会報2008年秋

 

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 アメリカ発の金融危機から世界規模の経済的混乱・破綻を恐れて緊張感不安感が広がっています。最も深刻なのはグローバル経済の最底辺におかれた人々。日本ではセイフティネットから漏れてしまう高齢者や非正規雇用の人々。秋葉原無差別殺人事件はそうした貧困の問題を表出させました。貧困層が兵士の供給源となっていることは広く知られています。同じ構造が日本でも生まれつつあります。来るべき総選挙で行き詰まった社会の建て直しが始まることを願います。
 5月12日に発生した四川大地震は死者行方不明者が7万人を越えました。子どもを失った親たちの嘆き、2000人もの孤児、胸がつぶれる思いです。真心とともに贈られた支援に、中国から素直な感謝の言葉が帰ってくるのは嬉しいことでした。当会も皆様からいただいたカンパの中から中国大使館に義捐金20万円を送りました。 
8月の北京オリンピックは、「100年の夢」を実現した中国の人々の誇らしさが伝わってきました。芥川賞を受賞した楊逸の「時の滲む朝」にはオリンピック開催に反対する「民主派」の存在が描かれています。今後中国が経済発展の影の部分に向き合う時、私たちが経験した成功と失敗のモデルを役立ててもらいたいものです。

今号は第11回平和研を中心にご報告します。
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充実した2日間でした 
第11回平和教育研究交流会議
  5月31日〜6月1日  総評会館
    



 2008年5月31日(土)いつになく大勢の学生さんが詰め掛けて、予定の時間には会場はほぼ満席になり
ました。開会に当たって I 世話人が「支援する会」から「交流する会」への移行したけれど、平和研はなお会の重要な活動として位置づけていると挨拶され、第1部の講師笠原先生について「南京大虐殺」の真実を明らかにするため精力的に活動されている方と紹介されました。 以下は2日間の内容をご紹介です。

 

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 第1部報告
笠原十九司さん (都留文科大学教授) 講演
「南京事件をめぐる記憶と対話
―連続国際シンポジュウムに参加して」 
                         



T 南京事件70年――世界から注目される日本


 歴史対話をめぐる日本の現状として、作成に関った3国共通教材『未来を拓く歴史』は、韓国と中国では広く高校生に読まれているのに日本では学校現場で使われていないというのが実情。
 「南京事件」という用語を使うのは大虐殺に留まらない、まさに事件としてさまざまの角度から見ていく必要がある。日本の教科書には、南京事件を小学校、中学校の歴史教科書、高校の日本史教科書の全部、世界史もほとんど書いているのに、実は学生が南京事件のことをきちっと知らない。知識として教え、現実を生きたものとして考える歴史教育が充分行われていないという日本の教育に大きな問題がある。
日本では相変わらず南京虐殺を否定する風潮が強い。特に深刻なのは政治家が、公に南京虐殺を否定するという政治活動をやってそれが放任されている。そういうことに対して、国際的に大変奇異な目で見られている。
 事件から70周年の昨年、南京事件をテーマにした数多くのTVドキュメンタリーや映画ができた。 韓国のMBC放送は「レイプ・オブ・ナンキン」を書いたアイリス・チャンの物語を3回シリーズ で放映。南京難民区を作って難民の保護に当たったジョン・ラーベやミニー・ヴォートリンを題材にしたものなどアメリカ、イギリス、ドイツ、オーストラリア、中国、香港、あるいは合作で公開、または製作中。[一つ一つ紹介されたが詳細は割愛]
 外国人から次のように言われたことがある。「虐殺から70年経た現在も、南京虐殺事件という歴史事実がなぜ日本国民の共通認識として定着していないのか、その歴史的、社会的要因、あるいは国民的心理ないし、集団心理的要因は何か」、「南京虐殺という歴史事実が国民の認識として定着せず、むしろそれが歪曲され、あるいは抹殺されるような社会は民主主義国家として未熟か、さもなければ危険な状況にある」と。日本は先進国を自称しているけれど国際的に見ると、南京事件という世界周知の事実が、日本では徹底しないどころか政治家が中心になって否定している、メディアも呼応あるいは迎合して南京虐殺の事実を伝えない。こういう日本社会は一体どういう社会なのか、ということに世界の関心がある。

