目 次
巻頭言
震災から考えるソーシャルメディアの役割 下山みどり
震災とメディア 青木蒼真
――メディアによる報道災害――
各メディアが伝えた東日本大震災 斎藤江里奈
――マスメディアとソーシャルメディアの融合を考える――
震災とソーシャルメディア 松本紗由記
――ツイッタ―は震災時どう役に立つのか――
震災時のソーシャルメディア 大蔵三津紀
ラジオと震災 田中慧
東日本大震災と共同体 横田真由美
――災害時における人々の共同体意識――
双方の気持ちを考える 加藤朝子
――3.11を乗り越えるために――
子供たちの心のケア 小林愛香
心のつながり、復興に向けて 設楽淳太
災害ボランティアにおけるコミュニケーション 上村早紀
世界が惚れた日本の道徳観 三田直輝
震災と共に生きる女性たち 小早川美帆
思想としての東日本大震災 小笠原脩斗
東日本大震災を共有して 木村信子
日本と原発 永江祥子
福島原発で何が起こっていたのか 藤原一己
次世代を担うエネルギー 藤原誇夏
――原子力に頼らない未来へ――
私たちにできること 川添佳穂
――新しい日本を創るために――
編集後記 上村早紀・小林愛香
震災から考えるソーシャルメディアの役割
下山みどり
はじめに ― 排出した「震災ソーシャルメディア」 ―
東日本大震災を契機に、ソーシャルメディアに対する関心が高まっている。その代表的なメディアであるツイッター上では、地震発生直後から、「□□さんの行方がわからない」、「○○避難所では食糧が不足している」といった安否確認や物資の要請をはじめとする数多くの情報が飛び交った。
これまで、被災地以外で生活する者は、発生直後における罹災した人々の声をテレビやウェブサイトを通じて知るのが一般的であったが、このたびの災害では、ツイッターを通じて人から人へ伝播した。著名人や芸能人など、多数のフォロワー(購読者)を抱えるいわゆる「大物」も情報の拡散に参加した。本震災では、こうした多くの国民が、被災地の状況をこれまでとは違った手段を通じて知ることになった。
しかし、この個人が発出してソーシャルメディアを流通させる情報は、そのままでは流れて消えてしまう。このため、ストック 化して共有・二次利用するための取り組みが震災発生直後から様々な主体によって数多く立ち上がった(図表参照)。本論ではこのような災害時の情報活動を目的として立ち上げられたメディアを、一般のソーシャルメディアと区別するために「震災支援ソーシャルメディア」と呼ぶこととする。
災害対応にあたる公共機関や事業者には、震災支援ソーシャルメディアの情報を取り入れて有効活用することが期待されるが、現状では手探りの状態にあるといえる。活用が難しい理由は、デマの可能性のあることが大きいからである。また、個人情報保護や著作権管理の観点から躊躇するところもあるだろう。
本論では、震災支援ソーシャルメディアの事例を分析し、情報の信頼性を中心に類型把握を行った。そのうえで公共機関や事業者が同サービスを活用するためのポイントを整理し、最後に震災を通じて高まる共助の機運を継続的に活かすための取り組みについて提案する。なお、本論は震災発生後1ヶ月あまりの時点における、各メディアの評価が定まっていない状況下において考察したものである。
第一章 「震災支援ソーシャルメディア」の類型
ソーシャルメディア上を流れる情報の信頼性に着目し、震災支援ソーシャルメディアを、1)フィルタリングモデル、2)共同作業モデル、3)情報源特定モデル、の三種類に類型化した。なお、実際には、各震災支援ソーシャルメディアが特定の類型に該当するというよりは、複数の類型の組み合わせによって構成されている場合が多い。
1)フィルタリングモデル
ソーシャルメディア上を流れる情報を、一定の条件で取捨選択して情報を集約するモデルである。必要な情報を判別して抽出するフィルターを適用することで、大量のフロー情報を機械的に処理して整理することができる。ただし、不要な情報を削減することはできても、情報そのものの信頼性を担保することは困難である。
フィルタリングモデルは、発生直後のような信頼できる情報源が機能していない、また対応が追いついていない場合に、情報の空白を埋める役割を担う。本震災では、(図表)の「anpiレポート」が典型的な例である。
ツイッター上では、「ハッシュタグ」と呼ばれる、テーマや話題のカテゴリ分類を付けて送信することで、その分類に関心を持つ不特定多数の利用者と共有することができる。本震災時には、安否確認の場合は「#anpi」、避難所や避難警告は「#hinan」をはじめとする様々なハッシュタグが用いられた。「anpiレポート」では、この「#anpi」とハッシュタグのついた情報を集約化し、ウェブサイト上で、わかりやすいリスト形式で提供を行っている。
他方、ハッシュタグの有無にかかわらず、テキストマイニングによって文章を解析して被災地が必要としている物資の情報を地域別に整理している事例が「被災地の声分析レポート」である。もともとマーケティングを目的に開発されたアプリケーションを、被災地のニーズ分析に適用してもので、大局的な情報把握に活用されることが期待される。
2)共同作業モデル
安否確認のような特定の目的に対する情報を登録・共有するために構築されたウェブサイト上で、参加者が共同で作業をするモデルである。多少間違いのある情報が登録された場合でも、他者の指摘で修正されたり、関連の情報が登録されたりすることで、情報の精度を検証することができるため、比較的情報の信頼性は高いと考えられる。
共同作業モデルは、発生直後ではサイトが立ち上がっていなかったり、存在が知られていなかったりするために機能しづらいが、一度群集に認知されると急速に普及し、多くの参加者によって利用される。本震災で活用されたメディアでは、(図表)内の「パーソンファインダー」や「sinsai.info」が該当すると考えられる。
パーソンファインダーは、グローバル企業のGoogle社が運営しており、過去にハイチやニュージーランドで発生した震災時に利用された実績があり、本震災においても、地震発生後数時間で特設サイトが立ち上がり、60万件以上の情報登録がなされ、多くの参加者に利用さている。
「sinsai.info」は、非営利団体であるオープンストリートマップ・ジャパンの有志が関係者に呼びかけて立ち上げたサイトで、地図情報に呼びかけて立ち上げたサイトで、地図情報とリンクして災害情報を登録・共有できる。また、運営主体が優れたエンジニアのボランティアで構成されており、機能や性能が日々改善されていったというものも特筆に価する。
3)情報源特定モデル
マスメディアや地方自治体、あるいは車載器のようなデバイス等の特定の情報源に基づく被災者の情報等を登録して共用するモデルである。事実ベースであり、かつ情報源が特定されていることから、情報の信頼性は高いと考えられている。
情報源特定モデルは、情報の登録者が限られているため一度に大量の情報を収集することは難しく、発生直後よりも一定程度の時間が経過し、被災地の情報が比較的入手しやすくなった状況で機能する。(図表)において、本震災では「消息情報チャネル」や「自動車・通行実績情報」が該当すると考えられる。
「消息情報チャネル」は、テレビ局が避難所等で取材した情報を動画閲覧サービスYouTubeに設置した特設サイトで提供している。被災者の安否や避難所の状況をリアルに伝える映像を、検索して再生することができる。
また「自動車・通行実績情報」は、自動車が通行した実績のある道路の情報を、地図上に表示してインターネットを通じて提供するサービスである。自動車に搭載したプローブと呼ばれるデバイスから送信される位置情報を、NPO法人のITSジャパンが大手自動車メーカーやカーナビ事業者から入手・とりまとめて運用している。
第二章 震災支援ソーシャルメディア活用のポイント
次に、震災支援ソーシャルメディアについて、公共機関や事業者が実際に活用する場合のポイントとして、1)時期に応じたメディアの選択、2)信頼性の評価と割り切り、3)共同作業への参加、4)作業の委託、の観点から考察する。
1)時期に応じたメディアの選択
発生直後は、被害規模の概要把握に努め、初動体制をとることが重要である。この時期は情報が不足しがちであり、不確かであっても、個人が輩出する情報を活用することが重要であるため、フィルタリングモデルによるメディアの活用が有効である。時間の経過とともに、共同作業モデルのメディアが活発になってきたら、情報の信頼性にかんがみて切り替えたり、併用したりすることが適切である。
実際に、避難所等の情報提供サービスをしている「あぐらいふ災害支援情報」では、初動期はツイッターをはじめとするソーシャルメディアの情報を活用し、行政機関から情報が入手できるようになってからはそちらに切り替えて運用をしている。
2)信頼性の評価と割り切り
大きな災害では、流言飛語が飛び交ったり、チェーンメールが出回ったりする。実際に本震災においても多数見られた。やはり、メディアを活用する際には、信頼性について一定の評価が不可欠である。つまり、スパムフィルタやテキストマイニングのどのツールを用いてフィルタリングしたり、衆人環視の仕組みを整えたりしているメディアを峻別することが重要である。
一方で、情報の信頼性を100%にすることは不可能であり、無謬性を追求すると何も利用できなくなってしまう。情報の信頼性に留意しつつも、ある程度の誤りがあることを受容して活用することが必要である。
3)共同作業への参加
ソーシャルメディアはその名のとおり、双方向のメディアであり、情報を利用するだけでなく提供する側にもなれる。共同作業モデルのようなメディアに情報提供を行って共有されると、最新の情報が追加されたり誤りを指摘されたりできる。そして何よりもより多くの国民に情報を共有してもらえるメリットがある。
4)作業の委託
anpiレポートではツイッター上のコメントをリスト化する作業を、パーソナルファインダーでは画像で撮影された名簿の入力作業を、インターネット上の不特定多数の人に委託して実施している。これは、群集(crowd)へ業務委託(sourcing)することから「クラウドソーシング」といわれ、近年注目されている手法である。本震災では、被災地以外の住民が、少しでも役に立ちたいという思いから多数参加している。
また、sinsai.infoでは、大手ポータルサイト事業者や国土地理院から被災地の航空写真を入手し、最新のデジタル地図の作成作業をクラウドソーシングによって実施している。こうして作成されたデジタル地図は、公式なものとして採用することはできなくても災害復旧には大いに役に立つことが期待される。
第三章 継続・拡大に向けて求められる取り組み
―「新しい公共」の確立に向けて―
前述のとおり、震災を通じて、様々なソーシャルメディアが構築され、利用されている。そのほとんどが、国民一人ひとりの公共の精神に立脚していることは言うまでもない。現政権が発足以来、既存の公共機関によらず、ボランティアやNPOといった個人・組織による公的な活動として「新しい公共」の重要性を説き、新たな社会作りを模索してきたこととも呼応している。ここでは、この高まった共助の機運を継続的に活かすための取り組みについて提案する。
1)役割分担の明確化と協力関係の確立
現状は、東日本大震災の応対のさなかにあり、今後も長期対応の必要性が確実視され、復旧・復興に関心が集中している。その中で、発震後から取り組まれてきた災害支援活動の継続が困難になりつつあるものも出てきている。
例えば、sinsai.infoは、amazon社の提供するクラウドサービスやヤフー社の負荷分散サービスを利用しているが、本来、これらのサービスは商用であるところを、震災対応ということで無償提供されている。しかし、長期に及ぶ復旧対応を見込み、継続的なサービス提供のための安定的な予算の確保が求められる。
仮に、このような災害支援ソーシャルメディアの公共性が非常に高いということであれば、行政機関が予算の手当をすることも考えられる。すでに内閣官房の「助け合いジャパン」公式にリンクされているように、行政機関から公認することも継続の一助になろう。
まずは、この新しい公共としての災害支援ソーシャルメディアをきちんと評価し公共性が確かなものと認められるのであれば、災害対応の戦力として位置づけ役割分担を明確にし、予算を手当することも必要である。
2)個人情報保護をはじめとする制度面での手当
本震災では、安否確認を求めるため、大量の個人情報がネット上を駆けめぐった。個人情報保護法導入当初は、過剰反応が起こり、個人情報の利用が過度に差し控えられることもあったが、本震災では公的機関・当事者ともに国民の生命・財産の安全を優先し、有効活用されているといえる。
しかし災害後一定期間が経過し、復旧期になってもなお、体調の個人情報がネット上に掲載されたままというのは問題である。実は、事業者にとっても安否情報をいつまでもネット上に掲載しておくのはリスクが高く、適切な時期に情報の掲載を取りやめる、消去したいというニーズがある。事業者の自主的な判断に任せるだけでなく、責任のある機関が一定の検討の後に方針を示すことが必要である。
このような制度的な課題は、ほかにも著作権をはじめとする知的財産権にも及ぶ。クラウドソーシングによって作成されたコンテンツの権利は一体誰に所属するのか。さらに、サービス提供者の視点に立っていえば、サイト上に誤った情報を登録され、それに伴って被害が生じた場合など、現行のプロバイダ責任制限法ではカバーの及ばない課題も残っている。やはり、責任のある機関による方針が必要となることもあろう。
3)ソーシャルメディア活用のユーザ教育
ソーシャルメディアに対する評価は、発災後はきわめて好意的なものが多かった。一方で、ソーシャルメディアを初めて活用するユーザも大量に出現し、情報を鵜呑みにしたり、詐欺行為に引っかかったりする物も少なからずいた。
ソーシャルメディアを飛び交う情報には、取捨選択して自己責任で利用することが重要である、といったリテラシー教育が必要となる。公的機関のみならず、それこそ新しい公共に期待される領域の仕事であろう。
おわりに
大規模災害では、住民の生命・財産を守る立場にある地方公共団体も大きな被害を受けて、本来の機能を発揮できない上、避難場所の運営管理や瓦礫撤去、仮設住宅の設置と次々に公的機関でしか負うことのできない業務を処理しなければならない状況になる。本震災ではまさに、公的機関の手の回らない部分に、個人や事業者が自発的に動き、そして確実に機能している。この日本全土に高まった共助の機運を活かし、新たな社会づくりを模索する取り組みが国民一人ひとりに求められている。
図表:ソーシャルメディアの事例
ソーシャルメディア
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パーソンファインダー(消息情報)
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Sinsai.info
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anpiレポート
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あぐらいふ
災害支援情報
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開設日
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3月11日
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3月11日
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3月15日
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3月17日
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コンテンツ
