会報2007年秋

 

CONTENTS

2007年夏の訪中

第10回 平和教育研究交流会議

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 猛暑日が続くなど異常気象に地球規模の異変を感じさせられる夏でした。
 参議院選挙の結果は、ともかく安倍政権の暴走にブレーキをかけることになり、さらに所信表明演説直後に首相がその座を投げ出すという前代未聞の事態となりました。このような無責任な政権の下で教育基本法が改悪され、防衛省が設置され、憲法改正手続き法(国民投票法)まで制定されてしまったことに腹立たしさを覚えます。靖国参拝にこだわった小泉政権、「慰安婦」をはじめアジア侵略の歴史を消し去ろうとした安倍政権に比して、福田新政権はアジア重視の外交への転換が言われていますが日米同盟第一であることに変わりはありません。
時々の政権がどうあれ、私たちは「人民友好交流」は続けて行きます。
 この夏も興隆を訪問してきました。支援する会から、交流する会へと名前と性格を変え、新しい事務局体制で不安も多々ありましたので小規模な団を編成しての訪問でした。
 訪中報告と5月の第10回平和研の報告をお届けします。

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2007年 夏の訪中

3度目の願いがかなって驢(児)叫を訪問



 興隆県モクイ人民医院へのレントゲン設備贈呈は中国山地教育を支援する会の最期の支援事業でした。しかし「ごきげんいかがと友人を訪ねる旅に終わりはありません」(2004年秋の報告)という前事務局長仁木ふみ子さんの意を受けて第10回興隆の旅を実施しました。大きなプレゼントのない「友情」のみを携えた旅でしたが、劉局長、狄副局長はじめ興隆県教育局の皆さんは8月17日北京空港まで出迎えてくださり、最後まで旅を支えてくださいました。

 旅の目的を「侵略と占領の現場で被害者の体験を聞くことを通して友好の絆を結ぶ」と定め、無人区にされた地域の古老のお話を聞き、子どもたちと交流する計画を立て興隆県教育局に手配をお願いしました。

 昨年3月前党史弁公室主任のトウさんから「老八区」について講義を受けました。急峻な山間の集落・驢叫(ルジャオ)は侵略者への抵抗の拠点としてうってつけの場所であったこと、またここは興隆で最初の共産党支部が設立されたところです。これまで訪問希望がかなわなかったのは道路事情が悪かったせいでした。今回は訪問団が12名と少なく、18人乗りのミニマイクロバスでの移動だったため、ようやく実現することになったのでした。幹線道路から左折して北上するとしばらくして道路の舗装がなくなり、川の流れがすぐ車体の下に現れたり、土石流の後の斜面をちょっと平らにしただけの道を進んで行きます。なるほど天候如何では今年も走れない道だったと納得しました。村の少し手前に「抗日烈士の墓」があり、陸さんによれば1943年ここであった戦闘の犠牲者の墓です。9人の犠牲者のうち名前がわかるのは2人だけであると説明してくれました。



 県庁所在地の興隆街を出て1時間あまり、驢叫小学校に到着。昼食時間が迫っていたので子どもたちへの絵本の読み聞かせが先になりました。5,6年生が9人、授業を受ける体制で緊張した面持ちです。I さんが I さんの通訳で「ことりをすきになった山」(エリック・カール)、Cさんが「ほしになったりゅうのきば」(中国民話、赤羽末吉絵)をそれぞれ個性的に読み聞かせると、子どもたちの表情も次第に緩み、話に引き込まれていきました。同行の教育局の先生も、担任の先生もとても楽しそうでした。




 占領されていた時期の証言をしてくださったのは先ほどの陸さんに加えて、竇さん、呉さんでした。3人とも70歳台で当時は子どもだったけれど、村民と八路軍が一体となって戦い、叔父、兄、祖父を凄惨な殺され方で失ったこと、日本軍に発見されて村人みんなが犠牲になることを避けるため、ぐずる乳児を谷へ投げ捨てた村人の話などを、お聞きしました。どの方も、これは昔の話、今は仲良くやっていきましょうと締めくくりました。

 “Mさんが涙で言葉を詰まらせながらお礼の言葉を述べられた。私たちも同じ思いで、また涙で胸が詰まる思いだったが。それを見ていた?聞いていた?村人の中に、私たちと同じように涙をぬぐっている人が2〜3人見えたのだった。思いは通じ合う、通じ合えると感じた瞬間だった。”と i さんはその時の様子を書きとめています。

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日本の老兵よ !