U 南京事件70年国際連続シンポの開催――国際社会における歴史対話の試み

 昨年弁護士の尾山宏先生を代表として南京事件70周年シンポジュウム実行委員会を結成し一連のシンポジウムを実施した。10回の開催のうち日本以外の国では、主催者が国立施設や大学だったけれど、日本の場合は、国立の研究所ではそれはかなわなかった。
 2007年3月 アメリカの平和研究所から始まり、本年年3月フィリピン・マニラでの最終回まで、それぞれの土地にふさわしいテーマの下でシンポジウムがおこなわれ、その殆どにパネラーとして参加。

  • アメリカ  欧米では過去を直視し誤りを直すことが民主主義にとって重要であると認識している。日本の政治家が侵略の事実を隠蔽することに対して、民主主義国家アメリカのアジア政策にとってマイナスと判断している。日系議員マイク・ホンダ氏が「慰安婦」決議のために奔走したのもカルフォルニア選挙区のアジア系コミュニティで政治生命に関ることだった。日本が東アジアで共存して生きる道もそういうことではないか。
  • カナダ 日本の「否定派」が金に任せてばら撒いた英語の「否定本」がある程度効果を発揮して、日系社会に敗戦時に生じた「勝ち組・負け組」のような亀裂が生じていた。
  • イタリア 戦争末期に連合国側に組して、戦勝国になり戦争犯罪が不問に付されてきた(政府、世論、歴史家に3つの沈黙)ことに対する歴史家の反省の動きが強まっている。イタリアの研究者と、枢軸国が行った戦争犯罪と戦後どのように過去と向き合ってきたかを比較検討しようと意気投合した。
  • フランス 日独伊ファシズム国家の戦争犯罪と過去の克服の比較研究の提起があった。またフランス研究者から、15年戦争史観では加害のとらえ方が弱くなるという批判があった。
    一方、現在フランスでは「ゲットー法」によってナチス犯罪やユダヤ人迫害を否定することを禁止していることをめぐって研究者の間で論争が行われていた。民主主義にとって欠かせない論争なのだろう。
  • ドイツ ナチの犯罪が認識される大きなきっかけはテレビ映画のホロコーストにあった。日本でも前述の映画が上映されれば、日本人の認識も変わると思う。ベルリンの真ん中にナチスの犯罪を記念する記念館を作ったのは市民運動がイニシァテイブを取った。しかしドイツの場合は政治家が果たした役割が大きい。
  • 韓国 軍事政権が行った民衆への弾圧は日本の軍隊や特高から学んだもの。1948年の済州島の民衆を弾圧した事件で、ゲリラ活動の弾圧の方法は、全く日本が中国でやった三光作戦がモデルになっている。
    韓国の人たちは、複眼的な視点を持つようになり、被害者が加害者になるという連続性を言い、提起した。歴史の事実の前には被害者も加害者も自己弁護ではなく、客観的に自分たちがどういう役割をになう危険性があるかという韓国の歴史認識は日本を越えている。彼らからは「記憶を語ると抑圧される日本は民主主義社会といえるか」と批判された。また「日本国憲法9条を東アジアの憲法へ」という運動が始まっている。
  • 中国 南京で昨年虐殺記念館が大拡張してオープン。中国では南京大学と南京師範大学を中心に55巻の資料集を出した。両大学から、若手研究者が育っている。また研究者の殆どは、私たちのいう犠牲者数10数万人から20万人が事実ということを公然と言って理解しあえるようになった。記念館にはまだ30万人と掲げてあるが、研究の進展によって公式の数字も変わっていくだろう。
  • 東京 東京シンポジウム宣言の中で二つのことを提起したこと。
  1. 各国政府と市民・学者代表を含めた地域機構として「東アジアの真実・和解委員会」を市民運動として立ち上げること。一番大事なことは日中戦争、アジア太平洋戦争の真実を国民、とりわけ次の世代の子供たちに伝えるということ。
  2. 日本政府に以下3点を要望。
    1、南京事件を含む被害者に対し、閣議決定および国会決議を行って公式に謝罪し、これに反するいかなる言動に対しても毅然とした態度で反駁し、被害者の尊厳を守ること。
    2、謝罪が真摯なものであることを表すため、戦争被害者に個人補償をすること。
    3、日中戦争・アジア太平洋戦争の真実を国民とりわけ次の世代の子どもたちに誠実に伝えること。
    フィリッピン 日中戦争初期の南京と太平洋戦争末期のマニラで行われた日本軍による虐殺の比較検討。マニラ虐殺は教科書に書いてないし、日本人の殆どは知らない。マニラ市民を盾に首都を占領した日本軍は、アメリカ軍の包囲攻撃の中で、アメリカへの通報を恐れ市民を虐殺していくという構造。沖縄戦も同じだった。アメリカ軍はマニラ市民がいることを承知で、砲撃を加えて市民の被害者を出した。現地の住民の、市民の命は二の次という、アメリカ軍の論理。これはあの東京大空襲はじめ日本本土空襲にも繋がる。
    結論。世界を回ってきて一番痛感することは政権を変えないとダメだということ。日本の場合は過ちを引きずっている政治家がいる限り、日本の過去の戦争をきちっと批判的にみる教育をするのは、非常に困難。市民の側で、この歴史事実を認めようという運動を粘り強くやると同時に、やはり解決には政治を変えることだということ。