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安否情報
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地図と紐づく災害関連の情報全般
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安否情報
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避難所、仮設住宅、医療施設等の避難者数等の情報
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情報源
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特設サイトへの個人の投稿、NHK等の報道機関、警察庁、都道府県
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特設サイトへの個人の投稿
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ツイッター上の個人の投稿
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ツイッター上の個人の投稿・都道府県の情報
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運営主体
/プラット
フォーム
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Google
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オープンストリートマップ・ジャパンのボランティア
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個人
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Agoop/あぐらいふ for iPhone
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利用状況
・その他
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登録件数
約60万件
(4/23時点)
ハイチやニュージーランド地震において実績
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登録件数 9898件(4/21時点)
アクセス件数
約64万件(4/17時点)
ハイチやニュージーランド地震において地図作成の実績
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登録件数 悪8011件(4・23時点)
ツイッター上の個人の投稿で、「#anpi」の着いた情報をリスト化・マップ化
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登録件数 約7000ヵ所のデータを随時更新(4/23時点)
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ソーシャルメディア
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消息情報チャンネル
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自動車・
通行実績情報
|
被災地の声分析
レポート
|
ほしい物リスト
|
開設日
|
3月18日
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3月19日
|
4月1日
|
4月19日
|
コンテンツ
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安否情報
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自動車の通行実績
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被災地が必要としている物資の集計結果
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避難所が個別に欲している物資
|
情報源
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TBS系列のJNN取材団とANN取材団が取材した安否情報
|
プローブ情報(自動車が走行した位置などの情報。車載器から送信される)
|
ツイッター上の個人の投稿
|
特設サイトへの個人の投稿
|
運営主体
/プラット
フォーム
|
ANN/YouTube
|
ITSジャパン/Google
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野村総合研究所/TrueTeller
|
amazon
|
利用状況
・その他
|
チャンネル登録数 1112人
再生回数 796000回(4/23時点)
|
Honda、パイオニア
、トヨタ、日産の複数社が提供する情報をNPOが統合し、Googleマップを通じて提供
|
ツイッター上の個人の投稿をテキストマイニングして、地域別に必要としている物資を集計
|
リストを登録している避難所等 19ヶ所(4/23時点)
各避難所が欲している物資のリストと購入提供意向のあるボランティアを仲介
|
(参考文献)
・『検証東日本大震災そのときソーシャルメディアは何を伝えたか?』 立入勝義 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2011
・『ソーシャルメディアとコンテンツ「いま」を伝え、「共感」でつながる』 デジタルコンテンツ協会編 デジタルコンテンツ協会 2011
・anpiレポート http://anpi.tv/ (11/20参照)
・sinsai.info 東日本大震災 みんなでつくる復興震災プラットフォーム http://www.sinsai.info/ (11/20参照)
(2年15組23番)
震災とメディア
――メディアによる報道災――
青木蒼真
序章
2011年3月11日、大地震が日本を襲った。東日本大震災は、東北地方沿岸部を中心に壊滅的な打撃を日本に与えたが、それは、紛れもなく「天災」であった。ところが、その直後に福島で発生した東電の原発事故は違う。事故発生直後の対応を繰り返し誤り、結果、人類史上最悪レベルの放射能事故という「人災」にしてしまったのだ。
本来、そうした「人災」を防ぎ、政府や企業の情報隠蔽を暴き、追求するのがジャーナリズムの役割の一つである。今回の震災でいえば、放射能の危険から国民を守る、それは重要なメディアの役割であるのだ。
しかし、日本のメディアは違った。3.11以降、政府や東電と一緒になって根拠のない「安心」、「安全」を繰り返し、国民を被曝させ、海への放射能汚染水の放出を黙認していた。このような報道の不作為による災害、「報道災害」の事実を以降、述べていきたいと思う。
第1章 〜日本の報道は何のためにあるのか〜
3.11以降のメディアの対応
今回の東京電力福島第一原発事故の例が示しているように、日本の大手メディアは自らの既得権益にのみ汲々とし、結果として政府と東京電力と一緒に安全デマを流し、犯罪行為に加担してしまっている。権力を監視していくことがメディアの最低限の役割であるにもかかわらず、情報を出したがらない権力側に情報を出せ、と迫ることすらしなかった。
被災地の一つである南相馬市では、3月12日以降、全国紙の配達が止まっていた。どこに行っても置いてある新聞は3月12日の朝刊が最後という状況であった。4月下旬あたりから地元紙は再開したが、他は記者も逃げ出し流通も止まっていた。命がかかっている住民からしたら、こんな酷い話はない。「生死がかかったクライシス」の中で、日本のテレビや新聞は悲しいほど役に立たなかった。住民がここに留まるべきか、逃げるべきかという生死をかけた判断をするのに役立つ情報を提供できない「報道」なんて一体なんの存在価値があるのだろうか。
テレビ、新聞がさらに罪を重ねているのは、自分たちが新聞を届けられない、新聞も発行できない、取材もできないにもかかわらず、取材源である官邸の情報を自分たちだけで独占しようとしたことである。震災後、テレビや新聞は被災地に情報を届けられなくても、インターネットを見られる状況にあった人は大勢いる。それなのに、被災地にちゃんと届く情報を発信しているインターネットや雑誌記者を大手マスメディアは会見の場から排除してきたのである。自分たちは発信できない、届けることもできないにもかかわらず自分たちだけで情報を独占してきたのだ。Twitterやmixi、facebookなどのSNSを通じて情報が被災地に届けられたが、テレビや新聞よりもネットがライフラインの役割を果たしたことになる。しかし、大手メディアはその発信を妨害してきた。これは本来メディアの担っている役割と全く逆の行動ではないか。
記者クラブが人を殺す
また、東京電力や政府など、権力側から情報を引き出さなければならないメディアが、逆にその広報活動を行ってしまっている。東京電力の発表した工程表によると、収束まで6カ月から9カ月と書いてある。この発表をメディアがそのまま報じると、住民は「最長で9カ月」と思ってしまう。
しかし、実際のところ土壌の除染には10年、最低でも5年はかかる。そうなってくると住民の対応も、引っ越そうかな、新しい土地で別の人生を歩もうかな、転校しようかな、会社変わろうかな、となってくる。それを止めてしまっているのが最大の罪である。メディアはこれに対して、「政府や東京電力はこう発表したが、自分たちのこれまで取材してきた情報と分析検証のよると、これはデタラメ工程表だ」、と報じるべきである。
他にも各紙が載せていた「福島県の放射線量分布マップ」には、地図中に市町村名が読売新聞以外の新聞に書かれていない。自分の頭の上に放射能が降ってくるのか、今日洗濯物を干していいのかどうなのか、いつ子供は放射能港汚染圏外の学校から帰って、近所の学校に通えるようになるのか、ということが地元の住人の最大の関心である。民放や「福島民友」などの地元紙では、ちゃんと自分たちの村がどうなっているのかを市町村別に報道し、紙上には表が掲載してあって一目瞭然だ。しかし、毎日新聞や朝日新聞では住民が自分たちの住んでいるところの放射線量がわからない。地元の人々のことが頭から抜けているのである。
また、新聞などで「風評被害」などと書いてあるが、あれも間違っている場合がある。4月27日にJA栃木中央会が「東京電力に対して12億円の損害賠償を請求する」と発表していたが、あれは風評被害ではなく明らかに放射能による実害である。当時、栃木県ではホウレン草やかき菜、シュンギクから暫定基準値を超える放射性物質が検出されていた。それにも関らず、テレビや新聞では「風評被害」と言い続けていたのである。最も、本当に風評被害にあっている農家の方々もいるのだが、危険なものを安全だと言って野菜が売られていたとすると国民にとってこれほど恐ろしいことはないだろう。
第2章〜3.11で露呈したこと〜
日本の報道に次はない
3.11は、あらゆる意味で日本に課せられた「最高に厳しい条件下での実力テスト」みたいな部分がある。報道だけでなく、政府や国民も試されている。今現在、私たちが目にしている以上の力は今後出ないと思う。今出ている報道、そして政府の実績というのが今の日本、私たちの持っている最高の実力であり、そして、もう次はないのである。メディアもこれ以上なにをしたらいいかわからない状況になっており、情報を正しく伝えられていない、という意識すらないのかもしれない。あらゆる情報を公開した方がいいに決まっている。しかし、それをしようとしない。特に今回の原子力発電所の事故のような最大級のクライシスがそうだ。情報公開していれば様々な知識人から知恵をもらえるわけだし、日本国内に限らず海外からも知恵をもらえる。日本の経済省、原子力安全・保安院、あるいは原子力安全委員会みたいな閉じたエリートサークルの人たちだけが知恵を出している状況で最善の解決策は生まれない。なぜなら彼らはこの時点で失敗者であるからだ。冷却水の放出に使われているコンクリートポンプ車も民間からの提案を導入したものだし、なにも情報を出さないで東京電力と政府だけで進めていった結果、事態がどんどん悪化していった。そもそも情報公開の重要さを日本国民全体が理解できていなのではないだろうか。情報公開しなかったおかげで国民がパニックにならずに済んだ、などと言う人もいる。正しい情報が出されなかったために、正しい対策が取れなかった。取られた対策が適切なものであったかどうか判断することもできなかった。そのために被曝してしまった人がいるにもかかわらず、それでもみんながパニックにならずに済んで良かったと言えるのだろうか。
クエスチョニングの力がない記者
報道の劣化ということでいえば、クエスチョニング(相手を疑い、問いかける)の力がほとんどなくなってきている。例えば、先ほども説明した東京電力の工程表である。本当はもっとかかるのではないのか、どうやって9カ月でやるのかと問いかけることもしない。東京電力の発表をすべて鵜呑みにしてしまっている。そして既存メディアは1面トップで「6カ月〜9カ月」と報じている。せめて、それは違うのではないか、嘘なんじゃないのかと最初のクエスチョニングをするだけで全然違ってくる。それをしないために東京電力の発表にお墨付きを与えてしまう。これはもはや「報道」ではなく「広報」である。このように報道する側が権力側の発表を垂れ流す「広報」としかいいようがない仕事をすることで権力側も危機感がなくなる。そのような政府と報道の共存共栄の関係が続いた結果、今日のこのあり様である。政府も報道も、情報公開の重要性を本当の意味で理解できていないのである。
第3章〜いかにして報道災害から身を守るか〜
1億総洗脳時代
原子力安全・保安院は、東電の事務職員2人の被曝量が基準値を超えたと厳重注意をしていたが、それを言うなら福島県民はそれくらい既に被曝している。1mSVの処罰を報道した後に「20mSVの…」とニュースをそのまま流している。それでもマスメディアはそれを「おかしい」とは言わない。逆にTwitterやfacebookではみんな「おかしい」と言っている。既存メディアは「Twitterがおかしい」と言う。非常に倒錯した状況であり、テレビや新聞が報道として機能していない。しかし、洗脳が少し解け始めてきたという考え方もできる。以前であれば、普通の人は状況を一切把握できなかった。それが今、多くの人が「あれ?」と混乱しているということは、逆にここから変わっていくチャンスであるとも言える。半年前であれば、「そうか」と洗脳されて終わっていたかもしれない。だが、違う意見、異質な意見が社会に存在するんだ、ということを可視化できたことは大きいのではないだろうか。
多様性こそすべて
日本の場合、情報に対しては、「盲信」とその反対の「拒絶」、の2つしかない。例えばある新聞社が誤報を打つ。普通なら「所詮、同じ人間の作っていることだし間違いもある」となるところが、「信じていたのに間違えた。これから何を信じていけばいいんだ。」となってしまう。そしてまた他のものを信じて寄りかかる。その繰り返しである。信じることは大切だが、こと政府、企業を全面的に信じてはいけない。自分の身を守るには健全な懐疑主義がないといけないのである。
結論
