「侵略戦争の体験と反省」
<はじめに>
私の43年間の前半生を述べ、今、歴史の教訓を省みようとしない小泉亜流政権によって日本国民がまた戦争の脅威にさらされている現在,前車の轍となれば幸いである。
<小中学校時代>
公教育ほど重要なものはない。人の一生を左右する。教育勅語に由来する忠君愛国は戦争のための教育だった。戦争美談に満ちた教育の中でいつしか天皇への忠誠心が刷り込まれていた。例えば勅語の奉読式で君が代斉唱の後、御真影への最敬礼。唱歌の時間の歌。身体的に定着させたので、理屈では処理できない痕跡を残すことになった。
<安房中学時代>
質実剛健の校風。1年次から軍事教練が必修だったが、誇りに思っていた。3年のとき3・15事件を報じた朝日新聞の髭面顔を見て日本共産党を憎み、完全に天皇教の虜になっていた。天皇教に従うことは「臣民の栄誉」と思い、他民族蔑視となり…長じて兵士となっては他民族を殺害して平気だった。個人の尊厳や平和の尊さは教えられなかった。
<水戸高文科時代>
「満州事変」に際して出征する教官を寮生は幟旗と太鼓で送った。
この時期、内面的にはヒューマニズムに移行した。それはコペルニクス的転回だった。トルストイ、ロマンロラン、白樺派、和辻哲郎、西田幾多郎などを読み、彼らは人生を考える指導者となった。しかし、実践力は伴わず、校内には反戦ビラやアジ落書きがあったが、依然としてアカは国賊という反左翼思想を持っていた。
学友会費値下げ要求の籠城ストがあり、官憲の弾圧があって、30人が自宅謹慎を命じられ、新学期に学校へ戻れたのは3名だけだった。
<東京帝大時代>
和辻哲郎主任教授は当時45歳。大学は真理を探求する場であって、革命運動をする場ではない、と言った。ここで「カントにおける人格性についての洞察」論文を書いて卒業した。この論文で得た“人間尊厳”論をその後の行動指針となった。
昭和11年2・26事件 翌年12月人民戦線事件という弾圧事件で、文科、労働運動は弾圧され、7月には中国侵略が開始されたのだが、この国家存亡の危機に大学生の大半は象牙の塔に籠もる青白きインテリ、ファシズムへの投降者だった。
<文部省時代>
昭和13年9月、荒木貞夫(陸軍大将)文部大臣の下で教学局思想課所属。教育界における思想統制の総本山であった。学生の答案から左翼教授をあぶりだすのが仕事。翌14年、興亜勤労学生報国隊を組織。目的は国策に協力できる青年指導者の養成のためである。茨城県内原へ集め、軍事教練をさせた後、満州国へ1000人,北支へ500人送り出した。
昭和14年東大経済学部河合栄治郎教授の図書の点検を命じられた。梅本克己が投げ出したもので、「国体の本義」に悖る表現に赤線を引く仕事であった。尊敬する河合先生を告発することは、カント学徒を自認する者として良心が許さず、申し出て仕事を変えてもらった。結局昭和14年9月梅本と二人で辞表を提出した。当時の私たちがなし得たささやかな抵抗だった。
<侵略戦争への参加>
長野県で中学校教師をしていた昭和16年 月28歳のとき、臨時召集で佐倉町の東部64部隊に入隊。ここでの初年兵教育は野蛮きわまるものだった。内務班で鉄拳制裁の連続。これは新兵たちの感情や理性をつぶして命令に従うロボット、戦場での殺人鬼をつくるものであった。
太平洋戦争開始の翌年、新に新設された北支派遣軍第12軍第59師団第52旅団第111大隊に転属。以来13年にわたり山東半島での侵略戦争に参加。
師団は山東省の済南に司令部を置いて山東半島中西部を支配した。当時山東省は石炭、糧秣、塩、綿花に加えて豊富な労働力があり、侵略戦争遂行上の兵站基地であった。三菱、三井、兼松、熊谷組、間組などのために武力によって確保することだった。、この兵站基地の確保に障害となったのが八路軍(国民軍は既に帰順)。わが師団は八路軍とその解放区に対して剿共作戦即ち三光作戦を行った。皆殺し、拷問、強姦、生活基盤の徹底的破壊、戦争犯罪の全てがあった。
<111大隊と自身の犯罪>
