子どもと女性の権利擁護のためのデスク Protection of the Human Rights of Women and Children Desk

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St.Luke Insitute Home Page より translated by Naoko Ichikawa 市川直子翻訳
ノート

17.ガラクタを片付ける − 長期休暇を振り返って −
16.それぞれの人に適した治療を
15.霊性と回復
14. 回復を妨げるもの 
13.チームワークで人を説得するには
12, 合意の上の不倫
11.退院者の復帰をどう受けとめるか
10.叙階から5年以内に起こる問題 
9.乱用されやすい処方薬トップ10
8..現状維持では何も変わらない
7.神経心理学とアルコール依存症
6.「ある忌まわしいクリスマス物語」
5.時は問題を解決してくれない」
4.「あわれみは賜物」
3.抑うつに対する治療が十分に行われていない現状について」
2.「心理検査報告書の取り扱いについて」
1.「退職の辞」
0.マラソンから学んだこと

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17.ガラクタを片付ける − 長期休暇を振り返って −
Vol. IV No.1 2000年1/2月号
キャロル・ファージング博士(セントルーク臨床部長)

セントルークに務めて10年になるが、この職場には評価すべき点がたくさんあるとつくづく思う。中でも長期休暇制度という賢明な方針は、群を抜いている。臨床スタッフは、5年務めれば3カ月の休暇を申請できることになっており、その時間を勉強や自己成長、職能開発、霊的刷新に当てることができる。最近、私は長期休暇を終えて職場に復帰した。おかげで、2週間程度の休暇では決してできない、深いリフレッシュができたと感じている。

このリフレッシュの時間は非常にプライベートなものなので、過ごし方は人それぞれだが、休暇という旅がどのようなものになるかは、ある程度、船出までに決まるといってよい。私の場合、しばらく仕事から離れる必要があると感じたきっかけは、心理学や精神療法のワークショップに対する自分のいつもの情熱に、かげりが見えたことだった。燃え尽きるところまでは行っていなかったが、その初期段階にはあった。その時ははっきりした言葉にできなかったが、いわば入ってくる情報をこれ以上処理できそうもないといった状態だったのだ。それだけでなく、自分の霊的生活にもっと時間をさくべきだとも感じていた。つまり、神との関係を大切する時間を持ちたいと思っていたのである。あらかじめそう考えていたわけではないが、私は自分の長期休暇のテーマを「今という瞬間が与えてくれるものを受け取る心の余裕を持つ」こととし、休暇中は「ちらかったガラクタを片付けること」を課題にしようと決めた。

私は休暇の計画に、健康管理に関するワークショップや霊的同伴、黙想のほか、読書と瞑想、それから単に「ここに居ること」を入れた。時にはバランスやセルフケアを損ねるほどの「行為的存在」に自分を追い込むことなしに、思いやりのある有能な専門家になるのは容易なことではない。あるとき、私は車のダッシュボードにある小物入れを整理していて、使っていないバンパーステッカーを発見した。もらいもので、"Just be nice."(「人に優しく」)というキャッチフレーズが印刷してあった。そこで私は"nice"の部分を破って、残りの"Just be"(「ただ存在しよう」)という言葉をバンパーに貼り付けた。そして、自分の身に起こる出来事に対して、注意を払い、かつ心を開いていようと決めた。また、カレン・キングストンの『ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門』(小学館文庫)という本が目に留まった。

風水というのは、自分の外にある現実と内にある現実の両方を扱う古代東洋の学問である。外にある現実でいえば、家具や物を部屋のどこに置くかによって、調和や平和の感覚が生まれたり、逆に物事に圧倒されたり、さらにはがんじがらめになっているような息苦しい感じさえ生じることがある。自分の机の上や仕事をする空間がきれいでキチンとしているときの自分の感じ方と、机の上がファイルや未回答のレター、予定を書いたメモの山に覆われて、今にも崩れんばかりになっているときの感じ方との違いを比べてみてほしい。

風水では、持ち物や物の中身をバランスよく整理することが大切だといわれているが、これは物質的な世界だけでなく、感情や霊的なレベルの問題にも当てはまるのではないだろうか。あの、高名な霊的指導者のもとを訪れたうぬぼれの強い学者の逸話(訳注*)が思い出される。指導者はお茶を入れてもてなそうとするが、茶碗が一杯になっても注ぐのを止めようとしない。お茶がこぼれ、テーブルの上が水浸しになる。学者は「茶碗があふれています」と叫ぶ。すると指導者は答える。「この茶碗のように、あなた自身が知識や考えで一杯で、新しいことを学ぶ余裕をなくしておられる。空になったら、またおいでなさい」。考えてみれば、わたしたちがセラピーでしていることの多くは、クライアントの「ガラクタを捨てる」作業の手伝いである。そのガラクタは、未解決の過去の苦しみであったり、今ではあまり意味のない古い信念であったり、かつては必要、あるいは有用だったにせよ今では機能しない習癖であったりする。こうしてみると、セラピーの目標は、もはや有用でなくなったものを捨て、今現在を自由に、豊かに生きるための空間を作ることだといえる。

長期休暇も同じ機会を与えてくれる。考え方や行動パターンを見直し、あらためて今現在の生き方に組み入れるべきものを吟味するのである。10年ほど仕事に追われる生活をしてきた私にとっては、「いまこの瞬間」というものがある、いうことに気づくまで自分のペースを落とすことが第一だった。私の休暇の目標はその後、過去数十年にわたって自分が積み上げてきたものの中から、必要なものを選び出すことへと発展した。そこには、持ち物だけでなく考え方や行動パターンも含まれていた。

私の休暇の「ガラクタ整理」では、一番大切な部分に、肯定的な意識だけでなく、否定的な、特に罪悪感や憤りという否定的な意識の棚卸しが含まれていた。また私は、たとえば自然の中で過ごすといった、自分がたびたび無視してきた自分のニーズや望みに前より自覚的になった。また、長期休暇は非常にプライベートなものだが、だからといって、人から離れて過ごす必要はないし、周囲の支援があった方がより実りがあるのが常である。私は、霊的同伴者やカウンセラー、あるいは親友といった信頼している人を少なくとも一人選んで、サポートを頼むことを強くお勧めする。

いらなくなったものを手放すには、まず、これまで自分がしがみついてきたものを具体的にリストアップすることである。ガラクタ整理は非常に具体的で実際的なものたが、霊的な意味を持つことが多い。将来必要になるのではないかという恐れから物に執着しているのは、必要なものを与えてくださる神を信頼していないということでもある。新約聖書に登場する人々が、その場で自分の持ち物をすべて捨ててキリストに従ったことを思い出してほしい。キリストが今日私の家に立ち寄られたとしたら、自分のLPレコードや古いノートの埃を払ったりしている場合だろうか。自分は、大昔の怒りに心を奪われて、恵みあふれる今この瞬間を味わえるせっかくの機会を逃してはいないだろうか。

私は休暇が終わるまでに自分のガラクタを一掃したいと思っていたが、もちろん、それが達成できたわけではない。机の上は相変わらずファイルに覆われ、私は再び仕事に追われている。しかし、休暇を終えた今では、健全な自己認識に、はっきりとはとらえにくいが決定的な違いがあるように思える。以前に比べて、単なる習慣から無意識に動くことが少なくなり、自分がペースを落とし、深呼吸をして現在に戻るべき時に、そのことに気づきやすくなっている。そしてこの変化によってもたらされた効果は、計り知れない。

(訳注*:禅について教えを請う学者に初心に返ることを諭した明治時代の禅僧、南隠の逸話を指していると思われる。)


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16. それぞれの人に適した治療を Vol. III No. 5 1999年11/12月号
ステファン・J・ロセッティ(司祭・学術博士・司牧学博士。セントルーク・インスティテュート院長・CEO(本稿執筆当時))

入院治療を利用しない場合
精神的・霊的な支援を求める司祭や修道者のために、カトリックの上長はさまざまな専門家や専門機関への紹介を行う。適切な情報提供に不可欠なのは、本人がどのような問題に直面しているのか、また各々の問題に対処するにあたってどの機関が利用でき、当人に適しているかにかんする上長の適切な初期判断である。

たとえば、同意の上で特定の成人と性関係をもってしまった司祭に紹介すべき先は、不特定多数と性関係をもった司祭とは、おそらく違ったものになるだろう。同様に、軽い抑うつをかかえている修道女に必要な支援と、自殺を考えるほど深刻なうつ状態の人に必要な支援では、内容が異なってくる。ましてや、修道生活をやめようかと悩んでいる修道者が見せる反応が、恒常的に人間関係の機能不全を起こし、行く先々の共同体で騒ぎを起こしている人と同じはずはない。こういった人たちの中には、外来の心理療法に紹介すべき人もいるし、長期休暇で良くなる人もいるかもしれない。また、霊的同伴者との黙想が役に立つ人もいるかもしれないが、入院施設で治療を受けるのが最善の選択という人もいるだろう。

専門家への紹介を難しいものにしているのは、上長が各人の問題の本質をなかなか把握しきれないところにある。根っこにある問題が、えてして複雑で理解しにくく、外から見えづらいからである。その際、何らかの医学的な実習や経験のある上長は有利であるが、医学的な知識や経験のない人には、クリニカル・コンサルタントの利用が役立つことが多い。この種の専門家は、問題の扱い方や、どのような専門家や機関を頼ればよいかについて、初歩的なアドバイスをしてくれる。万一、問題が複雑できわめて深刻だということになれば、入院施設で十分なアセスメントを受けるよう指示される場合もある。

入院治療を検討する場合は、次のような点が目安になろう。

*現状、その司祭または修道者は職務を果たせているか。
仕事に支障をきたしているなら、本人にとっても、本人が聖職者としてかかわっている人たちにとっても、入院治療のような、問題解決に集中できる安全な場所を見つけることが大切である。仕事ぶりに問題がなく、問題がそれほど深刻でない場合は、職場を離れず、地元で受けられる支援を探すのがいちばんかもしれない。

*外来治療で治る可能性は高いか?過去の実績はどうか?
一般に、個人の外来治療は、中程度のうつや不安障害、対人葛藤といった、さまざまな種類の問題に適している。しかし、進行中の依存症の人や、問題を強く否認している人、あるいは多岐にわたる複雑な問題をかかえる人の場合、個人の外来治療では、それほど効果は見込めない。よく見られるのは、司祭や修道者がたびたび外来治療を受けたものの、うまく行かずにカトリックの入院治療を紹介されるケースである。

*スキャンダルになる可能性があるか?破壊的な行動に出る可能性はないか?
司祭や修道者は公人であり、司牧者として大勢の人々に直接かかわっている。したがって、万一、ドラッグやアルコールへの依存、衝動的な性行動、衝動的なギャンブルや浪費といった破壊的な行動に出るようなことがあれば、本人だけでなく、ほかの人々にとっての潜在的な危険も無視できない。このようなときは、かれらが現在おかれている状況や配属先から直ちに引き離して入院させることが、医学的に有効であるだけでなく、司牧上の観点からも避けられない。

上長は、それぞれの専門機関の質と妥当性を吟味し、支援を必要としている個々人に合った紹介先を捜し出さなければならない。したがって、上長には広範囲にわたる選択肢を吟味する必要性が出てくる。また上長にとって特に気になるのが、カトリックの霊性という側面である。いつの間にか召命が損なわれてしまうとか、不適切な行動が助長されるようなことは避けたい。信頼できる専門機関のリストを作っておくことが先決である。

カトリックの入院施設は、数ヶ月にわたる徹底した治療プログラムを提供しており、多岐にわたる個人/グループ、言語/非言語によるセラピーを行っている。こうした施設の大きな強みは、本人を積極的に刺激し、協力を惜しまない共同体がつねに存在することである。共同体的な環境で頻繁にグループセラピーが受けられるというのは、それまで孤立していた人や、対人スキルをみがく必要のある人にとっては、願ってもないことである。そして何よりも重要な点は、その種の施設はカトリックの価値観を全面的に尊重しており、それにもとづいた見識ある充実した内容の霊性プログラムを提供できるということである。教会は、癒しの恵みにあずかるための多くのすばらしい方法を与えてくれる。治療の必要な司祭や修道者のために総合的な支援を考えるなら、つねにその癒しの機会を遠慮なく利用すべきだろう。心理療法の長所とカトリック的な癒しの霊性とを組み合わせれば、強力な治療法になる。

カトリック系の機関が提供する入院治療が必ずしも適切な紹介先であるとは限らない。しかし、その人に適している限り、そうした機関は命と召命を守る恵みになりうる。


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15.霊性と回復 Vol. III No. 4 1999年9/10月号


マイケル・フォンセカ(医療助手、全米認定カウンセラー、認定プライバシーコンサルタント。セントルークで霊性養成コーディネーターを勤める。)