これまでメディアによる報道災害の事実を述べてきたが、結局のところ私たちがいかに間違った情報に惑わされずに正しい判断ができるかが最も重要なのである。報道災害から身を守る一番の方法は、まず疑うことである。そして日本のテレビ新聞だけでなく海外メディアや週刊誌、インターネットなどから多様な情報を得て判断することが大切である。しかし、判断の際にどう思考するのかが問題になってくる。一つの方法として、思考リテラシーの高い人の周りにいることが挙げられる。今は、Twitterやfacebookなどでそのような人とつながりをもてる時代である。さらに、自分自身で的確な判断ができるように、自身の思考力を磨いていくことである。そうすることで報道災害から身を守っていくことができるのではないだろうか。
参考文献
『報道災害【原発編】‐事実を伝えないメディアの大罪‐』
上杉隆・鳥賀陽弘道、幻冬舎新書、2011年7月30日発行
(2年10組1番)
各メディアが伝えた東日本大震災
〜マスメディアとソーシャルメディアの融合を考える〜
斉藤 江里奈
はじめに
私は木村ゼミで東日本大震災について考えることで、震災に伴うメディアの役割に興味をもつようになった。地震が起きたとき私はアルバイト先におり、帰宅難民となったため、翌日の夕方帰宅するまでテレビを見られなかった。思いついたのが、mixiを使って友人の様子や交通状態などの情報を手に入れることだった。その経験から、SNS(ソーシャルメディア・ネットワーク・サービス)が少なくともそのときの状況では重要な役割を果たしていたのだと確信した。これまで日本で起きた災害時には注目されなかったソーシャルメディアが、今回あらゆる面で活躍を見せたことによって、現在それがどれだけ人々の生活に浸透し、密接に関わっているのかを実感する出来事となった。震災報道も落ち着き、見直されて、ソーシャルメディアとマスメディアそれぞれの良いところと悪いところが見えてきた今、双方の良い面を融合させたよりよい報道はできないのか考えてみたいと思う。
第1章 ソーシャルディアの活躍
ツイッターやフェイスブック、ミクシーといったソーシャルメディアは東日本大震災を受けてより注目されるようになり、ユーザーは20パーセントも伸びたという。震災直後、電話やメールがなかなか使えない中、ソーシャルメディアには繋ぐことができ、多くの人がネット上で安否を確認しあった。避難所や交通機関の情報も次々と入ってきて、繋がっている安心感やリアルタイム性というものが確かに感じられた。『日経トレンディ』の6月号巻頭特集で、ソーシャルメディアの企画を組み、「東日本大震災でフェイスブックやツイッターなどのSNSがどう使われたのか」を問うアンケートがあった。そのなかの、「震災時に最も役立ったネットワークサービスをひとつ選ぶとしたらなんですか。理由も教えてください。」という問いかけにたいし、最も多い回答はツイッターだった。ツイッターが役立った例として挙げられていたもののなかには、停電で情報収集が難しいなか、ツイッターで友達に津波が来ていることを教え、実際に非難して助かったというような奇跡的な話ものっていた。このようなソーシャルメディアの活用は大きな注目を集め、イギリスBBCのテクノロジー番組である「Click」では、「東日本大震災でのソーシャルメディアは、単なるソーシャルではなくクルーシャル・ネットワーク(生命を左右するほどの重要なネットワーク)になった。」と報道された。日本にいた外国人も国際電話が不通になったため、フェイスブックやツイッターで海外にいる知人に自身の安否を報告したという。ソーシャルメディアは海外とも直接繋がっているため、国際化が進む今後もより重要な情報収集ツールとして重要な役割を果たしていくであろう。
また、マスメディアではテレビ局同士、新聞社同士が連携するということはほとんどないのに対し、ソーシャルメディア上では、「インフルエンサー」と呼ばれる影響力のある個人同士がやりとりをすることもしばしばあり、お互いに支持したり、議論したりする。こういったインタラクティブ性やマスメディアでは伝えられることのない情報や映像も得ることができるという側面もソーシャルメディアの魅力である。原発事故を受けパニックに陥りそうな時も、専門家の意見をツイッター上で見ることができ、私を含め参考にした人も多かったと思う。しかし、コスモ石油にあったようなデマ情報の拡散、放送事故やハプニングといったものも起きやすく、情報が修正されることもよくあるというところは、ソーシャルメディアにおける問題点であると言える。
第2章 マスメディアが伝えたこと
マスメディアは一方通行の情報配信を主な役割とする。テレビは自分から積極的に情報を収集していかなければならないソーシャルメディアとは違い、電源を付けてチャンネルを選びさえすれば情報が流れてくる。その簡単さが年配の方などには必要なのだと思う。震災を受けての政府の動きなどはテレビが1番わかりやすかったのではないだろうか。私も、ソーシャルメディアからの情報収集はもちろんしたが、家では毎日テレビを見ていた。家族もテレビからの情報に信頼をおいていた。ある本に掲載されていた「震災に関する情報について、重視しているメディア・情報源のアンケート」でも、やはりテレビ放送がトップであった。マスメディアはユーザーが多いだけに影響力も大きく、信頼度も高いため、ソーシャルメディアに比べたらより正確な情報が求められる。これがマスメディアの良い点なのだろう。
一方、マスメディアの問題点として考えられるのは、東京電力の会見などに見られたように、スポンサーの意向には逆らえないことだろう。世界最大規模の民間電力会社である東電は広告業界の大事なお得意さんであるがゆえに、大手のメディアは控えめな態度を見せた。このように、マスメディアにはスポンサーの意向や政府の意向が少なからず影響してしまう。放送局は政治的に公平であること、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすることが求められるが、その点が不十分であるように感じる。
私は震災直後にラジオ放送を聴かなかったのだが、この論文を書くにあたって調べてみると、ラジオ放送局の取り組みについても知ることができた。大阪毎日放送は16年前の阪神淡路大震災から『ネットワーク1・17』という災害報道番組を継続して放送しているという。これは地震の3ヶ月後から始まった番組で、被災地の今を記録しながら、問題点や課題を探って復興の現実を見つめていく、被災者に向けた被災者のための番組だ。毎週決まった時間に被災者にとって有益な情報が確実に聴ける番組があるということで、安心感を与えることができる。取り上げる内容も住居、仕事、福祉、まちづくり、ボランティア、行政など多岐にわたり、復興していくなかで新たにいろいろな問題も発生するので、そういうニーズにも対応していく。今回の地震では『ネットワーク3・11』ということで、大阪の毎日放送と宮城の東北放送をつないで放送をしているそうだ。このような被災地に向けた放送に徹しているラジオ局があることはとても良いことだと思う。やはりラジオは災害時に強く、大きな余震による津波警報を聴くために、津波に襲われる可能性の高い地域では、小型ラジオを持参して片づけなどをする被災者もいたというから、ラジオも代表的マスメディアとして重要な役割を果たしていたと考えられる。
第3章 ソーシャルメディアとマスメディアの融合
今回の震災で、ソーシャルメディアがどう機能したかをみると、単体で機能したという側面とマスメディアを補完するかたちで機能した側面があったということがよくわかった。ソーシャルメディアとマスメディアは東日本大震災でそれぞれの特徴を生かして活用されていた。その融合もすでに始まっていて、テレビ、新聞、ラジオで流した情報はそのままリアルタイムでオンライン版に反映され、視聴者、読者からフィードバックがくる。ソーシャルメディア上で話題のインフルエンサーがテレビに出演することも増えてきた。マスメディアの優位性がその権威性や客観性、そしてクオリティというものにあるとするなら、ソーシャルメディアには即時性や簡易性、そしてなにより、人々からの人気という優位性がある。お互いに結び付くことはどちらにとってもメリットになることである。ソーシャルメディアを情報収集の場として活用するにあたっては、誰とどうつながっているのかが重要となる。それによって、得られる情報の質、量、時期が大きく違ってくるのだ。情報の発信にも同じことが言え、いざというときにツイッター上で情報を拡散しようにも、フォロワー数が少なければ、その情報は遠くまでは届かない。テレビやラジオのように電源をつけてチャンネルを合わせれば情報が入ってくるわけではなく、普段からの努力が必要なのだ。緊急災害時に活用させるためには事前に自らのソーシャルデバイドを整えておく必要がある。そこで、マスメディアを通して、知っておくと役立つインフルエンサーやソーシャルメディアの使い方をわかりやすく紹介したらどうかと思う。双方からの情報が得られるようになれば、膨大な量の情報が入ってくる。そのため、自己の判断で情報を選択していくことが求められるが、マスメディアだけから情報を得るよりも多くの視点や立場から情報が得られるのは事実だ。災害時などに使える連絡手段を増やしておくという意味でもソーシャルメディアの知識はあったほうがよい。そして海外にいる日本人や日本にいる外国人にも情報が入るような体制づくりも進めていけたらいいと思う。
おわりに
今回この論文を書くにあたって調べる中で、各メディアがそれぞれにできることはなにかを考え、努力していることがよくわかった。情報を発信する側ではなく受信する側にしかいなかった私が、放送事故やデマの流出について批判はできないと感じた。人々はみんな誰かのためになればいいと思って情報を拡散していたのだ。それが間違っていたのなら、責任がどこにあるかよりも冷静に正しい情報に修正すればいい。これだけ多くの情報源があるのだから、それをどう判断するのかは自己責任になってしまうから難しいと思った。やはり今の社会でソーシャルメディアとマスメディアのどちらかだけを使っていくことはできず、一体不可分なものになっている。東日本大震災の影響でソーシャルメディアのユーザーも増えたのだから、その有効な使い方や注意すべき点などを、今後マスメディアが協力して広めていったら良いのではないか。そうなれば、次に起こるかもしれない非常時にソーシャルメディアがより多くの人に有効に活用されるにちがいない。ソーシャルメディアが普及していっても、より信頼度の高いマスメディアは必要とされ続けるであろう。ソーシャルメディアとマスメディアは良い意味でお互いに影響し合っていけるはずだ。
(主要参考文献)
『検証東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか?』,
立入勝義,ディスカヴァー・トゥエンティワン,2011.6.15
『大震災・原発事故とメディア』,中川進,大月書店,2011.7.20
(2年13組17番)
震災とソーシャルメディア
〜ツイッターは震災時どう役に立つのか〜
松本紗由記
はじめに
東日本大震災のあと、被災地だけではなく都心でも大混乱が起きて、交通はパニックとなり、町は帰宅難民であふれました。私は家にいたのでテレビで情報を得ることができましたが、非常事態に外にいる人たちが利用したのは、iphoneやパソコンなどのモバイル機器やmixiや、ツイッターなどのソーシャルメディアとインターネットサービスでした。今何が起きているのか?家族・友人・恋人は無事なのか?自分はいつ家に帰ることができるのか?どこかに動いている電車はないのか?など私たちが非常時に最も必要としていたことは少しでも多くの情報とコミュニケーションの手段だと思います。私は普段iphoneを利用していて、アプリケーションとしてツイッターで多くの友人達とよく情報の交換をしています。今回の震災で多くの情報がツイッターを経由して伝達されていたと思ったので、これを機にいつも利用しているソーシャルメディアの代表格であるツイッターが、このどのように役立ち、またどのような問題があったのか、復興に向けて活用していくためにも調べてみたいと思いました。
第一章 〜震災時の人々とツイッター〜
震災時ツイッターはどのように役立ったのだろうか、またどのくらい活用されていたのだろうか。
災害時のツイッターの役割
携帯電話の基地局が被害を受けたエリアを除いて、ツイッターは状況を刻々と伝えるセンサーのような役割を果たしたと思われます。なぜなら電話の通話や携帯メールが震災直後は通じなかった中で、ツイッターは使うことができたからです。そのため、家族・同僚の安否確認やテレビ・ラジオを視聴していた人からのツイートによる被災状況の把握をすることができました。また交通が大混乱した中では、各自が周囲の交通状況をツイートしたことでマスメディアでは伝えきれない情報も伝えることができました。生活に浸透したソーシャルメディアは、ユーザー同士の連絡や安否確認はもちろん、現地からの情報発信や情報交換などに幅広く使われています。また、ソーシャルメディア特有の情報共有機能とクチコミにより節電や買い占め防止の呼びかけが拡散し、企業とネットユーザーがコラボレーションしながら支援活動を進めていくケースも見られました。
震災時のツイッター利用状況
1日の平均ツイート数約1800万件に対し、震災当日の3月11日は、約3300万件とツイート件数が1.8倍に増加したそうです。そして震災後1週間は2500万件以上の日が続き、それ以降も平均ツイート数が2200万件を超えているなど、震災前と比較してツイート数は20%以上増加したそうです。また通常時はアニメやスポーツ関連などエンターテインメント系の話題が約6割を占めているのですが、3月11日から1週間程度は、震災関連のツイートが、7割〜8割を占めていました。地震・津波による被害状況や安否情報、復旧活動、福島原発の情報・放射線、計画停電について、買い占め、自粛ムード、寄付金のことなど、地震の規模・範囲が大きかったため、しばらくは多くの人々が常に地震を心配し、震災のことが心の中を占めていたと思います。また、電話の代わりに安否確認にツイッターを使ったケースが多かったことが、「大丈夫だった?」「無事?」などのコメントの多さからも推察できました。
第二章 〜ソーシャルメディアの課題と可能性〜
今回の地震やそれに伴う様々な被害は私たちの価値観を大きく変えてしまったと思います。そんな中、かえって明確になったのではないかと考えているのが、ソーシャルメディアの課題と可能性です。
ツイッターの課題
まず、デマ情報が流れやすいということです。マスメディアでたびたび偽りの情報が流れてしまっていたように、ツイッターのようなソーシャルメディアはあくまで利用者による伝聞の世界だと思うので、様々なデマが流れやすいと思います。実際にはデマを打ち消すためにソーシャルメディアが機能しているのも事実だと思いますし、メールや口頭でのクチコミでもデマは流れてしまっているのですが、ツイッターのようなオープンなソーシャルメディアは履歴が残ってしまうためデマが流れてしまうという印象が強いと思います。
次に、不特定多数の人々への情報の一斉伝達には向かないということです。やはり、テレビやラジオのようなマスメディアに比較して、ソーシャルメディアでは、不特定多数の人々に一斉に情報を伝達するのには向かないと思います。時間があればどんどん伝わっていきますが、地震直後の津波警報や震度の情報などをより早く多数の人に伝えるには、何と言ってもテレビが早いと思います。ですがテレビの情報をツイッター上に文字で流すことで、テレビを見られない人でも情報を入手することが可能だというのは利点だと思います。しかし、若者に多く利用されているツイッターはなかなかお年寄りの方などは利用方法がわからなかったりすることもあると思います。そういった面でも幅広い層の人に一番簡単に早く情報を伝えられるのはテレビやラジオだと思います。
そしてまたいくらソーシャルメディアがよく利用されるようになったと言っても、回線がつながらなければ無意味ということもあります。地震の直後は様々な地域で携帯電話のネットワークが混雑し、電話はもちろんメールの送信も難しい状況になりました。今回、関東は比較的通信系の被害は大きくなかったため、固定回線などを利用することでネット利用は意外に可能でしたが、被害が大きかった地域では携帯電話やスマートフォンによるネット利用でさえも難しかったと思います。もちろん、全くつながらなかった電話に比べれば、ネットの方がまだ安定して利用できたという事実はありますが、やはり通信環境が安定しているからこそ、ソーシャルメディアが活躍できるのだと思います。