     質問に答えて
    <南京事件の犠牲者の数について>事件当時の人口も不明、解放後の調査も行われず、日本では徹底的に証拠を燃やしてしまったから厳密な数はわからない。後は推測するしかない。15〜20万の根拠は、地域的には南京市(南京特別区)を対象として、中国側の資料によって中国人の殺された捕虜、敗残兵の数8万、社会学者・歴史学者スマイスのサンプリング調査によって農村部で4万、城内で1,2万という数から推測している。

    <南京事件研究者が少ない理由、先生が熱心にこれに取り組む理由> 家永三郎先生の授業に感銘を受けた。先生が1984年に教科書訴訟を起こし、それを支援するための研究会に参加し南京事件の研究をするようになった。第2審では証言し、結果最高裁で731部隊とともに家永側が勝ち、以後南京事件は教科書で書かれるようになった。学問的にも笠原著「南京事件」や藤原彰著「南京の日本軍」で決着がついている。しかし「否定派」は、素人騙しのトリックを使ったり、平気で繰り返し嘘を言う。しかし否定派の論点をついていくと史実が明らかになり、研究が進展するという面もある。最近は「南京事件の史実を守る会」というネットワークの若者たちが否定派潰しをやってくれるので助かるけれど、歴史研究者としてはこの問題を歴史的に論ずることを、日本の歴史学研究者と共同ですすめていきたいと思う。

    <日中戦争における海軍の役割>
     海軍は陸軍に比べて開明的という説があるが、実は南京事件の遠因を作ったといえる。盧溝橋事件後上海事件に続いて8月15日南京爆撃をやり、日中全面戦争へ拡大した責任は海軍にある。アメリカを仮想敵としてアメリカに勝つ兵力を国民にアピールするために中国を実験場にした。今日のイラク空爆に繋がる空爆戦争の先陣を切ったのが日本海軍だった。(詳しくは青木書店「日中全面戦争と海軍」参照)
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第2部 参加者情報交換・実践交流   31日夜の部 