心にわだかまりや曇りのない人は、自分といても、他者といても、神といても、くつろいでいられる。この心の澄んだ、解放された状態を「本物の自分」またいは「統合された自己」といいかえてもよい。セントルークにやってくる人にとっての回復への旅は、心の曇りを晴らしていく旅とみることもできる。そしてこの旅は、霊的なものであると同時に、心理的なものでもある。
霊的生活の難題は、自己とも、他者とも、神とも親密な関係をきずきあげることだが、真の霊性をかんがえる上で忘れてならないのは、自分自身と深く交わることなしに、神と真に交わることはできないということである。また、人から感化されたり、意見されたりする経験を遮断していては、神や自分に心を開くことはできない。真の霊性をはぐくむには、自分の過去、家系、性格上の特徴や限界を受け入れ、自己・他者・神への回帰に少しでも近づけるような行動変容をおこす必要がある。すなわち、自分や人にたいして抱いているさまざまな怒りに目を向け、すすんでそれらを手放すことである。
内に隠した秘密と親しくなるにつれ、真の神との出会いの場は、忘我の幸福より前に、まず苦しみであるということが、次第に分かってくる。自分の恥ずべき秘密を、少なくとも数人の、自分にとって重要な人たちに打ち明けて手放すことは、霊操の基本のひとつであるが、それをしなければ、わたしたちの神との関係は、ぱちぱちと燃えあがると消えてしまう線香花火のようなものに終わる。そう考えると、教会がこれまで何世紀にもわたり、罪の告白という習慣を、和解の秘蹟という形で、また感謝の祭儀の中で守りつづけてきたのは、驚くべきことではない。また、12ステップとして長く受け継がれてきた原理も同様に、神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認め(第5ステップ)、それを回復の土台としてきた。

秘密が生むみせかけの霊性
秘密を持つのは、心の曇りを晴らすのとは正反対のありかたである。秘密は自分が作ったものであれ、人から打ち明けられたものであれ、わたしたちの心を苦しめるが、それは恐れや恥の気持ちが生じるからだけでなく、思考や行動に、うそや否認のような防衛機制がはたらくようになるからである。秘密は「自分にくつろぐ能力」を破壊し、他者や神との有意義な関係をだいなしにしてしまう。
人はどのようにして秘密をもつのだろうか。まず、秘密は家系に由来する場合がある。問題が世代を越えて受け継がれる、アルコールなどの依存がその例である。また、有害な行為がもたらした結果が秘密になることもある。自分の苦痛や孤独感、怒りを和らげるためにしてしまった行為が罪悪感や羞恥心を生み、それがさらなる有害行為をあおり、自己評価の低下と有害行動という悪循環におちいるケースである。秘密の核には、羞恥心と恐れがある。羞恥心は、自分があるべき人間ではない、「欠陥品」にちがいないという思いから生まれる。羞恥心には恐れがつきものだが、それは誰かが自分の秘密をあばき、悲惨な結果を招く危険といつも隣り合わせだからである。
秘蹟の執行者である司祭が、秘密という「悪魔」を背負っていれば、その霊性はおそらく、典礼その他の儀式を「演じる」ことによって本質的に成り立っているとみてよい。祭壇はステージに、感謝の祭儀はひとつの演目になり、自分は主役として注目の対象である。神と信者は、自分にとってつねに奉仕の対象であり、個人的な関係は必要がない。
「神にたいして、わたしは小教区の仕事を通じて一日の多くの時間をささげる部下のような立場だ」ある奉仕者がかつてこのようなことばを口にした。かれの頭には、私的な時間を神にささげなければという意識は少しもなく、自分の時間をたいがいは自己敗北的な行動に費やしていた。このような奉仕者は、神と一対一で、じっくりと真剣に向き合う時間をわざわざ持とうとはしない。中には、自分の公的なイメージと、隠された、秘密の生活とが一致しない人々もいる。彼らは混乱や罪悪感をかかえながら生きている。無力感と絶望にとらわれたまま、言い訳、否認、うそでその場その場をしのいでいる。

真の霊性に向かう
それでは、嗜癖行動や自己敗北的な行動をしている奉仕者が、私生活や奉仕職のなかで、真正性と本物の喜びの高みにまで達することは可能だろうか。過去の依存症者たちはどうだっただろうか。恥ずべき秘密をもった生き方から裏表のない素直な生き方へ、恐れや強迫反すう症から今この瞬間の安らぎへ、目をそらすことから向き合うことへ、孤立から交わりへ、操作やごまかしから自己放棄や無防備の正直さへと、変わることができただろうか。実際には、多くの人たちがそのような変化をなしとげてきた。その一方で、たどったプロセスは人それぞれであり、しかも人の助けが必要だった。変化は、巡礼の道をともにあゆむ仲間からの支援や刺激なしにはありえなかったし、その援助は、そのような仲間にしかできない、ほかの誰にもできないものだった。
真正な霊性のかなめには、いつも心という家をきれいにしておく必要性がある。じゅうたんの下にほこりを掃きこむのでは何にもならない。心の家をきれいにしている人は、ほこりはつねに出るものだから、掃除を日課にしなければいけないということが分かっている。健全な人ならば、死ぬまで取り組みつづけるべき性格的な欠点が自分にあることを納得し、受け入れているものだが、それと同時に、心の掃除が自分の責任である一方で、自分だけの力ではできないものだということを、徐々に認識するようになる。すなわち、わたしたちを神の似姿という原像に戻すことができるのは神だけだということが分かってくる。神はもはや、遠い、人をとがめる存在でもなければ、無能な存在でも、不必要なものでもない。いまや非常に個人的な原動力が神とのあいだに打ち立てられ、それによって自己放棄と信頼、素直さと正直さ、やがては一致にいたる真の交わりに導かれる。この親密さのみなもとは、神の愛と存在をわたしたちの心の闇や罪の奥底で味わうことにある。わたしたちに必要なのは、わたしたちを日々愛し、受け入れてくださる神の姿を信じると同時に、自分がつねに神の目の前にさらけ出されていると信じることである。説明責任のない受容は、浅薄さと自己満足を生む。詩篇139・23-24にはこの繊細な調和が表現されている。「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください」。
神は次第に圧倒的な存在になってゆき、その前でわたしたちの生活は、隅々まで裸になり、正しい決定にゆだねられる。生き方の基準は、したいことよりも、する必要のあることに、より重点がおかれる。自分のためにしたいことではなく、すべきことは何かが、自分の行動を決める。この神とのパートナーシップは、その人の人生や人間関係のあらゆる側面に波及する。このプロセスにこそ、自己・他者・神への永続的な回帰がある。


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14.回復を妨げるもの Vol. III No. 3 1999年5/6月号
ステファン・モンタナ博士(セントルーク・インスティテュート診療部長)

ひとりの男が屋根の上に座っていた。洪水にみまわれ、あたり一面は水の底に沈んでいる。男は神に助けを求めた。すると、空を見上げる彼の目に映ったのは、はしごを下ろしながら近づいてくる一台のヘリコプター。パイロットが「さあ昇れ!」と叫ぶ。しかし、男はいいはった。「いやだ。神様の助けを待つんだ」。そこへ不意にボートが近づいてきた。漕ぎ手はいった。「さあ、頼むから乗ってくれ」。しかし「いやだ。神様の助けを待つんだ」と、男はゆずらなかった。そうしておぼれ死んだ後で、男は神に詰め寄った。「あぶない目にあっている私をご覧になっていたのに、あなたは何もしてくださらなかった」。神は答えた。「何もしなかっただって?最初に送ってやったのはヘリコプター、その次はボート・・・」。
クライアントの一部に回復しない人がいるのはなぜだろうか。やっかいな症状をかかえて心理療法にやってくるのに、このおぼれてしまった男性のように、効果的な治療になりうる救いの手がさしのべられているのに、自己敗北的なふるまいに固執しているように見えるクライアントが少なくない。
わたしたちがこの問題を研究したところ、驚いたことに、回復に向かう行動変容と自己敗北的なふるまいの起きる割合は、五分五分であることがわかった。
不適応行動とされるパターンの多くは、困難な状況に対する幼児期の適応反応から作られていく。たとえば、子どもが父親から、部屋を片付けないなら後でどやしつけるぞ、と脅されたとする。その子がしそうなことは、a)部屋を片付ける、b)不安を覚える、c)父親の脅しを心の中で恨む、の三つである。そして、このパターンが繰り返されると、成長するにつれ、心細くて人の言いなりになる人格ができあがる。権威を恐れ、他人の要求を必死で先回りして満たそうとするタイプである。成人すると、おそろしく従順で、心配性で、感情の過度に統制された人になるおそれがある。また、このタイプの人にありがちな問題として、やけ酒などの行動表出があるが、これは長期にわたる過剰な統制で抑えられていた感情が、あるとき「激発」して起こる。
この人が仮に、無節制な飲酒で周囲の人間関係を台無しにしたあげく、心理療法にやってきたとする。これまで50年ものあいだ、権威に従うことで自分の不安を処理してきた男が、治療プログラムを成功させるには何をすべきかを説くセラピストにどんな態度をとるか、考えてみてほしい。おそらく、これまでと同じ処し方で、治療にも応じようとするにちがいない。セラピストの期待にいちいち忠実にこたえ、完ぺきな患者になろうと努力するだろう。
そして、この禁欲的な行動や従順な態度を、担当セラピストが本当の節制や真の回心だとうっかり思い込んでしまうと、男性の行動はすばらしい進歩だと評され、その努力は「報われる」。すると、心理療法のせいで、ますます効果の目覚ましい、いっそう治療にまじめに取り組む、過度に従順なクライアントが作られ、本人がそもそも治療を急ぐきっかけになった問題に将来ふたたび悩まされる危険性を高めてしまうことになる。
さて、ある男性が精神科医のところに弟を連れてやって来た。「先生、弟は頭がおかしくて、自分を犬だと思っているんです」。このやりとりの最中にも、弟はほえたり、うなったりしている。「これは深刻ですね」と医師はいい、弟に向かって指示した。「では診察台に寝てください」。すると兄がいった。「それはできませんよ、先生。ベッドには乗らないようしつけていますから」。
このように、クライアントが入院治療中にどうにか行動パターンを変えることができたとしても、今度は、その新しい行動に対する周囲からの強力な、場合によっては無意識の抵抗に立ち向かわなければならない。こうした抵抗は、以前の問題行動の再発を誘う。弟への支援を求める一方で弟を診察台に上らせない上記の男性のように、行動変容に対する人々の感情は複雑である。この問題は、人間とお菓子の自動販売機との複雑な相互作用に当てはめてみるとよくわかる。
通常、わたしたち人間とお菓子の自動販売機との相互作用は、コインを入れ、レバーを引くとお菓子が出てくるという、互いに報われる関係である。しかし、この通常の手続きが変化すると、重大なことが起こる。たとえば、わたしたちがコインを機械に入れ、レバーを引いてもお菓子が出てこなくなったとする。機械が行動パターンを変えたのだ。この機械の「行動変容」に対するわたしたちのきわめて人間らしい反応は、レバーをさらに強く速く引き、もうお菓子は出てこないのだと納得するまで、その動作をし続けることだろう。
ここに、人の行動にかんする重要な事実がうかがえる。すなわち、機械のレバーを引く、という過去に報いのあった行動は、実際には報われなくなってからも、しばらくは回数が減らずに、むしろ増えるということだ。「彼は気が利くから当てにしていたんだ」とか、「あいつは酔っているときの方が面白かったじゃないか!」というように、周囲の人々がクライアントの以前の行動を自分たちに報いがあったと考えていた場合、その人たちは当人の行動が変化すると、引き金をより強く速く引こうとする。利益の大きかった過去の行動を何とかして引き出そうとするからだ。
このように、クライアントがしなければならないことは、第一に、がんこな、長年守ってきた病的な性格のスタイルを変えることであり、その次には、昔の行動様式に逆戻りしないよう、治療後に付き合う人々からの意識的または無意識の誘いに動じないことである。この二つは至難の技である。そう考えると、実に多くのクライアントが、健全で永続的な行動変容を見事に果たしているのは、実に驚くべきことだ。
さて最後に、ニワトリ男を紹介しよう。一日中コッコッコッと鳴いたりして、ニワトリの真似をして生きている。「どうしてやめないんだ?」友人にきかれた男は答えた。「やめられないのさ。家族が卵を欲しがるんでね」。


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13.チームワークで人を説得するには  Vol. III No.2 1999年3月・4月号
リン・M・レヴォ博士(カロンデットの聖ヨセフ修道会会員。セントルークの女性向け事業担当部長として専門的なアドバイスやワークショップを行いながら、米国内外の奉仕職にある女性の健康と生活の向上を図っている。)