ツイッターの可能性
電話やメールのようなコミュニケーション手段だと、自分が無事だということは、相手にそれぞれ連絡して伝えなければいけません。家族、親戚、友達など心配している可能性がある人はたくさんいた場合、その一人ひとりに自分から連絡しない限り、もしくは向こうが自分に連絡を取らない限り、相手が無事かどうかは分かりません。しかしツイッターのようなソーシャルメディアであれば、自ら発信して更新しておくこと自体が無事を宣言する行為になります。心配している相手が、自分のツイッターアカウントさえ知っていてくれれば、1人ひとりと連絡を取らなくても無事が伝わるわけです。今回の震災でも、電話やメールで連絡が取れないが、ツイッター経由で相手が無事なことを知ったというケースが多くあったと思います。また、今回は政府や地方自治体、企業も積極的にツイッターを情報発信に活用していたと思います。消防庁の「@FDMA_JAPAN」がツイッターで情報発信していることが、テレビのテロップで流れていましたし、首相官邸も災害情報専用のツイッターアカウント「@Kantei_Saigai」を開設し、総理や官房長官の会見の様子を中継し、すでに24万人を超える利用者がフォローしているそうです。そして、東京電力も「@OfficialTEPCO」という公式アカウントで、計画停電についての情報を発信していたそうです。こうした活動は地方自治体でも盛んに実施されていました。さらには、福島の原発のトラブルに関して、東京大学の原子力関連の専門家が詳細な専門知識をツイッター上で発信していたり、Facebookページで議論がされたりと、様々な専門家も積極的にソーシャルメディアを活用しているようです。また、被災者自身が自ら被災現場の情報を発信することで、支援者に直接必要なものを伝えることができるようになっていることも忘れてはいけない大きな変化だと思います。
そして今回の震災によってさまざまな利用者によるコラボレーションなども実施されています。大きな話題となっているのは、ツイッター上で話題になった「ヤシマ作戦」のような共働での節電活動です。これは同じ時間帯に皆で連動して節電を呼びかけ合うという比較的ハードルの低い行動が中心になっているものですが、さらに注目なのは、節電のポスターのデザインをお互いに出し合うサイトや、パニックによる買い占めを自粛するための広告のデザインを共有するサイトなど、実際の作業を伴う活動も多数確認されている点です。最近では、ボランティア活動の情報を共働で更新するためのサイトが立ち上がったり、有名マンガ家の書いたマンガと応援歌をコラボした動画を作る人が出てきたりといった、様々な分野にこういった実作業をともなうコラボレーションが広がりつつあります従来日本においては、こういったネット上での共同作業は米国に比べると難しいという見方が中心でしたが、今回そうではないことが証明されたと言えると思います。
おわりに 〜考察と結論〜
今回の震災が、歴史に残る悲惨な出来事となってしまったことは間違いありません。ただ一方で、今回の震災の経験を通じて、私たちはソーシャルメディアを通じてつながった私たち自身の力の可能性も目の当たりにしているように思います。ソーシャルメディアの課題や可能性とは、結局の所、私たち一人一人の利用者の力の課題や可能性であり、今回の震災の経験を通じて、日本人が自分たちの力の可能性を信じられるようになるかどうかは、私たち1人ひとりの行動にかかっている、と言えると思います。また、ソーシャルメディアやスマートフォンなどはある程度の知識があれば誰でも使いこなせるようになっている上に、膨大な情報が手に入るため、情報を取捨選択してどれが必要かを判断する必要があります。つまり情報リテラシー力が求められると思います。私は、東日本大震災でソーシャルメディアが大きな力を発揮したことは間違いないと思っています。ソーシャルメディアはリアルタイム性が高く、話題となっている情報を入手しやすいという点だけでなく、人と人、人と情報をつなげてくれるメディアだと思います。だから災害時にも役立ったと思うし、私はこれからもソーシャルメディアを活用していきたいと考えています。
参考文献
『震災に負けない!Twitter・ソーシャルメディア[超]活用術』
新しい情報インフラを考える会、発行年2011年
参照URL
ついっぷるトレンド
http://tr.twipple.jp/info/bunseki/20110427.html
参照日付 11/8
(2年8組23番)
ソーシャルメディアの今後
−東日本大震災を経験して−
大蔵三津紀
はじめに
3月11日の東日本大震災がきっかけで、ソーシャルメディアが情報収集の便利なツールとしてより普及し始めました。このことから、今後、私たちの生活にどのようにソーシャルメディアが関わり、私たちはどのようにこのツールに接すればいいのか、調べてみようと思いました。実際震災時にはどのように情報が広がり、被災地の人たちはどのような思いをされたのか、いつ起こるか分からない災害のためにも知っておく必要があると思います。
ソーシャルメディアが普及してより一層情報が錯綜するようになり、その中で自分に必要な情報を取り出すことが難しくなっています。したがって、世界中に広がるソーシャルメディアを今後の役に立つように、その特徴や利用の仕方を把握しておきたいと思います。
第一章
3月11日以降ソーシャルメディアの利用者は震災前に比べ
て20%も増えました。なぜここまで普及したのかと言うとソーシャルメディアはマスメディアとは違いリアルタイム性があるからです。TVの場合はニュース番組などの生放送でない限りリアルタイムではありません。そしてマスメディアの場合はソーシャルメディアとは違い情報を発信する側は組織というものを意識しなくてはいけないし、スポンサーの問題も考えなければならないので、ある程度発言は限られてきてしまいます。つまり、ソーシャルメディアの利点はTVと違ってリアルタイムでの情報が発信しやすく、スポンサーなどの事を意識しないで済む上に、マスメディアに比べて組織と言う圧力に縛られないという点です。しかし、自由に発言できる分炎上してしまうなどハプニングなども多くあるという自由さゆえの欠点もあります。震災時、Twitter上での実際に役立った例として「友達に津波が来ることをTwitterで教えて助かった。」「NHKのアカウントから発信される地震、原発、放射能情報が政府や東電の発表よりも早かった。」「交通情報はどんなサイトよりも早くて詳細。安否確認も携帯よりもTwitterが一番早くつながった。」ということが挙げられています。この他にも情報という面以外にも、デーブ・スペクター氏のツイートは精神的に助けられたと言う例も多く聞かれました。またこの震災を機に有名になった人もいます。
震災時に一番混乱していた情報といえば原発や放射能の情報です。これらの情報は被災地の方だけではなく日本中、世界中が関わる問題で多くの人が注目していました。しかし、TV上では混乱が起きないためなのか原発についての過激な情報は控えられ当たり障りのない情報ばかりで、あまりリアリティーのある情報は流れませんでした。さらには、東京電力の隠ぺい問題などもありどんどん情報の信頼性がなくなっていきました。この混乱した状況の中で東京大学の教授や原発の設計に携わった方など専門知識を有している人の情報が信用され発信力のあるものとなりました。しかし、こうした中で専門知識がない人が安易な情報を流してしまいそれが広がり混乱を招くと言ったソーシャルメディアならではの問題も出てきました。震災直後は不謹慎ムードが高まっていたのでちょっとしたツイートでも非難を浴びる形になり、情報を発信する側も敏感になっていました。
また、日経トレンディの「東日本大震災でフェイスブックやツイッターなどのSNSがどう使われたのか」を問うアンケートでは、Twitter上で投稿1件当たり100円を日本赤十字社に寄付するという企画も行われ、募金活動もソーシャルネットワーク上で多く行われました。そして、先程もあったNHKの例で言えばストリーミング放送で有名なUstream上で海外にも情報を発信出来るようにしたことが大きく評価されています。Ustreamで番組を配信することによってTVの見られない被災者にも公共放送であるNHKの情報が見られることになり各方面から賞賛されていました。そして動画投稿サイトのYoutubeでも多くの津波の映像や個人が撮影したリアルな地震時の映像などが投稿され海外からも多くの頑張れなどと言った応援のコメントが寄せられ、個人が発信した情報が世界中の人々に届けられました。
このように日本のマスメディアが海外への情報発信を積極的に行わない中、ソーシャルメディアによって個人が発信した情報で世界中の人々が日本の震災を知りました。また、震災後に起こった反原発のデモなどはほとんどTVなどでは放送されませんでしたが、Youtubeなどには多くの動画が投稿され話題となっていました。またデータとしては、野村総合研究所の調査による地震発生直後の3月19日〜20日で行われた調査があります。「震災関連の情報に接して、信頼度が上昇したという回答比率」というデータではソーシャルメディアは信頼度が上昇した情報源のうち3位としてあげられました。ちなみに1位はテレビ放送(NHK)、2位はポータルサイト(新聞社や放送局からの情報は含まない)となっています。そして「震災関連の情報に接して、信頼度が低下したという回答比率」でも、1位が政府・自治体、2位はテレビ放送局(民放)、そして3位がソーシャルメディアとなっています。
なぜこの様な結果になったかというと、ソーシャルネットワーク上でデマが拡散してしまったことなどが挙げられています。しかし、評価の良し悪しにかかわらず3位にランクインしていることから関心の高さが伺えます。
第二章
震災時の経験を活かし今後の地方自治体におけるソーシャルメディアの活用法を考えたいと思います。まず、ソーシャルメディアはリアルタイム性(情報を常時・即時に提供できるか)、インタラクティブ性(問い合わせにスタッフが対応できるか)、オープン性(情報対応が広く社会に開かれているか)、パーソナル性(そのメディアが個人に紐付いているか)という面において優れています。また、災害以降によって政府や自治体のソーシャルメディア活用への注目が高まり、政府・自治体のTwitterアカウントは震災前の121件から5月末には190件以上に達しました。そして、この動きに伴い内閣官房長は、2011年4月5日に「国、地方自治体等公共機関における民間ソーシャルメディアを活用した情報発信についての指針」を発表しました。その指針はまず、成りすまし等の防止のためアカウント運営者の明示(公共機関による運用の証明、承認アカウントの取得など)、成りすましが発生していることを発見した場合(ソーシャルメディアを利用していない場合には、自己管理Webサイトに利用していない旨の告知等を行う)、その他の注意(URL短縮サービスの原則利用禁止、引用サービスやリンクへの留意)となっています。そして、もうひとつの指針はアカウント運用ポリシーの策定と明示((アカウント運用ポリシー(ソーシャルメディアポリシー)の策定と掲載))となっていて、国もソーシャルメディアを有効活用する様、動きが強まってきています。この様な動きがあったのは、自治体は企業などとソーシャルメディアを使う目的は異なりますが、期待される役割は同じだからと考えられるからです。企業がソーシャルメディアを利用する場合、商品企画・サービス開発から人材獲得までソーシャルネットワーク上の情報を用いて行うことができます。この様に多くの情報を拡散し得られることを利用して自治体もサービスを提供しようとしています。自治体の場合、顧客はその地域の住民であり、住民に対して様々な情報発信を行うことができます。また、ソーシャルメディアは、自治体から住民への情報発信のリーチを強化するだけでなく、密なコミュニケーションの実現によって住民にエンゲージメント(深く密に)できるメディアとなっています。
そして、すでにTwitterを活用している自治体では住民向けのツイートをするアカウントよりも自治体外にも向けられている方がより活用率が高くなっていました。つまり、狭いコミュニティー内ではあまり普及しないということです。自治体などで活用する場合はどうしても固い情報ばかりになってしまってフォロワーが増えません。したがって、自治体で工夫してTwitter上でサービスを提供したり面白いコンテンツを増やす必要があると思います。災害時にフォロワー数の少なく、あまり活用されてないアカウントから情報を発信しても情報の拡散にもつながりません。こうした状況に陥らないためにも、非常事態に備えて自治体でアカウントを運用する際には作って満足ではなく継続的に有効な情報を発信して活用しエンゲージメントなメディアである必要があります。
おわりに
今回の大震災により日本には先進国に比べあまり浸透していなっかたソーシャルメディアが普及しました。このことにより色々な視点からの意見を聞くことが出来るようになったり、今まで関わることのなかった著名人などともソーシャルメディア上ではコンタクトを取れる可能性が広がりました。またソーシャルメディアが世界中に普及していることで遠く離れた人ともコストをかけずに簡単につながる事もできます。この様な便利さからビジネスにも活用されるようになりました。しかし、便利さゆえに危険な部分も多くあります。それは、誰でもみられるスペースに自分の意見を発信するということは慎重にならなくてはいけないと言う事です。最近では、若者のtwitter上での犯罪自慢などが問題となっています。この様にちょっとした一言でも発信された情報の注目度によっては有名人ではなくてもWeb上で自分が何気なく発信した個人情報とともにユーザーたちに瞬く間に広まってしまいます。また、震災の際にはデマの情報が流れるなど全てが正しい情報ではないので、情報が正しいかを判断する力も必要になってきています。
しかし、情報化が進む中でソーシャルメディアはますます普及することでしょう。ソーシャルメディアを賢く使うこと
が今後最も必要な能力の1つになってくるかもしれません。
主要参考文献
『検証 東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか?』、立入勝義、ディスカバー携書、2011。
http://www.nri.co.jp/publicity/mediaforum/2011/forum159.html
野村総合研究所 2011,11,29
(2年10組12番)
ラジオと震災
田中 慧
〜序章〜
東日本大地震、それは日本国民には忘れられないものになっているに違いない。私自身この3/11以降の数日間の記憶は今でも鮮明に思い出される。被災した当日、一人暮らしで大学の近くに住んでいる私の家には、帰宅難民になった友人5名が泊まっていた。そのため地震が起きてから延々と放送される被災地の悲惨な状況の映像もとくに何も考えることなく見ることができた。しかし、翌日以降交通機関が復旧してからは、友人も各々自宅へと帰っていった。一人になった私は、一人ではなく独りであったように感じる。余震も続く中、延々と流される悲惨な光景を独りで見続けるというのは酷いものでしかなかったように思う。その何とも言えない、吐き出しどころがない感情を解消するために、お酒を飲んでみたりもしてみた。俗に言うやけ酒みたいなものでしかないが、そんな感情は解消されるわけもなく、悶々とした日々を送っていた。ある日、耐えきれなくなった私は、テレビを消した。しかし、無音の中一人で過ごすのも心細く、普段よく聞いていたラジオを何となくつけてみた。その時私の心は救われた。その理由を今から述べていこうと思うが、ラジオというものの価値を再確認した私は、今回の論文でラジオが被災した時何ができるか、検証していきたいと思う。
〜第一章…ラジオ(radio)とは〜
