CONTENTS
先頭へ戻る

 小泉劇場と称する歯の浮くような選挙が終わりました。政界もマスコミも躍らされる民衆も日本人の甘えの構造の中から一歩も抜け出す事の出来ない無思考・無責任体制を露呈しました。この現実の中で、私どもは立ち止まって平和の道を大道にすべく努力をしていかねばならないのでしょう。

先頭へ戻る

県に1台しかないエックス線の機械

 興隆県モクイ郷の病院にK大学医学部の学生たちと行ったのは第4次の興隆の旅の時ですから、2000年の夏のことになります。僻地の医療の状況を知りたいからと、彼ら8人は、北京や長春などの大病院参観のあと、北京から合流してくれました。
  県の病院は、それなりに設備も整っていましたが、モクイの病院では参観の時、学生たちは院内にレントゲンの機械もないことにすぐに気付いていました。座談会の時、今この病院に一番必要なものはとの学生の問いに、院長はすぐにレントゲンだと答えました。この院長の家は代々医者で、おじいさんは、戦争中伝染病が猛威をふるう人圏の中で村人の診療に当たっていたという人でした。埼玉県ぐらいの大きさの県ですが、19の郷(日本の郡に相当するでしょうか)の病院にはエックス線の機械はなく、山の中から、興隆の町まで、歩いてバスを乗り継いで来なければなりません。けがをしても間に合いません。予防医学どころではありません。
  ここモクイは興隆県の東の端ですが、ここにいい設備が入れば北の大杖子郷、西の大泉水郷、南の龍井関、東の河南大峪等から、病人が来ることができます。
  それで昨年の会報でこのレントゲンの機械を寄贈する提案をしました。

先頭へ戻る

レントゲン購入のための経過

  日本で購入をすると中古で300万円かかることは前に報告しました。輸送費もかかります。現地購入を考えて、唐山、北京、上海で調べてもらいました。結局上海で買うことにしたいと考えています。中間マージンも取られないで、実質いいものを贈るにはこの方法がいいと考えたからです。上海の宋慶齢基金会の協力によります。国際平和婦幼保健院(解放後宋慶齢がつくったベチューンの病院の名をつぐ唯一の病院で、全国の婦幼保健院はここからひろがっていきました。)の院長が、直接製造工場に一緒に行って値引き交渉、輸送、据え付けのサービス等、交渉してくださることになっています。200万円くらいで買えそうです。

先頭へ戻る

モクイ郷病院の改築

  昨年8月、みなさんがモクイの人圏見学に行っている間に郷の病院に行ってみました。70年代初めにできた病院は、あちらこちられんがが崩れていました。早朝人気のない病院の素顔を見てしまいました。戸が開いていたので勝手に中に入ったのですが、帰りの門のところで院長に会って、郷の予算がなくて改築できないでいることなど聞きました。
  今年の6月、興隆に行って昨年赴任された新しい県長さんを尋ねました。手紙で用件を知らせてあったので、話は早かったのです。30代後半の県長は、国から、「僻地の医療を整備せよ」という通達がきたこと、興隆県としては、その第1にモクイの病院の改築に着手したいことを述べられました。
  その竣工を待って、当会からレントゲンを届けることになりました。
  11月、上海の国際婦幼保健院の院長と一緒にレントゲン購入、据え付けについて工場関係者と話し合いを持ちます。

先頭へ戻る

当会の支援で建った建物

 興隆県は戦争中無人区にされ、河北でも一番三光の酷かったところです。 南から順に植林を行っても、資金の関係で北の山までは達せず、雨季には鉄砲水や洪水に悩まされています。この10年間の当会の支援で、建設できた学校は次の通りです。

小学校

石仏、高杖子、劉杖子、営南峪、茅山、西三岔口

中学校

モクイ(寄宿舎・炊事場・ボイラー室・600人のベッド等)、大水泉(校舎)、大杖子(校舎)、劉塞子(女生徒宿舎)、ツ子峪(理科棟)

大田こどもとしょかん 4階建て。(蔵書100万円分)

 改築しなければならない旧校舎はまだあります。あとは自力でがんばりますと県の教育委員会は言っています。それで当会の興隆県への経済支援の最後をモクイの病院へのレントゲン寄贈にすることにしたことは前回報告した通りです。