修道会や教区の上長のところには、ある人物に対して同居人や同僚がしにくいことを代わりにしてほしいという依頼が年中寄せられる。つまり、誰かがしている不適切で、ややもすると危険な、あるいは周囲に害を及ぼすような行為について、本人と直接会って話をしてもらいたい、という依頼である。たとえば、管区顧問の一人が、地元の共同体から特定の人物に関する厄介な話を持ち込まれ、状況の改善に協力を求められる。当の共同体がすでに匙を投げてしまったか、初めからお手上げの案件である。このような問題に効果的な介入を行い、かつ本人のためになる対処をするには、上長の立場にある人たちが、人の動かし方に関するこれまでの姿勢や考え方を少し見直し、さらには効果的な説得の段取りを考え、それをやり通すための能力やテクニックを新たに身につける必要があるのではないか。
上長の立場にある女性修道者にとって最も難しい仕事のひとつは、自分自身や周囲に対して害や危険を及ぼしている困ったシスターに、正面から物をいうことである。女性修道者がこのような状況を苦手とする理由は、全般に、過去につちかってきた組織運営のスタイルが協働的で、権威や強制によらない人の管理を特徴としてきたからである。したがって、女性上長にとっての課題は、人を説得する仕事にチームワークを発揮するにはどうすればよいかを正しく認識することである。つまり、メンバーどうしが状況認識や対応方針について意見交換をしながら、相手に働きかけて考えや行動を変えさせるところに目標を定め、同時にチームとして協力しあう態勢をくずさない方法を知っておく、ということである。

次に挙げるのは、より「チームワークを生かした説得の段取り」を考え、それを最後まで進めるためのポイントである。

1. 問題を抱えている人と面談する前に、十分な準備とリハーサルをしておく。心の準備をし、他のメンバーとよく話し合っておけば、本番ではっきりした率直な態度を取ることができる。

2. 本人が抵抗したり過剰な自己防衛をするかもしれないことを覚悟しておく。こちらは他人の人生に踏み込んでいるのであり、相手にしてみれば、その場にこちらがいること自体が、自分にどこか悪いところがあって改善が求められているという、明らかなサインであることを忘れずに。

3. 自分自身の感情に気づき、理解し、受け入れること。面談中に自分の感情に寄り添うことによって、より客観的でいることができ、相手に意識を集中していられる。そのため、場合によっては、膝を突き合わせた状態を一時的に中断する必要もあるだろう。

4. 面談には十分な時間を予定しておく。この種の説得をする場合には、相当な時間をかける心積もりが必要である。また、途中に休憩時間を設けておくのも良い。休憩時間が組み込まれていると、一人ひとりが落ち着いて面談の進捗を把握し、代替案を考える余裕ができる。それだけでなく、席を離れる時間があれば、出席者が気まずい思いをせずに自分の考えを修正できる。逆に、顔を合わせたままでいると、どうしても自分の立場を弁護し、強気の姿勢を貫こうとしてしまうものである。

5. 話しの内容に劣らず重要なのが話し方である。以下のように相手に協力的な姿勢を示すことが大切である。

* 相手の立場に立って考える。できる限り相手の真意や気持ちをくみ取るよう努める。たとえば、診断にかかる費用も忘れてはならないが、同じように、診断を受けることや、未知の状況に対して本人が抱く不安についても配慮が必要である。

* 誠実な態度を取る。自分を偽らず、自分のことば、表情、口調、しぐさ、感情を一致させること。

* 礼を尽くす。相手を人として尊重しているということを、態度と受け答えのし方で示すこと。具体的には、傾聴する、適切な思いやりを見せる、価値判断を加えず、事実をありのままに伝えるような話し方をする、一方通行でなく、対話になるようにする。

* ざっくばらんな正直な態度で意思の疎通を図る。真意をことばにして相手に伝えながら説得する。無理強いをしないこと。

* 相手がそのプロセスと意思決定に積極的に参加するよう促す。状況に応じて相手から協力とアドバイスを求め、それが今後の成り行きや意思決定にどれほど大きく影響するかを、必ずことばにして伝える。

6. 考えられる選択肢とその結果生まれる状況を詳しく説明し、相手に選択の自由を与える。ただし、その着地点となる状況は、上長グループが好意的に評価できる現実的なものであることが絶対条件である。中には転居や、車の運転を止めるといった、本人にとって望ましくないものが含まれるかもしれないが、いずれにせよ考えられる将来図を効果的に利用する方が、脅しをかけるよりも説得しやすい。診断を受けに行くよう誘導するとすれば、選択肢としてここで示すのもよいだろう。また、選択肢とその結果について本人に考えてもらうことは、健全な生活や回復のために自分で努力し責任を取るよう促すことにもなる。

7. この種の説得に関わるさまざま部分で、それぞれ力になってくれそうな人に助けを求める。本人や状況を知っている人に相談したり、提示する選択肢を具体的に考えるにあたって専門家の支援を求めた方がよい場合もあるだろう。


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合意の上の不倫  Vol. III No. 1 1999年1・2月

クィン・R・コナーズ博士
(履足カルメル修道会会員。セントルークの最高業務執行責任者であり、診療チームのメンバーでもある。)

次の三つの発言はフィクションである。
「いずれにしたって、20代といえば立派な大人だ。気軽な関係だったし、教区の人じゃない。それに、束縛のない関係だということは彼女も承知の上だったよ」(ポール神父)。
「出会いはバーだった。私が神父だということは、彼も知っていたさ。何の隠し立てもしなかったからね。それに短い付き合いでいいといわれたんだ。未成年でもなかった。いったい何をいわせたいんだね」(バート神父)。
「結局は二人とも修道会に入ったんですよ。出会いはサマースクールでした。二人とも次の課題に苦労していたところで、共通の話題がたくさんあったんです。お互いに言葉をかわすようになって、自然に親しくなりました。そうしていつの間にか性的な関係になっていました。でも二人とも大人でしたし、合意の上のことでしたよ」(シスター・プリシラ)。

ここにあらわれている思考パターンは、大人どうしが合意の上で交際し、肉体関係にいたるときの考え方そのものである。つまり、二人とも成人に達していて互いが性交渉に同意しているかぎり、関係は合法だというものである。この考え方の背景には何があるのだろうか。どこが問題なのだろうか。
この種の人々は、自分の性関係が司牧上の関係から生じたものではないことを懸命に示そうとする。彼らの理屈はこうだ。相手が教区民や学生、自分のカウンセリングや霊的同伴を受けている人でないかぎりは問題にならない。しかし、教区の信者やクライアントと性的な関係になるのは、教会で公的な奉仕者として働く聖職者や修道者に与えられた、しかるべき地位にある者としての責任を、道徳的、倫理的に、場合によっては法的に侵害するものだ。それは明白な虐待関係だ、というのである。また、教区や修道会が策定した性的逸脱行為のガイドラインを盾に、自分のとった大人どうしの合意による行動はそれに該当しないと主張する人もいる。
しかしながら、成人どうしの合意にもとづく性関係を正当化しようとする聖職者や修道者には、認識として欠けている重要な点が二つあり、どちらも彼らの自己弁護とは相容れないものである。第一に、この考え方は、司祭や修道者として立てた道徳的・倫理的誓約を無視している。教会は道徳上、婚外の性関係は許されないと教えており、この教えは明確で一義的であるから、誓願を立てた修道者や叙階した司祭として肉体関係をもつということになれば、その道徳的意味合いは重大である。
また、倫理的な角度から考えれば、修道者の誓願や司祭が行う独身の誓約は公的な誓約であり、そこには私生活と公人としての生活は完全に分離したものではないことが表明されている。さらに、独身制におけるひとつの明確かつ疑う余地のない側面は、性行為をあきらめるというひとつの選択をしたということである。つまり、自分のセクシュアリティは十全に生きるが、この特定の行為はしないという選択である。この行為ができないということは、本人が率直に認めた上で、日々の心理的・霊的体験の中に統合していかなければならないもので、確かにひとつの犠牲であり喪失であるといえよう。しかし、司祭や修道者がその誓願や誓約によって、自らの公人としての生活と私生活は分かたれないと宣言している以上、私生活においても許される行為ではない。
第二に、心理的な観点から見て、司祭であれ修道者であれ、成人どうしの合意にもとづく性関係をもつことには大きな問題がある。そのような行動に出るということは、彼らの考える誠実な人間関係というものが統合性を欠いている証拠だからである。この人々の内面には分裂があって、公の場でいっていることと、私生活での行動が一致していない。ここで考えられるのは、セクシュアリティの未統合や、信仰と実践の結びつきの問題である。たとえ相手が同意成人あろうと、司祭や修道者が性的な行動表出をしてしまうときは、彼らの日常生活でいくつかの認知と行動が正しく結びついていないのである。
このように、成人どうしの合意にもとづく性関係は道徳的、倫理的に見ても、また心理面から見ても、大いに問題なのである。さて、それを念頭においた上で、皆さん自身、または皆さんの監督下にある人がこの問題をかかえているとしたら、どのような対応の選択肢があるだろうか。是非、あわれみ深い、司牧的な方法で対処していただきたい。いうまでもなく、このような人々はジレンマに陥っている。口では自分の行動に心のやすらぎを感じるなどと見得を切っているかもしれないが、別のところで居心地の悪さを味わっているのが常である。善悪で裁くことと、境界線についてはっきり伝えることとは別である。彼らと正面から向き合い、思いやりをもって自分の言動を見つめ、日常生活や行動に照らして考えてみるように仕向けてやればよい。彼らは職務上の境界線は越えていないかもしれないが、道徳的・心理的境界線は踏み越えている。そうした境界線の侵害が起こるのは、深いところに心理的な問題をかかえている証拠である。たとえば、過去の性的な問題が未統合のままであるとか、召命を選んだことに深刻な疑問を感じている、あるいは性衝動のコントロールがしにくいといった悩みである。彼らに手をさしのべ、表面化した問題がどのようなものであれ、セラピストや霊的同伴者から専門的な支援を得て、それらに取り組めるよう助けてやっていただきたい。
これは理解を示すことのできる問題だろうか。もちろんである。独身生活を貫くことは大変な苦労であり、そのような献身を評価しそうにない文化の中では、特にそうである。人と親しく交わろうとする人間としての基本的な努力は、既婚、未婚、独身主義を問わず、大人であれば誰もが日常的に行っていることではあるが、他者と親しくなり、友情をわかちあい、そこから肉体関係がなくても親密さが生まれることを学ぶには、とりわけ努力が必要である。しかし、司祭や修道者がこうした問題と誠実に向き合えば、大人の関係の中にも、親密さにまつわる自分の人生経験を深めてくれ、かつ自分の道徳的・心理的統合を損なわないような形があることに気づくのではないだろうか。


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11.退院者の復帰をどう受けとめるか Vol.II No.5 1998年10/11月号
ケン・フィリップス(フランシスコ会律修第三会会員。セントルークで継続ケア・プログラムのコーディネーターを勤める。)