 河南大峪へは2000年に続く2度目の訪問でした。モクイを出発してスィッチバックを繰り返しながら峠道を登りきり、そして延々と降りて行って着いたところは前回子どもたちと遊んだ小さな学校。待っていてくれたのは劉文晋さん一人でした。他の方は亡くなったり体調がよくなかったりで来られないとのこと。
教室の窓越しに見える山の最高峰の南側には村人みんなが入れるほどのおおきな洞窟があり、かつては抗日政府もそこにあったということでした。

 劉さんは“教育を受けたことがないのでちゃんと話せるか”と断わった上で、手帳のメモを見ながら、長さ15kmに及ぶ河南大峪の7箇所で村人が殺されたと話しました。時には2,3人、多い時には30人余の人々が犠牲になったのです。人圏に行きたくないが、家を焼かれ、殺される。行けば(八路軍はどこかと)詰問され、答えなければ拷問をされる。山の奥へ逃げ込んだけれど食べ物も水もない。叔父さんは自分の尿を飲んで生き延びた。自分は子どもゆえ泣き声を立ててはいけないと口を押さえられて窒息しそうになったことなど、自らの体験を交えての話でした。その上で私たちに向かって次のような要求をしました。
 “本当はこの話はしたくなかった。村の幹部の要請で仕方なく言ったけれど、死んだ人は帰ってこない。皆さんが帰国してこの話をしても、「本当のことですか」と言われるのではないかと思う。皆私が自ら体験したことです。日本の兵士たちで、多分もう80歳を越えているだろうが、まだ生きていて来る気があればここへ連れてきて下さい。当時はいかに惨めであったか再認識してほしい。”
 これに対して、私は亡くなった方へのお悔やみと、思い出したくもないことを2度も話していただいたお詫びを述べた上で、昨年9月に中帰連のNさんが謝罪のため興隆を訪問し県政府の指導者たちに謝罪したこと、さらに記憶に残る名前の土地を訪ねてお詫びしたこと、中帰連の遺志を受け継ぐ組織(撫順の奇蹟を受け継ぐ会)ができてその代表は前回まで私たちを率いていた仁木さんであることをお伝えしたのでした。




 初参加のYさんが東京大空襲の被害者である父親からその体験を聞くことすらなかなかできないのに、劉さんが悲惨な経験を話してくださったことに感謝とお礼を申し上げました。

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紙芝居「よいしょ よいしょ」






 隣の教室には1年生と就学前クラスの子どもが11人待っていました。机にきちんと並んでかしこまっています。紙芝居の雰囲気を出すため、子どもたちには椅子を持って前に集まってもらいました。作者のMさん自身がこの日のために寄贈してくださった紙芝居です。演ずるのは司書のYさん、Mさんが補助につき、Cさんが通訳しました。子どもたちは張さんの誘いに応じて“ハイヨ!ハイヨ!(よいしょ!よいしょ!)”と声を合わせてくれました。子どもたちの掛け声に合わせて最後に出てきたのはお土産の絵本。 I さんと I さんのコンビで「はらぺこあおむし」(エリック・カール)の読み聞かせ行いました。

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鉱山を訪ねる・・・ 侵略と抵抗の諸相


 過去の訪問で、日本の占領中鉱山労働に駆りだされた体験を語る人がいました。もう少し聞きたいと思って、鉱山跡の訪問を希望しました。案内されたのは門子哨という現在稼動中の炭鉱でした。泊河の上にかかる長いつり橋を渡った向こうに、当時のことを知る人がいました。日本の侵略後、日本人と中国人とが合資になり、叔父さんがその鉱山の事務所で働いていたという趙さん。坑内に入って労働していたのは大半が朝鮮人で、1941年ここが無人区になると炭鉱は廃止になり、どこかへ行ってしまったという。その後討伐隊に追われた村人が、坑内に逃げ込み、銃の攻撃を避けようとして水死した話もありました。その被害者は私たちを案内してくださった?y峪郷の中心校校長(指導主事)趙さん の大叔父にあたる人でした。
 鉱山経営の他に、アヘンの栽培と販売が行われるなど経済的搾取があったことはこれまでもしばしば耳にしてきました。
また、初参加の張さんには歴史研究者として、占領期に「日本基督教団」が行った「熱河伝道」に関する調査という目的もありました。今回の聞き取り調査によって「教会で使われた言語は日本語、地元入信者は殆どが対日協力者であった」ことなどがわかったそうです。興隆訪問10回目にして初めて知ったことでした。
 抵抗する民衆の側にも様々な戦いと苦しみがあったわけですが、?y峪の史さんは、人圏の壁を作らされる時、密かに抜け道を作ったこと、囲いの外の八路軍と連携して禁作地帯で作物を作ったこと、占領はそう長くは続かないという情報を得ていたことなど語ってくださいました。