皆さんはラジオに対してどのような印象をお持ちだろうか。現代の主流であるインターネットやテレビとは違い、映像のない声だけのメディアという少し娯楽性に欠けたものというようなイメージが強いのではないだろうか。確かにラジオというメディアは、声だけを使って情報を伝える特殊なものといえる。その「声」だけという特徴故に、ラジオはパーソナルメディアと称されることがある。つまり、声のみを聞くために、リスナーからすれば自分にだけ話しかけられているように感じ、話し手もその特徴を十分に理解した上で、放送に臨んでいる。そのため不特定多数の人間に発信するテレビとは違い、聞いている一人ひとりと対話するようなメディアなのである。今なぜ私が、“対話”という言葉を使ったかといえば、ラジオ番組の進行にはリスナーからの投稿葉書やメールというものが、不可欠になってくるからである。ラジオパーソナリティは番組中、多くの葉書やメールを読んで、その内容に答え、時にはその内容に関したトークというものを繰り広げる。そしてその話の内容にまたメッセージを送るリスナーもいる。そうした点を踏まえるとラジオ番組というものは、リスナーとラジオパーソナリティのコミュニケーションで成り立っていると考えられる。
また、ほかにも番組進行にリスナーがかかわってくるものがある。それは何か。そう、リスナーからのオンエア曲のリクエストである。番組の打ち合わせ時に流す曲はいくつか決まってはいるが、その曲がオンエア中の曲のすべてではない。そのほかにリクエストに応えて流される曲もある。リスナーがその時々に聞きたいと思う曲をタイムリーに流せるのである。つまりラジオ番組というものは、聴衆(リスナー)密着型のメディアなのである。テレビのような観衆のことはお構いなしに一方的に情報や番組を放送し続けるメディアとはこういった点で全く違う点をもったメディアといえる。
そして、ラジオには携帯ラジオというものがあり、乾電池が二本ほどあれば、どこにいても聞けるという特徴を持っている。携帯でもアプリを落とせば聞くことができる。確かに、最近ではワンセグテレビというものもあるが、携帯ラジオよりも電池消費量も激しく、近くに電源を供給する場所がなければ安定してみることができないという欠点がある。
以上の点が、大まかに挙げることのできるラジオの特徴である。
〜第二章…ラジオだからできること〜
前述した特徴をもつラジオだからこそ、被災後にできたことがあった。それは大きく分けて三つある。
まず一つ目は、どこでも聞けるという利点が生かされたものである。地震直後は余震も続き、停電する地域が多くみられた。関東地域も大規模停電を避けるために、計画停電を実施した。その結果テレビを中心に情報を集めている人たちは停電している時間帯において、情報収集ができないという事態に陥ったわけである。それに比べ、ラジオは停電中も聞くことができ多くの人に情報を伝えることができた。これは阪神大震災の時も認められたラジオの利便性である。
二つ目は、このようなときだからこそ聞きたい曲や、リスナーを励ますような、勇気をくれるような曲を中心にオンエアをしたということだ。テレビでは数日間、とにかく被災地の状況や津波の映像、逃げまどう人々、大切な人を亡くし悲しみに暮れる人の映像など、マイナス要素の多いものばかりを流し続けた。それに対してラジオの対応は被災地の人を少しでも勇気付ける結果となったのではないだろうか。
三つ目としては、被災した人との会話だ。東日本大地震の後の多くのラジオ番組は、番組構成を大幅に変更した。その変更は、おそらく多くの人の心を救ったに違いない。内容としては、通常で行っているアーティストの特集、何かしらのコーナー(ex.オリコンチャートの発表、ラジオ大喜利)をすべて排除した。その代わりに被災した人からのメールや電話を受けて、その吐き出された気持ちをラジオパーソナリティがうまく汲み取り、少しでも多くの人々を励まそうとしていた。パーソナルメディアと呼ばれるだけあって、聞いているこちらからすれば自分に話しかけてくれているような気分にもなる。また、ラジオから聞こえてくるのはパーソナリティの言葉だけのために、その言葉ひとつひとつに重みがあり、心に響くものばかりであった。そのため、独りでいても、その心細さがほとんど消え去って、人の暖かみというものを感じることができたのも事実である。電波のエリアも拡大し、全国の人が聞けるように取り計らうこともラジオは忘れなかった。そのことによって被災していない地域の人からの応援メールなどを読み上げることもできた。これはリスナー密着型のラジオでしかできないことだと私は思う。
私が挙げたこれらの三点については、以下に掲載するグラフを参考にしていただけると一目瞭然である。色がわからなくなるといけないのでグラフの見方を述べておくが、三つあるうちの上がテレビ、真ん中がラジオ、下がtwitterである。この中で特に注目してほしいのは、“暖かみがある”“落ち着ける”“いざという時に頼りになる”という項目である。いかがであろう、ラジオが被災時に人に与える暖かさ、安らぎというものが一番であることが分かるであろう。逆にテレビがダントツでずば抜けているのが“いきすぎと感じる”“情報が横並びである”というような点で、やはり人々の不安をあおりやすいメディアであることが分かる。
〜第三章…ラジオでできるボランティア〜
これまで東日本大震災後にラジオが果たした役割を、語ってきたわけだがいかがであろう。みなさんのラジオをみる目も少しは変わったのではないだろうか。
さて、震災というとやはりボランティアという項目がよく話題になるわけだが、ラジオができるボランティアはあるのだろうか。これに関しては難しいところではある。なぜならボランティアというものがそもそも個人個人で動いて行われるものであり、ラジオやテレビのような報道機関が自らボランティア活動を行うことは難しい。しかしその中でもできることを探してみた。できるであろう、というよりは今まで行われていた実例もあることをここでは述べたい。
まず一つ目は、日本在住の外国人に対しての報道である。日本には多くの外国人も在住している。しかし、そのすべての外国人が流暢に日本語を話せるわけではないし、日本語を理解できるわけでもない。そんな中、震災に見舞われたらその外国人たちは情報収集に困り果ててしまう。そこで行われたのが、英語を話せるラジオパーソナリティが外国人向けの情報番組のDJを務めたのである。ラジオ局、特にFM局はバイリンガルや帰国子女がDJを務めている人間が多い。例をあげれば、J-WAVEのクリスペプラーやFM横浜のmitsumiなどがいる。このほかにも多くのバイリンガルがいるわけだが、なぜ多いか。それは、FM局は、曲を中心に番組を進めていくからである。その中で、大事になってくるのが曲紹介であり、洋楽の曲紹介などはやはり流暢に英語を話せる人のほうが、格好がつくのだろう。また、外国アーティストをゲストに迎えたときに通訳を介さないでいいという利点もある。そのため、このような外国人向けの報道が可能になるのである。
二つ目は、本の朗読である。これは、ラジオというよりも、私が所属している団体で行ったものである。その団体は8月の中旬に気仙沼に赴き、たくさんの本を贈呈するとともに本の朗読を行った。朗読を行ったのはその団体に所属している東京近郊の大学の放送系サークルの中で選ばれたメンバーである。朗読した本は詩集であったり、寿限無寿限無であったりと種類は様々で幅広い年代が楽しめるものであった。当日は多くの人が来場し、本を熱心に選んだり、朗読を聞く人たちから笑顔がこぼれたり、涙を流す人もいたという。本の朗読というと、一見地味なイメージがあるだろうが、人の心を動かすことができるのである。しかし、この活動はテレビではできない。ラジオならではの声だけという特徴を生かした「本の朗読」に関しては、うってつけのメディアではないだろうか。大学生というアマチュアがやっても人々はかなり喜んでいたわけだし、それを話のプロがやるということになれば影響が計り知れないものになると私は思う。
三つめはみなさんもご存じであろう、チャリティーコンサートの開催である。多く行われているチャリティーコンサートの共催には必ずと言っていいほどラジオ局が付いている。これはFM曲の影響であるとは思うが、見えないところでのボランティアになっているのであろう。
〜最終章…ラジオというメディア〜
さて、ここまでラジオの特徴や可能性を話してきたわけだがいかがであったろう。衰退し続けているといわれるラジオだが、意外と多くの可能性を持ったメディアではなかっただろうか。まだまだ捨てたもんじゃない、と感じた人はいたであろうか。これだけの可能性、そして信頼性を持ったラジオが消滅するとは私は考えていない。これからも多くの人を楽しませ、多くのひとの心を救う暖かみを持ったメディアで居続けてもらいたい、と私は願っている。
(2年1組16番)
東日本大震災と共同体
〜災害時における人々の共同体意識〜
横田真由美
はじめに
2011年03月11日、日本を未曾有の大震災が襲った。それが、東日本大震災である。この震災により、多くの人々が犠牲になり、身体だけでなく、心にも深い傷を負った。私は、関東に住んでいたので、家族や友人などで被害を受けたということはなかった。しかし、震災時の長く大きな揺れ、テレビで流れた今まで見たこともない、大きな津波が東北地方の街も野ものみ込んでいく映像は、未だに脳裏に残っていて、忘れることはできない。このように私たちにとってはあまりにも辛い震災であったが、人々はそこであきらめることはしなかった。家や会社など何もかも津波に奪われ、すべて無くなってしまった状況下でも、人々は食料や毛布を分け合い、互いに協力してなんとかこの危機を乗り越えようとしていた。そういった日本人に、他国からも多くのエールや賞賛が届いた。この日本人の「助け合いの精神」から、一時的にではあれ、身分に関係なく、震災前までの人間関係につながるような、多くのコミュニティが作られた。これらのことから日本は他国から高い評価を受けたが、はたしてそれは日本人だけが持つ特性であるのか、他国ではそういった「助け合いの精神」からコミュニティが作られることはないのだろうか、という疑問を抱くようになった。そこで、他国での事例も調べて検証してみることにした。
また日本人は震災前と震災後で、コミュニティ、つまり共同体への意識の変化が多くみられたということから、日本人だけに焦点を当てて、共同体にたいする意識調査に関しても検証してみることにした。これから、この2点についての検証と考察を述べていきたいと思う。
第一章:サンフランシスコ地震で見られた共同体
ここからは参考文献の内容を引用しながら、説明していきたいと思う。まず、1906年4月18日に発生したサンフランシスコ地震の時の事例を紹介しながら、分析を行っていきたい。
ミセス・アンナ・アメリア・ホルスハウザーは、地震発生後、友人のミスター・ポールソンと二人で、自宅からダウンタウンのユニオンスクエアに避難し、野宿をすることになったが、すぐに火の手が回ってきたため、再び避難し、ゴールデンゲートパークにたどり着いた。そこで彼女は、持っていた毛布とカーペットとシーツを縫い合わせてテントを作った。そして、原始的なコンロを作り、スープキッチンを調理し、避難している人々に食事を提供し始めた。後に「ミズパカフェ」と名づけられたそのスープキッチンは、多くの避難民に気に入られ、震災で傷ついた避難民たちの心と体を癒す存在となったのである。
ここで引用を二つ取り上げたい。
「災害時には、その渦中の人々と、遠くから理解しようとしている人々の、両方の心に生じる矛盾を受け入れる能力が要求される。どの災害においても、苦しみがあり、危機が去ったあとにこそもっとも強く感じられる精神的な傷があり、死と喪失がある。しかし、満足感や、生まれたばかりの社会的絆や、解放感もまた深いものだ。むろん、災害の報告と実際の体験の間にギャップが生じるのは、1つには報告が、災害の中心部で負傷し、亡くなり、孤児になり、完全に打ちのめされた、関係当局の知るところとなった数パーセントの人々に焦点を当てるからである。けれども、そういった人々のまわりには、同じ町内や近所にすら、それほど大きな被害を受けていないものの、通常の生活を寸断されたはるかに多くの人々がいる。そして、それこそがここで問題にしている、それまでの秩序を転覆させ、新しい可能性を切り開く、災害の持つ力なのだ。この、より広範な影響こそが、災害が社会にもたらす効果にほかならない。災害が発生すると、それまでの秩序はもはや存在しなくなり、人々はその場で即席の救助隊や避難所やコミュニティを作る。そのあとに、果たして欠点と不公平だらけだった以前の秩序に戻すか、それとも新しい秩序―より圧政的なのかもしれないし、あるいは、災害時のパラダイスのような、より公平で自由なものかもしれないが―を実現させるかどうかの闘争が生じるのだ。」(レベッカ・ソルニット 2011)
「彼女のスープキッチンは自然に発生した数多くのコミュニティセンターや救援プロジェクトの1つだったのだが、彼女の立ち直りの早さや彼女が発揮した才覚もまた、多くの災害で普通に見られる反応だった。そこでは、見知らぬ人同士が友達になり、力を合わせ、惜しげなく物を分け合い、自分に求められる新しい役割を見出す。金銭がほとんど、またはまったく役に立たない社会を想像してほしい。人々が互いを救出して気にかけ合い、食料は無料で与えられ、生活はほとんど戸外のしかも公共の場で営まれ、人々の間に昔からあった格差や分裂は消え去り、個々の直面している運命がどんなに厳しいものであっても、みんなで分かち合うことではるかに楽になり、かつて不可能だと考えられていたことが、その良し悪しに関係なく、可能になるか、すでに実現していて、危機が差し迫っているせいでそれまでの不満や悩みなど吹っ飛んでしまっていて、人々が自分には価値があり、目的があり、世界の中心だと感じられる―そんな社会。それは、まさにその本質からいって、維持不可能であり、一過性にすぎない。だが、稲妻の閃光のように平凡な日常生活を輝かせ、時には雷のように古い体制をこっぱみじんに打ち砕く。それは多くの人にとって、つらい時期にほんの束の間実現したユートピアだ。そして、そのとき、彼らは相容れない喜びと悲しみの両方を経験する。」(レベッカ・ソルニット 2011)
ここに引用した二つ事例からわかることは、誰かが立ち上がり、行動を起こし、その行動が他の人々にも伝染していき、最終的に大きなコミュニティとなり、力を持つという現象は、災害時にはよく見られる現象であるということだ。こうした現象は災害時に人々のコミュニティ意識が高まったことから生じると考えられる。ではなぜ、普段はあまり意識することは少ないコミュニティ意識が災害時に生じるのだろうか。
私たちの暮らしの中には、無数のコミュニティが存在している。しかし災害時には、会社や学校などといった今まで自分が所属してきたコミュニティ、つまり共同体が崩壊してしまうということがある。この共同体の崩壊によって、今までの身分や階級も関係なくなるだろう。そうなることで今までの共同体の呪縛から解き放たれ、身分や階級、所属の共同体に関係なく新たな共同体を構築していくことが出来るのだ。災害時の危機的な状況下では、自らの行動が自分自身や他の人々の行動を大きく左右していくことになる。災害が起きた直後、私たちは何を考えるだろうか。それは、まず、どうやってこの危機的状況の中を生き抜くか、自分の一番身近に存在している共同体である「家族」をどう守っていくか、ということではないだろうか。これらの事柄を考えた時、自分ひとりの力ではどうすることも出来ない現実を目の当たりにし、生きて行くためには他人と協力しなければならないという意識が生まれる。そして、他人同士だったものが互いに助け合いの精神を持って協力し合っていくうちに、それぞれが自らの役割を意識し、共同体が形成されていくと考えられる。そうした共同体の形成は、災害の被害が大きくなると、それに比例して拡大していく。災害時などの危機的状況の場合には、共同体は利他的な行動をとる人々によって形成されていく。他人を助け、協力することで、相手からも同じ恩恵を受けることが出来る。つまり、相互に協力しあうことは、どちらにとってもメリットがあるのだ。逆に、利己的行動をとってしまうと、自分が困難に陥った時に協力してくれる相手が出てこない。こうしたことから、非常時には、他人を助け協力し合う利他的行動が多く見られる傾向になると考えられるのである。