  参加者は山形から大分・熊本まで、小学校から大学までの教育関係者や市民活動家でした。自己紹介の後、まず、東京の(元)中学校社会科教師Mさんの特別報告を聞きました。彼女は日本国憲法に基いて侵略戦争の事実を教えたために、様々な嫌がらせの後に2006年3月分限免職処分を受けました。東京の教育破壊のすさまじさと果敢にしたたかに闘う増田さんの姿に参加者はしばらく声も出ませんでした。地域差はあっても学校現場の非教育的状況が広がっていること、それに対し創意工夫しながら抵抗している経験を交流しました。弾圧や攻撃に抗して平和カレンダーを続けている大分県、被爆地広島の現状と闘い、街頭で定期的に反戦平和を訴える活動、授業で憲法前文を読み込む実践などそれぞれの場で取り組んでいる平和運動を交換しました。

以下、参加者のお一人から感想を書いていただきました。
 無法で滑稽な小権力者たち
       Mさん(千葉県 定時制高校教師)
 今、日本の各地で平和教育は公然と妨害されるようになっている。
教師たちは、真実を語ろうとすれば自分の職を失うという恐れを抱いて、戦々恐々と当たらず触らずの言動で日々をやり過ごす。このように書くと、はて、今は戦時中なのか?と自ら錯覚に陥るが、かなりそれに近づいているのが現状なのだ、どうやら。気づくのが遅すぎたか。
 M(東京)さんのレポートは、東京都議と教育委員の無法ぶりをあらわにした。あまりに愚劣。しかしその言動は滑稽にすら見える。このような小権力者たちが、真実を語る教師の抹殺を図った。M(東京)さんが行ってきた授業は、ノ・ムヒョン大統領(当時)の手紙をはじめ、躍動感あふれる、刺激に満ちたものだ。それは教わった生徒たちをうらやましくすら思える内容に満ちている。過去、現在と真正面から向き合って、自ら未来を切り開く力を生徒たちがきっと身につけるであろう。優れた実践がいっぱいだ。
しかし、いや、だから、かの小権力者たちは恐れ、弾圧するのだ。自ら考え、真実を追究する人間が育つことを。たとえば日本が起こした戦争について。その真実を突き詰めていけば、いずれは天皇の戦争責任に行き当たる。そこをM(東京)さんはひるまず正面から取り上げた。小権力者たちがもっとも恐れる歴史の真実。だから彼女を教育現場から追い出した。しかし、真実は追い出せない。M(東京)さんは強く、しなやかにたたかい続けている。勿論かなりきついたたかいに違いない。でも真実が一番の味方だ。
それにしてもあんなでたらめな書面で「分限免職」が出せるものなのか。はて、日本は法治国家でなかったか?レポートによれば、某組合までも増田さんを守るどころか背面攻撃したという。でる杭は打つということか。生きた真実を排除すれば、教室は死の空間と化すだけだ。

 

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第3部  講演    6月1日
 小村寿太郎家系図で見た日中関係の研究
―南九州の調査旅行で考えたこと
今井清一さん(横浜市立大学名誉教授)




 昨年末、先生は友人に誘われて宮崎県の飫肥を訪ねた際、小村寿太郎記念館で小村家の系図に出会い、小村俊三郎(関東大震災のとき中国人虐殺の隠蔽に反対した)は寿太郎の再従弟であることがわかりました。関東大震災から今年は85年という節目の年、系図に見える人物たちを通して日中関係の余り知られていない面のお話をしてくださいました。当日先生が資料として配布された系図を簡略化して別に示します。牧野家の系図も。(牧野伸顕は大久保利通の次男で牧野家に養子に行き、のち外務大臣、宮内大臣として天皇の側近であった人。)
はじめにご自身の前半生を時代背景の解説とともにお話しくださいました。
 1924(大正13)年2月、群馬県前橋市のお生まれで前橋中学(現前橋高校)出身で、生家は製糸・絹織物業を営んでいました。小学校2年生のとき満州事変、中学2年では日中戦争、高校2年では太平洋戦争と学年の進行とともに戦線が拡大した世代。あと3ヶ月早く生まれていれば出陣学徒になるところでした。1945年1月陸軍経理部特別甲種幹部候補生入隊し、9月復員だったため、「戦地にも行かず、空襲で家は焼けたが、戦争による被害も苦しみもさほどでなかった」とのこと。戦後は早い時期に『西園寺公と政局』(1950年刊)の編纂にあたり、戦争中の秘録を公開し、政治史研究者として出発しました。以下は当日のレジメに沿ってお話の要旨です。