治療を終えた修道者が帰ってくると、共同体のメンバーのあいだに、さまざまな思いが生じる。まず出てくるのが「この人をどう扱えばいいのだろう」「自分に支えてあげられるだろうか。わたしは精神科医ではないし、ここは治療共同体でもないのに」「再発したら責任を問われるのだろうか」といった疑問である。また、そこまで表立って口にすることはないだろうが、さんざん心配させられたうえに、多大な出費を強いられた恨めしさからくるもろもろの気持ちもある。そして、こうした思いや感情のせいで、一人の修道者の退院が、すでに山ほど難題をかかえている共同体のあらたな頭痛の種になってしまうことがある。こうした感情は、きちんと認めたうえで対処する必要があるが、復帰する人に対しても同じように構えてかからなければいけないかというと、かならずしもそうではない。ときどきあるのが、帰ってきた当人は、自分は以前のような問題行動をおこすまいと苦労しているのだから、その努力はほめられ、認められて当然だという気持ちでいるのに、まわりの人たちの方は相変わらず、当時の本人との生活のあり方や被害にあった人々への奉仕のし方がこの結果をまねいたのではないかと心を痛めている、という構図である。
治療を終えて帰ってくる人がいるからといって、共同体の人たちが罪悪感にさいなまれる必要もなければ、自分たちが何をすべきで、何をすべきでないかを知ろうとして、にわか心理療法家になる必要もない。(そもそも、そのような危うい状態で退院してよいはずがない。)ここで大切なのは、アルコール中毒者の家族を支援するアラノンという自助グループが信条としている「わたしがこの人の問題をひき起こしたのではない。わたしにはこの問題を自分の思うようにはできないし、問題を取り除くこともできない」という考え方である。わたしたちが力になれるのは、かれらが回復への道のりを歩き続けるかぎりにおいてであり、頼まれれば、現実認識が正しいかどうかをいってあげることもできるが、本人の回復や再発に関する責任はわたしたちにではなく、あくまでかれら自身にあることを忘れてはならない。また、かれらにはしっかりした専門家がまだついていて、共同体へのリエントリー(復帰)がうまく運ぶように支援してくれる。回復初期は安定しない時期ではあるが、共同体の人たちが腫れ物にさわるような感じをもっていると、共依存をまねくので、本人にとっても共同体にとっても好ましくない。また、奉仕職にもどろうとしている人にとって、いちばん尻込みしたくなることの一つに、共同体全体の会議や典礼の儀式への出席がある。仲間の聖職者や修道者たちは、自分の顔をみてどんな挨拶をしてくるだろうか、何もいわずに通りすぎるだろうか、といったことをあれこれ考えるのは、生きた心地がしないものである。そんなとき「やあ、久しぶり。おかえり!」というような、ちょっとした気づかいの言葉が果たす役目はとても大きく、それによって本人は、また仲間として受け入れてもらえたという気持ちになれる。
復帰してくる人は、これまでとは違った人生を歩み始めたところである。これから共同体での自分のあり方や人との関わり方において、あたらしい方法を試していくことになる。最初のうちは、おっかなびっくりだったり、やり過ぎてしまったりするかもしれない。なじむまでには、時間がかかるだろう。治療はあるプロセスの最初の部分に過ぎず、退院しさえすればそれで終わりではない。本人はあたらしい対人スキルを入院中から継続的に学んできて、それを今まさに、実生活に応用しようとしている。この先望むことは、周囲の協力的であたたかい歓迎の姿勢と、プライバシーへの配慮であろう。自分の経験をだれと分かち合うかは、本人が決めることであり、共同体は、その私的な境界線を侵さないよう心がける必要がある。一方で、本人が選んだサポート・グループに求められるのは、治療や回復についてのよりプライベートな内容への踏み込んだ関わりだが、共同体は、そのサポート・チームとの境界線もきちんと守らなければいけない。もしサポート・チームが十分な指導を受けていて、本人にもやる気があるなら、まさに鬼に金棒である。
しかし、本人がサポート・チームや12ステップ・ミーティングの支援に満足しているからといって、共同体の人たちは、自分たちが蚊帳の外に置かれたように感じる必要はない。この二つのグループは特異な支援システムで、そのメンバーでないと、おそらく理解できないだろう。共同体が承知しておくべきことは、本人がこれからも、サポート・グループや、回復に関する問題を専門的に扱えるセラピストを持ち続けるということである。共同体自体はサポート・グループでも、セラピストでもない。共同体としてそのような責任を負う必要はないのである。まして、共同体全体を治療共同体のようにして、治療中に本人が体験したことを再現するのは、本人にとっても共同体にとっても、健全なことではない。むしろ、本人が意思疎通や対人関係のスキルをすでにいくつか身につけていて、共同体の人たちに好ましく感じられるものがあるかもしれない。こうした点については、日を置いて、一緒に生活しながら共同体のメンバー全体に教育を行えば、いざというときに役立つのではないだろうか。
共同体の中には、入院治療を休暇のようなものだと考える人もいるかもしれないが、本人は入院で短期間にたくさんの経験をしたために疲労困憊していることがある。すると共同体としては、本人がデリケートになっていて扱いにくく、共同体内部の仕事を任せるのは無理ではないか、という一抹の不安をぬぐえないこともあろう。しかし、実態はむしろ逆であることが多い。帰ってくる人にとって必要なのは、自分に合った仕事を与えられることによって、共同体に迎え入れられたと感じることなのである。周囲の扱い方によって、本人が病人であるかのような気分にさせられるのではなく、自分は仕事に責任のもてる人間だと思えるようにすべきである。回復のためには、夜間の12ステップ・ミーティングに参加するとか、日中セラピーに出かける時間を確保するといった面で、ある程度の便宜を受ける必要はあるかもしれないが、共同体の中で任された仕事については、本人が責任感をもって職務を果たすべきである。システム理論によれば、家族やグループのだれかに成長や進歩があると、それがグループ全体に波及するということがわかっている。メンバーの復帰は、共同体にとってあらたな問題どころか、恵みにさえなりうるものである。


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10.叙階から5年以内に起こる問題  Vol. II No. 4 1998年8/9月号
キャロル・スタントン
(修士号・博士課程前期。セントルークで教育・予防部長を勤める。)

司祭の人事管理を担う上長たちが現在、懸念を持って注目しているのが、初仕事の心理的重圧と闘いながら働く叙階したばかりの司祭たちである。実際、叙階してわずか半年から1年で辞めてしまう司祭もいれば、紆余曲折の末に治療プログラムを受けることになる者もある。この問題を重く見たアメリカ合衆国司教協議会(NCCB)の「司祭の生活と奉仕職に関する委員会」では、神学校から叙階されて1年目の移行期に関する調査を行っており、これによって叙階したばかりの司祭を支援する手立てを考えようとしている。
この重要な問題を調査しているのは、「司祭の生活と奉仕職に関する委員会」の委員長クリート・カイリー神父から論文執筆の依頼を受けたシカゴ大司教区のエド・アプトン神父である。アプトン神父によると、叙階したばかりの司祭が乗り越えなければならない変化には、大きく三つの領域がある。
1. 組織体制の変化(神学校から小教区へ)
2. アイデンティティの変化(私人から公人へ)
3. 要求されるスキルの変化(身についたスキルから不慣れなスキルへ)

セントルークで叙階間もない司祭からよく耳にするのは、この三つの変化に対処するには、対人関係、知性、心理、霊性、職業に関する個人的なスキルが非常に要求されるという意見である。叙階したばかりの司祭には、始めから、きわめて公的な場で本格的に仕事をすることが期待される。また、これほど深く人々の生活と信仰にかかわる職業はほかにない。したがって、司祭にふさわしいのは、その使命と仕事から見て、肉体・精神・情緒が十分に統一された人、つまり自力で心理的、霊的成熟を目指せるレベルの自己認識を持った人であろう。ここには、さらに深く検討すべきではないかと考えられるいくつかの問題がある。

神学校という枠組みのはっきりした、アカデミックな文化の中でやっていくのに必要な技能が、かならずしも小教区でうまくやっていくのに必要な技能につながるわけではない。

司牧時代の経験はすばらしいものだが、小教区の信徒やスタッフから寄せられる期待はさまざまである。叙階したばかりの司祭は、気が遠くなるようなスケジュールや、さまざまな司牧上の人間関係、スタッフ内部の相互関係の処理、慣れない典礼や説教などに加えて、自分個人の身体的、心理的、霊的健康の管理のし方を早々に身につけなければならない。

司祭は、理想的な公人という、あるべき自分の立場と折り合いをつけながら生活しなければならないが、プライバシーのない「ガラス張りの生活」を経験するショックと苦痛は、司祭になったばかりの人にとっては、とくに大きなものになる。

今日の教会の風潮だが、ときに司牧者としての良識が崩れて、根拠のないこだわりや猜疑心に陥ってしまうことがある。多くの司祭が、仕事とプライベートの適切な境界線について、ある程度は曖昧な部分があることを認めている。叙階したばかりの司祭が、誰かお手本にできるような人はいないかと見回してみれば、公私のけじめについては、どの司祭にも、それぞれにはっきりしない部分があるのだということに気づく。また、叙階したばかりの司祭の中には、自分を支えてくれる健全な支援体制を築けるだけの社交スキルがなく、自分の不足を補うのに司祭どうしの仲間意識をあてにできない者もいる。新しい司祭には、健全な人間関係というものが実際にはどのように見え、どのように感じられるものなのかを認識するための助けが必要である。

神学校は一般に、学生の原家族ではなかなか味わえない枠組みや共同体、安定といったものを提供するものだが、志願者の中には、神学校を複雑な感情、とくに性的な感情について話し合えるほど安全な場所だと感じられない者もいる。

神学生は、すぐれた人材を選抜しようとする学校の姿勢の裏に、現場の高齢化をにらんで司祭の数を増やさなければならないという相容れない事情があることを感じ取る。そこで、志願者の中には「神学校を首尾よく卒業する」ために、自分の感情に「ふたをする」のがうまくなってしまう者もいる。しかし、はじめての仕事でストレスや孤立感を味わったり、プレッシャーが高まると、未解決だった家族の問題や、統合されていなかった性的な問題が表面化することがある。中には、自分の苦しみを食べ物や買物、依存によって紛らわそうとする者もあれば、気力を奪われ、部屋から出ようにも出られなくなってしまうほどの抑うつを経験する者もいる。純粋な孤独感と性的な混乱とがないまぜになると、親密さを探し求めて見ず知らずの人に近づいていくということも起こる。『司祭』という1994年の英国映画は、この苦悩をぞっとするほどリアルに描いている。理想に燃え、あざやかに教義を説く若い助任司祭は、毎日夜更けになるとローマンカラーを取り、革ジャン姿で同性愛の出会い求めて出かけてゆくが、最後には二重生活の緊張に耐えられず心理的に参ってしまう。そのような危機的なレベルに陥っても、自分で専門家に助けを求める勇気を持てる者もあれば、司教の促しでそうする者もある。しかし、危機と紙一重の状態で生活を続け、どうにか健全な状態を保とうともがく司祭の数は増える一方である。

考えられる対策

注意を払う
上記のような複雑な変化を迎えている人に対しては、時間に余裕のある人が気を配る必要がある。従来のメンター制度、たとえば、助任司祭を何人もかかえる賢明な主任司祭のような図式は姿を消しつつあるので、事務的な仕事や司牧だけでなく、人間関係に関する問題も含めて、すぐれた一般信徒や、適性のある司牧スタッフから、安全な一対一の形で助言を受けられるような体制をつくるほうが、より現実的である。小教区のスタッフ全員を対象に定期的に行われる司牧上の振り返りは、叙階まもない司祭にとって、司牧者としての自分の仕事を同じ立場の人たちの助けを借りてチェックする一つの方法である。

継続的な人的成長を促す
叙階したばかりの司祭には、自分の日常生活について感じていることを話したり、神学校で学んだことを振り返ったり、性的な問題など自分の未解決の問題を掘り下げたりするための安全な場が必要である。個人カウンセリングを申し込んだり、ピアグループに参加したりする機会を、恥だとか、過度の自己陶酔だとか、「厄介ごとが増える」と考えるのではなく、成熟した自己管理のしるしととらえるようにすべきである。自己認識は、奉仕職という責任をきちんと果たしていく上で、なくてはならないものである。

霊的生活を重要なものとして生活に組み入れる
教区司祭の忙しい日常生活で最初に割愛されてしまうものの一つが、個人の祈り・振り返り・霊的同伴である。本人はそんな時間は取れないという気がするのだが、現実には、それなくして司祭の生活は成り立たない。叙階したばかりの司祭にとって参考になるのは、ほかの忙しい司祭たちが、外的な枠組みがなくても、自分の霊的生活を優先させながら時間のやりくりをしている様子を見ることである。

叙階したばかりの司祭たちも人間なのであり、中には、個人的な危機に直面して精神的なバランスをくずし、現実逃避に向かっている者もある。われわれがすべきことは、前兆となるサインを見逃さず、危機に陥る前に彼らに寄り添うことである。


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9.乱用されやすい処方薬トップ10  Vol. II No. 3 1998年6/7月号
ジョン・D・ジョンソン(薬学博士・経営学修士。セントルークで医薬品コンサルタントを勤める。)

処方薬の乱用の問題は、日を追うごとに悪化している。この問題は一般に考えられている以上に広まっており、個別に、慎重な見極めと思いやりをもって対処しなければならない。
まず、言葉の意味を明確にしておかなければならない。処方薬の乱用とは、医学的にも社会的にも害になるにもかかわらず、処方薬を衝動的に有害のおそれがあるほど使用するという、身体的な欲求(中毒)あるいは心理的欲求(依存)をまねく行為である。したがって、ここでは病院で処方される薬以外の乱用薬物、たとえばコカイン、ヘロイン、アルコール、ニコチン、フェンシクリジン、LSD、マリファナ、メサンフェタミン等は問題の対象としない。
それでも、乱用薬物全体のトップ20のうち12種類が処方薬であるという事実に変わりはない。具体的な薬品名を私の正薬剤師としての36年の経験と、セントルークで13年以上前から行っている向精神薬の使用に関する幅広い研究にもとづいて挙げるとすれば、「乱用薬物のトップ10」は以下の通りである。
1. ヒドロコドン合剤(鎮痛薬)
商品名:バイコジン、ローセット、ロータブ、ノルコ、ヒドロコドン・アセトアミノフェン合剤など
2. オキシコドン誘導体(鎮痛薬)
商品名:ペルコダン、パーコセット、タイロックス、ロクシセットなど
3. コデイン合剤(鎮痛薬)
商品名:タイレノール3および4、アセトアミノフェン・コデイン合剤など
4. アルプラゾラム(抗不安薬)
商品名:ザナックス
5. ジアゼパム(抗不安薬)
商品名:ヴァリウム
6. メサドン(鎮痛薬)
7. ロラゼパム(抗不安薬)
商品名:アチバン
8. (塩酸およびナプシル酸)プロポキシフェン(鎮痛薬)
商品名:プロパセット、ダルボセット
9. テマゼパム(睡眠薬)
商品名:レストリル
10. クロルジアゼポキシド(抗不安薬)
商品名:リブリウム