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興隆そしてモクイの変化 


 北京空港から興隆まで車でいつもは3時間かかるのですが、今回は2時間20分で着きました。途中まで完成した高速道路を通ったのです。来年は1時間半で到着する計画だそうです。市街地はどんどん広がり、メインストリートには大型スーパーが2軒あり、最新流行のファッションのお店が軒を並べ、そういうファッションで身を固めた若い女性が闊歩しています。郊外にはマンションが続々建設中です。北京や天津の高級サラリーマンが別荘として買うのだそうです。





 興隆第1小学校の大田図書館は河北省で最初の開放型のそれとして省レベルの模範校となっていました。蔵書約45000冊、専任の図書管理員を置き、電子図書2000冊を所有するだけでなくコンピューター管理をするための準備中でした。
 興隆県の経済成長率は年30%、経済成長に合わせて市街地への人口集中が進み保護者の教育要求も高くなってきています。教育局の悩みは、そうした市民の要求に応える一方、過疎地の教育をどう保障するかということです。僻地の教師のなり手がなく、養成しても流失してしまうことの繰り返しで、高学年の統合を進めています。初日に訪れた驢叫の子どもたちも実は9月から統合された学校に行かねばならないということでした。
 モクイは10年前のときはお店と呼べるようなものを探すのも大変で100元札を出したらおつりがないと言われました。今年、中学校宿舎のベランダから眺めると河川敷に出店が並んで朝早くからにぎわっています。政府や中学校のあるメインストリートには食料品店あり、旅館あり、道路を大型ダンプが行きかっています。



 10年前民泊させてくださった趙さんのお宅では、独身だった息子さんが結婚し、赤ちゃんが生まれ今年は3歳です。Mさんを慕っていた当時の中学生だった王さんは、結婚し生まれた赤ちゃんを連れて会いに来ました。
 昨年9月モクイ病院でレントゲン設備の贈呈式を行った時は、改築された建物の内装はまだ終わっておらず、設備はただ置かれていただけでしたが、スケジュールの合間を縫って訪ねてみました。早朝突然の訪問でしたが院長先生が中を案内してくださり、明るくきれいな内装が施され、レントゲンも活用されているようでした。
嬉しい変化ばかりではありません。証言をしてくださった。?y峪の趙明勇さんが昨年既に亡くなっていました。今年は史さんだけが証言してくださいました。
 モクイ郷の財政収入は増えているのだそうですが農民の年収は平均2100元(2006年),2300元(2007年見込み)と教師の月収くらいしかありません。まだまだ貧しい農村地帯なのです。この格差をどう克服していくのか、県の指導者たちの悩みのようでした。
 今回とても気になったのは美しい山の姿を見ることができなかったことです。3日間とも空がかすんで、山の輪郭をすっきり見せてくれないのです。河の汚れと合わせて心配なことでした。Aさんはとうとう日の出の写真を撮ることができませんでした。

  
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支援から交流中心に




 “事務局体制が変わって初めての、そして団の規模もこれまでより小さくなっての興隆訪問でしたが、興隆側の受け入れ態勢はこれまでと同じ!!北京空港で顔なじみの人々に出迎えられて、ほっとし、また、嬉しい気持ちになりました。…今回も無事に日程を終え、やっぱり参加してよかったと思っています。…… 以前に証言してくださった方の中に既に亡くなられた方もおられて、生の証言を聞かせてもらう時間があまり残っていないことを実感しました。できるうちにくりかえし証言を聞いて、日本で伝えるというのが私たちの責任だと思います。”(M)