@日露戦時の小村寿太郎、同俊三郎、井戸川辰三、張作霖、宇都宮太郎、伊集院彦吉 
 今回の日南市飫肥訪問は昨年末岩波書店から刊行された『日本陸軍とアジア政策―陸軍大将宇都宮太郎日記』編者の企画で、井戸川辰三中将(宇都宮の後輩で彼に信頼されていた)の郷里を訪ねるというものだった。井戸川家の後、飫肥城大手門前の小村寿太郎の生家と記念館を訪ねたところ、「花(ホア)大人を囲む満州義軍勇士座談会」という雑誌記事を見せられた。中国人をまきこみながらロシアの背後をかく乱する活動をした満州義軍を組織する窓口は井戸川辰三大尉(当時)で、彼が新民屯の軍政署長のとき処刑されるべきところを助けてやったのが張作霖。一方北京公使館付通訳官だった小村俊三郎(寿太郎の再従弟)はこの満州義軍への参集を呼びかける「東三省士民に檄するの文」を書いている。宇都宮はロンドンにいて(公使館付武官)、ロシアを困らせるためにロシアの革命運動を支援していた。日露戦争が終わると彼は勲章「功三級章」をもらっている。いかに陸軍が謀略工作を重視したかを示すものといえる。持久戦に耐える国力の無い日本はロシア革命と日本海海戦の勝利を好機としてアメリカルーズベルト大統領の斡旋で何とかポーツマスで講和条約を結び、満蒙のロシア権益を譲り受けることができた。


A日清北京会議での小村と袁世凱、清国軍の対日協力と吉野作造の批評
 ポーツマス講和条約では、国民は賠償金のない事を不満として日比谷焼き討ち事件を起こしたが、小村寿太郎は南満州を日本の勢力圏とするため、病身を押して北京に赴き、満州に残る軍事力を背景に、清国政府の実力者・袁世凱に圧力をかけた。天津総領事の伊集院彦吉は袁世凱と親しく日露戦争に際しては日本への協力を取り付けていたが、駐清公使の内田康哉への 私信では北京へ乗り込んできた小村について「ポーツマスの埋め合わせを清でするやの感」と書いている。袁世凱は日露戦争中秘密裏に日本を支援したことから、小村の要求に抵抗するが、結局南満州鉄道に守備隊を置くことや満鉄の平行線を設置しないなどの密約を結ぶことになった。このときの秘密協定・付属取極め(会議録)がその後の満州問題に関する日清交渉の基礎になった。日露戦争後、袁世凱の長男の家庭教師であった吉野作造も“もともと袁は排日主義者だった。日露戦争中は日本に多大の便宜を図ったことは誰でも知っている事実だったが、北京会議以降この関係は続かなかった”と書いている。国際的な協力の中で遂行することができた日露戦争だったが、戦勝後は軍事的圧力で中国に対して様々な要求を押し付けていくことになった。