第二章:日本人の震災後の共同体意識の変化
東日本大震災の震災前と震災後で、日本人の共同体に対する意識の変化が多く見られたということを初めに述べたが、その根拠を実際にセキスイハイムで行われた「東日本大震災による住意識の変化調査」を例にとって、検証、分析を行いたいと思う。
結果から見ていくと、まず、「遠距離にいる親族(両親や子供など)を呼び寄せたり、近くに引っ越すなど、出来るだけ近くに住もうと考えるようになった」とする人が震災前の25%から震災後33%に増加した。この増加から、親や子供と近くに住みたいという親族の呼び寄せ意向が強まったということが言える。この傾向は、特に20代の若年層に顕著に表れている。次に、「地域社会と関係を深めたい」という人も震災前は27%から、震災後は37%に増加した。
この二つの結果から考えられるのは、震災時には携帯電話や交通網なども機能しなくなり、帰宅難民となった人が多く出たなかで、人々の意識が変化せざるをえなくなったことである。震災の不安と、帰宅できない、または、連絡が取れず家族の安否も確認することが出来ない、といった状況の中、改めて家族や親戚、近隣の人々といった共同体の中で自分は生きているということを実感したのではないだろうか。私たちは普段から多くの共同体とかかわりを持って生きている。しかし、普段の生活の中では共同体を常に意識して生きている人は少ないだろう。それが、震災をきっかけに、一番身近に存在している家族や親戚などといった、自分が所属する共同体を意識したことが、今回の意識調査の推移に結果として表れたのだと考えられる。
おわりに
今回は大きく2つの章に分けて、共同体というものに対する人々の行動、意識について考えてきた。まず言えることは、第一章でも述べたが、「助け合いの精神」から共同体が生まれることは、日本だけでなく、他国でも同じだということである。そして、これらの章を通して言えるのは、私たち人間は、常に共同体が多く存在する中で生活しているが、それを普段から意識することは難しいということ。しかし、災害などといった非日常的で、普段の秩序が乱れるようなことが起きると、共同体というものに対する意識が強まっていく。私たちはたとえ無意識であってもさまざまなコミュニティの中で生きているため、一度コミュニティが崩れてしまっても、また新たにコミュニティを作っていく能力を持っているのだ。したがって、私たち人間は、災害時には互いに助けあって瞬時にコミュニティを形成し、それを機能させていく、利他的な行動ができる存在なのだと考えられるのである。
<主要参考文献>
・「災害ユートピア〜なぜその時特別な共同体が立ち上がるのか〜」レベッカ・ソルニット著、高月園子訳、2011年。
・http://www.sekisuiheim.com/info/press/20110920.html(参照日時:2011年11月29日)
(2年9組29番)
双方の気持ちを考える
――3.11を乗り越えるために――
加藤 朝子
今回私がテーマとするのは、東日本大震災の災害を真正面から受けてしまった被害者側の気持ちと、その被害者をなんとか手助けをしたいと願うボランティア側の気持ち、双方の気持ちを深く考えることである。両者が向き合うことで、私達ボランティア側がどこまで被災者の求めに応えられるのか、私達が出来うる最善の術は何なのか、双方の気持ちを以下の視点から見ていきたい。
1.悲観プロセス(死別を乗り越える過程)の3段階説
2.カウンセリングマインドとは
3.傷つけやすい言葉
4.ボランティアする側の心が傷づくことも・・
5.ボランティアする側、される側の心
6.実際に被災地で3.11を経験した友達へのインタビュー
7.まとめ
1.悲観プロセス(死別を乗り越える過程)の3段階説
まず、実際に災害を経験していない私たちが被害者の気持ちを理解するには限度がある。そのために被害者が身近な家族や友人を突然失った時、どういった心の変化が起きるのか知っておく必要があるだろう。気持ちの変化は主に三段階に分けられる。
<急性期>
ショックを受け、頭が真っ白になる感覚の麻痺や、身体感覚の変化、激しく深い悲しみ、号泣の段階。通常は一〜二週間。災害や事故の様な「予期しない死」の場合は、特に強い。
<中期>
亡くなった人に心がとらわれる段階。数週間〜一年(個人差は大きい)。うつ状態でふさぎこみ、また時には躁状態で妙にはしゃぐ。精神的にかなり不安定でも外見的にはきわめて正常を装い、一見元気に学校や会社へ行く。けれど、心の中では、自責感があり、不眠、食欲不振状態になったり、うらみ、怒りなど、様々な感情が出てくることもある。
<回復期>
人生は続いていると感じる。自分もまだ生きていこう、まだ人生の目標はあると思える時期。激しい悲しみや苦痛なしに、故人について語れる。アルバムを開き、故人の思い出を優しい気持ちで語り始めることができる。
(東日本大震災の災害心理学 碓井真史 2011)
こういった状態において、「しっかりしなさい」といった励ましの言葉は有害である。また、周囲から「早く元気になれ」とせかされたり、逆に少し元気な言動が出てきたことを責められたりすることで、辛さを感じることもある。しかし、これらの状態に陥ることは誰もがそうなることでまったく正常なことである。大切なのは、元気になるよう急がせることではなく、ゆっくり待ってあげることである。
2.カウンセリングマインドとは
悲観のプロセスを知ることで、次に私達が求められていることは、「待つ」という態度であることがわかる。そして、この点を重視しているのが「カウンセリングマインド」というカウンセリング的に人と関わろうとする人が持つべき態度、考え、心構えである。これは、会話を通して人を助けたいと思っている人=ボランティアする側にとって大切になる心構えである。
ようするに、カウンセリングマインドとは「あなたの話が聞きたい」「あなたの気持ちがわかりたい」という態度である。話を聞くだけなら簡単ではないか、と思うかもしれないが、実際はそう簡単ではないと考える。なぜなら、カウンセリングマインド:「話を聞く」ということは、「簡単には理解しない」ということであるからだ。頭がよく経験豊富な人はすぐ相手の話を理解してしまうから、わかったつもりになってしまうからである。簡単には理解した気にならず、相手のペースで話をさせて、最後までしっかり話を聞くこと。泣きながらでもいい、怒りながらでもいい、ずっと黙りこくってもいい、すごい勢いで話続けてもいい。その人が話しやすいように話してもらう態度を作ることが大切であることがわかった。
3.傷つけやすい言葉
言葉は時に、誰かを救い、幸せな気持ちにすることができる。しかし、時には、善意で言った言葉でも人を傷づけることがある。私達が注意しなければならない言葉をあげる。
「家族や友人を亡くした方へ」
・これであの人は楽になった ・寿命だった
・年齢は十分
・あなたは生きていて良かった
・お気持ち分かります
など
「被災背へ」
・がんばってください ・前向きに行きましょう
・早く忘れましょう・泣いてはいけません
・あなたはまだまし
など
家族からこのような言葉が出るのはいいが、他人から言う言葉ではないと私は思う。人は何とか助けてあげたいと思うと、何か素晴らしい事を言わなくてはいけないと考えるが、無理に言葉は必要としないと思う。善意であり、正直な気持ちであり、時に正しい言葉であっても相手を傷つける可能性があるということを忘れてはならない。つまり、言葉というのは、「何を言うかではなく、いつ言うか。」が大切なのだ。無理に言葉をかけてあげるのではなく、言葉の一つ一つをどのタイミングで言えるかが重要になってくる。
「がんばれ」
この言葉は、一番なげかけたくなる言葉なのだが、注意が必要である。ただ、がんばれを言うことがいけないのではなくて、今この人にはがんばれなどと言えないという感覚が大切だろう。がんばれ、と言っていいのは、相手の苦労を苦しいほど理解している人、そして相手と一緒にがんばろうとしている人であり、相手にもちゃんとわかってもらえている人だけだと思う。それが本当の応援ではないだろうか。
「被災者という言葉」
昨日まで他の人たちと同じように元気に生活していた人が、ある日突然被災者になってしまい同情されてしまうことに、私は違和感を覚える。「被災者」という言葉は、マスコミ用語なのかもしれない。なぜなら、ある個人に向かってお客様と呼ぶのは、おかしくないけど、被災者と呼ぶのはおかしいからだ。災害があってもあわなくても、私達は共に生きる仲間。被災者と呼ばずに「復興者」と呼ぶこともいいのではないだろうか。
4.ボランティアする側の心が傷づくことも・・
被災者の心だけでなくボランティアする側の心についても考える。
なぜボランティア側の心が傷つくのか。ボランティアの人たちは何か役に立ちたい、助けたい、という気持ちでボランティアをしにいく。これはみな同じことだろう。しかし、一所懸命に行動しようとしたのにそれが報われない時には傷つく。出番がなくても文句を言うなといわれても、せっかく善意で来たのに、活躍できないでがっかりする。これもまたみな同じであろう。
余裕がある時には、被災地にいる人はボランティアの人へ配慮ができる。でも、まだまだ混乱が収まらず余裕がない被災地では、ボランティアの人の気持ちにまで配慮ができなくても当然である。本当に役に立ちたいと思うならば、できることをできる範囲で行い、喜んでもらえたらそれでいい、というぐらいの心の余裕を持って行くことが必要なのだろう。
5.ボランティアする側、される側の心
双方の気持ちを自分に置き換えて考える。
・ボランティアする側の気持ち
→良いことをしているな、ちょっと誇らしい など。
・ボランティアされる側の気持ち
→惨め、ちょっと恥ずかしいな など。
ここでは、援助する側が自分のことをどう思っていると感じるか、がポイントになるだろう。惨めで哀れな弱者と見られていると感じれば、援助を受けるほどますます惨めになる。でも、援助する側から愛と尊敬、あるいは援助が当然のことと感じることができれば、それは応援やサポートであり、心強い気持ちなるのではないだろうか。私の親友が困っている時、厚い友情を持ち、親友として当然のこととして手助けができれば、きっと喜んでくれる。赤の他人であっても、基本は同じであると考える。
6.実際に被災地で3.11を経験した友達へのインタビュー
震災当日、実際に被災地で地震を体験した友達に心境を話してもらった。以下はその記録である。
・地震が起きた当日、何をしていましたか。
自動車学校の合宿で石巻(宮城県)にいました。朝5時か6時に震度5くらいの地震で目を覚まし、その時は「地球が俺を起こしてくれたぜ」とか調子こいていました。そして、昼の大地震の時、学科の救急講習を受けていました。
・大地震が起きた直後はどうしましたか。
超テンパリました。机の上の物は全部落ちるし、天井からパラパラ何か降ってくるし。とりあえず机の下にもぐって地震が収まるのを待ちました。その後は自動車学校にいる人達全員がロビーに集められてしばらく待機しました。通いできている人の中には家に帰る人もいました。家に帰った人の中には、帰る途中で津波にのみ込まれて行方不明になった方が少なくとも3人いました。津波が来た時は正直、「あぁ、死ぬのかな」と思いました。自動車学校の1階が水没、2階まで水が来たので3階にみんなで非難しました。
・友達や周りとのコミュニケーションはどんな感じでしたか。
女の子は泣いたりしていたので、励ましました。みんなが不安で不安でしょうがなかったと思います。大人数集まっている場合、パニックになってしまうことが一番怖いことなので、「冷静に行動しましょう」とみんなで言っていました。周りに友達や知り合いがいたのがとても心強かったです。「大丈夫だから」と周りに言っていましたが、自分もこれからどうなるのかわかりませんでした。
・助けに来てくれた方々と接して感じたことはありますか。
地震の翌日か翌々日というかなり早い段階から自衛隊や消防隊の方々が来てくれました。これからどうなってしまうかもわからない状況の中で、とても心強かったです。「見捨てられてないんだ」と感じることができました。皆さん本当に一所懸命、命がけで働いていらっしゃったので、とても感動しました。い
つか、僕もなんらかの形で恩返しができないかと考えています。
・1番必要だと感じたものは何ですか。
電気、ガス、水道、食料、携帯の電波など、あらゆる物が無くなりました。しかも、当時は3月にしては珍しく、雪が降るような寒さでした。何もかも、原始時代に戻ってしまったようでした。そんな中でも、特に欲しかったものは電気です。家族に自分の安否も知らせられないまま何日も経っており、自分が生き延びているということを、早く伝えたかったです。携帯の充電をして、家族との連絡を取ることが一番したいことでした。しかし、1番必要なものはその状況によって人それぞれ異なるものだとも思います。
・起きる前、起きた後の心境の変化はありますか。
震災の時はとにかく不安でした。情報がとにかく無かったので、自分達の置かれている状況もわからず、ネガティブな方向にのみ思考が向かいました。僕は現在、周りの方々の助けもあり、東京に帰ってくることができて、もとの生活に戻っています。しかし、僕達を助けてくれた現地の方々の中には、家を失い、家族を失い、仕事を失った人がたくさんいます。もとの生活に戻ってしまったという罪悪感もあります。今も苦しんでいる方々がいる中で、東日本大震災がどんどん過去のことになっている気がするので、あの日のことを忘れず、募金でも、ボランティアでも、形は何でも良いので、なんらかの形で支援に関わっていきたいです。
インタビューを終えて
テレビの報道からは読み取れないとても貴重な体験をさせてもらった。彼は、「津波が来た時、本当に映画をみているようだった」と言った。私に話してくれたことは、ここに乗せられないほど生々しく悲しいものも多く、すごく胸が苦しくなった。そして、彼は「震災の記憶を残したいのだけど、文章にすると、とても薄っぺらいものになってしまう」いっぺんに非現実のような体験をし、今でも頭の中がまとまっていない、と話していた。
7.まとめ
友達へのインタビューを通してわかったことは、被災者の傷は私の想像を絶するほど深い、ということだった。友達もまた、深く傷を負っている。被災地にいない私達が理解するには限度がある。では、私達には何ができるのか。それは、長きにわたる援助を続けることである。
相手の気持ちをどこまで理解できるかはわからなくても、生活に必要な物資を届け、私達が被災地のことをずっと忘れることなく見守っていくことならできる、そういった積み重ねがいつか被災者の力になる、と考える。
また、これをきっかけに自ら反省すべき点や改善すべき点が見つかったので、今後に生かしていけたらと思う。
参考文献
災害ボランティア論入門 (シリーズ災害と社会5)
著者:山下雄介 出版社:弘文堂 年度:2008年12月8月
(2年1組8番)
心のケアとはなにか
−津波ごっこを通じて考える-
小林愛香
1.はじめに
東日本大震災の巨大津波に襲われた宮城県の沿岸地域の幼稚園児、小学生低学年の子供たちが津波や地震の「ごっこ遊び」に興じている。この遊びは、「津波がきた」「地震がきた」といった合図で一斉に机やいすの上に登る。また、ままごとでも「支援物資」「仮設住宅」などといった、子供たちの間では不釣り合いである言葉も多く聞かれるという。このような「津波ごっこ」は、将来子どもたちがまたこのような被害にあった時に役に立つであろう、という意見や、不謹慎である、といった意見もあり評価は大幅に分かれているようだ。だが、児童心理の専門家によると、子供たちが地震と津波の衝撃や恐怖心を「遊ぶ」というかたちを通して克服しようと格闘しているのだという。