私の属した111大隊(1200名)は済南東南方の新泰県に本部を置いた。伍長で機関銃大隊に属し、初年兵教育の助教になった。昭和20年6月2回目の助教のとき、山東半島先端の八路軍を制圧し対米陣地を築くための「秀嶺作戦」に参加。3ヶ月の訓練を終えた初年兵200名を率いて、城陽から目的地までの百数キロ徒歩で行軍することになったが、八路軍の仕掛けた地雷源で地雷探知機は役に立たず、ロバが先ず犠牲になり、さらに強制連行してきた中国人労工を探知機代わりに先頭を歩かせ、数人の犠牲者を出した。日本兵に犠牲者はなかった。
目的地の策格荘に着くと大隊長による「検閲」が行われることになった。通常は射撃と銃剣術なのだが、今回は銃剣術に換えて「実的刺突=生きた人間を刺し殺すこと」だった。捕らえられていた中国人捕虜が4,5人づつ各中隊に分配されることになり、私は4人を受領してきた。畑の中に4本の柱が立てられ、その後ろに深い穴が掘られていた。捕虜たちはそれを見ると「私は農民です、殺さないでください」と訴えた。中に15,6歳の少年がいて“たった一人に母が私を待っている”と泣いて訴えたが、聞き入れなかった。上官(ひいては天皇)の命令を拒否はできない。戦争に非道はつきものだと考えることで責任を免れようとした。
中隊30名を4列縦隊に並ばせ、池田教官の「突っ込め!」の号令で短剣で突っ込ませる。「よし!」の声があるまで突き続ける。それを7,8回繰り返して終わったとき、大きな夕日が辺りを包み、身の毛がよだつ光景だった。
<シベリア抑留―無反省時代>
5年間、強制労働に服す。マイナス42度の屋外労働で感想野菜と燕麦のおかゆ、夜のみは350gの黒パン。シベリア民主運動では密告が横行し、隣の人間が信じられない状況だった。政治部員に抜擢されたが、親友の池田君の密告を強要されて、拒否したため反動分子のレッテルが貼られ、懲罰ラーゲリに入れられた。もう帰国は絶望だと思ったが、「それでよい」という天の声が聞こえた。「それでよい」という天の声が聞こえた。カントの墓碑銘「それをしばしば思えば思うほど、ますます新に、また力強く驚嘆と畏敬の念を持って心を満たすものが二つある。わが上なる(星輝く)空と内なる道徳律である」である。
<撫順戦犯管理所時代>
ハバロフスクから貨物列車で中国へ移管されて6年間。管理所はかつて反満分子を捕らえ、拷問などをしたところだったが、医務室、病室、浴室、理髪室まで整えられていた。周恩来の「戦犯とて人間、人間である以上人格を尊重せよ」の方針に基づき、強制労働はなく管理所職員は一日に2回の高粱飯を食べながら我々には白米を3食食べさせた。反省の契機は工作員の人間性と人道的待遇だった。理論学習―被害者に立場に立つーでは中国革命を理論武装するための「実践論」を読み、“(祖国のを危機に傍観していた)カント哲学は思想の遊戯ではなかったか”と思われた。「持久戦を論ず」ではいわゆる支那事変(抗日戦争)勃発当時書かれたのに、その戦争の推移を完璧に捉えられ、そのような結果になったことに驚嘆。中国共産党軍の高いモラルこそ 革命の原動力。八路軍の守るべき「3つ民主―上級と兵士、軍と民衆、捕虜との民主」に感動し、世界と人間を改造する遠大な理想と、恒久平和への願いを理解した。こうして被害者の立場に立って侵略戦争を理解することができるようになった。
<認罪運動>
各自が過去の犯罪を暴露して罪を認め、反省すること。ところが、大学教育を受けたために、責任は天皇と上級者にあると考え、自分は埒外にあると思っている。被害者の立場に立てば、加害者内の思想の相違は問題ではない、同じく許しがたいものである。「実的刺突」の責任は、自分にあり、そこに私を陥れた大隊長にあり、・・・日本軍隊の総帥天皇にまで及ぶは当然。
中華人民共和国の寛大な裁判によって、最高刑20年(戦後17年をひいて実質3年)で大半は起訴免除即日帰国が許されて43歳で帰国した。中国での16年間のうち最後の6年間は幸せである。帰国後は中帰連を結成して日中友好と反戦活動をして罪の償いをしている。次の世代に我々の二の舞を踏んでもらいたくない。
<まとめ>
侵略戦争は人間を堕落させる。教育基本法「改正」は戦争への突破口、絶対に許してはならない。
<質問に答えて>