B第1次大戦・ロシア革命に乗じての権益拡大、反日民族運動と日本の軍閥利用
袁世凱はその後、辛亥革命の成果を簒奪して中華民国大総統となったが、日本は反日の袁世凱を攻撃し、南方出身者の多い革命派を支援して、東北の満蒙の分離を期待していた。民衆は袁および中国への強硬姿勢を求め伊集院公使の帰国を出迎えた阿部守太郎外務省政務局長を暗殺するという事件がおきた。背後にいた右翼の大物は17歳の実行犯を自決させてけりをつけるということをやっている。自決は松本亭の松本フミが立会い聞き書きを残している。第一次世界大戦が起こると21か条の要求を袁世凱政府に突きつけ、旅順・大連、南満州鉄道の租借期間を99年間、ほぼ半永久的なものとした。ロシア革命によってソヴィエトが生まれると、段祺瑞政権に圧力を加えて北満州への利権の拡大を図った。これに対して中国人留学生の間に激しい反対運動が起こるが、王希天もその中の一人だった。(今回出版された『関東大震災下の中国人虐殺事件資料集』には1節を割いてある)


C関東大震災時の中国人虐殺事件と読売新聞小村俊三郎の真相究明要求
 読売新聞外報部長だった小村俊三郎が朝日新聞の河野恒吉、牧師の丸山伝太郎とともに実情調査を行い、 1923年11月7日の社説「支那人惨害事件」で隠蔽された事実を明らかにするとともに、司法による責任の究明と中国政府および国民に謝罪すべきだと書いて発禁となり、読売新聞はこの部分を白紙のまま発行した。小村は「支那人被害の実情踏査報告書」を1924年1月当時の松井外相に出している。政府が動かないので小村はこんなことでは日本の信頼が落ちてしまうと、牧野宮内大臣に働きかけ、牧野は義弟である伊集院彦吉(当時は第2次山本権兵衛内閣外務大臣)に訪ねたところ、既に甘粕事件(大杉栄殺害)で山本内閣は打撃を受けているのでこの事件を表ざたにすると内閣が持たない、勘弁してほしいと答えた。ではどうするかと牧野や小村が相談しているうちに、虎の門事件(摂政狙撃事件)で山本内閣は総辞職。中国人虐殺事件はそのままになってしまった。

D新外交の開始と佐分利貞男・小村俊三郎
  日露戦争後、小村が北京に乗り込み軍事力を背景に満州の権益を袁世凱に認めさせたやり方は旧外交といわれる。議会に全くタッチさせない秘密外交と帝国主義国家間の外交で植民地を拡大していくというものだった。第一次世界大戦の頃から、特にロシア革命後レーニンが無併合・無賠償・即時講和を掲げ帝政ロシアの秘密条約を公開したことをきっかけとして、アメリカのウィルソン大統領が自由貿易と民族自決を掲げた14か条声明をだしたことが新外交(外交を民主化し議会によって統制しようとするもの)への流れを作った。秘密条約をどこまで公開するかは現在なお大きな問題であるが、先の小村と清(袁世凱)との秘密外交の記録は戦後、栗原健、臼井勝美両氏の、できるだけ公開するという姿勢によって全面的に明らかにされた。
 ここでもう一つ問題になるのは、久野収が「顕教と密教」という言葉で説明している、統治するものと国民大衆の意識とのズレ。天皇機関説というのは少数の指導者の間では了解していたことだったが、一般大衆は天皇中心の政治のことしか教わっていない。日露戦争で言えば、一般大衆は日本人の多大な犠牲者の血で満州を獲得したと思わされているが、指導部は国際的な協力で持って何とか戦争を有利に終わらせることができたことを知っている。
 小村俊三郎と佐分利貞男(寿太郎の女婿)は新外交に切り替えるために努力した。小村寿太郎の長男小村欣一も外務省の情報部長になった人だが文化人外交官として知られ、新外交に努力したひとだった。
 辛亥革命を指導した孫文亡き後、中華民国国民政府による中国の統一を阻止するため、日本は軍閥張作霖を利用し、利用できなくなると彼を殺した。張作霖の息子の張学良は日本に反発してかえって中国の統一が進む結果となり、英米はこの統一政権を承認し、関税自主権も認めるので、日本の外交は立ち遅れてしまう。そういう外交を立て直すため佐分利貞男が中国公使に任命された。彼はワシントン軍縮会議(1921〜22)議随員、通商局長、条約局長を務めたので本来ならば英米のような大国の大使として派遣されるべきところだったが、難局である日中関係を立て直すため公使の地位に甘んじて、中国各地を視察した。帰国した後1929年11月箱根富士屋ホテルで怪死した。自殺として処理されたが幣原外相も彼の兄弟も他殺を疑っている。
 小村俊三郎は1928年太平洋問題調査会研究会(新渡戸稲造を中心とする)で「国際的満州と日本」という講話を行い、21か条の要求で満州の権益を永久的ともいえる99ヵ年に延長させたことは良くない、満鉄の守備隊を(ロシア=ソヴィエトがすでに一兵も置かない)今も駐留させているのは条約違反である、などと述べて、満蒙の権益を中国や他の国が納得できるものに作り変えていくべきと主張している。
 また同じ頃、朝日新聞の外交問題に関する論説委員米田実は満鉄の平行線(禁止)問題について、日本は余りに広い範囲に解釈していると批判している(『第2朝日常識講座1太平洋問題』1929年)。
 日本が満州国を樹立した時、アメリカのスチムソン
国務大臣は、武力による変更は認められない(不承認主義)と主張して、以来ハル・ノートに至るまで変わらない。日本は既成事実だと思っているけど、国際的利害は大きく根を張っている。その意味で小村や米田の主張が満州事変の前に行われていることに注目しなければならない。

