進めてきた大田先生の若干の心残りは中国との交流部分が映画に充分反映されなかったことと伺っています。森監督と西島カメラマンは2006年大田先生の北京・興隆訪問に同行して記録に収めましたが、映画の中では直接そのことには触れられませんでした。
  そこで今回の平和教育研究交流会議は、映画『かすかな光へ』を鑑賞するとともに先生のお話をじっくり伺いたいと思います。

 

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第14回平和教育研究交流会議 報告

2011年8月20日(土)〜21日(日)
埼玉県川越市中帰連平和記念館にて開催しました

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第1部 日本の戦争責任はいかに直視されないのか?

ー最近のいくつかの事例、および戦時中の「熱河伝道」から考えるー

問題提起 張宏波さん(明治学院大学)
       石田隆至さん(明治学院大学平和研究所)




  まず自己紹介の中で張さんは概略次のように述べられました。
 “長春に生まれ、子どもの頃、祖父母から「満州」国の話などを聞かされた。祖父は強制連行で働かされた経験がある。周囲に残留孤児も多く、中日国交回復は東北部でも大きな話題だった。学校で、敗戦まで日本はファッシズムだったと学び悪い印象を持ったが、一方で、平和憲法の下で復興し、日本が先進国になったことも知り、憧れも持った。‘80年代日本の教科書や靖国の問題で、何故戦争を美化するのか、侵略戦争をどのように総括したのか、自分の目で日本を見てみたいと思い来日した。日本で研究を始めて、日本人院生とぶつかりあうことがあった。中帰連の元兵士達との交流や資料を公正に学術的に取り扱おうとしてもうまくいかないこともあり、それは言語能力の問題だけでなく、自分が中国人であるからではないかと思った。そして、他者との交流で自分の課題を乗り越えられるのではと思い、石田さんとの共同研究を始めた。中国人の立場に日本側の視点を取入れて、客観的に近づかなければ研究は深まらないと考えている。”“「熱河伝道」については“無人区政策、三光政策が展開された熱河に日本人伝道者は入った。そこで「協和会」という組織に加わり、中国民衆からは浮き上がった存在だったのに、当時の総括がきちんとされておらず、今もって熱河伝道は献身的で、不幸な中国に福音をもたらした。侵略行為とは無縁とされている。”


 石田さんは自己紹介も兼ねて次のように話されました。
  “留学生のチューターをして、中国人留学生の中にコミニュケーションが困難で困っている人が多いと思った。単に言語の問題や知識の問題ではない。埋め込まれた物の見方、捉え方にギャップがあるからだろう。平和運動の研究をしていたのだが、中帰連のことを聞いて関心を持った。絡み合ったものをほぐしていくのは困難であるが、中帰連の取り組みはユニークで、話を聞きに行った。 日本人学生は史実を知らず、メディアに影響を受けているが、事実を知れば、おかしいのは日本だと気付いていく。”また中国に関する日本メディアの報道姿勢について、方正県の石碑※建立、中国新幹線事故、毒ギョーザ事件等を、日本の原発事故、毒米とはいわれなかった「汚染米」報道等と比較して問題点を具体的に指摘されました。
 ※中国ハルピン市郊外の方正県に県政府が2011年7月に建立した。敗戦で引き上げ途中で死亡した満州開拓団員を慰霊するもの。
 これらの問題提起を受け、質疑・討論を行いましたが発言の一部を報告します。


(熱河伝道に関して)
Q キリスト者は天皇教の下で苦しかったろうに、何故戦争協力者、先兵になりえたのか。
Q 何故、当時彼らは中国に行こうとしたのか。
Q 熱河伝道は日本でどう位置づけられたのか。

A 軍から協力を求められ、軍の保護の下伝道に入った。内部では初期に抵抗もあったが、国家神道は宗教ではなく文化だと説得。強い抵抗した朝鮮半島では百数名が処刑された。
A 何もない所に神の声を広めたいとの思いもあったろうが、軍の思惑を知らなかったとはいえない。戦後の捉え方は問題である。

 (日本メディアの報道に関して)
・自分も中国製食品は敬遠してしまう。埋め込まれたものが抜けていないのかも。日本国内の「汚染米」ではカビと言われ、毒ギョーザ事件の毒と同じメタミドホスが入っていたのに報道されなかった。
・日本向け食品は日本企業が作るのに、そのことには触れる報道はなく中国はダメといういい方をする。
・被害の側が方正に「日本人公墓」「慰霊碑」を作っただけでもすばらしいのに・・・。歴史を知らない、見識のなさに情けない思いだ。メディアの世論操作は凄い。
・墓・碑が作られたときは報道せず、壊された時だけ報道する。強制連行や「慰安」婦の慰霊は行わず、広島、長崎、沖縄等が何故ああいうことになったかも考えない。

 (共通する問題として)
・ 物事を深く追求しない人間のあり方は戦争に関してだけでなく、今の日本社会でも同じ。
・ おかしい事や過ちに対して物を言わない。
・ 突き詰めることなく手を打つのが日本的解決法になっている。批判と批難の区別もついていず、民主主義的討論が困難である。