先頭へ戻る

現代日本のナショナリズムと靖国問題

 第8回平和教育研究交流会議は6月4日、5日、九段の日本教育会館で開かれました。
  Yさん(H大学)の講演「現代日本のナショナリズムと靖国問題」は、小泉首相の靖国神社参拝問題がアジア各地の猛烈な反発を巻き起こし、また、扶桑社の教科書採択が切迫していた時期だけに、実にタイムリーでした。
  Yさんは、靖国神社の基本的で本質的な性格を確認した上で、戦後の靖国神社が果たしてきた歴史的な推移をわかりやすく説明して下さり、更に靖国神社が抱えている諸矛盾を見事に暴き出してくれました。そして、現在の中国・韓国をはじめとする対日批判と日本の若者の中に生まれてきている微妙な反中国感情とが危険な「ナショナリズム・スパイラル」に陥る可能性を危惧されていました。「靖国問題」について今何より必要なことは、戦前の靖国神社が果たしてきた事実を正確に知ることと同時に、戦後の靖国神社の危険な役割をしっかり認識し、若者たちに語っていくことの重要性を強調されていました。

  講演で学んだ直後、靖国神社へフィールドワークがおこなわれました。
  巨大な大鳥居に威圧感を覚えながら、Yさんの丁寧な説明を聞きながら境内を進みました。講演の中でも触れられていたが、戦後GHQによってコンクリートで塗り固められ、57年に復元されたという大灯籠を取り巻くレリーフは印象的でした。
  このフィールドワークのメインは戦争博物館「遊就館」見学でした。零戦や各種火器が展示されており、自慢気な展示解説書とは裏腹にどれも気持ちの悪いものでした。ぼくがぎょっとしたのは思いの外巨大な「人間魚雷」でした。こんな無謀な武器を誰が開発し、どんな気持ちで若い兵士たちを閉じこめて「自爆攻撃」をさせたのか、真っ暗な「回天」と名付けられたその特攻機の不気味さに、よくもこんなものを平気で(むしろ自慢気に)展示できるものだと、その無神経さに驚きました。何よりもあきれたのは、無骨な潜水服を着用して海底から敵船舶に近づき、竹竿先に取り付けた爆薬を船底に突き当てて爆破するという等身大の模型でした。Yさんの説明だと、潜水服が重くて海底で転ぶと自力では起き上がれず、そのまま死亡する例が多かったとのこと。こんな情けない装備で「特別攻撃」させられた兵士を「英霊」として祭り上げている「靖国」の神経を疑いたくなりました。また、合祀するために招魂祭りが行われるそうですが、それは戦死者を記した名簿を奉安殿に運び入れる「おはぐるま」という「おみこし」のようなものが展示されていました。おもしろいのは、その説明文に、魂を無事に運び込んだ後、帰りの「おはぐるま」はぐんと軽くなるそうだと書いてありました。Yさんは「ほんとかいな?」と言って解説していました。
  実際に靖国神社を見て回りながら、天皇崇拝、一連の日本の戦争全体に対する無条件の賛美のオンパレードに辟易しながらも、そこに若者を含む大勢の参観者が無邪気に訪れていることに一抹の不安を覚えました。改めて、昨今の危険な政治状況と社会の不穏な空気に対して、十分な警戒と、そして教育現場の踏ん張りが必要だなあと、Yさんの講演内容を反芻しています。(埼玉県T)

先頭へ戻る

克服しえるか学徒兵の戦争責任

 2日目このテーマでお話しくださったのは、Wさんでした。
  Wさんは、1934年学徒出陣、しばられた捕虜(といっても、その辺でつかまった農民かもしれません。)を順に銃剣で突き刺すのです。Wさんはどうしてもできません。Wさんは刺突を拒否しました。それ以来Wさんは、軍隊の中で、差別とリンチを受け続けてきたのです。Wさんはその経験を非常に具体的に客観的に聞くものが体感できるように話してくださいました。「獣になるな、生きて帰れ」と諭してくださったのはお父さんでした。

※生き延びよ獣にならず生きて帰れこの酷きこと言い伝うべく

※反戦をいのちのかぎり闘わんこころを述ぶる父の面しずか

  歌は小さな紙に書いてズボンに縫い込んで持ち帰ったと言います。戦争中お父さんは特高警察に捕まり、獄中で暮らされたそうです。無協会のキリスト者でいらっしゃいました。

先頭へ戻る

ひとりひとりが、自分のおかれた場でノーを言わなけらばならない時代になりました。 お大事にお過ごしください。