質問に答えて
<日本の革命派援助>革命派の多くは広東省など南方出身が多く、東北への関心が薄かったことを利用して、彼らを援助し、日本の満州での特権を認めてもらおうという下心があった。吉野作造が袁世凱の子息の家庭教師をやったのは全く食うためでのちに関係は切れるし、彼は国家主義的な援助には批判的だったのではないか。右翼の革命運動支援には満蒙を日本の支配下に置こうという動きと平行していたが、シベリア出兵で第一師団長としてシベリアへ行った石光真臣は革命派や朝鮮人の独立運動に警戒感が強い。北一輝の場合は日本の国権主義的な革命援助には批判的で革命派が排日運動の先頭に立っていることに対して、日本の国家改造によって中国との関係を立て直そうという主張だった。
<秘密外交>1939年に欧米で書かれた『外交』という本の中で、外交には秘密がつきもの、全面的に公開することはできないとある。民主主義的な統制にするためには公開外交にしなければならないが、アメリカでは30年ルールで公開している。日本では資料で
も不徹底。『遠い崖』でアーネスト・サトウのことを書いた萩原信利が公開のルール作りを主張して、大平首相の時に30年ルールの基礎がしかれたがまだ不十分。ルールだけでなく一つ一つせめぎあっていかなければならないだろう。

<国際協調路線>満州占領に対してアメリカは一貫して不承認主義をとった。しかし、世界恐慌の真っ只中でそれぞれの国が日本に干渉できないということを睨みながら、満州事変を起こした。ドイツも国連を脱退するという国際的情勢が国際協調的な条約は変えても良いという考え方が日中戦争のころには強くなって来る。満州開発には英米資本の力を借りなければいけないので、英米協調の考えが出てくるけれど軍に反対されると取りやめになってしまう。そういうことが多い。

 

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おめでとうございます! ついに出版!