今回の東日本大震災に限らずに、平成5年の北海道南西沖地震で大きな津波被害を受けた奥尻島でも「津波ごっこ」が子供たちの間で多いに流行したという。臨床心理士でもある、藤森和美武蔵野大学教授は「子供たちが震災後、レスキュー隊員役と津波で亡くなった方役に分かれるかたちの津波ごっこであり、周りの大人たちからの嫌悪も強く、当時はかなりの物議を醸した。」と振り返っている。しかしながら、基本的には、月にはじめて人類が到達したアポロ11号の月面着陸という大きなインパクトを真正面に受けて月面ごっこが流行ったのと同様に、災害を真正面から経験した子供たちが遊びというかたちを通して災害の恐怖や不安を体で表現し、心の中で克服しようとしているのである。このために、被災地ではこの「ごっこ遊び」は決して禁止せずに見守るという対応がとられているそうだ。なぜならば、まず一つに、この遊びを通して、子供たちの不安や恐怖心が克服されるのである。そしてもう一つに、災害時から時間がたつにつれて、自然とこの「津波ごっこ」は自然と消失していくとみられるからである。
第一章
災害、つまりは外傷的な体験によって深く傷ついた子供たちは、その遊びを繰り返し行うことで克服する。このようなプロセスを知った時、私は違和感を得ずにはいられなかった。新聞の記事にこのような報道があったからである。
「アートセラピー」かえって心の傷深くなる場合も。
この記事は2011年6月10日に朝日新聞に掲載された震災特集の中の一部である。みなさんは、「アートセラピー」という子供たちの心のケアの方法を知っているだろうか。「アートセラピー」とは、被災地や、心に傷を負った子供たちにその災害時のことを思い出させ、絵を描いてもらうという心理療法の一つである。アートそのものが持ち合わせているセラピー効果(たとえば、表現する力であったり、触れ合い、画材など)や、アートを見せ合ったり、共有したりする子供たちの間での交流をすることによって自分自身を表現し、本当の感情に触れていくという効果が期待できる。もちろんアートには目や手や脳の感覚を刺激するという効果もあるので、五感の活性化にもつながり精神的な面だけではなく、肉体的な面のサポートにもつながるのではないかと、近年期待がよせられている療法なのである。しかし、この「アートセラピー」に対して、日本心理臨床学会が6月9日に注意を呼び掛ける指針をまとめたという。子供たちが心の不安や恐怖心を絵で表現するということは、必ずしも心的外傷後ストレス障害(PTSD)の予防にはつながらず、かえって傷を深くする場合さえもあるというのである。臨床心理士ら、およそ2万三千人が所属している日本心理臨床学会が9日にまとめた「『心のケア』による二次被害防止ガイドライン」では、「絵を描くことは、子供たち自身が絵を描くまでは気付いていなかった怒りや悲しみ、恐怖心がかえって吹き出してしまうことがある」と指摘している。特に水彩絵の具などで「アートセラピー」を行う場合、色がぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまい、イメージとは異なった色が出る可能性があり、そのような場合は注意が必要である、とした。指針では、心の表現を促す活動は専門家とともに行って、かつ、心のケアが継続的に行える状況下でのみ実施するように求めた。
これは見逃せない記事ではないだろうか。子供たちが災害を思い出し表現するという行為は、かえって今まで気付いていなかった怖さや不安をも思い出させてしまう危険性を潜ませているのである。心に傷を負っていない人が心に傷を負った人に心のケアをする難しさも含まれていると思われる。私たちが心の傷を負った人に対して、直観的、または常識的に妥当である、と思われる心のケアの方法や関わり、コミュニケーション方法は必ずしも正解ではないのかもしれないのである。ある被災地では「津波ペインティング」も行われたらしいが、これをする行為も、もしかしたら人々には心理的外傷につながっていたかもしれない、と考えるとぞっとする。
第二章
一見常識的な介入であるにも関わらず、それが心に傷を負った人には外傷になるといったケースは稀ではないのかもしれない。いわゆる「CISD」の論争問題もその一つである。この問題は、外傷を負った人々にとっては、何が治療的であるかという判断が、私たちの直観や常識とは微妙に異なるという事を専門家たちに身にしみてわからせた論争経験である。心の傷を負った直後は、精神的な安静をたもつ事が必要であるという事が近年分かってきている。しかし、私たちが心の外傷についてまだ十分な知識を持たない頃は、できるだけ早く手助けを行うべきであるという考え方が支配的であった。CISD(緊急事態ストレスデブリーフィング)という考え方である。CISDは災害が発生した後72時間以内に被災者たちを集めてその体験を話し合い分かち合う機会を提供するものである。そこでどのようにそれに対処したのか、何を感じ取ったのか、などについて2、3時間費やしてひたすら話したり聞いたりするのである。
このCISDという療法は一時非常によく使われアメリカでは、1995年のオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の際も用いられたという。我が国では、阪神淡路大震災をきっかけによく知られるようになったという。災害の生々しい体験を、その体験したすぐ後に被災者に語らせるという方法はかなり当時は画期的であり、それがアメリカにおける最先端の治療法であるという意識も手伝って我が国にも浸透したのだそうである。
CISDはこうして災害時の心のケアの療法の主流となるはずであった。ところが1990年代後半から、ある研究結果が報告されるようになった。それは、CISDはそれほど心のケアに有効ではなく、のちにPTSDを引き起こす可能性が増してしまう、という研究成果であった。外傷を体験した人たちにいち早く介入する。直観的、常識的には決して間違っていないように思えるCISDという療法も、それが逆効果になってしまったのである。何が外傷に対して作用して、作用しないのか、という見極めはほんとうに難しい問題であると改めて思い知らされる研究結果ではないだろうか。
このCISDは「津波ごっこ」にも「アートセラピー」にも通じることが多いにあると思う。人が被害に合って、それを助けたい、援助したい、と思う。そして、援助する試みのなかで一見常識的なアプローチをする。それに対する人々の反応は極めて主観的である。つまりは個人差があると思う。人間は1人1人違ったとらえ方をするのである。ある人は、それをひとつの癒しや復興への希望の光だととらえるとしても、ある人はそれを迷惑、ずかずか心に入ってくる、侵入してくると捉えて、かえって外傷反応を悪化させてしまうかもしれない。ある支援や心のケアが、その人にとってどちらの反応を引き起こすのかという疑問は、簡単には予想できないものだと思う。とすると私たちに出来ることは何だろうか。きっと、私たちには常識的な対応であると思われることが、被災者の方たちにはそうではないかもしれないという事を念頭に置き続けるということがまず1つ必要なことではなかろうか。2つ目には、ある心のケアを一定の集団に一律に行う際には、常にその個々に注意を払うことが必要不可欠であると思う。
おわりに
再び、話を津波ごっこに戻す。まとめると、「津波が来た」「地震が来た」という合図で子供たちが一斉に隠れたり、机の上に登ったりする。専門家たちは、地震や津波の衝撃を遊びを通じて克服しようと格闘しているのだという。しかし、子供たちはなぜ本当は「津波ごっこ」に興じているのであろうか。それはきっと人間は単純に適度のスリルを好む生物であるからではないだろうか。集まってする怖い話が好まれるのも、遊園地にある怖いお化け屋敷が流行るのも、サスペンスドラマに殺人が付き物なのも、本当は人間はある程度のスリルが大好きだからではないだろうか。スリルは快楽なのである。
「津波ごっこ」は被災した子供たちにとって害になるのか、それとも見守るべきであるのか。これはもしかしたら、スリルを思い出すことによって癒しや楽しさを子供たちは得ているのかもしれない。「津波ごっこ」を見守るべし、とする見解は、このような考え方をするとますます津波体験の克服、苦しみからの解放につながるのではないかと思う。
しかし、同時に問題も起こる。大人からも「津波ごっこ」を認めるという動きが出されることによって、それを耐え難いと思う子供たちにとっては、余計につらい思いをしかねないのではないだろうか。
被災にともなう心の傷の問題は、心のケアをする第三者にとってとても難しく、ボランティア活動などによる一般的な常識も、その心理の専門家の持っている知識も、被災者の心を裏切る結果になりかねないのである。私たちはその事実を受け入れるしかないのであろう。心のケアをするときは、個々に注意を払い、出来ることなら長いスパンでずっとケアを続けられる安心の出来る環境でなければ成功は難しいのではないかと思われる。
(参考文献)
・新聞
朝日新聞2011年6月10日記載分
・雑誌
imago 東日本大震災と「こころ」のゆくえ
・インターネット
アートセラピーとは?
www.artiro.com/arttherapy.html
(2年5組12番)
心のつながり、復興に向けて
設楽淳太
はじめに
2011年3月11日午後2時46分に発生した大きな地震で、多くの方が被災しました。いままでの日常とは別の生活を強いられ、また死者行方不明者2万7千人超という大きな被害により、心に傷を負った方も多いでしょう。私は、そんな被災者とその関係者たちの心、また自分たちのような直接被災してはいないが今回の地震を通して何らかの変容をこうむった心に注目してみようと思いました。被災した人たちへの心のケアや子供やその親や教師たちの心の持ち方、地震が起きても冷静にいることができていると海外から評価された日本人の心、これからの復興にむけての精神など、心のケアや精神を中心に考えていきます。震災から半年以上が経ち、これからどうすればいいのか、これからの日本はどうなっていくのか、復興に向けての心構えはどうすればいいのか、なども交えていきたいと思います。
第1章
心のケア、心のつながり
心のケアの前に被災者にとってまず必要なことは、安全な場所や毛布、水、食料などです。体の健康をまず確保することが大切です。つぎに具体的で役に立つ情報が必要です。ラジオやインターネットなど使えない方も多くいるでしょう。避難所の情報、支援物資の情報、政府からの情報など正確で有用な情報を得ることはストレスの軽減につながります。ひとまずの安心、ここなら安全だと思えること、それが心のケアの第一歩です。
東日本大震災のような大規模災害において、被災者の方のストレスは、私たちの想像をはるかに超える激しいものです。つらい経験のあとで、忘れたくても忘れられなくなり、PTSD(外傷後ストレス障害)という心の病気になってしまうことがあります。このPTSDというのは、凄惨で過酷な出来事により、人としての尊厳を損なわれる体験をしたり目撃したりすることで生じる心の病気です。今回のような災害など強い恐怖を伴う経験により、耐え難い記憶が心に刻み込まれ、忘れたくても忘れられない、これをトラウマ体験といいます。このトラウマ体験が続くことによって、さまざまなこころの不調が生じます。フラッシュバック、回避、イライラといわれるものです。このような不調が一ヶ月以上続くならば、PTSDが疑われます。震災から半年以上が過ぎていますが、このPTSDに悩ませられている人は多くいることでしょう。このPTSDによってストレスがたまり、身体にも影響を及ぼしてくる可能性もあるので、とても気をつけなくてはいけない病気です。災害から一ヶ月程度経つと、回復に向かう人と、さらに悪化する人と分かれていきます。不安そうで落ち着きがない、眠れない、イライラが目立つ人は、周囲が早い段階で症状に気づき、医療者に看てもらうことが望ましいです。しかし、本人自ら「こころのケア」への行動にはなかなかうつれないものです。医師や専門家による診断を拒んだりすることはよくあることなのです。したがって、周囲からの「こころのケア」を粘り強く勧めていくということも求められます。周囲の人たちの「気づき」や「協力」が大切になってきます。
ここで震災により心の病になった子供について焦点を当ててみます。やはり子供への対応というのは周囲の大人たちが気をつけなくてはいけません。大人が注意すべきことは、1.できるだけ子供を一人にせず、一緒にいることで安心感・安全感を与えること、2.抱っこや頭を撫でるなどスキンシップを増やすこと、3.赤ちゃんがえり・依存・わがままなどの症状が現れますが、ちゃんと受け止めて対応してあげること、の3点にまとめられます。大人に比べて災害後の生活に適応することが難しいですが、ほとんどの場合は一時的なものが多いのです。子供はストレスに対する反応も強いですが、回復力もそのぶん強いのです。周りの大人たち、特に一番身近である母親、父親のほうが不安な状態になってしまうと、その影響で子供の回復を妨げてしまうことがあります。親たちの落ち着きが最も大切なのです。そのための親たちの心のケアも大事になってきます。
こういったPTSDなどを代表とする心の病に対応するべく、政府や大学、ボランティアチーム、医療機関など多くの団体が現地に赴いてカウンセリングをしたり、インターネットなどに情報をのせたりしています。ひとつ例をあげるとソフトバンクがスマートフォンのテレビ電話機能を使った遠隔カウンセリングを導入するというサービスを発表しています。避難所にWi-Fi環境の構築およびスマートフォンの設置を行い、テレビ電話機能を使って首都圏のカウンセラーと避難所をつなげ、顔をみながら会話をし、メンタルケアの遠隔カウンセリングをするというサービスです。または、メンタルヘルスサービスを行うピースマインドという企業は震災後の心のケアについてのマニュアルなどを無償で、ネットで公開するなどしています。
現在、震災から半年以上が経っていますが、被災された人たちの今の心の状態は修復期という時期にあると言えるでしょう。心理面で適切なケアが受けられた場合や、通常の心の回復過程では、悲しみや寂しさが募り不安を感じることもあるが、混乱した感情が徐々に修復されてきているという時期です。つらい出来事が思い出されると苦しくなるが、少しずつ心の整理がついてきて、日常への関心やこれからのことへの見通しに目を向けていけるようになると思われます。しかし、突然被災の記憶がよみがえる(フラッシュバック)、災害を思い出す話題や場所を避ける(回避)などの行動が続いてしまう人もいるでしょう。抑うつやアルコール依存の問題が顕著になってくる時期でもあります。今でも地震は起きていますし、原発の問題など毎日何かに悩まされることでしょう。これだけの大きな震災の傷跡はゆっくり時間をかけてケアする必要があるのです。
阪神淡路大震災を経験し、神戸市内の一部の地区に在住する約2000人以上を対象に、震災約1年後に行われたストレスとメンタルケアに関する意識調査(日本赤十字社まとめ、1995年)があります。これによると、被災時に頼りになり、精神的な支えになった人は「友人」と応えた人が最も多く、次いで「親類」「配偶者」「子供」「両親」というように、近しい人の存在を多くあげる傾向にありました。また、被災した体験を話すことができた相手は、「家族」や「親類」「震災前からの友人」というように、個人的なつながりのある人を挙げる回答が圧倒的に多く、少なくとも震災後1年くらいまでの時期に必要とされるメンタルケアでは、精神科医やカウンセラーなどの専門家より、もっと身近で個人的なつながりの方が大きな心の支えになっていることがわかります。今回の震災では電通が東日本大震災後から父親が家族と過ごす時間が1週間あたりで5時間13分増加していると「東日本大震災後の父親・母親調査」(8月初旬実施
電通社内横断プロジェクト「ジセダイ育成委員会」が関東1都6県の長子小学生以下の子供を持つ父親・母親400名を対象に調べたもの)の結果を発表しています。こちらは被災地での調査ではないですが、日本全体として家族や子供との時間を大切にしたいという意識が強くなっているようです。
阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、心の支えとなったのは、身近な友人や家族であるということがわかります。医師や専門家を派遣することもとても大切なことですが、被災者が安全に安心して、家族や友人と一緒にいられる環境や遠くにいる家族や友人たちと連絡がとれるような情報媒体の設置などが、被災者の方々にとっては一番の心のケアになるのかもしれません。