世間では、処方薬の効能と安全性が過大評価され、危険性や乱用の可能性が過小評価されている。しかし、推計によると、米国で処方される所持規制薬品の28%が乱用されているとみられている。セントルークでは、自分の欲求を満足させ、依存症の求めに応じるために、10−12人の医者の診察を受け、30−40軒の薬局を回るような患者を抱えている。彼らは医師の部屋から用紙を盗んで処方箋を偽造し、複数の薬局から薬を出してもらおうとするのである。精神衛生管理庁(訳注*)は、薬物の過服用で救急外来を受診する患者のうち、3−5割は原因物質が処方薬だったという数字を発表しているが、これはヘロインの過服用による救急外来治療の実に6倍に相当する。
この問題を解決するためは、一般市民と医療従事者の双方を教育する必要がある。誰かがパーティで上着からコカインの小びんを取り出して吸ったとしたら、誰でも考えることは明白なのに、同じ人が抗不安薬のザナックスのびんを開けて「ちょっと嫌な気分を忘れるために」1−2錠飲むとなると、話は違ってきてしまう。この姿勢が、問題のかなりの部分を占めている。私たちは、投薬については絶え間ない見直しと評価が必要だという認識を常にもっていなければならない。また、薬物乱用の兆候と症状に注意し、問題の兆候があれば、どんなものでも直ちに対応することである。

観察可能な処方薬の乱用の症状として、最も一般的なものは次の通りである。
気分変調−軽度の多幸感(感情の病的高揚状態)または慢性的な好戦的態度のいずれかへの変化。
過剰な自信
「なんの不安もない」という発言
光や音に過敏になっている、あるいは幻覚が見えると訴える。
薬の量が減る、または切れると、不快感を覚えるとか気分がすぐれないと訴える。
一度に12−14時間も眠り続けたり、明け方3時半に家の掃除をするといった極端な行動をすると訴える。

医者から処方された痛み止めを乱用する人々の多くは、はじめは真正の患者である。しかし、医師の疼痛管理がずさんであったり、過去の薬物乱用や遺伝的な素因が災いして、その薬が医学的に必要になってから長期間にわたって使い続けてしまい、その結果、ある疾患の治療を受ける状況から、薬物依存状態に対する治療を受ける、または依存を維持する状況へと移行するのである。
この部類に、外科的にも内科的にも治療法の出尽くした慢性痛患者が誤って入れられてしまうことが多い。慢性痛に苦しむこの真正の患者は、決して薬物依存者ではない。彼らの唯一の依存は薬ではなく、手に負えない痛みが絶え間なく続く状態で生きながらえたくないという欲求に対するものである。ホスピスで医薬品コンサルタントとして働いていて、いちばん気が滅入る場面は、ホスピスの経験のない医師たちとの交渉で、彼らが「中毒になるかもしれない」からと、末期患者に十分な鎮痛薬を処方してくれないときである。これは薬物乱用(abuse)の問題ではなく、患者の虐待(abuse)ではないだろうか。
それぞれの状況を個別に見きわめることが、きわめて重要である。服薬のミスで量を間違ったり、他の薬と取り違えたりする場合があり、とくに高齢者ではそうしたことが起こる。自分が担当している患者の現状によく注意してほしい。もし処方薬の乱用が疑われるなら、本人に懸念を表明することである。それでも問題が明らかにならなかったり、事態が改善されない場合は、次の措置として、処方箋を出している医師との共同診察を要求するという方法もある。最悪なのは、何もしないことである。

(訳注*:Mental Health Services Administration。米国保健福祉省の薬物乱用・精神衛生管理庁Substance Abuse and Mental Health Services Administrationを指すものと思われる。)


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8.現状維持では何も変わらない Vol. II No. 2 1998年4/5月号
マーガレット・クローリー(女子修道会SHCJ会員(訳注1)。医療ソーシャルワーカーで、セントルークの継続治療プログラムのスタッフを勤める。)

入院治療がセントルークに導入された17年前から、主要な治療パラダイムのひとつになっているのが、12ステップモデルである。あらゆる依存の形成過程は、親密性の障害である。セントルークに送られてくる患者には、長い年月をたった一人で、周囲の無視や軽視に苦しみながら、明らかに自分にも周りの人たちにも害を与える執拗な行動様式から「抜け出せなくなったまま」生きてきた背景がある。彼らは自分が介入を受けたことに腹を立て、「人生は終わりだ」と感じながらここにやって来るが、「私たち」の方では「彼らが人生だと思っていたものが終わり」なのだと了解している。依存の形成過程は、まず霊的な部分から発症し、次に感情、最後に肉体が侵される。そして、治癒のプロセスはその逆の順序をたどる。つまり、肉体、感情の順で回復し、最後に「祈りと黙想を通じて神との意識的な触れ合いを深める努力」(ステップ11)によって霊性を取り戻す。
英国の小児精神科医D.W.ウィニコット(1896-1971)は、1965年の著書(訳注2)で「支持的な抱きかかえる環境(the holding environment)」という概念を定義している。安定した保護の得られる、つまり抱きかかえられているという実感の持てる、乳幼児の健全な発達に必要な環境のことである。セントルークに来た患者は、生き方を変えることに理解のある癒しの共同体が作り出す「支持的な環境」を激しく求めている自分に出会う。もはや人生は、孤独や静かな絶望のうちに、自己からも他者からも、神からも切り離されたまま送るものではない。まさにその反対なのだ。だれもが、12ステップの「私たちにはいずれ、自分が自分にできなかったことを神がしてくださっているということに突然気づく時が来る」という約束の持つ一貫性と強さを、徐々に認めていく。
セントルークの継続治療プログラムのベースにあるのは、莫大な予算と人材をつぎ込んで、あとは退院した当人が「初めから抜かりなくやる」にちがいないなどと期待するのはほとんど意味がない、という比較的シンプルな前提である。人生の立て直しは、6カ月の入院治療ではできないと私たちは考えている。孤立と秘密主義は長年の行動パターンであるから、回復期には前述の「親密性の障害」を絶えず注視しなければならない。
適切な親密性、つまり関係の境界線をわきまえた生き方は、学習行動である。次に挙げるのは、この新しい行動を身につける際の基礎として、私たちがこれまでの経験から重要だと考えるに至った手順の一部である。
* 患者自身が退院に先立って「継続治療契約書」を作成し、12ステップ・ミーティング、セラピーの継続、霊的同伴、しっかりした健康対策、上長への説明責任などについて書面で確約する。さらに「再発徴候」のリストを作成する。これは、本人がこれまでに再発の前触れであると特定した行動である。私たちの間で「現状維持では何も変わらない」という信念を共有する。
* さらに、患者は退院後も、「半年に1回のワークショップ」のためセントルークに2−5年間通い続ける。私たちは地元の回復サポートグループの結成を通じて、できる限り前述の「支持的な環境」と同じ環境を作るよう努力する。このグループのメンバーは、患者本人が地方自治体の担当者と継続治療のセラピストと連携しながら選ぶ。
* 患者が作るこの「サポートグループ」は、積極的に率直なフィードバックをしてくれる6−8名のメンバーからなり、彼らは回復の障害になると思われる患者の問題行動を観察し、本人に話す。
* 継続治療のセラピストによる「リエントリー(復帰)ワークショップ」を行う。これはサポートグループのための訓練で、期間は患者が自宅に戻ってからの約2カ月間である。

私たちの経験上、患者の再発の危険性が高くなる時期は次の3つである。
* 退院直後
* 退院から2年半後
* 退院から5年後

再発率に関する統計データは当てにならないことが多いが、私たちの継続治療プログラムの患者はこれまで非常に予後が良く、問題行動の再発が少ない。全般に、退院後は高い確率で何らかのふさわしい奉仕職に戻っている。
継続治療プログラムでは、患者に対し、自分の力量に応じて事を進め、単なる禁欲から徐々にソブラエティ(節制)の内面化へと移行していくよう勧めている。内面化によってソブラエティが自分のものになると、日々の生活において神の力と神の存在により頼む生き方ができるようになる。この種の枠組みと説明責任が、自己制御の習慣を生み、自己評価を高める。さらに重要な点は、こうした行動手順が再発を予防し、他者と結びつきのある生き方をする上で助けになるということである。これは簡単な仕事ではなく、日常的な責任ある関わりと厳格な率直さが要求される。クライアントの治療の対象となる問題行動は、一夜のうちに生じたものでもなければ、一朝一夕に回復するものでもない。治癒の第一歩はセントルークのプログラムで始まるが、そのプロセスは生涯続く。

訳注
1. Society of the Holy Child Jesus(聖なる子イエスの会)
2. The Maturational Processes and the Facilitating Enviroment,1965,Hogars Press, London(邦訳:『情緒発達の精神分析理論』1977年、牛島定信訳、岩崎学術出版社)


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Vol. II No. 1 1998年2/3月号
7.神経心理学とアルコール依存症
ゲイリー・トンプソン博士
(過去13年にわたりセントルークで神経心理学サービス科のコーディネーターを勤めている。)

アルコール依存症の患者の場合、臨床神経心理学者としてはとくに次の点を考えなければならない。
*脳の機能がアルコールによって有意に損なわれているか。
*その損傷はどの程度か。
*損傷は日常どのような形で現れているか。
*障害は回復可能なものか、不可能なものか。
*そのアルコール濫用による神経心理学的障害を補うためにできることは何か。

アルコール依存症は、重症になるとウェルニッケ・コルサコフ症候群にみられるような「非可逆的記憶障害(回復不能の健忘症)」を招く。ウェルニッケ・コルサコフ症候群は、たとえば2週間酒浸りの生活をするというような長期にわたる大量飲酒の結果発症するケースが多い。原因は、その間に必須ビタミンの含まれる食物の摂取が不足してしまうことである。しかし、十分に食物を摂取していても、常習的に大量の飲酒をするアルコール濫用者には「アルコール性認知症」のリスクがあり、これにかかると記憶・抽象化・問題解決・複雑な運動技能に顕著な障害が現れる。
アルコール依存症に関連する障害で最も一般的なのが、記憶障害と「前頭葉機能障害」である。アルコール濫用者は自分の記憶障害の程度を過小評価したり、その障害があること自体を否定したりするが、少なからず短期記憶と学習効率の障害を示す。
アルコール濫用者に現れる前頭葉の機能障害はさまざまだが、一般に思考の柔軟性が低下し、問題解決の方法が過度に単純化する傾向がある。アルコールによって前頭葉がダメージを受けると、問題検討能力や経験から学ぶ力が顕著に損なわれるので、本人が自分の飲酒の程度を正しく認知できなくなり、これが問題を大きくする。
アルコール濫用者は、対人関係のいざこざ、友情の破綻、肉体的健康の衰え、仕事能力の低下をいくら経験しても、人に助けを求める必要をみとめられない。これは、アルコールの脳への有害作用に伴って器質的に損なわれやすい能力の中に、問題の本質や深刻さを認知するのに最も必要な神経認知能力が含まれているからである。
過度の飲酒が脳の構造異常の原因になることは、研究で明らかになっている。最も一般的なのは、脳細胞が縮む脳皮質萎縮で、CTやMRIといった脳画像診断を行うと、アルコール濫用者の5割から6割にこうした病変が確認できる。このほか、脳脊髄液を貯蔵している脳室の拡大や各脳部位の血流の減少といった記憶に深くかかわる変化や、身体機能のバランスや協調をコントロールする脳構造の損傷などが報告されている。
脳障害はアルコール濫用の初期作用で、肝臓の方は、その後かなりの年数がたたないと障害が検出できないことがあるが、肝臓障害は脳機能をさらに損なうメカニズムを生む。
幸い、アルコール関連の脳異常は、長期間の禁酒を実践しているアルコール濫用者では回復可能なことが研究で明らかになっている。また、アルコールに関連する脳異常の種類に男女差はないが、女性の方が早く、また少ない飲酒量で発症する。これは、女性の方が体内のアルコール分解酵素のレベルが低いので、男性に比べてより多くのアルコールが血流に乗り、脳へ直接送り込まれることが原因と考えられる。ただし、女性には、アルコール使用を中止すれば男性よりも早く回復するという傾向もある。また年齢では、一般に若い人の方が機能回復の予後が良好である。
治療中は、患者の神経心理学的な状態を考慮することが大切である。記憶や前頭葉機能の損なわれたアルコール濫用者は、新しい情報を習得したり、筋道を立ててものを考えたり、ある場面で得た情報を他の場面に応用することなどが非常にむずかしくなる。必要な情報は繰り返し与える必要があるほか、具体的なものを使って阻害された抽象化能力を補うようにするとよい。記憶補助具や日記、電話メモが有効である。このほかアルコール濫用者の多くにとって、治療中、治療後を問わず非常に有益なのが、体系的な問題解決法を用いることである。
基本的な知識として、アルコール濫用者の約1割は記憶障害または認知症と診断できるレベルであり、残りの9割のうち、半数は3週間の禁酒後でも軽度から中等度の神経心理学的障害がみられ、35−45%は改善に数カ月から数年の禁酒を要し、5−15%は長期間禁酒を続けても障害が残ることを覚えておいていただきたい。この数字をみれば、こと慢性アルコール濫用に関しては、介入と迅速な対処にすべてがかかっていることは明らかである。