 会の名前や性格が変わったことについて、劉局長は“支援は金銭だけの問題ではない”“皆さんは友人です。友人というものは相手に何かをしてほしいというより、何か協力したいと思うものです”と穏やかな笑顔でおっしゃいました。「教育の輸出」にならない、対等平等な相互交流として何ができるか、興隆側の意見をお尋ねしたところ、モクイの郷長劉さん(女性)は自分は教育については門外漢と断りながら“まだ中国の教育は遅れているので、日本の先進的な教育技術はとても刺激になると思う”とおっしゃいました。県教育局長の劉さんは搶ャ平の言葉を引きながら、“教育は世界に眼を開かなければならない”として昨年ボストンから職業高校の生徒の訪問を受け入れ、有意義であったことを紹介しました。
 “今回の紙芝居、絵本の読み聞かせ……子どもたちは緊張しながらも楽しんでいました。授業が終わった後の私たちを見る目は親しみがありました。   今回子どもたちは見たこともない遠いところから来た大人たちが何やら一緒に楽しもうとしている、という姿を見たのではないでしょうか”(Y) 
 この旅の最後に、高さん(公私共に多忙の中を通訳を引き受けて下さった。通訳としての参加は6回目)は、“皆さんがあの僻地に姿を現すこと自体が大事だし、授業や絵本は子どもの心に希望の種をまいたと思う。また授業をやっていただきたい。今後も教育交流は非常に大事である”と教育研究者の立場から意見を述べてくださいました。

 なお、日本から持参した絵本は上記のほかに、「せいめいのれきし」「森のいのち」「ねずみくんのチョッキ」「あさがおさいた」でした。事前に相原さんと高さんが、北京の書店で中国語の絵本を数種ずつ買い入れてあり、持参した本と一緒に訪問した学校とお世話になった?y峪の小学校にプレゼントしました。各国童話シリーズ(フランス、日本、ドイツ、アメリカ―日本の童話は坪田譲治、小川未明、立原えりかなどー)は美しいカラー刷りでした。それから「世界のナンバーワン」「ロビンソン漂流記」、「タイムマシン」という読み物に名探偵コナンとドラエモンの漫画も加えました。僻地の学校には図書室はおろか、教科書以外の児童書は見かけません。先生たちのうれしそうな顔が印象的でした。

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第10回 平和教育研究交流会議 


 2007年5月12日(土)〜13日
総評会館で行われました。

 まず、主催者を代表してI さんが前日国民投票法案が衆議院委員会で採決されことに触れ、“今後ますます教育に対するしめつけは厳しくなることが予想されます。われわれは外からの圧力を跳ね返していく力をつけなければなりません”“会の名前は変わったが、これまでの活動を継承するとともに新たな要素を加えて行かなければなりません。皆様のご意見をいただきながら考えていきたい”と挨拶して第1部講演に入りました。

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講演 NHK裁判の中で学んだこと
―勝訴の意義と課題
Sさんのお話から
        報告  I  さん

 講師のSさんは、VAWW-NETジャパン(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)の共同代表であり、「女性国際戦犯法廷」では事務局長を勤めた人である。戦時性暴力を裁く「法廷」は、周知のように、2000年12月8日から東京の九段会館で開かれ、8カ国からの被害女性64人が参加して証言を行い、世界各国の法律家が判事や検事として審理にあたり、12日に昭和天皇の有罪と日本国家に責任ありという判決が下された。
 NHKは特集番組を企画し、「法廷」の2ヶ月前にその企画案を提示されたバウネットはその趣旨に同意して全面的に取材に協力した。ところが2001年1月30日に放映された番組は、企画案とはまったく違う内容になっていた。「元慰安婦」の方々の尊厳回復のために行われた裁判なのに、バウネットと松井やより代表の名前さえ消え、被害女性の証言、証拠証言、元兵士の加害証言、天皇有罪の判決をすべて消去したうえ、「そのような事実はない」とする学者の証言を2回も入れることにより、あたかも被害者の証言が偽りであるかのような印象を与えた。改ざん、歪曲報道で傷つけられた被害女性の尊厳を回復するため、バウネットと松井代表(本会・中国山地教育を支援する会の世話人)はNHKを提訴した。しかし地裁判決はNHKの編集権の範囲内として訴えを却下し、松井代表は右翼の集中攻撃の中で頑張っていたが、病状が悪化して亡くなった。その遺志をついで控訴審を闘ったバウネットは、2007年1月29日東京高裁からの勝訴の判決を受けた。講演の大綱を以下に略記します。

