会報2007年春

 

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第9回平和教育交流会議 2006年10月6、7日

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 昨年は臨時国会、通常国会と新・教育基本法制定の動きは止まらず、ついに12月15日参議院本会議はボタン投票で可決成立させました。年度の途中であるのに、1週間後閣議決定で施行、私たちは平和憲法を生かすための「私たちの教育基本法(47年教基法ともいう)」を失ったのでした。そして今進行中の第166国会では新・教育基本法(違憲教基法ともいう)を元に早速学校教育法や教員免許法、地方教育行政法の改悪が図られ、さらには改憲手続法(国民投票法)の成立後もくろまれています。
 拉致問題など強硬路線を貫く言動で、政界最右翼であるがゆえに首相になれた安倍晋三氏は中国を訪問して日中関係のさびた扉を開けるパフォーマンスを行いましたが、靖国参拝を否定せず、93年「河野談話」を継承すると言いつつ、「慰安婦」強制の証拠はないと平然と述べてはばからないのですから、中国はじめアジアの人々の疑念を打ち消すことはできません。
 4月の統一地方選挙、7月の参議院選挙を通して、戦時体制への流れを止めたいものです。

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第9回平和教育研究交流会議


 10月7日8日、埼玉県K市の中帰連平和資料館にて行いました。
昨年はスケジュールの都合で標記・平和教育研究交流会議(以下平和研)は異例の10月実施となりました。秋の報告では触れられませんでしたので、2日間の概要をお届けします。

 初めにいI世話人代表のご挨拶があり、以下のようなお話が紹介されました。
 去る9月29日(日中国交正常化34周年記念日)横浜華僑総会の国慶節祝賀会における王毅大使の祝辞は次のようなものでした。“今年中国は「エネルギー節約型、環境保護型、循環経済型の経済社会」をめざす。これは「量から質へ、物から人間へ」への転換を意味し、「人間本位、外から内へ」の転換を進めるということ。こうした転換は中国のみならず、アジアと世界の利益になると信じる。
 安倍新首相の積極的姿勢を評価し,日中関係の改善を期待している”
 流暢な日本語での祝辞は日本社会に対する重要なメッセージを含んでいたのだが、メディアは全く報道しなかったのは本当に残念で、これが日本の現状だということです。

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Eさんのお話

 「侵略戦争の体験と反省」

   
<はじめに>
  私の43年間の前半生を述べ、今、歴史の教訓を省みようとしない小泉亜流政権によって日本国民がまた戦争の脅威にさらされている現在,前車の轍となれば幸いである。

<小中学校時代>
 公教育ほど重要なものはない。人の一生を左右する。教育勅語に由来する忠君愛国は戦争のための教育だった。戦争美談に満ちた教育の中でいつしか天皇への忠誠心が刷り込まれていた。例えば勅語の奉読式で君が代斉唱の後、御真影への最敬礼。唱歌の時間の歌。身体的に定着させたので、理屈では処理できない痕跡を残すことになった。

<安房中学時代>
 質実剛健の校風。1年次から軍事教練が必修だったが、誇りに思っていた。3年のとき3・15事件を報じた朝日新聞の髭面顔を見て日本共産党を憎み、完全に天皇教の虜になっていた。天皇教に従うことは「臣民の栄誉」と思い、他民族蔑視となり…長じて兵士となっては他民族を殺害して平気だった。個人の尊厳や平和の尊さは教えられなかった。

<水戸高文科時代>
 「満州事変」に際して出征する教官を寮生は幟旗と太鼓で送った。
 この時期、内面的にはヒューマニズムに移行した。それはコペルニクス的転回だった。トルストイ、ロマンロラン、白樺派、和辻哲郎、西田幾多郎などを読み、彼らは人生を考える指導者となった。しかし、実践力は伴わず、校内には反戦ビラやアジ落書きがあったが、依然としてアカは国賊という反左翼思想を持っていた。
 学友会費値下げ要求の籠城ストがあり、官憲の弾圧があって、30人が自宅謹慎を命じられ、新学期に学校へ戻れたのは3名だけだった。