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Vol. I No. 6 1997年12月/1998年1月号
6.「ある忌まわしいクリスマス物語」


フィル・ケリー(コンベンツァル聖フランシスコ修道会会員)による、ジョージ・マクガバン上院議員とのインタビュー

これはクリスマスにまつわる、ある忌まわしい物語である。いわゆるアルコール依存から回復したとか、健康や幸福を手に入れたといった希望にあふれたストーリーではない。そこに描かれているのは、テリーがどんな女性で、その苦しみがどのようなものだったか、また彼女に傷つけられた人たちがどれほど苦しんだか、である。
ことの顛末は、本のそでに記されているとおりである。1994年のクリスマスが間近に迫ったある日、ジョージ・マクガバン上院議員のもとに、45歳になる娘テリーに関する恐ろしい知らせが届けられた。テリーは・・・酒に酔って人事不省になり、バーからふらふらと外に出たところで雪だまりに倒れ込み、そのまま眠り込んで凍死したのだった。
両親の選んだ道がこの本の出版だった。上院議員はアルコールがどれほど情け容赦なく人の命を奪うものであるか、そのおぞましさを隠さず世間に公表しようと考え、『テリー−わが娘の生と死をかけたアルコールとの闘い−』を上梓した。ニューヨークタイムズには「痛ましい・・・愛と喪失のドラマ」と評された。クリスマスというこの「一年でいちばん楽しい時期」、アルコールはたいがいのパーティで場を盛り上げる潤滑油の役目をするが、同時に無数の家庭、さらには司祭館や修道院にまで、嵐のような激情や暴力、恐怖を巻き起こす恐ろしい要因にもなる。この季節は『テリー』を読むにふさわしい時期である。マクガバン氏は、ペンギン・ペーパーバックのワシントンでの発売を記念したスピーチでベトナム戦争に触れ、すかさず次のように続けた。「考えてもみてください。もしベトナム戦争以来アルコールに命を奪われた人の名前を一人ひとり思い起こせるとしたら、その記念碑は、ベトナム戦争で戦死した5万8,000人の若い勇敢な米国人を偲ぶ記念碑の、実に20倍もの長さになります。1日に350人がアルコールのせいで亡くなっているのです」。
また聴衆の質問に答えようとして、声を詰まらせた場面もあった。「娘テリーのことはすでに何千回も話してきましたが、今もなおこのつらい思いが消えることはありません」。そういって彼は涙をぬぐった。
その後、氏は本誌とのインタビューで次のように語ってくれた。

−『テリー』の出版を手がけてからアルコール依存症について学んだことは?
アルコール依存症が、どれほど潜行性の高い、また容赦のない、手に負えない病気であるかを学んだ。アルコール依存がどれほどすさまじい力で娘を蝕んでいったか、私は分かっていなかった。娘は必死に回復を望んでいたが、かなわなかった。
−驚いたことは?
多くの人から、自分も同じ経験をしたと聞かされたことだ。再発がアルコール依存症のいちばんの問題ではないかと考えている。
−アルコール依存症について一般に知られていないことは?
アルコール依存症を病気と認めない人が多すぎる。彼らはいまだに依存症の人々を、不道徳とはいわないまでも、意志が弱くだらしない、自分の命を故意に粗末にする人たちだと考えている。
−もし米国カトリック教会の司教たちと話す時間を10分与えられたら?
まずお願いしたいのは、依存症に対しては、病気を憎み患者を憎まずという態度でのぞむよう、信者に助言していただきたいということだ。アルコール依存症者に必要なのは、自分がどれほど病気におぼれたとしても、自分を愛してくれる人はいると知ることだからだ。
−米国の各教会が主日のミサで説教壇に立つ機会を与えてくれたとしたら、介入の問題や、更生をうながす「愛のムチ」について、どのように話すか?
介入を行えば人の命を救うことができる。「愛のムチ」・・・この姿勢には注意が必要だ。愛のムチを実践しようとするときは、くれぐれも「愛」の部分を忘れてはならない。ただのムチにならないことだ。依存症者にたびたびつけこまれて財産を使い果たし、あげくに家族や親類との関係を壊してしまうようなことをする必要はないが、自分は愛されているのだということを彼らが知る必要はある。
−ありがとうございました。

本号の原稿を印刷前にマクガバン上院議員に送ったところ、ご本人から電話があった。下記はその録音を書き起こしたものである。本誌では、あえて元の原稿を残し、それに対する氏のコメントをそのまま記事に添えることにした。

こんにちはフィル。ジョージ・マクガバンです。先日のインタビューに関する記事ですが、全体としては申し分ないのですが、根本的な誤りが2点あります。まず、この記事ではテリーの死は「忌まわしい」クリスマス物語と呼ばれていますが、そんなことは決してありません。たしかに非常に悲しい、心の痛むことでしたが、彼女の死は、私たち家族を含む全国の大勢の人々の人生における一つの救いになったのです。ですから「悲しい」クリスマス物語と呼ぶことはできても、決して「忌まわしい」ものではありません。キリストの死も決してきれいなものではなかったでしょうが、忌まわしいという言葉から私たちが想像するようなものではなかったと思うのです。
二つめは、最初の段落にある「彼女に傷つけられた」人々の苦しみというところです。真実はまったく逆です。テリーを知るすべての人たちの心に刻まれているのは、彼女のおもいやりであり、愉快なユーモアのセンスであり、他者への気づかいなのです。テリーが自分にしたことによって、彼女を愛していた人々が傷ついたことは明らかですが、彼女自身は、生きていた間だけでなく、死んでからも、周りの人間を豊かにし、救ってくれたのです。彼らを傷つけてしまったことがあるとしても、それをはるかに凌駕するものを与えてくれたのです。ですから、その点はどうしても訂正していただく必要があります。私にいわせれば、テリーは多くの人の命を、彼らに治療を受けてもらいたいという彼女のおもいやりと気づかい、決意によって、文字通り救ったのです。
これが本当のところです。フィル、どうもありがとう。


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Vol. I No.5 1997年10/11月号
5.「時は問題を解決してくれない」

リチャード・バッカー
(医療補助士・伝染病管理コンサルタント・認定プライバシーコンサルタント。セラピストとして14年間の勤務経験がある。現在はコーポレート・サービス部長。)

司教や上長が、自分の管轄する教区や会で特定の司祭や修道者の行動に不適切なところがあると感じながら、具体的な対処にふみきれなかったとか、聖職者が社交の場で度を越した飲酒を目撃されながら何もいわれずにいるといったケースが後を絶たない。仕事以外の、目的のはっきりしない外出も日常茶飯事になっている。本人に自分の行動を改める時間を与えたいという気持ちは、あらがい難く自然なものだが、悲惨な結果を招く危険をはらんでいる。私はセントルークで14年にわたりセラピストとして働いたが、その間あまりに多くの貴重な、才能ある人材が、介入が遅すぎたために、不祥事やアルコール、ドラッグ、果ては自殺によって失われるのをこの目で見てきた。最初に述べたケースはいずれも、放置して改善されることはないし、最悪の事態が発生してからでは対応を考えている余裕はない。時の過ぎるのに任せれば、苦しみと被害が増す一方である。時が自分に味方してくれると思ってはいけない。

この小文が問題にしている行為は、ある非常に一般的な例であり、援助職のプロにあるまじき、しかも倫理にもとる行いである。読者の皆さんなら、ここに挙げる原則を多少なりとも実生活に応用するすべを理解されるものと思う。テーマは「適切な境界線を維持すること」である。

過保護や過干渉になる、いわゆる「巻き込まれ」は、常に危険信号である。司祭や修道者、カウンセラー、霊的同伴者など職場の同僚の誰かに、クライアントや信者、学生とかかわり過ぎる兆候が見られても、私たちは、時間が解決してくれるだろうとか、本人が自分で気づいて態度を改めるだろうと考えてしまう。時はたしかに一部の傷を癒してくれるかもしれないが、それは、まず根本的な原因が取り除かれた場合に限っていえることである。
対人援助職は一般に、専門的立場から助言を与える相手(クライアントや被同伴者など)の個人的・霊的生活に深くかかわる。これは効果的なカウンセリングのためには必要なことであるが、しばしばクライアントのために「やり過ぎ」る、つまり援助職の側の「巻き込まれ」が認められて問題になることがある。私たちはこれを「世話焼き依存」「共依存」「世話焼き」「無力化」と呼んでいる。もう一つのパターンは、相互的な「巻き込まれ」で、クライアントだけでなく、カウンセラー自身の問題・欲求・願望が関係の一部になってしまうものである。この場合、カウンセラーに見られる危険信号には、次のようなものがある。
* 面会時間や身体の接触、話題に関して、クライアントとの間に明確な境界線や限界を設定しづらくなっている。
* クライアントに打ち明ける私的な事柄が次第に増えている。
* 面会時間以外に、クライアントのことをぼんやり考えていたり、それとなく話題にしたり、空想したりしている。
* 社交上の集まりなど、所定の面会以外の場でクライアントに会いたがったり、実際にそうしようとしたりしている。
* クライアントと会うことで個人的な欲求が満たされているので、その分仲間と過ごす時間が減っている。
* クライアントとの仕事を離れた関係について、考えたり、人に話したりするようになる。
* クライアントの状態に関する重要な詳細を、自分のアドバイザーと一緒に分析することに抵抗を感じたり、その義務を怠ったりする。

自己介入が理想的だが、そのようなことはめった起こらない。上記の危険信号の中には、周囲が認知しうる外的発現があるので、同僚やアドバイザーの側に積極的に気づいて何らかの手を打つ意思があるなら、それと分かるはずである。その打つべき「手」とは、本人に次のことをするよう、はっきり言い渡すことである。
* 即座に、かつ明示的に、クライアントとの境界線を設け、制限を厳しくすること。
* 専門家の診察を受けるか、または監督を付け、その記録を残すこと。
* 制限や監督に即効性が見られなければ、速やかにそのクライアントを他に紹介するなどして、関係を終了させる。

「巻き込まれ」は、虐待的な性質をもっており、人を苦しめる犯罪的な行動をたやすく招いてしまうので、責任者を訴訟の危険にさらすことが多い。警告のサインを見逃さず、介入することが肝心である。

危機的な問題が起こった場合に、教区や修道会といった教会の組織がすべきことは、次の点に関する方策の立案である。
* 問題の司祭/修道者、状況、被害者、不祥事の「排除と抑制」
* 被害状況、被害者、当該司祭/修道者の「評価」
* 被害者、当該司祭/修道者、教区民の「ケア」

この記事を読んで何かしら思い当たることのある方は、真剣に考えていただきたい。助けになる人や情報がおそらくご自分の地域にあるだろう。また、ここセントルーク・インスティテュートでは、多くの専門職員のほか、スティーブ・ロセッティ師、フランク・バルコア医師、スティーブ・モンタナ医師、キャロル・ファーシング医師が、電話相談や面談に応じている。私に直接お電話をいただいても結構である。いずれ問題が収束に向かうだろうとか、時が経てば徐々に解決すると思いたい誘惑は誰にでもある。しかし、すでに述べたとおり、時はあなたの味方ではない。

推薦図書:
“Sex in the Forbidden Zone(タブー領域での性)”
ピーター・ラター著、フォーセットクレスト双書、バランタインブックス出版(訳注:本書の副題は「セラピスト、医師、司祭、教師など権力の座にある男性が女性の信頼を裏切るとき」)
“Code of Ethics for Counselors(カウンセラーの倫理規範)”
アメリカカウンセリング学会(ACA)


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Vol.I No.4 1997年8/9月号
4.「あわれみは賜物」

ガビーノ・サバラ司教
(カリフォルニア州ロサンゼルス大司教区の補佐司教で、サン・ガブリエル司牧区担当。神学博士号および教会法修士号を有する。)