 沢山の具体的提起や意見交換を通して、考えさせられることの多い充実した分科会でした。私は周囲の人の意見を受けとめ、自分の考えも発信していきたいと改めて思いました。(報告:M)
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第2部 福島でおこっていること、これからのこと

原子力情報室 共同代表 伴 英幸さん

 パワーポイントを使ったたいへん分かりやすいお話でしたが、紙面の都合でほんの一部のご紹介になります。また数値に関しては講演当時の数値ですのでご了承ください。



原発の放射能は日常的に環境に出ている
 
  
 原子力発電所は電気を作る設備で、100万キロワットから130万キロワットの電気を作る集中型のシステムで、核分裂の熱で電気を作ると同時に、核分裂した破片は放射能を持つ。ほとんどは自然界にない人間の作りだした人工の放射能。1秒に満たない寿命のものから何千万年の寿命のものまで運転中は200種類位の放射性物質がでている。基本的には人間と相いれない、人間に悪さをするもの。一番の問題は、それが毎日作られており、環境に出てくることである。仮に事故なく過ごせても、40から50年で廃炉になるが、放射能を持つゴミ(使用済み燃料)をどこにどう処理するか、決まっていない。
 福島の原子炉は沸騰水型でタービンをまわして発電する。そのエネルギーの3分の1が電気になる。後の3分の2を海に捨てるため海水温は元の温度より7℃位上がっている。地震が起きたら、炉心に制御棒を入れ、核分裂は止める。核分裂はすぐ止まっても、放射能の熱(崩壊熱)があるので、送電線から電気をもらって冷やさなければならない。福島では送電線は倒れ、ディーゼル発電機は津波のために水に浸かり、長期に電気が来ないから、燃料棒が融け水素爆発が起きた。燃料棒はどれ位溶けているのか、よくわかっていない。
 今後10年位長期に亘って冷やし続けなければならない。こんなに広い範囲の放出は日本で初めてで、世界的にもチェルノブイリに次ぐ。原発に近い人はチェルノブイリより強いか、あるいは同等の被曝をしている。
 今回のような事故になる確率が、だいたい1000万分の一と言われている。非常に低い確率のものが起きた。それが起きたという事は、他でもやっぱり起きる可能性があって、起きると言う事を前提に、今対策を取らないといけないが、それらはまったく無視されているのが現状。それを考えると、«第二の福島事故»が起こるのを私は心配している。何故無視されてゆくのか、やっぱり原子力ムラという体質が批判的な事をまったく許さないからである。ある人が極めて低い確率の事故が起きたらどんな災害になるという計算をした。そうしたらこんな活動していたらロクな事はないと上司を介して圧力がかかった。また、NHKが原子炉解体という報道番組を作った時も圧力があった。こういう事例はかなりある、これがムラの体質、相互批判がないという所が原子力政策の硬直した姿だ。原子力安全保安院が規制当局で、最近独立するという話があるけれど、この体質が変わらない限り、どこに所属してもダメだと思う。ムラの解体こそ必要だ。

高濃度汚染地域は100年くらい安全ではない

 事故の時、風は北西に吹き、次に南西、中通りの方角に吹いた。福島市、伊達市、二本松、郡山、須賀川に降りてきている。中通りは両方から山に囲まれて、谷のような地形をしていて、新幹線が通り、東北自動車道が走り、県庁所在地、都市部がある。このように風が流れてきて、雪が降った。雪が降ったために、放射能が地面に落されて、地面自体が放射能に汚染されている。20キロ以内は強制的な避難になっており、完全に地域経済は破綻している。20キロから30キロの所は屋内待機となっているが、ここも基本的に経済破綻状態で、単に人の被害だけではなく土地の汚染が経済的破綻状態を創り出している。そしてこの汚染は非常に長く続く。放射能が高い所、濃い所は100年位安全ではない。人が住んでいるほんの小さな周りは除染出来るかもしれないが、この辺りでは7割位が山間部になっている。そんな所は除染出来るわけもなく、そこに住み続けて本当に安全が確保できるのか、保たれるのか、極めて疑問。
 福島県の人たち、今7万人位は避難して県外に出ている。学校の子どもたちは3万人近くが県外の学校に転校している状態。避難したくてもできない人が100万人位いる。福島市、郡山市、いわき市、この三つ足しただけでも100万越える人口になる。年間1ミリシーベルトが被曝限度※という法律(国際放射線防護委員会の勧告に則ってきめられたもの)を守れば避難すべき人は150万人近くになる。実際の目標値はその20分の1位を目標にして管理している。その法律を守れば、250万人の人が避難しないといけない。しかし、政府はお金がかかる事もあって、避難指示を出していない。そればかりか、20ミリシーベルトというふうに20倍の暫定的措置を取ってよしとしている。※これ以下なら安全と言うのではなく、原子力のメリットを受けているから、そこから来る多少のデメリットというのは容認しなくてはということで算出されたもの。その多少のデメリットはみんな等しく1ミリシーベルトを被曝したとすると、将来1万人に一人がその被曝が原因で癌になるということ。誰が癌になるかこれはわからない。 