<東京帝大時代>
 和辻哲郎主任教授は当時45歳。大学は真理を探求する場であって、革命運動をする場ではない、と言った。ここで「カントにおける人格性についての洞察」論文を書いて卒業した。この論文で得た“人間尊厳”論をその後の行動指針となった。
 昭和11年2・26事件 翌年12月人民戦線事件という弾圧事件で、文科、労働運動は弾圧され、7月には中国侵略が開始されたのだが、この国家存亡の危機に大学生の大半は象牙の塔に籠もる青白きインテリ、ファシズムへの投降者だった。

<文部省時代>
 昭和13年9月、荒木貞夫(陸軍大将)文部大臣の下で教学局思想課所属。教育界における思想統制の総本山であった。学生の答案から左翼教授をあぶりだすのが仕事。翌14年、興亜勤労学生報国隊を組織。目的は国策に協力できる青年指導者の養成のためである。茨城県内原へ集め、軍事教練をさせた後、満州国へ1000人,北支へ500人送り出した。
 昭和14年東大経済学部河合栄治郎教授の図書の点検を命じられた。梅本克己が投げ出したもので、「国体の本義」に悖る表現に赤線を引く仕事であった。尊敬する河合先生を告発することは、カント学徒を自認する者として良心が許さず、申し出て仕事を変えてもらった。結局昭和14年9月梅本と二人で辞表を提出した。当時の私たちがなし得たささやかな抵抗だった。

<侵略戦争への参加>
 長野県で中学校教師をしていた昭和16年 月28歳のとき、臨時召集で佐倉町の東部64部隊に入隊。ここでの初年兵教育は野蛮きわまるものだった。内務班で鉄拳制裁の連続。これは新兵たちの感情や理性をつぶして命令に従うロボット、戦場での殺人鬼をつくるものであった。
 太平洋戦争開始の翌年、新に新設された北支派遣軍第12軍第59師団第52旅団第111大隊に転属。以来13年にわたり山東半島での侵略戦争に参加。
 師団は山東省の済南に司令部を置いて山東半島中西部を支配した。当時山東省は石炭、糧秣、塩、綿花に加えて豊富な労働力があり、侵略戦争遂行上の兵站基地であった。三菱、三井、兼松、熊谷組、間組などのために武力によって確保することだった。、この兵站基地の確保に障害となったのが八路軍(国民軍は既に帰順)。わが師団は八路軍とその解放区に対して剿共作戦即ち三光作戦を行った。皆殺し、拷問、強姦、生活基盤の徹底的破壊、戦争犯罪の全てがあった。

<111大隊と自身の犯罪>
 私の属した111大隊(1200名)は済南東南方の新泰県に本部を置いた。伍長で機関銃大隊に属し、初年兵教育の助教になった。昭和20年6月2回目の助教のとき、山東半島先端の八路軍を制圧し対米陣地を築くための「秀嶺作戦」に参加。3ヶ月の訓練を終えた初年兵200名を率いて、城陽から目的地までの百数キロ徒歩で行軍することになったが、八路軍の仕掛けた地雷源で地雷探知機は役に立たず、ロバが先ず犠牲になり、さらに強制連行してきた中国人労工を探知機代わりに先頭を歩かせ、数人の犠牲者を出した。日本兵に犠牲者はなかった。
 目的地の策格荘に着くと大隊長による「検閲」が行われることになった。通常は射撃と銃剣術なのだが、今回は銃剣術に換えて「実的刺突=生きた人間を刺し殺すこと」だった。捕らえられていた中国人捕虜が4,5人づつ各中隊に分配されることになり、私は4人を受領してきた。畑の中に4本の柱が立てられ、その後ろに深い穴が掘られていた。捕虜たちはそれを見ると「私は農民です、殺さないでください」と訴えた。中に15,6歳の少年がいて“たった一人に母が私を待っている”と泣いて訴えたが、聞き入れなかった。上官(ひいては天皇)の命令を拒否はできない。戦争に非道はつきものだと考えることで責任を免れようとした。
 中隊30名を4列縦隊に並ばせ、池田教官の「突っ込め!」の号令で短剣で突っ込ませる。「よし!」の声があるまで突き続ける。それを7,8回繰り返して終わったとき、大きな夕日が辺りを包み、身の毛がよだつ光景だった。