  • は、I さん のコメント

1、「女性国際戦犯法廷」の位置付けについて
 NHKは「模擬法廷」と伝えたが、判決文は「民衆法廷」と位置づけた。

2、政治介入について
 判決文は介入の事実に関して、「政治家が一般論として述べた以上に本件番組に関して具体的な話や示唆したことまでは、・・・認めるに足りる証拠はない。」といいつつも、「・・(NHK側)が相手方(安倍官房副長官・現首相)の意図を忖度してできるだけあたり障りのないような番組にすることを考えて試写に臨み、その結果・・・改編が行われたものと認められ・・・」と断定。

  • NHKが放映直前まで改編に奔走するくらい、安倍が圧力をかけたということ。

3.NHKの主張する「編集権」の範囲について
 判決文は「一審被告NHKは憲法で尊重され保障された編集の権限を濫用し,または逸脱して変更を行ったものであって、自主性独立性を内容とする編集権を自ら放棄したものに等しく、一審原告らに対する説明義務を認めても、一審被告らの報道の自由を侵害したことにはならない」

  • 政治家の横槍でぐらつくようでは編集権の放棄とみなされても当然ということ。

4、バウネット側が主張した「説明義務違反」について
 判決文は「取材に協力した後に番組内容に想定外の変更があった場合には、取材対象者は、・・・その自己決定権に基づき番組から離脱する自由も有することができる」
「取材対象者の自己決定権も保護するべきであることから、放送番組の製作者や取材者は、・・・特段の事情があるときに限り、これを説明する法的な義務を負う」

  • 内容変更を知ったらバウネットは番組をつぶせた(放映を拒否できたはず)ということ。

5、期待と信頼への保護
判決文は「取材対象者がそのような期待を抱くのもやむを得ない特段の事情が認められるときは、番組制作者の編集の自由もそれに応じて一定の制約を受け、取材対象者の番組内容に対する期待と信頼が法的に保護されるべきものと評価すべきである」

  • 判決後、「特段の事情」が濫用されてはならないとマスコミ側から懸念が表明された。

6、今後の課題
根本的には「編集の自由」「表現の自由」は誰のためにあるのか?ということ。
内部的自由(製作現場の人たちの編集権、思想、信条の自由など…この件でNHKは現場の自由を認めなかった)の確保が必要。メディア内部での運動が始まっている。
市民の知る権利という場合、「市民」の定義は何か。今回はバウネット側が「市民の知る権利」を言い、反対側が同じく市民として「公平、中立、バランス」を主張した。「市民権」とは何か?

集団に依存するのではなく個を確立し、その上で連帯を強めていかなければならない。つまり、民主主義を再獲得しなければならない。

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 今回は昨年9月21日、東京地裁(難波孝一裁判長)で画期的な勝利判決を勝ち取った日の丸君が代「予防訴訟」※の原告お二人に特別報告をお願いしました。

  • 東京都教育委員会が2003年10月23日に出した通達によって、卒業式・入学式・周年行事(開校10周年記念など)において国旗国歌を強制させられた教師たちが起こした裁判(国歌斉唱義務不存在確認等請求事件)で、判決は国旗国歌の強制は違憲(19条)違法(教育基本法10条)と断罪した。教職員が君が代を歌う義務、ピアノ伴奏をする義務はない。教職員が起立しなかったことなどを理由に処分してはならない。すべての原告へ損害賠償各3万円を支払え、という内容。

<10・23通達とは> Uさん
 式典会場において、教職員は指定された座席で日の丸に正対して君が代を歌うことが義務付けられ、服装に至るまで細かに指定され、処分を前提とした職務命令書が一人一人に渡された。生徒を主体とした創意工夫のあった様々な取り組みは国旗国歌を主体とした画一化された式として強制され、フロアで行われていた養護学校では急遽壇上へのスロープが取り付けられた。式だけの問題ではなく教頭を副校長とし、主幹制を導入して管理強化が図られている。そうした中での通達だった。