 これからの課題は内部被曝

 私たちの被曝経路としては、外から放射能を浴びる外部被曝と、呼吸して、食べ物を通して、あるいは飲み物を通して、被曝する内部被曝がある。これを避けるためには、この地区から避難するのが一番良いが、避難できなければ、細かい小業を使って、極力減らしてゆくしかない。地面の汚染度が高いところには行かないようにしようとか、あるいはその表面を削って量を減らそうとか、風に舞う土ぼこりを吸うのを少しでも減らそうと思えばマスクをする。飲食物については逃げた人もこれからはよっぽど注意しないと避けられない。食べ物は全国にあるのでなるべく汚染されているものを食べないようにするというふうな事をしてゆく。
 被爆について基本的にはこれ以下なら安心と言う量はない。具体的な影響は癌や白血病で、寿命短縮ということがあるけれど、特に子どもの方が影響を受けやすい。また遺伝的な影響ということも心配される。
ヨウ素は呼吸や食べ物を通して取りこむと甲状腺に影響を与える。半減期は8日なので。収穫されたホウレン草からヨウ素が千何百ベクレルだか出ても、しばらく貯蔵しておいて測るとヨウ素は検出されない。セシウムはなかなか長い。137は30年。100年経って10分の1、如何に減り方が少ないか。今後セシウムをどうするかが課題である。
 政府の暫定基準値はこの分野でも甘い。食品1キロ当たり50ベクレルというのは輸入食品の基準値370ベクレルと比較して大幅に甘い。
すでに福島県の方で子どもたちが、あまり因果関係ははっきりと言えないが、症状としては鼻血を出す子、喉を腫らす子、一時的に、4月に下痢になった子などいろいろ報告されている。お医者さんたちは明らかにいつのも時期よりは多いという。消去法でやってゆくと放射能の影響は考えられる。
 8月現在地震と事故関連で止まっている原発は39。今後定期検査にどんどん入ってゆくので、泊の一つを除いて、来春50機止まる事になる。火力発電、その他だけではなかなか大変なのだけど、止まる事を体験する事になる、そうなればよいと思っている。

  質疑の中から
Q 福島の事故を政府も東電も津波が原因としているが、地震が原因なのでは?
A 田中三彦氏(3号炉の元設計者)はその点を追求している
Q 瓦礫の広域処理が進められているが、汚染を拡散することにならないか? 
A 拡散すべきではないと思う
(まとめ、 J )

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第3部 実践交流と討論

 第2部終了後、当会世話人 I さんの訃報が届きました。翌日第3部では、はじめに I さんへ黙祷を捧げ、仁木さんから I さんを偲ぶお話がありました。
 続いて、気持ちを切り替え、参加者全員がそれぞれ取り組んでいることと、前日の感想をのべ、意見交換をしました。4人の方が今回の事故前に授業で原発を取り上げた経験を語り、地域での反原発の活動の報告もありました。また戦争責任とどう向き合えばいいのか、自らの生き方を振り返り、子どもに加害を教える時の課題など真摯な討論が展開しました。
 広島からはフィールドワーク実践報告として証言記録『消えた町 記憶をたどり』が届きました。

状況が厳しくなる中で、一人ひとりが自分の頭で考えることと仲間と共に頑張ることが方向性として示されました。

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追悼 当会世話人 I さん




 世話人のIさんが昨年2011年8月20日に亡くなりました。享年72歳でした。
 新潟県高校社会科教師を退職後は1996年「関東大震災の時殺された中国人労働者を悼む会」の王希天記念館落成式参加訪中団(山住正己団長)参加をはじめ、当会の各種事業を常に中心的に支えてくださいました。97年からの3年間は毎年中国人労働者の故郷・温州への授業団に加わりましたが、2006年温州を再訪した時、当時の生徒たちが集まり旧交を温めました。「中国山地教育を支援する会」として河北省興隆県との交流が始まると、その成果を地元に還元する活動をおこなう一方、99年興隆県の孫局長初め教育局幹部たちを上川村に招待して山村同士の教育交流を実現させました。村をあげての暖かい歓迎を受けた興隆県の人々は I さんに絶大な信頼を寄せることになりました。2010年は第11次訪中団を率いる頼もしい団長振りを発揮しました。2011年3月横浜での世話人会に出席しましたが、4月に膵臓癌と分かると、深刻な病を引き受けるという生き方を選び、著書『自分らしく生きる』※を完成させることに残りの時間を傾けたのでした。著書の中で I さんは興隆への思い、病との向き合い方をつづっています。訃報に接した興隆県関係者からもすぐに弔意が伝えられてきました。長年の当会への貢献に感謝しご冥福をお祈りします。

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事務局から

  中国興隆県からの訪日団を迎えたいと心積もりをしていましたが、当面来日の見通しは無くなりました。残念ですがいたし方ありません。こちらからの訪問も予定はありません。今年は夏の平和研をおこなうことが主な事業となります。

 上記は昨年度の会計報告です。訪中計画がなかったので昨年は会費のお願いと振込用紙をお送りしませんでしたが、それでも会費やカンパをおくってくださる方があって、ありがたく存じました。来年は関東大震災から90周年になりますので何か記念の行事をやりたいと考えています。

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