<シベリア抑留―無反省時代>
5年間、強制労働に服す。マイナス42度の屋外労働で感想野菜と燕麦のおかゆ、夜のみは350gの黒パン。シベリア民主運動では密告が横行し、隣の人間が信じられない状況だった。政治部員に抜擢されたが、親友の池田君の密告を強要されて、拒否したため反動分子のレッテルが貼られ、懲罰ラーゲリに入れられた。もう帰国は絶望だと思ったが、「それでよい」という天の声が聞こえた。「それでよい」という天の声が聞こえた。カントの墓碑銘「それをしばしば思えば思うほど、ますます新に、また力強く驚嘆と畏敬の念を持って心を満たすものが二つある。わが上なる(星輝く)空と内なる道徳律である」である。

<撫順戦犯管理所時代>
 ハバロフスクから貨物列車で中国へ移管されて6年間。管理所はかつて反満分子を捕らえ、拷問などをしたところだったが、医務室、病室、浴室、理髪室まで整えられていた。周恩来の「戦犯とて人間、人間である以上人格を尊重せよ」の方針に基づき、強制労働はなく管理所職員は一日に2回の高粱飯を食べながら我々には白米を3食食べさせた。反省の契機は工作員の人間性と人道的待遇だった。理論学習―被害者に立場に立つーでは中国革命を理論武装するための「実践論」を読み、“(祖国のを危機に傍観していた)カント哲学は思想の遊戯ではなかったか”と思われた。「持久戦を論ず」ではいわゆる支那事変(抗日戦争)勃発当時書かれたのに、その戦争の推移を完璧に捉えられ、そのような結果になったことに驚嘆。中国共産党軍の高いモラルこそ   革命の原動力。八路軍の守るべき「3つ民主―上級と兵士、軍と民衆、捕虜との民主」に感動し、世界と人間を改造する遠大な理想と、恒久平和への願いを理解した。こうして被害者の立場に立って侵略戦争を理解することができるようになった。

<認罪運動>
 各自が過去の犯罪を暴露して罪を認め、反省すること。ところが、大学教育を受けたために、責任は天皇と上級者にあると考え、自分は埒外にあると思っている。被害者の立場に立てば、加害者内の思想の相違は問題ではない、同じく許しがたいものである。「実的刺突」の責任は、自分にあり、そこに私を陥れた大隊長にあり、・・・日本軍隊の総帥天皇にまで及ぶは当然。
 中華人民共和国の寛大な裁判によって、最高刑20年(戦後17年をひいて実質3年)で大半は起訴免除即日帰国が許されて43歳で帰国した。中国での16年間のうち最後の6年間は幸せである。帰国後は中帰連を結成して日中友好と反戦活動をして罪の償いをしている。次の世代に我々の二の舞を踏んでもらいたくない。