<やればできる やって良かった>
 Kさん
 2003年の都知事選挙で300万票を得て当選した石原氏は「やりたいようにやる」と宣言した。7月の都議会で土屋都議が高校での卒業・入学式と七尾養護学校の性教育を攻撃して、教育長がこれに応えて「是正」を約束し、10・23通達となりその後の周年行事で強権的に実施されるに至った。この間処分を意識し、退職金をあきらめざるを得ないなどと言っていたら、処分される前に訴えたら?と夫が言った。実際の不利益がない訴訟はできないというのが、法律家の常識。友人で教育法学者の市川須美子さんに相談したら、予防訴訟という方法でやれないこともないことがわかった。処分されるまで手をこまねいていることはできないと、友人たちと女3人で「予防訴訟の会」を立ち上げた。当初は“駱駝が針の穴を通るような”とか“無謀な”訴訟と言われ、なかなか引き受けてくれる弁護士も見つからなかった。女性部の会議やあちこちの集会で声をかけ少しずつ仲間が増えていった。10・23通達が出て周年行事で都教委の強引なやり方がはっきりすると、急速に参加者が増え1月30日の提訴時には228人の原告になっていた。この過程で予想外に人が集まったことに感激し、「やって良かった」と思うことがしばしばあった。弁護団長も教科書訴訟をリードした尾山宏弁護士が引き受けてくれた。
 裁判では、教育とは何かを問いかけ、教育実践を行うという方針で臨んだ。
9月21日の判決は、予想以上の内容で、びっくりし感動した。「やればできる」という生徒への励ましのことばが現実のものになった。
 しかし、都は控訴したし、現場は変わらず状況の厳しさに変わりはない。

<訴訟のねらいと意義>  Uさん
国旗国歌は常識という社会通念があり、石原知事が判決直後に言ったように、「喜ぶのは共産党と  だけ」というレッテル貼りによって少数派を排除していくやり方に対して、少数者の権利も認めるべきということなのだ。
 難波判決は国旗国歌を否定しているのではなく、それを認めたうえで思想信条の自由を侵してまで強制するものではないとしているので、見事な法理となっている。

<勝訴の理由>  質問に答えて
教育基本法改悪反対の運動と繋がっていた。保護者や市民との連帯が始まり市民団体「学校に自由の風を!」も生まれた。すばらしい弁護団だった。憲法・教育基本法を下に勤務評定、学力テスト、教科書など教育裁判の流れがあり、その蓄積があった。
 原告の教育への思いが裁判官に届いた…この人たちまともな教育者だという心証を持ったのだと思う。元校長の証言に裁判長がねぎらいのことばをかける場面もあった。

<その日、その時間まで悩み続けた> 
 参加者の一人Oさん、予防訴訟原告。
 1945年生まれの戦後っ子。昨年3月に退職した。体育教師を目指して大学生になって、戦争中体育の教師が果たした役割に気付いた。教師になる時、命令と強制で子どもを引っ張っていくのは止めよう、と決意した。実際それをやっていくのは大変だったけれど。
10・23通達が出てから卒業式の日まで4ヶ月、自分はどうするか悩み続け夜は眠れない日が続いた。校長は職員会議のたびに、処分があるだろう、再雇用はありえないなどと言う。転勤したばかりの職場で、孤立してしまうのではないかなど、その日、その時まで悩み続け、でも起立できなかった。指定された職員席の後ろでは都の役人が座席表を持って起立しない人間をメモしていて、前では教頭が職員席を振り返ってみてチェックしていた、そのとき胸がつぶれそうだった。式典が終わるとすぐに呼び出され、都教委への呼び出し、処分、再発防止研修、再雇用なしとの処遇を受けた。予防訴訟原告であり、被処分者の訴訟の原告にもなっている。9・21判決を聞いて涙が出た。当たり前のことをやって当たり前の結果をもたらしたと思った。東京の「自由な教育」を是非守りたい。

<参加者交流>
 この後、参加者はそれぞれが取り組む課題を披瀝して交流を深めました。日の丸君が代の学校現場への持ちこみは,多くの道府県では殆ど定着してしまっています。20年前、10数年前であってもそれぞれの教師としての生き方をかけた闘いを想い起こしての語りが続きました。 福岡で、広島で集中的な攻撃を受けている時、他の地域は何ができたでしょうか。最後に仕上げの東京での闘いでやっと少しの光明が見えたとはいえ、権力の側の巧妙さを思わないわけには行きません。ニーメラーの言葉が迫ってきます。 I さんは進歩派はお人よし、具体的に追及すべきと指摘しました。 I さんは反面教師であった曽祖父に向き合う研究を始めたとのこと。山形では地域の活動を始めた報告。同和教育主任という立場なので、日々職場で人権と平和について語りかけている実践も報告されました。 I さんは、今回の「世界史未履修問題」に触れてカリキュラム編成権は学校(校長)にあることをふまえて仲間を増やして行きたいと呼びかけました。
 埼玉のMさんは、予防訴訟を側面から支える石原都知事を告訴・告発した活動の紹介と新聞の投書欄を通して「日の丸・君が代」問題の本質を問う問題を提起。岐阜から参加された中帰連のNさんは、地元で9条の会の仲間を増やす活動を。参加できなかった大分からは優れた平和教育資料集が届けられました。
 中帰連平和記念館館長の仁木さんは「既に戦争は始まっている。平和教育は被害者の視点から始まり、加害へ視野が広がったけれど、その向こうにいる抵抗する人々に目を向ければ国境を越えて連帯して闘いをすることができる」と語りました。
 第2部まで参加したSさんは戦う教師たちに敬意を表するとともに、保護者として卒業式に取り組んだ体験を話されました。