数カ月前、フランシスコ会士フィル・ケリーからこんな依頼があった。司教という立場にある人間として思うところを読者に語ってもらえないか、というのである。そこでどうしたものかと考えているうちに、私の脳裏に大きく浮かんできたのがセントルークのロゴ、例の聖霊の形をした手のマークだった。そして耳の奥に「あわれみは賜物」という言葉がひびいてきて、私の心をゆさぶったのである。あわれみは賜物、まさにその通りである。あわれみとは、私たちが探し求め、神に祈り仰ぐべきものであり、またおのれのうちに育み、成長させ、人々に惜しみなく分け与えるべきものである。
あわれみは、キリストに仕える者のあかしであり、すべての神の民とのかかわりにおいて、神の抱擁というものを真に知らしめる方法である。あわれみは、司祭職の刻印や、修道会の創立のカリスマ、奉仕職の使命と密接に結びついている。しかし、私自身の聖職者としての仕事ぶりはといえば、必ずしもあわれみが十分に発揮されているとはいえないように思う。だれもが認めるこの特質を自分も是非見習いたいと思うものの、その望みは往々にして、慎重な、あるいは正しい判断をしようとする自分とぶつかってしまう。弱く傷つきやすい人、性格の難しい人、薬物やアルコール中毒の人、社会的に好ましくない行動をする人格異常の人々とのかかわりにおいて寛容の精神と正義を旨とすることは、ますます難しくなっていくばかりである。
私が直面する問題の中には、教育に関する自分の専門知識や人生経験、霊的洞察力だけでは、とても対処しきれないものが多い。それでも現実は現実であり、これが私の職務のひとつの側面であることと、奉仕職にある兄弟姉妹が日々それらの問題と格闘していることはまぎれもない事実である。私にとってはたいがいのケースが綱渡りである。自分の「治療」経験は限られたものであるのに、その一方で、どんな場合でも正確な評価を下し、ひとりの人間にとっても「全体」にとっても最善の利益をもたらすように、迅速に行動することが求められるからである。
私はロサンゼルス大司教区の補佐司教に任命されるまでに、大神学校長や学生部長、また教会法の教授としての勤務経験があったし、婚姻裁判所に勤めていたこともあったから、人としてのニーズや傷つきやすさについては、以前からそれなりの認識がある。しかし、私が司教になってから切実に感じるようになったことは、司教職には次のような姿勢が必要だということである。
*対応は機敏に
*不適切な行動を見逃さない
*率直な評価を下す
*異常行動には毅然とした態度で立ち向かう
*時宜を逃さず首尾一貫した決断を下す
そしてこれらすべてを、あわれみを健全な形で示しながら行わなければならない。
これは並大抵のことではない。周囲からの期待や要求は多い。どういうわけか、司教や司教代理はあらゆる問題を解決できるはずだということになっており、しかも失敗は許されないと来ている。どんなジレンマがあるにせよ、私たちは正確な診断を行い「治療方針」をすみやかに示さなければならないのである。しかも往々にして時間的制約や訴訟の危険にさらされ、また世間の批判や財政的な制約、人間関係のあつれきといった、当事者ならではのつらさを抱えながら働いている。私たちは、たとえ同情心や怒り、落胆を抱えていても、配慮と尊厳をもって対応することが期待されている。私たちはふと気づくと、ある病気や病状が自分たちに理解できないものだとか、計画した健康管理プランどおりに改善されないせいで、一時的に我を失って、いらいらしてしまうことがある。しかし、私たちに期待されていることは、あわれみ、親切心、共感、忍耐を示しながら、患者が起した行為や周囲の状況がどんなものであれ、何とかして事態を把握することである。そして、あわれみは具体的な行動の中にこそある。それは限界を設けることであり、説明責任を負うことであり、経過を監視することであり、具体的な最終目標を定めることである。
あわれみは希望の源だと言い換えてもよい。経験を積むことによって、私はあわれみというこの賜物の福音的表れがどういうものなのかを、より完全な形でイメージできるように導かれている。また、私は日々の祈りの中で、より良い、より優れたな洞察力が与えられるよう、よりあわれみにあふれた人間になれるよう、神に願っている。真のあわれみは希望をもたらす。私自身は次のような希望をもっている。
¬あわれみによって、召命の識別プロセスや、ヒューマンニーズを扱う養成プログラムの枠組みを厳重にチェックしようとする姿勢が導かれること。
¬あわれみによって、人を深く苦しめる葛藤や、破壊的な薬物依存を特定し、適切な処置を見出す上での手がかりが与えられること。
¬あわれみによって、兄弟姉妹の福音にそむく行動に対し、毅然とした態度で立ち向かわざるをえなくなること。
¬あわれみによって、奉仕職にふさわしいスキルに関する公正な評価、人的成長・人間開発への絶え間ないいざない、心身の健康への強い関心がもたらされること。
¬あわれみがあれば、試行錯誤の毎日の中で私たちが互いに支え合っていく道を見出そうという気持ちになれる。
¬あわれみがあれば、私たちは物事に過度の期待をすることも、プレッシャーに押しつぶされることもなく、また自分自身や、担当することになった患者について他人の助言や忠告を求める勇気がもてるようになる。

私の司教としての日々の思いは、あわれみは賜物だという言葉に要約することができる。そしてキリストの癒しのみ業を実践するために、私たちが自分自身や世界にその賜物を惜しみなく捧げること、これが私の祈りである。


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Vol. I No.3 1997年6月3日
3.「抑うつに対する治療が十分に行われていない現状について」

ルイサ・M・サフィオッティ博士
(臨床心理士(クリニカル・サイコロジスト)で、以前セントルークに勤務していたが、現在は開業医。)

「誰とも口をききたくない気分だった。気持ちが内向して、とにかく自分のことで精一杯だった。前の週からまた眠れない日が続いていたし、不安で一杯だった・・・。食事は何も喉をとおらなかった。沢山のことを一度に抱えていたんだ・・・。この話をしたのは、ただ自分がうつ病の治療を受けていたことを皆に知ってもらおうと思っただけなんだ」。
これはフィクションではなく、ニューヨークメッツの投手ピート・ハーニッシュ本人が先月実際に語った言葉である。(F.フィッチ、ニューヨークタイムズ、1997年5月1日)

抑うつ障害には、突発性大うつ病や気分変調と呼ばれる慢性的な軽度の抑うつが含まれるが、総じて女性の24%、男性の15%が一生に一度はかかるものである。抑うつにかかるリスクは増加しており、また発症する年齢が下がってきている。抑うつは公衆衛生上の重大な問題になりつつある。

米国医師会の学術誌"The journal of the American Medical Association"の1997年1月22/29号には、抑うつにかかっている人に対する診断や治療が十分に行われておらず、その実態がいかに深刻なものであるかを示す証拠が報告されている。調査によれば、抑うつに対する効果的な治療が可能になって35年にもなるのに、大うつ病、気分変調、または気分変調症と大うつ病エピソードを併発した「重複うつ病」のいずれかを20年以上患っている人の48-67%は、過去に一度も抗うつ剤の投与を受けたことがないという。さらなる調査で、治療を受けている患者の中で適切な処置がなされているのは、5-27%に過ぎないということも分かっている。

私たちの長年の診療で、セントルークに送られてくる聖職者や修道者の大半は、何らかの種類の抑うつにかかっているということが分かっている。気分の落ち込みや気力の減退、生きる意欲の喪失といった問題は、精神衛生上の観点からではなく霊的に健全かどうかというものさしで見られてしまう可能性がある。たとえば霊的同伴や告解のような場で、こうした症状が霊的なすさみと解釈され、純粋な抑うつであるのに正しく認知されないことがある。

これ以外に、聖職者や修道生活を送る人たちの抑うつを見えにくくしてしまう要因として、以下のようなものがある。
* 精神衛生の専門家を交えることや治療介入という手段に訴えることにためらいがある。
* 肉体、精神、霊性を通じた適切な自己管理を怠る傾向がある。
* 司祭館や修道院での生活が質的に単調で、刺激がない。
* 自分の感情と接触せずにいる傾向がある。また自分自身の感情を把握する能力がない。
* 適切な対人関係スキルや人を信頼する能力に欠ける。
* 肉体的・精神的トラウマ、性的虐待等による心の傷を抱えているのに明確にそれと診断されていない修道者の割合が男女を問わず非常に高い。

男女の修道者にとって特にその意味合いが大きいものは、抑うつ症状を認めることが本人にとって挫折になってしまうこと、抑うつ症状の深刻さを過小評価する傾向があること、治療機関の利用が限られていること、恥の気持ちから精神衛生治療をなかなか受けようとしないこと、である。セントルークとしては、米国医師会が学術誌に掲載した前述の調査をきっかけとして、上長、養成者、霊的同伴者に対し、抑うつに対する認識や知識を高め、ケアを担当している人々とその情報を共有してもらうよう呼びかけていきたい。

顕著な徴候と症状
女性の場合:
* いらいら、引きこもり、号泣。
* 食欲の著しい増進または減退とそれに伴う体重の増減。体重増加の方が一般的。
* 疲労。気力や意欲の欠乏。
* 日常しなければいけないことに無頓着になる。祈れなくなる。
* 自己評価が低くなる。自己像が貧弱になる。睡眠障害。
* アルコールの消費量が増える。

男性の場合:
* 引きこもり。リーダーシップが取れなかったり、人前で意見をはっきりいえなかったときに頻繁に示される自己評価の低下。
* 仕事に没頭しているが、実際には仕事振りがあまり生産的でなく、以前はこなせた仕事にすぐ参ってしまう。
* 日常的に片付けるべき雑務や、身の回りのことがきちんとできなくなる。
* 運動などの気晴らしをすることが減ったり、やめてしまったりする。気力や元気がなくなる。
* アルコールの消費量が増える。ひとりで飲む場合が多い。
* 睡眠障害。食欲が著しく増進または減退する。
* 祈れなくなる。

私たちがセントルークでつちかってきた経験から、アルコールその他の物質濫用や衝動的に性的行動に走るといった問題行動の背景には、抑うつが潜んでいる場合が多いことが分かっている。

この件に関するご質問は、セントルークの診断プログラム、入院治療プログラム、または女性プログラムまで、ご遠慮なくお寄せ下さい。


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Vol.I No.2 1997年4月
2.「心理検査報告書の取り扱いについて」

ステファン・J・ロセッティ
(司祭・学術博士・司牧学博士)

上長は介入の一環として、修道者や司祭に心理評価を受けさせることが多い。この措置は、心理的な問題、たとえば抑うつ、不安、物質乱用、性的葛藤などさまざまな心理的問題や心と霊性にかかわる問題が生じている場合に重要である。所定のプロセスが終了すると、上長は書面で報告を受けることになるが、次に述べるのは、報告書を受け取った上長がよく直面する問題とその対処法である。

記載が難解である
一般に心理検査報告書には専門用語が多すぎ、フロイト心理学のテキストでも読まされているようで、十分な知識のない人には非常に分かりにくい。何をいっているのか分からないときは、電話で説明を求めるとよい。これからは、心理学の修士号や博士号を持っていなくても理解できる報告書を出してほしいと病院側に強く要求すべきである。自分の研究分野について本当によく分かっている心理学者なら、必要な情報を最小限の専門用語で伝える報告書が書けるはずであるから、あきらめずに要求することである。

手元に届くまでに時間がかかりすぎる
病院の中には、本人の所属教区や修道会に対して心理検査報告やアセスメントをまず口頭で行い、報告書は後日出すという申し合わせをするところがあるが、困ったことに書類が届くのに何週間も、場合によっては数カ月かかることがある。
しかし、クライアントがしかるべき責任委譲同意書にサインしたからには、監督者には、担当の心理専門家から適切な時期に総合的な報告書を受け取る権利がある。しっかりした報告書を出すのに数週間かかるというのであれば驚くに当たらないが、数カ月というのはいかがなものか。いつごろ報告書をもらえるかを担当者に確認しておくこと。特別な司牧上の理由で報告書を急いでいる場合は、期限がはっきりし次第、その日を伝えればよい。

裁判の証拠として利用できるか
上長の保管する心理検査報告書の一部が裁判所で証拠として開示されることもないわけではないが、これはまれなケースと考えるべきである。多くの裁判所は心理検査報告書の機密性を認め、尊重している。しかし、聖職者に関する報告書が最終的に使われることになったケースは刑事・民事双方で過去に数件ある。
ある種の事件について法的な理由で報告書類を残さないことに決めた場合は、病院から直接クライアントの弁護士に書類を送らせる方法もある。または、クライアントの上長宛には、詳細の記載を省いた簡単な所見概要だけを出してもらうという手もある。3番目の方法は、報告を口頭で受けるにとどめることであるが、裁判で証言することになった場合は、聞いたことを開示せざるをえなくなる可能性はある。
これは単純な問題ではないので、懸念があれば自分の地域の管轄権に関して十分な法的アドバイスを求めるべきである。

報告書の結論が曖昧である
心理学は不正確さをともなう学問であるが、その要因のひとつは人間行動の予測不可能性である。心理学的報告書に「と見られる」とか「のようである」といった表現が使われるのはそのためである。しかし司教や修道会の上長にしてみれば、クライアントが二度と破壊的な行動におぼれることはないとか、完治して今後は治療の必要はないといったことを確実に知りたいものである。
しかし残念ながら、心理学という分野でできる最善のことは、クライアントの現状についての評価を出し、対処の必要な領域をはっきりさせ、今後の生活のためにリスク要因を特定することである。心理学は人間行動を断定的に予測することはできないが、高リスク条件・低リスク条件を特定し、最善の治療法を提示し、可能な限り安全で健康的な環境を提供できる持続的な治療計画の概要を示すことはできる。
詰まるところ、司教や上長には確信にもとづいた意思決定はできないが、その時点での最良の情報にもとづいて司牧的な観点から慎重に決断することは可能だということになる。その情報の中には特に心理検査報告が入っている。