<まとめ>
 侵略戦争は人間を堕落させる。教育基本法「改正」は戦争への突破口、絶対に許してはならない。

<質問に答えて>

  • 「仮的(わら人形)刺突」
  • 軍人勅諭をおぼえようとしなかったEさんだけでなく、小中学校の公教育は入隊後の軍人勅諭よりも基本的に兵士たちと兵士の人生を支配していた。
  • 古兵たちの初年兵に対する鉄建制裁は、本質的には退屈で自暴自棄になった彼らの憂さ晴らし
  • 佐倉の連帯で休日になると彼らは列を成して成田の遊郭にいった。金のない兵士は、兵隊だけが買うことのできた羊羹を買い集めてそれで公演で女性を買っていた。野戦では内地でできないことを何でもできた。かっぱらい、強姦
  • 戦争というものは、ソ連でも同じ。只ソ連軍の場合は、そうした非道を上官が見ればすぐに撃ち殺した
  • 日本軍隊は戦線からの離脱は許されない。進むも退くも死となれば,勇敢に前ヘ進むーその辺が初年兵教育の成果。戦場と平穏な日常にいるときとは同じ人間ではない。
  • 戦争後に生きて帰ってきた兵士たちの多くは侵略戦争とは認めていない。戦友会などに属し、昔は良かったという話をしていて未だ天皇教から抜け出していない。
  • 戦場では日本社会の常識が通用しない。かつて「三光」を出版したときに、「温和な日本民族がそんなことをしたなんて信じられない」と言われた。戦場とはどういうものかを知らないためだ。
  • 天皇教は本質的に他民族蔑視。初年兵教育で殺人鬼に育てられてしまう。日本の戦争には正義がない。八路軍には祖国を守るという理想があった。侵略戦争は人間を堕落させる、夢がないのだから。だから何でもやってやるということになり、日本軍は中国に犯罪の山を築いたことは間違いない。
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Tさんのお話 

  「日中友好の今」要旨  2006.10.6

<はじめに>
 1944年召集され50年から撫順戦犯管理所過ごし56年に帰国。
 小泉政治の5年間の功罪のうち「罪」はたくさんあるが、「功」といえば靖国など歴史認識を社会問題にするヒントを与えたことであるといえよう。ここに日中問題を解く鍵がある。

<中国で一発の弾も撃たず>
 1944年24歳のとき、山東省済南で北支那派遣軍12軍59師団109大隊入隊。3ヶ月の初年兵教育は小説「真空地帯」そのもの。終了直前にツ反で陽転したため、その年できた特別訓練隊(泰安)に移され、実的刺突は経験しなかった。特別訓練隊は虚弱者対象のやさしい訓練だった。次は(大阪外国語大学卒の中国語の能力を買われて)師団司令部参謀本部宣伝報道班で59師団の支配地域の宣撫工作に当たった。銅鑼や太鼓を備えた本式の京劇団を率いて三国志などの演目をやった。
 1945年アメリカ軍の山東侵攻に備えるため秀嶺一号作戦が始まったが、7月になるとソ連の北満への侵攻の危機が高まり、59師団と39師団は満州へ転属となり、関東軍の隷下に入った。北朝鮮の感興で陣地構築として蛸壺掘りに当たった。そのとき私はひとりだけ済南に残って、12軍司令部で引き続き宣撫工作を命じられた。上官が帰国したいのなら59師団へ行け、というので鉄砲をもち公用腕章をつけて一人で津浦線を北上して1週間かけて59師団を追跡し109大隊に復帰した。途中徳州で米軍機グラマンの銃撃を受けることもあった。そのとき既に日本は制空権がなかったのだ。蛸壺堀りを始めて1週間後、終戦となってソ連軍の捕虜となった。ここで私の人生観は変わった。人間軍隊に入ったら、個人の意志は通じない。
 武装解除を受けたとき、三八式歩兵銃についている菊の紋章を鑢で削り落としてから提出した。この期に及んでも天皇を汚さないようにということだ。「戦陣訓」には“生きて虜囚の辱めを受けず”つまり捕虜になるなとあるわけだが、皆さんおとなしく武装解除に応じた。大隊長一人翌朝、割腹自殺した。私は『馬鹿じゃないか』と思った。そうじて士官学校卒の職業軍人は自殺したり、反乱を組織したりしたけれど、一般の兵士は喜んでいた、中帰連でない人の手記などを読んでも皆ほっとしている。