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「労働ビッグバンってなに? ― 働いて生きる権利はどうなる」
  Nさんのお話  報告  T

 ここ数年 労働運動からも遠のき、労働問題に対する私の認識はすっかり錆びついてしまった。フリーターとかニートとかの言葉を耳にしてはいても、又、姪や甥がパート、アルバイト、派遣で仕事をつないでいっている状況を「どうして?」と思いつつも、雇用をめぐって何が、どう起こっているのか分かっていなかったのである。
 今回、Nさんの講演を聞き、著書「労働ダンピング」(岩波新書)読んで強い衝撃をうけた。それは「労働ダンピング」に出てくる次のような言葉からも生々しく迫ってくる。人間のリース、労働の商品化、賃金の値崩れ、労働の液状化、買い叩き、雇用の細切れ化、雇用の融解、際限のない労働ダンピング、呼び出し労働、自爆、フリーター資本主義、反憲法的低賃金労働等々、まさに労働破壊、人間破壊のプログラムが進行していることを遅まきながら学ばせてもらった。しかし、この報告をまとめるのはなかなか辛かった。要はわかっていないからである。従って、なによりも先にNさんの「労働ダンピング」を読まれることをお勧めする。

1、労働市場の二極化 格差社会における貧困と差別
 格差を中立的なことばとして捉えてはならない。現代社会が直面しているのは、ただの「格差」ではなく、深刻な「貧困化」と不合理な「差別」を含んでいる。昨年のOECD対日経済審査報告書は、日本における貧富の格差は主として雇用から生み出されており、労働市場の二極化(非正規雇用化)に起因するとしている。雇用は正規雇用と非正規雇用に二極化しながら、際限のないダンピングを展開していく。非正規雇用を導入する動機は「コスト削減」がトップである。「自立して生きる」こととは無縁の低賃金、働いても働いても生活できない、生活できる水準の収入を得るためには死ぬほど働かなければならない現実は、若者の結婚に対するハードルを高くし、世界に比類のない少子化にも大きな影響を及ぼし、社会保障の財政的基盤を脆弱化させていく。

  1. 戦後労働法制の再編

 1986年 戦後労働法制が再編に向かってギアチェンジされた。男女雇用機会均等法、労働者派遣法が制定され、労働基準法の大幅な規制緩和が行われた。男女雇用機会均等法のコース別雇用管理により男女の格差、分離はますます顕在化し、労働時間規制の緩和・撤廃は、労働時間規制の基本が「労働からの自由」(基本的人権、市民的・政治的自由の獲得)であるのにもかかわらず「何時間働けるか」の物指しによって、女性を男性並みの長時間労働に巻き込んでいった。
 労働者派遣法は労働者供給を派遣という形で合法化し、女性労働の多様化の法的受け皿の拡大、大規模な正規常用代替(正規雇用が非正規雇用に駆逐されていく)と雇用の流動化をもたらした。この労働者派遣契約は業者間の商取引契約であり、労働法による競争抑制的な規制ではなく、独占禁止法による競争促進的な規制が働く。働き手には大きなリスクとなる反面、ユーザーである派遣先には“使い勝手のよさ”となり急速な値崩れ、買いたたきが始まり、労働の商品化、人間のリース化が加速していく。



労働者派遣契約・・・独占禁止法の適用―競争を促進、値崩れが激しい
雇用関係・・・・・・労働法―ダンピング抑制

 年金法改正による第3号被保険者の登場は低賃金・パートタイム労働者の容認、拡大に拍車をかけ「新性別役割」(男は仕事、女は仕事と家庭)を生み出した。こうした労働法制の再編の中で女性を中心として低賃金労働が固定させられる一方、男性を中心とした正規雇用の働き方は「過労死」に象徴される深刻な長時間労働をもたらした。