心理検査報告が情報源として価値を持つのは、有能な専門家によって時期を逃さず、読み手に分かりやすく書かれた場合である。所属する教区や修道会で求められるような報告を出してくれる治療プログラムなら、皆さんもやってみる甲斐があると思われるのではないだろうか。ご質問等は、セントルーク・インスティテュートまで、お電話でお寄せ下さい。


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Vol.I No.1 1997年2月

1.「退職の辞」
コンベンツァル聖フランシスコ修道会司祭キャニス・コナーズ

私は7年間トロントのサウスダウン精神病院の経営最高責任者を務め、その後5年間セントルーク・インスティテュートの院長として働いた。ここを去るに当たり、長年の責務を終えた今の思いを書いてみたい。かれこれ12年にわたり、さまざまな形で司祭や修道者ならではの苦悩に接し、またスキャンダルの被害者や上長、地元の教会が事件に対して見せるありとあらゆる反応に触れる中で私が学んできたこと、心に刻まれたことは何だっただろうか。
聖職者の幼児虐待というスキャンダルが誰にとっても身近なものになってしまうという、恥と苦痛に満ちた不幸な年月の間には、司牧に適した素質のある人材が、にべもない法的処分のために次々と姿を消していった。いつしか私たちは、軽口をたたく皮肉屋よろしく、自分たちは世間の鼻つまみ者の世話係だなどというようになっていた。ところが転機が訪れた。ジョセフ・バーナーディン枢機卿が性的虐待のかどで虚偽の告発を受けたのである。しかし何よりも重要なのは、枢機卿が見せた対応のおかげで、法的処分が中心だった教会の考え方が司牧的な視点を取り戻したことである。告発から一周年を迎えた日、枢機卿はセントルークを訪れ、入院患者とスタッフの前で自らの経験を語った。その日はまるで、真実が人となって私たちの前に立ったかのようだった。私たちを取り巻く環境は一変した。これこそが教会のリーダーたる人々の取るべき態度である。必要なのは人間の弱さを認めることだったのだ。
私が自分のオフィスという密室で告白を聴いた司教や管区長たち一人ひとりを、私はこれからも決して忘れない。誰もがそれぞれの事情で、つかの間の癒しと回復を求めて私のところにやってきていた。当時もし教会のリーダーたちの支えになるような奉仕職が教会の中に存在していたら、これまでのスキャンダルにまみれた年月はまったく違ったものになっていただろう。またリーダーたちから、自分の日常生活に関する秘密主義と黙秘の壁を打ち破ってみせる手本を見せられていたら、私たちのところにやってきた聖職者たちは、おそらく今とは別の道を歩いていただろう。
少なくともその内の何人かは、世間の圧力やスキャンダルによって無理やりセントルークに送られる前に、勇気を出して助けを求めていたかもしれない。これは単なる推測ではないと思う。
この12年の間、わずかな例外を除いて、悪意に侵された神父や修道者に私は会ったことがない。ほとんどが寛大な精神を持ってたくさんの仕事をこなしてきた人たちで、現実を認めようとしない否認という防衛機制によって身動きが取れなくなった人たちだった。彼らが恐ろしい秘密を抱えていることで精神的にも肉体的にも疲れ果てていることは、一目瞭然だった。こうした否認のパターンは概ね、叙階や無期誓願から5年以内に始まっている。私が12年にわたる日常的な観察から確信したことは、予防費用を注ぎ込むならこの5年間だということである。神学校がどれほど充実しようとも、実際多くの学校がみごとな実績をあげているとはいえ、やはり志願者が実際に聖職に就いてみるまで、その人の素質は知りえないものである。

このルークノーツの読者の皆様には、次の3点について十分に考えていただきたい。
1. 私が入院治療プログラムを担当した経験から自信を持っていえることは、否認と秘密主義の行動パターンを打破するなら、身近な手本から学ぶに限るということである。率直な発言には新しいものを生み出す力がある。初めから頭ごなしに説教をしても、黙秘や人目を忍ぶ行動パターンはなかなか破ることができない。また聖職者の集まりが悪い手本になって、当たりさわりのない会話に逃げる態度を助長することも多い。問題を抱えている人たちは、包み隠さず話しても他の司祭や修道者たちが聞こうとしないのを知って、仕方なく同じ態度を続けてしまうのである。
2. この5年の間に私たちを悩ませた人事上の問題のほとんどは、20年ないし30年前から引きずっている過去の遺物である。私たちはどうも、近い将来にはまず起こりそうもない問題の扱い方にばかり長けてしまう傾向がある。ここはひとつ、現代社会のさまざまな風潮について意見交換をする場を作るのが賢明ではないだろうか。私たちは今、神父や修道者になったばかりの人たちの興味関心や習慣、抱いている不安について何か問題を感じてはいないだろうか。また、不特定の相手との性的接触にかかわってしまう司祭や修道者が数の上では増えているということについて、話し合ってみるのはどうだろう。
3. 入院患者の中に、聴罪司祭は簡単に罪のゆるしを与えて典礼を終わらせただけだったが、治療を受けるようにもっと強く勧めてほしかったという声は多い。私たちは、本当はもっと骨を折って対応すべきだったかもしれないときに、勇み足でゆるしの秘跡を授けてしまう面がないだろうか。否認からくる疾患に関して私たちが学んだあらゆる点から見て、そろそろ私たちの司牧慣行を見直してもよいのではないかと思う。

この12年間の仕事の醍醐味はといえば、精神衛生の専門家たちから、霊的な側面に目を向けようとする熱意が感じられたことである。その人々の中には、当初「神の語りかけ」などすべてごまかしに決まっているといっていた人もいるし、確かにそのように証明されたケースも少なくはなかったのだが、しっかりした霊的同伴には明らかに良い効果があるということは、誰もが認めるところとなった。私がこの仕事に就いたきっかけは管区長の指示だったが、この仕事を続けることができたのは、入院患者から学ぶところが多かったからである。

(1996年12月10日、キャニス・コナー神父は5年間のセントルークの院長の職を退いた。)


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0.マラソンから学んだこと
臨床ソーシャル・ワーカー(LCSW-C)のヘティ・イルマーは、セントルーク・インスティテュートで継続治療の心理療法士(サイコセラピスト)として働いている。(訳注:米国のソーシャルワーカーは州公認資格で、修士号が必要。資格にはMSWとLCSWがあり、LCSWは精神科医、臨床心理士と同等に認知されている。)

私は最近になって、初めてマラソンという42.195キロの肉体と精神の耐久レースを完走した。達成までの道のりは長かった。最初にやってみようかと考えたのは何年も前だったが、それに必要な時間と努力と節制のためにほかの事を犠牲にする覚悟ができていなかった。4年前になってようやくトレーニングを始めたものの、気負いすぎて怪我をしてしまった。マラソンを再開するのに、さらに3年かかった。それからまる1年間、集中的な肉体と精神のトレーニングをして、やっと最終ラウンドまで戦える準備が整った。
マラソンをするのは、回復の初期段階にいる多くの人が経験することとよく似ている。最初に自分の病気を治そうと思いついたときに躊躇してしまうと、健康的な生活習慣を手に入れるためにすべきことを後回しにしかねない。その後、いざ回復に必要な手段を講じようと決心したと思ったら、健康的な生活習慣という目標を見失わせるような事態に見舞われるかもしれない。そうこうするうちに、ようやく養生の決意を固めたときには、回復に必要な要素をすべて日常生活に組み込むのに長い時間がかかってしまうことになる。
マラソンのトレーニングをしている間、私はたくさんの挫折や困難にぶつかった。ほかにしなければならないことがあって、しばらくトレーニングのできない期間もあった。小さい怪我もたくさんしたが、それは新しいテクニックを学ぶためのいわば「産みの苦しみ」のようなものだった。トレーニングも大詰めを迎えた頃、レースまであと数週間というところにきて背骨の筋を捻挫してしまった。こうしたさまざまな経験が重なり、特に背中を痛めたことがひびいて、私はマラソンを完走するなどという目標は不可能なのではないかと不安になった。自分の不安と戦うのは感情的に消耗する作業で、トレーニングを続けるのには大変な意志の力が必要だった。
この点でもやはり、マラソンと回復のプロセスはとてもよく似ている。多くの人にとって、治療生活の確立には感情面での「産みの苦しみ」が伴う。今までと違ったやり方で生活するという辛い作業に伴う痛みだ。回復にはしばしば再発という挫折が付き物だし、そのせいで諦めたくなるのも無理はない。再発の瞬間は過去の努力がすべて水の泡になったように見えるからだ。しかし、このような感情的にも、しばしば肉体的にも厄介な時期の真っ只中では、辛抱だけが回復のプロセスを長続きさせ、効果を高める唯一の処方箋である。
ついにレースの日になると、私は自分の肉体的、精神的、感情的資源のすべてを目の前のすべき仕事のために奮い立たせなければならなかった。私はまず、自分の完走する自身をなえさえるにような、試合前の緊張感と戦った。その気持ちをトレーニング仲間に打ち明け、「このためにトレーニングを積んできたんじゃないか。おまえならきっとできる」というような前向きな自己会話をして気持ちを静め、ストレッチやウォーキングで身体的なエネルギーを放出した。ひとたびレースが始まってしまえば、4時間余りのあいだ、過去に経験したことのないほど肉体的に過酷な運動をし続けなければならない。レース前の数週間は特に時間を取って、巧みなレース運びをする自分の姿を頭の中に描き、レースが苦しくなったときにすべきことを練習しておいた。また、自分を応援してくれそうな友人や家族のサポートや力を大いに利用した。
このようにして自分の「支援体制」を作ったおかげで、自分はやれるぞと信じる気持ちになれた。またトレーニングから学んだ教訓も利用した。私は「心の中のコーチ」と称する内心の声を使うことを思いついて、コースの難所である中間部分と、終盤の心臓破りの4.8キロを走っている最中には、その声から力と励ましをもらった。レースのあいだ中、精神を集中し、身体をリラックスさせるのに、私はさまざまな戦略を使った。そのおかげで何があってもうまく切り抜けることができたのだ。たとえば、何度もあったのだが、沿道の見物人の誰かが応援のカウベルをカランカランと鳴らすたびに、あらゆる身体活動の基本である自分の呼吸をチェックするようにした。これが功を奏して、私は自分の肉体の持てる限りの耐久力を駆使し、長いレースの途中でさえ、活力がみなぎっているのを感じることができた。またできるだけ笑みを絶やさないようにしたのが、自分の気分を高め、見物人の声援を誘うことにもつながった。回復のプロセスにおいても支援ネットワークは欠かせない。状況が厳しくなったときの励ましにもなるし、自分の基準や目標を設定する際に知恵を借りることもできる。
最後に、頑張るのが苦しくなったときでも、やめることは考えないようにした。その代わりに、自分が感謝していること、たとえば身体が健康なことや、まわりの人たちから愛情や支援をもらっていることを考えた。そのおかげで、その場の辛さから自分の注意をそらし、完走という目の前の任務に対する残りの決意と意欲を振り絞ることができた。最後の3.2キロは一歩一歩が本当に苦しかった。それでもさほど消耗しないうちにゴールを確信するところまでこぎつけた。ゴール直前では自分の勝利を祝って両腕を高く上げた。まさに私が想像の中でもトレーニング中にも何回となく練習したポーズだった。
フィニッシュ自体はあっさりしていて、拍子抜けするほどだったが、それでもなお深い満足感があった。回復のプロセスでも同じような体験をするのではないだろうか。回復のプロセスでは、困難にぶつかったときには精神的、感情的、社会的、そして肉体的資源さえも活用する能力が誰にでもある。そしてもっと息の長い回復のプロセスをたどる人になると、回復「をする」ことから回復「に生きる」ことへの移行が起こる。プロセス自体が日々深く味わうべきものになるのだ。
私はマラソンから学んだことを、これからも大切にして生きていくだろう。マラソンのおかげで、前向きな気持ちと忍耐力で困難に立ち向かう能力が自分にあることや、自分で立てた目標は、そのプロセスに関わり続けさえすれば達成できるということが分かった。また自分が大勢の人たちから愛され、支えられているということにも改めて気づかされた。こうしたことは、回復治療中の人が実践を通して学ぶことと同じである。12ステップ・プログラムの「12の約束」にあるように、もし回復のプロセスを信じるならいずれ私たちは「新しい自由と幸福」を知るようになる。そのプロセスは、私たちの誰もが勝利者になれるレースなのだ。

ルークノーツはセントルーク・インスティテュートの隔月発行の出版物です。
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