<強制収容所での捕虜生活>
 1945年8月、今度はソ連のダモイ(帰国というロシア語)に騙されて筆舌に尽くしがたい過酷な体験をした。酷寒と飢餓と強制労働と、体験した者でないとわからない。関東軍60万の将兵は2000箇所のラーゲリ(収容所)に大隊単位(約1000人)で収容された。そのうち6万人約1割が死んだ。若い兵士からバタバタと死んだ。軍隊組織(大将―中将―・・・・初年兵)のまま収容されたので途中のピンハネのため初年兵のところへ来ると(黒パン300g※砂糖10g)は半分になってしまう。しかも初年兵が強制労働の最も厳しいところにやられる。目をぎらぎらさせて黒パンのカケラひとつの多寡を争う餓鬼の世界。栄養失調に加え、体質的に弱い人、意志の弱い人、我慢強くない人から死んでいった。ソ連はそれでもお尻の肉があるうちはラバータ(労働)させたのでさらに衰弱することになる。空腹なので作業に出たとき野草でも何でも食べる。昼食の鍋に入れて少しでも腹を膨らまそうとするのだが、中に毒草が入っていれば下痢を起こしてしまう。しかし薬はないのでますます衰弱して死ぬ。私は中国では野戦の経験がなく戦死を見ていない。しかしソ連では戦友の死を多く見た。彼らの恋人や妻や家族を思う無念の思いを身にしみて知っている。靖国で会おうなんて誰も言わなかった。
 50数万の捕虜の大半は1950年までに帰国し我々2000名が残った。1949年10月中華人民共和国が成立して、毛沢東と周恩来がソ連に行って中ソ友好同盟相互援助条約を結んだとき、ソ連から我々を戦犯として裁いたらどうかという申し出があって毛沢東はこれを受け入れた。2000名のうち約1000名が中国へ移管されることになった。師団長、旅団長など将官20名、尉官120名の高級将校も下士官以下兵卒約600名と、武部や古海といった「満州国」高官を含めて、計969名はソ連では捕虜であったが、中国では皆「戦犯」となった。どのような基準で選ばれたのかわからない。なぜ弾ひとつ撃っていない私が?ということになるがEさんが言うように「密告」ではないか。私は取り調べさえなかったし、1945年2月に入隊したという人も含まれている。この問題はソ連の捕虜に関する全資料が明らかにされなければ不明のままである。

<撫順の戦犯管理所で>
 金源先生(管理所職員)は綏芬河で私たちを受け取ったとき、私たちがあまりに若いので驚き、こんなに若く戦歴もないのに「戦犯」であることに疑問を抱き名簿を洗い直し再調査の必要を感じたという。敗戦後5700名のBC級戦犯のうち900人以上の死刑がある。済南でも46年から49年の間に国民党の裁判で十数名の死刑が出ていた。これらの裁判は中国だけでなく台湾、ビルマ、フィリピン、などどこも同じだが1,2週間の調べで処断し、かなりいい加減なものであった。中国共産党は、3年も4年もかけて現地調査、裏付け捜査を行い600名の調査員(公安、司法関係など)が来所して、我々の「認罪」(自発的反省の上に立つ罪の告白)と整合性を一人一人確かめた。告白の強制はなかったそうだ(私は調査無し)。中国側のねらいは「処罰」ではなく、もともと「人間」であったものが天皇教教育によって「鬼子」となって犯した罪行の根源を問い、人間の改造、思想の改造にあったからだ。しかしそのことに本当に気付いたのは帰国してからだった。金源先生の話によると、当初120名を処罰する案を北京へ持って行ったところ、多すぎると言われ、70名にしてもまだ多いとされ、周恩来は死刑も無期懲役もあってはならないと言った。金源先生や所長たちはそれでは人民や管理所職員たちが納得しないと言うと、あなた方が納得しないのでしょう、中国人民は必ずや納得しますと言われた。最終的には45人のみが有罪となった。管理所では全職員が学習を重ね、人間の軍国主義思想をなくして本当に良心を持った人間に仕上げて行こう、と恩讐を超えた対応をしてくれた。当時の管理所職員は 金源先生、崔仁潔先生、呉コウ善先生、みな20歳代の青年将校たちだった。天皇教に染まったままの我々―怒鳴ったり食事を蹴飛ばしたり、高級将校たちは皇城遥拝までやっていたーの傍若無人の振る舞いを、殴ることも怒鳴ることもせずに対応してくれた。