3、「労働ビッグバン」構想
 労働ビッグバン構想が破壊のターゲットにしているのは日本型雇用である。安定した雇用と右肩上がりの賃金に象徴される日本型雇用に地殻変動を起こして、正社員の雇用保護を緩和するなど、正規雇用のあり方を根本から変えるというものである。労働市場における正規雇用の流動性を高めることが、グローバル競争の時代の成長戦略といわれるようになった。そうした経済界のニーズに基づいて労働法は規制緩和にさらされていく。労働条件不利益変更に関するルールを盛り込んだ「労働契約法」、労働時間規制の基本を根本から変えてしまう「ホワイトカラー・エグゼンプション」、労働契約を使用者が一方的に不利益に変更して、これに同意しない労働者を解雇できるようにしたり(変更解約告知)、労働者の責任とはいえない理由による解雇も金銭を払えば有効になる制度(金銭解決制度)などである。
 労働ビッグバン構想では雇用者が人間だということが決定的に欠けている。そこに労使対等はありえない。市場原理主義、新自由主義による経済のグローバリズムは、資本が人間と自然を収奪していく体制といえる。それに対しILOは本来あるべきグローバル化、つまり人々を中心とした(人権と個人の尊厳が尊重される)「公正なグローバル化」を呼びかけ、あらゆる政策に関る課題として「ジェンダー主流化」を位置づけている。

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「21世紀の中国の旅―偽満州国に日本侵略の跡を訪ねる」日本僑報社 

 
  2005年撫順の奇蹟を受け継ぐ会企画の瀋陽、撫順、ハルピン等のスタディツアーに参加した縁で、Aさんの著書を読む機会を持った。本書はAさんの2作目で(1作目は「日本軍兵士・近藤一 忘れえぬ戦争を生きる」風媒社刊)2000年から2005年の間に、所謂「偽満州国」を実際に訪ね、侵略の現場を見、侵略された人々から話を聞いた記録をまとめたもの。
 侵略の現場に立つことの大切さを強調し、ほんの一部の地域であっても現地を訪ねることをAさんは読者に勧められているが、Aさん自身は広範囲の訪中で多くの場所に行かれた。その中で6ヶ所の万人坑も訪ね、“中国人を膨大に殺したのは日本軍だけではない。資本家・企業家は中国の資源を略奪し巨利をむさぼるため、消耗品として中国人を殺し続けた。日本軍もしょせん資本家の「用心棒」に過ぎないのでは…”と述べられているが、このことはやはり現地に行ってこそ実感できることだと思う。
 本の内容からは離れるが、ご自分の見聞を本にまとめられたことの意義深さを私は強く感じている。私も興隆を中心として中国訪問を重ねているが、せいぜい市民グループのニュースレターに報告文を掲載してもらう程度である。Aさんは見聞した者の責任を見事に果たされていると思う。(M記)

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ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編
 「証言 原爆で消えた町から」
 


 広島平和記念公園は美しく多くの修学旅行生が訪れる。原爆資料館を見学して衝撃を受け、「過ちはくり返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑の前で頭をたれ、その先の原爆ドームに目をやっても、半世紀以上前にここで何があったかを実感することは難しい。この冊子をまとめた実行委員の一人中川さんによれば、広島の高校生ですら、この公園はもとから公園であったと思っている例もあった。実行委員会は語り部佐伯敏子さんの思いを受け止め、平和記念公園と原爆供養塔にこだわって証言を聞く取り組みを1994年以来10年続けてきた。この冊子はそのまとめである。
 現在の公園には中島本町、元柳町、材木町、天神町、木挽町の5つの町があった。原爆ドームのある場所は猿楽町、それぞれ賑わいのある町だった。公園には当時の町並みを示す地図が表示されているが、原爆孤児としての人生を歩んだ方々の、子ども時代の思い出は被爆直前の人々の暮らしに思いをめぐらすことを可能にする。被爆者で映像によって被爆前の広島の復元に取り組むTさんの「あの日家族を失い、生活の全てを失い、もっというならば生活文化のすべてを失った」という発言は原爆、そして戦争が庶民にとって何であったかを示すものだ。歴史を語り伝える方法として貴重な実践と思う。この冊子を手に平和公園をまた歩いてみたい。(J記)

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