史料集「関東大震災下の中国人虐殺事件」  
今井清一監修  仁木ふみ子編 明石書店刊

1980年代、隠蔽されていた事件に出会った仁木さんは1990年から本格的な調査を始めるとともに、被害労働者の故郷・浙江省温州に「基金会」を立ち上げ犠牲者の子孫の教育支援を始めました。91年当会は仁木さんの呼びかけで「関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会」として出発しました。今回の出版は20年余りの研究の成果です。 別紙によりご注文下さい。最寄の図書館へ購入を呼びかけていただくのもよいかと思います。

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会員の著作紹介
 「格差社会と若者の未来」
全国民主主義教育研究会編 同時代社

  
 2006年、NHKの番組「ワーキングプア」をきっかけに、格差社会、貧困層の拡大が広範な人々の認識として定着した。「フリーター」や「ニート」が理解不能な若者を表す言葉として出回るようになったのはそれよりも、ずいぶん前だった。
 確かに「働いて生きる」ことの意味と権利をきちんと伝えられないまま、若者たちの多くは労働の場へ無防備に放り出されていた。しかし、「フリーター」や「ニート」は若者たちの意欲や心のありようの問題ではない。新自由主義、構造改革、規制緩和を錦の御旗にした政策によって生み出されたものである。この本はそうした共通認識の下で、2004年以降、全国民主主義教育研究会(全民研)の機関紙に掲載された論文、実践記録そして研究集会における講演で構成し、若者たちとともに悩み、打開の道を探り、闘う彼らにエールを送るものとなっている。
「終章『がんばり』神話を越えて」において、Tさん(わが交流する会の世話人)は“今必要なことは若者たちに「がんばれ、がんばれ」と叱咤することではない。・・・・・・彼らはいつまでも惨めな「負け組」などとして社会の周辺に浮遊・拡散するのではなく、おそらく、若者たち独自の新しい方法で連帯・団結し、「正しいフリーターの働き方・生き方」を発見・開発し、必ず社会の「主流」としての確たる地位と新たな文化を創出するであろう。”と結んでいる。第4章に登場する新しい組合「首都圏青年ユニオン」はまさにそんな予感を感じさせるものだ。
全国図書館協議会推薦図書。 (J 記)

 

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会員からのメッセージ U
(2008.4.〜9.)

  • 怒涛のような反動攻勢の中、しかし小さな力が寄り集まって平和のための闘いを継続していくことの力強さを様々の場面で実感しています。平和教育交流会議に参加できませんが石川の地で皆様と連帯しつつがんばります。(石川Yさん)
  • 民間交流、平和の源流(沖縄Cさん)
  • 戦争が終わって63年、今、もう一度人殺しの復権をと思う人達のさかんな動きに悲しい気持ちで一杯、コウキコウレイシャで何も動けませんが、せめて会費だけでもと送金します。(東京、Kさん)
  • 今井先生、笠原先生の講演、たいへん魅力がありますが参加できないのが残念です。ご盛会を祈ります。ますます充実したご活動をお願いします。(神奈川Kさん)
  • 私たちもささやかながら毎月辻立ちして平和を訴えています。(熊本Mさん)
  • また活動の様子などお知らせ下さい。細くても長く続くといいと思います。(埼玉Sさん)
  • 郵便局で日赤に中国地震カンパをしてきましたが、山の(温州)の子どもたちを思い出し、再度カンパさせていただきます。(福岡Sさん)
  • 考古学を学ぶために中国に留学した女子学生が、日本の高校生の歴史認識のゆがみに気づいて、歴史教育の道を求めて帰国し、教員資格を取るために勉強しています。侵略の真実を学び、良い教師になってほしいと思います。「交流する会」は貴重な存在です。(東京Mさん)
  • こういう人々がいることを中国の多くの人々に知ってほしいと思います。かつてしたこと(日中戦争)を本当にすまなかったと思っている日本人も多くいる事も。(千葉Eさん)
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事務局から
 

  • 中国大使館から、四川省大地震義援金に対し、立派な感謝状をいただきました。  



  • 笠原先生は後日『百人斬り競争と南京事件』(大月書店)を出版され、豊富な資料で否定派を論破しています。
  • Mさんの闘いは『たたかう!社会科教師』(社会批評社)に詳しい。処分取り消しを求める裁判中。
  • Hさんから『花・野菜 詩画集』(武蔵野書房)をいただきました。生き物に対する暖かいまなざしに心癒されます。

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