<歴史認識を変えさせなければ>
 なぜ、(中国人民を代表する)中国共産党は我々の思想改造に取り組んだか、それは100年以上に及ぶ侵略と圧制に対する戦いの結果、徹底した平和を求めるということなのだ。
戦後100万人が中国から帰国したが、中国で犯した侵略、三光(焼き尽くし、殺しつくし、奪いつくす)の前半生を反省したものは1000人しかいない。私たちは一生懸命やったけれど、日本の社会で主流になったことはない。右翼の連中が日本は民主主義に毒されたというが、とんでもない、一貫して彼らが支配してきたのだ。私たちは大手を振って歩いたことはない。「三光」は出したとたん右翼の攻撃で出版できなくなり、別の出版社から「侵略」として出した。我々は正道を歩くことは実際は出来なかった。
 一発も打たなかったといっても、軍服を着て鉄砲を持った私・高橋は被害者・中国人から見れば侵略者であり加害者なのだ。私も初年兵教育を完了すれば、討伐に参加して焼き、罪もない中国人を殺し、略奪,強姦をやったに違いない。中国側のねらいはそうした軍国主義に染まった人間の改造、場合思想の改造にあったのだ。私の場合、平頂山で被害者の子どもの方さんの話を聞いたとき、日本の軍隊は何をやったのか、よくわかった。
 戦後一度だけ靖国神社に行ったことがある。109大隊の戦友会に出た。そこは中国における行為を顕彰する場で、他の戦友会や憲友会も同じで、侵略を認めない認めたくない人たちである。この流れの中に小泉や安倍がいる。安倍らの歴史認識を、変えさせなければならない。侵略の歴史があり、その延長として太平洋戦争があったことをはっきりさせなければならない。日米同盟の強化は日本全土の沖縄化であり、その前提として憲法9条と教育基本法の改悪の問題があり、再び戦争それは即ち侵略戦争になって、私たちのようになる危険が孫子の代に迫っている。皆さんが過去の歴史を今の、そして将来の問題として捉え、歴史認識の問題に取り組んでいることは貴重なことであり、私たちも元気なかぎり証言をしていきたいと思う。

中帰連(中国帰還者連絡会)とは
 1957年中国の寛大な政策によって瀋陽の軍事裁判で不起訴となり帰国した人々が結成。有罪となった45人も64年までには帰国して参加。以後一貫して「反戦平和」「日中友好」のために活動してきたが、2002年から「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」がその遺産と活動を引き継いでいる。現在その代表はNさん。

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平和研の3人目のお話はNさんの「私の戦中戦後」でした。非常に豊富な内容でしたがスペースの関係で今回は採録できません。参加者のMさんに感想を書いていただきました。

Nさんって凄い人
「私の戦中戦後」を聞いて M(熊本県)

 私が初めてNさんの存在を知ったのは70年代後半のころだったと思う。それは一方的な出会いだったが、80年代の終わりに50名程度の会合で何度か同席し、言葉を交わす機会を得る事となった。そして、91年のこの会の発足時に声をかけてもらって会員となった事で、私はより近くNさんに接することができるようになった。
 初めて出会った時に感じた「凄い人」という印象は、その後深まるばかりで、いつの頃からか、Nさんに「自伝」を書いていただきたいと密かに思うようになった。しかし、今のところ他の方の伝記は書かれても、ご自分の事を書かれる様子はないので、この集会の中で「私の戦中戦後」というお話が聞けたのは本当に嬉しい事だった。
 話を聞いての感想はやはり一言で言うとNさんって凄い人という事。しかしこれでは求められた感想には不十分だと思うので少し具体的に書くと……、幼少の頃からの感受性、探究心、行動力に、まず凄さを感じた。お屋敷の塀の中でのみ暮らしていてもよかった筈なのに、一人中国の裏通りを歩き回る子どもは探究心の塊であったに違いない。京都・東山の四季の移ろいの中でものの哀れを解する子どもの情感の深さにも私は感嘆する。目を逸らせば見なくて済む事、考えまいとすれば考えなくて済む事に真摯に向き合われる姿勢はこの頃からのものだったのだ。激動の時代の中で、周囲の事象の全てが学びの対象であった上に、所謂学問としての学びも深く広く積み重ねてこられた事を改めて実感した。そして、学び取ったことを確実に行動に移されたこと、しかも常に弱い立場に置かれた人の側に立って行動されたことがさらに凄い事だと思う。「在外父兄救出学生同盟」での学生運動は様々な角度から考え抜かれたもので、住む場所の確保から炊き出し、本の貸し出し、子どもの転校援助、バラの花一輪を捜し求めることまで実に緻密で,興隆訪問時に垣間見たNさんの気配りに共通するものを感じた。一度はベルトを首に巻きつけた経験があるという子ども達と過ごされた盲学校での実践も冷静であるが暖かい目で子ども達の状態を見据えてなされたものだった。
 時間の都合で、用意されたお話は最後まで行き着かなかったようなので、是非この続きを聞かせていただきたいと思う。

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第2部実践交流


 上田知事の「慰安婦」否定発言などを追及している受け継ぐ会埼玉支部の報告、各地の教育基本法改悪反対の取り組み、滋賀県で女性知事を生み出した動きなどが報告されました。教室での実践報告としては下記Iさんの報告が感銘深いものでしたので簡単に報告します。

<国語科として個人的平和学習の歩み>
 岐阜県工業高校でのIさんの実践記録

2001年と2002年 夏休みレポート「祖父母の戦争体験」
2002年「朱夏」を読み、戦前の教育と満州について学ぶ。
2003年「外邦図と「満蒙開拓団」資料を活用した総合学習としての読書と話し言葉の学習.
2004年 祖父母の受けた教育と私たちの教育(教育勅語と教育基本法)この年から祖父母から戦争体験を聞くことは不可能に。
2005年 沖縄修学旅行「短歌・俳句紀行(命どう宝)」
2006年 原民喜「夏の花」とそれぞれの被爆体験。1945年広島8月8日 「夏の花」の「私」のルートと重ねて、海軍上等兵曹I(Iさんの父上当時22歳)が友人を探して広島市内を歩いた軌跡を地図の上で辿った授業報告。生徒達の祖父母でさえ戦争体験がない状況で、その日太郎氏がかぶっていた帽子という実物も教室に持ち込み、被爆や戦争を身近に感じたという生徒の感想が生まれた。

 Iさんは地域では地下壕研究会の活動を通して岐阜市で“不再戦の夏”展示会を重ねてきた。02年731部隊、03年毒ガス、04年無人区と三光作戦などをテーマに貴重な資料、絵画などを展示。2005年は日中アヘン戦争をテーマに行うはずだったが、地元代議士への気兼ねからか、加害展示への抵抗があって実現しなかったという。

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目標を遠くに、身近なところから
 
Oさん インタビュー 

 教基法の改悪が政治日程に上ってきて以来、ナショナルセンターの異なる組合の共同行動を願って、『私たちの教育基本法』というブックレットを出版されたO先生。東京都教育委員会の教育への介入に抗議する訴訟(予防訴訟)で渾身の証言をされる一方、地元埼玉で、また国会前で発言され、昨年9月の訪中では北京で直接中国の学生たちと交流をされたO先生ですが、1月早々にお話を聞く機会がありました。
 教育基本法『改正』をなぜ許してしまったか、2つの点から、考察されたお話は、余り他では接する事のないものでしたので紹介します。お聞きしたことを要約して書きますので文責はJにあります。

 先生の反省は「peaple、即ち人々の教育基本法への関心と理解が狭いものであった」とまとめられます。
 そのひとつは「子どもはお国のためにあるんじゃない」というスローガンにあるように、教基法を子ども、学校のための法律と狭く捉えていたこと。教基法は国民一人一人の学習権にかかわるものであるのに、このことを広める努力が足りなかったため、無関心は社会全体を覆い、反対運動は圧倒されてしまった。
 教基法前文にある(国は)「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」という教育の本質を、研究者は判ったつもりでいたが、大衆の生活感覚と乖離していた。「文化」とは何か、人間の活動が生み出したものが即ち文化である。人間は誕生以来文化の空気の中で、日々刻々多様な選択肢から選び取ることで、自ら変わりながら発達する。だから学習権は生存権の一部であり、基本的人権の核心部分である、ということ。メディアの報道の自由も国民の学習権を根拠に据えなければならない。
 もうひとつの誤解は「教基法は教育の根本法、教育の憲法」ということ。近代法は価値観を書くべきではない。憲法は革命によって生まれるから自由・平等・平和などの価値観が入る。その憲法を受ける教基法は、国に条件整備を要求する法律であるべき。前文には憲法によるという事と、「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」とのみあればよい。廃止された教基法の第11条を第1条として書き、以下その時代にあった条件を書く。
 現在では最大の課題である「遊びの回復」のために総合的な施策が必要なので、文科省は調査局として役割を果たすべきなのだ。
 遊びとはそれぞれの動物にとってその動物の要件を含むので、ヒトの内発性と社会性が引き出され、感性が身につき、後の文化需要の受け皿になるのだ。
 「私たちの教育基本法」が廃止されてしまった今、こうした反省の上たって、目標を遠くに見て身近なところから崩れてしまった石垣を組みなおすような作業をするしかないのです、と結ばれました。

 私たちの憲法9条を名古屋城天守閣に輝く金のしゃちほこにたとえれば、私たちpeapleは天守閣を支える石垣なのです。この石垣は今やがたがたになってしまっているので、これを固めるところから始めなければならない。この修復作業は互いに違いを受け入れあい、互いにかかわりあうこと、人は自ら変わる可能性をもつことを信じあうことから始まります。
 個人の尊厳を認め人権を実現することはアジアの、そして世界の平和にかかわることなのです。ともおっしゃいました。

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NHK裁判と私
    M(千葉県)


 2005年3月私は退職した。これまでの活動の積み重ねとして「中国山地教育を支援する会」の活動と平和運動のボランティアができたら、と考えていた。松井さんとの関係もあってバウネットの会員であった。
 2001年1月30日NHKで放送されたものはひどいもので、どうしてこんなものが放送されるのか怒りさえ感じた。極右の学者が放送時間の半分もしゃべり、「被告のいない(昭和天皇が死んでいる)裁判に値しない」と長々としゃべっていた。その後バウネットから集会の案内や怒りのファックスが届くようになった。7月に裁判が始まった。当時は現職だったため、集会に参加することは殆どできなかったが裁判費用のカンパだけはせっせと送った。
 退職数ヶ月前、2005年1月控訴審結審直前に番組制作に関った長井暁氏が「政治圧力があった」ことを内部告発した。そして審理は続けられることになった。以来、バウネットから送られてくる情報によってNHK裁判傍聴にせっせと通うことになる。
 長井暁NHKチーフプロデューサ(当時デスク)、長井氏と同じく番組制作に関った永田浩三氏、安倍晋三官房副長官(当時)ら政治家と番組の説明をしたという松尾武放送局長(当時)と野島直樹総合企画室国会担当局長の4名の証人尋問が実現し、そのうち3人の尋問と今年1月29日の判決の日私は傍聴席にいた。
 この裁判に私がこんなに思い入れをしているのは、政治の中枢は大きく右に傾き、戦争の歴史を偽造して再び戦争への道を進もうとしているように感じる。現在2人の孫がいる。この子たちのためにも平和な“美しい国”をこそ残したいと思うのだ。過去の戦争責任を否定するする動きと「慰安婦」問題を消す動き、教育基本法改悪の動き、そして改憲の動き、全て戦争前夜に思えてならないから。

 

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