第2章 復興に向けての精神
今回の震災で日本人全体が冷静であったことが海外で伝えられ、賞賛されたりもしています。なぜとても大きな天災があったにもかかわらず日本人が冷静な心をもっていることができたのか。
それは日本人が、こういうことは今に始まったことではない、という意識をどこかに持っていたからではないでしょうか。
戦災で多くの人々が亡くなったり建造物なども崩壊してしまったことを、学校で学んだり、または経験してまだ記憶している人たちもいます。また、阪神淡路大震災や関東大震災など、大きな震災は日本では多く起こっています。ときどきこういうことが起こって、自分たちの作ってきたものが白紙に戻されてしまうようなことがある、ということを日本人は無意識に知っているのかもしれません。
伊勢神宮には式年遷宮というならわしがあるそうです。二十年に一度、古いものを壊して、同じものを作るというのです。自分の作ったものが白紙に戻されても、また作り直そうという本能のようなものを人間はもっているように思います。日本人は特にこういうことを昔から経験してきている訳ですから、自然とこのような状況には強くなっているのではないかと思います。
復興に向けて、既に津波の被害地は住宅ではなく公共の公園かなにかにして、人々の住む家はもっと高台に移してはどうかという意見もでています。しかし、この提案をしている人たちは、実際にそこに住む人たちではありません。元に戻そう、復興しようという人たちには「こんちくしょう。負けるもんか」という気持ちがあるはずです。ともすると、その土地からはなれることを逃げることのように思ってしまうかもしれません。それは「こんちくしょう」という気持ちを削いでしまうかもしれません。この気持ちは復興において絶対必要な大切な要素になるはずです。
日本の今のやるべきことは被災地の復興です。このことは日本に「やる気」をもたらすと思います。この震災をきっかけに原発の見直しがなされていますし、また省エネ、節電に関しても今までは抽象的な議論が繰り返されていましたが、これから先はどのくらいの停電であれば世の中が回るのか、不満のでるラインはどこか、など具体的な議論をかわすことができます。
数々の天災の中でも最大級の被害を及ぼした今回の震災からも、私たちはかならず立ち直ると確信しています。日本はそれまで何度も復興してきて、元に戻してきたのです。また新たにやり直し、そしてこれから先のことについても具体的に議論をかわし、復興への強い精神を持つことが大切です。
おわりに
第一章では主に被災地の方々の心のケアなどについてふれ、第二章では日本全体の復興への心構えのようなものについてふれました。自分はこの二つは同時に気にしなくてはいけないことだと思います。実際に被災された方々の怒りや悲しみを受け入れ、またその人たちを支え、復興に向けてのサポートをするには、大きな視点で物事をみて、今回の震災があったことで何が変わったか、何がわかったか、それを考え議論し、強い気持ちで将来につなげるための行動をしなくてはいけないと思います。今後また大きな天災やもしくは大きなアクシデントが起こるでしょう。しかし、そのたびに被害にあった方への心遣い(ミクロな視点)と全体の為に未来へとつなげる行動をする(マクロな視点)この二つが上手くバランスがとれると良いと思います。
逸早い復興にむけて、自分たちができることを見つけて行動にうつしていこうと思います。
主要参考文献:
・『復興の精神』養老孟司
茂木健一郎
山内昌之
南直哉
大井玄
橋本治
瀬戸内寂聴曽野綾子阿川弘之、新潮新書 2011。
・http://health.yahoo.co.jp/column/earthquake/ PTSD心のケア(参照日
2011年11月29日)
・http://allabout.co.jp/gm/gc/377672/2/ 災害時は心のつながりを…震災後に考えるべき心のケア(参照日 2011年11月29日)
・http://www.peacemind-jeap.co.jp/seminar_and_topics/disaster_mental_care ピースマインド・イーブ株式会社(参照日 2011年11月29日)
・http://n-seikei.jp/2011/09/post-2707.html JC-NET(参照日 2011年11月29日)
(2年6組14番)
災害ボランティアにおけるコミュニケーション
〜東日本大震災を通して〜
上村早紀
はじめに
2011年3月11日午後、東北を中心に発生した震度7の東北・太平洋沿岸地震。マグニチュード(M)9.0という世界観測史上最大級の地震で、沿岸の街は水没し、家や車は高波に跡形もなく流されていった。各国の救援隊が現地入りする一方で、東京電力福島第1原子力発電所から放射性物質が漏れ出だし周辺住民が避難するなど、被災の連鎖が続いた。地震発生の日から連日、テレビや新聞などでは震災に関するニュースが報道された。そして地震発生直後にはわからなかった今回の被害の規模が徐々に明らかになってくるのである。マグニチュードが0.2大きくなると地震のエネルギーは2倍になる。今回の地震エネルギーは1923年の関東大震災の約45倍、1895年の阪神大震災の約1450倍。1900年以降に起きた地震では、60年のチリ地震(M9.5)、64年のアラスカ地震(M9.2)、2004年のスマトラ沖地震(M9.1)に次ぎ、1952年のカムチャツカ地震(M9.0)と並ぶ第4位の規模になる。
歴史上甚大な被害を出すことになった今回の震災であるが、復興へ向けての動きとして、多くの被災現地へのボランティア活動の存在は欠かすことはできないだろう。前期の発表を私は、“共同体”というテーマで取組んだ。調べていく中で日本人に特に顕著に見られる「思いやり・助け合い精神」という言葉が印象に残っている。これは、震災に直面した後でも日本人がお互いを思いやり、助け合う行動(震災で交通が麻痺している状況下でも列をなして順番を待つ、など)をしていたことへの賞賛の言葉なのであるが、それはボランティアについても言えるのではないかと思う。
第一章
日本で災害ボランティアが浸透するきっかけとなったのは、平成7年の阪神大震災だ。全国各地から延べ150万人のボランティアが駆けつけ、「ボランティア元年」という言葉を生み、同年7月には政府の「防災基本計画」が改訂され、「防災ボランティア活動の環境整備」「ボランティアの受入れ」に関する項目が設けられた。また、同年12月の閣議了解により、毎年1月17日を防災とボランティアの日、1月15日から21日を「防災とボランティア週間」とすることが決められる。さらに、同年12月の災害対策基本法の改正により、「ボランティア」と言う言葉が我が国の法律に初めて明記されることとなる。その後、震災が起きるたびに災害ボランティアのノウハウが蓄積されていった。とはいえ、支援がいつでも被災者の心の傷を癒すわけではなく、しばしばボランティアの言動が摩擦を生むこともある。知らない土地から来た“よそ者”が被災者の要求に完璧に応えていくことは容易なことではないのだ。このように、ボランティア活動において、復興へ向けて最も重要だと言われているもののひとつにコミュニケーションの問題がある。そこで次に、ボランティアと現地の被災者との間でのコミュニケーションについて言及していこうと思う。
第二章
今回の東日本大震災でも現在までにたくさんのボランティアが被災地を訪れ、奉仕をする側と受ける側との間に、さまざまな心の交流が生まれている。そのなかのひとつの例として、「足湯隊」が挙げられる。神戸大学の学生らで結成されたグループである「足湯隊」は阪神大震災を機に結成され、新潟県中越地震(2004年)で注目された。学生のボランティアたちは被災した人たちに足湯を施し、足や手に触れながら被災者の訴えに耳を傾けた。最初は被災地の人たちにどのように接していけば良いのかわからず、戸惑いながらも、「被災者の声を聞いているうちに、被災したのは私であったかもしれないという印象を持つことがある」というほど、両者の心は結ばれたという。また、被災地・石巻市で8日間にわたり復興活動をしていた男性が後に7日に遭遇した震度6強の地震の恐怖を語っている。4月1日、自ら呼びかけて集めたボランティアスタッフたちとともに、彼は被害の大きかった宮城県石巻市へと訪れた。水7トンを届け、当初は被災地の人たちにお風呂に入ってもらおうと、ドラム缶風呂を作る予定だった。これからボランティアをしたいと考える人が必ず口にする言葉のひとつに、「何かできることがあればお手伝いしたい」というのがある。何ができるかわからないが、とにかくやれることがあるならやりたい。その気持ちは素晴らしいものだ。しかし、迅速な行動が求められる現場では、「何かしましょうか?」と問う前に、自分に何ができるか考えて、ある程度自分で決めて、準備してそれから現地に入ることも必要なのだ。いざ現場に行ってみると、自衛隊がすでに風呂を作っており、地元の人からは「ヘドロを出す作業を手伝ってくれないか?」と言われたという。「すでにお風呂があるのに、ドラム缶風呂を作っても自己満足になってしまう。2日目でドラム缶風呂はやめて、あとは地元の方々と一緒に泥出し作業をしていました」と語る。他にも食糧不足を想定していたが、彼がボランティアに行った地区では他のボランティア団体からの炊き出しが多く、供給過剰という状態であった。食料が足りないことを一番心配していただけに、逆の結果となって意外な思いをしたという。災害復旧支援は現場に足を踏み入れないとわからないことが多いものなのだ。
第三章
泥出し作業というのは、津波によりヘドロだらけになった商店街を中心に、スコップで一輪車にヘドロを入れて外に出す作業を延々と繰り返すものだ。体力に自信のあった私でもほんとうにきつい作業でした。」と振り返っている。そんなキツい作業を支えていたのが、地元の人たちの「ありがとう」という言葉だった。災害から3週間、みんなが現実を受け入れ、前を見ようとしているのか、つらい現実の中、笑顔が印象的だったという。大勢の人が、当たり前のように自分の家族を失っている、信じられないような現実がそこにはあった。泥を掻き出すときは大抵そこのご主人なりご家族が一緒になって作業するのだが、そうすると、作業をしながら「復興したら店においで。ご馳走するから」「次にきた時は家に泊まっていきなよ。」と話がはずむ。
苦しみや悲しみのさなかにある人と一緒に作業をしていると、どんなにキツくても、なんとか力になりたいという気持ちが入る。単純な肉体労働であるだけに、些細なことでも人とのコミュニケーションがとても大きな意味を持っていた。「言葉にならないような現場ばかり。でも、そこで自分にもできることがあった。」縁もゆかりもない土地で作業するにあたり、被害に胸を痛めながらも、どこか人ごとのように感じてしまう。「中途半端な気持ちでこの場にいていいのか?」と悩んだこともある。依頼主から業者のように扱われて葛藤したこともあった。しかし、毛布をくれ空いている仮設住宅に入れるように市に掛け合ってくれた被災者もいた。食事にも何度も招いてもらった。地元の人と直に接し、悲愴な顔で黙々と作業していた自分にもいつしか笑顔が戻っていた。自然と「最後のニーズがあるまで続けよう」と思えた。
ボランティアと実際に震災を経験した人たちが直接コミュニケーションをとる時では、心の距離感が難しい。独断的な行動や発言は心に傷を負っている被災者を傷つけてしまい兼ねない。ボランティアは絶対に自己満足であってはいけない。「震災で受ける心の傷はまちまち」なのだ。ボランティアの注意点としては、(1)被害が深刻な被災地ほどリスクが伴う(2)パターン化した受け答えではなく、できるだけ相手に寄り添う(3)「非日常」の活動を終えた後、その体験を振り返って気持ちを落ち着かせる−の3つを挙げる。内閣府の「防災ボランティアの『お作法』集」でも、災害ボランティアが通常のボランティアに比べて「よりリスクが高い活動である」と指摘する。「たとえ被災者に頼まれても、自分や周囲を危険に巻き込むような仕事は引き受けないように」と、ボランティアの本質を見誤ることの危険性を説いている。
おわりに
災害発生から約9ヶ月が経った今、災害支援ボランティアセンターによると、以前に比べて需要は減ってきているものの、人手は現在も足りていない。今年の5月の連休はボランティアが山ほどいて収拾がつかない状態であった。しかし9ヶ月経つとその姿もなく、結局町の人だけで復興し、そしてその状態で年を越さなければならない被災者たちも多くいる。初めのころに比べてボランティアの数が減ってしまうのは仕方がないかもしれない。しかし一時的な流行ではなく、今後も先を見据えた長期的で力強い支援が必要なことは確かだ。その際にはボランティアの一番の目的である復興支援とともに、被災者への配慮もしっかりと頭に入れた上で臨んでほしいと思う。また私自身も、今回学んだことを契機に、なんらかの形で被災地に関わっていきたい。
主要参考文献:
『明日へ
東日本大震災命の記録』、NHK東日本大震災プロジェクト、 NHK出版 2011。
『WE ARE ALL ONE 須藤元気のボランティア記録』、須藤元気、講談社、 2011。
(2年15組16番)
世界が惚れた日本の道徳観
三田直輝
はじめに
2011年3月11日東北地方を襲った東日本大震災。死者・行方不明者あわせ2万人を超える戦後最大級の災害をもたらした。巨大な津波は太平洋沿岸一帯を飲み込み、続いて発生した東京電力原子力発電所の放射能漏れはいまだに終息する気配がない。
震災により数多くの命や家屋が失われたことは本当に悔やまれることで、日本に生きるすべての人は一生忘れてはいけないことである。しかし、国内のみならず世界中から多数のボランティアや義援金が送られたこと、日本人の行動が世界で称賛されたこと、東京電力の放射能漏れにより脱原発化が進んだことなど、震災が私たちに与えた影響は必ずしも悪い面ばかりとは限らない。隣国、韓国のKBCニュースでは「秩序と譲歩の日本国民…さすが日本」という字幕と共に、「最悪の状況でも、身についた秩序と災害訓練教育の成果が光を放っていた」と紹介した。他人を思いやって必要な物品だけ購入したり、大声を上げることなく列に並んで順番を待つ姿が、韓国メディアにとって特異に見えたようだ。他にも、財布が落ちていたら警察に届けるという私たちにとっては当然の行いも、海外から見たら珍しい行動のようである。私たちには考え難い事だが、海外では財布を落として返ってきたとしても中身が入ってないことが当たり前らしい。
日本人は平和ボケしているとよく言われる。確かにそうかもしれない。しかしそのような道徳観の高いことを国民性として評価されることは誇らしいことではないだろうか。
震災を機に今一度私たち日本人とは何なのか振り返ってみるべきだと思う。自分たちの普段無意識にとる行動が海外からどのような評価を受けているのか学ぶことで、見失われつつある日本人の誇りを取り戻し、復興の精神的支えになればと考えたからだ。
論文を作成するにあたり第1章でアメリカ、第2章で韓国、第3章でギリシャが報じた日本人を例に取り上げる。
第1章 アメリカが報じた日本人
震災を機に世界中のメディアで日本人の行動が称賛された。アメリカでも翌日の新聞から冷静(stoicism)、自制心(disciplines)、尊厳(dignity)、などさまざまな言葉で褒め称えられた。そうしたなかで、かつての「MOTTAINAI」のように英語となった日本語がある。「GAMAN(我慢)」だ。英語ではenduranceと訳されるがアメリカでは馴染みの薄い日本人固有の精神だという。
アメリカでの報道を調べるに当たりニューヨークタイムズ東京支局長、ニコラス・クリストフのコラムを元に考えたいと思う。クリストフは日本政府、日本社会の特異な面を批判的に書くことで知られているが、今回の大震災について彼はこう語った。
「私は、日本政府はほとんど透明性がないなど、日本に対して批判的な意見を述べてきたことで知られているが、市民の共通の利益のために「ガマン」する精神は日本人のもっともよい面で、自分の利益を差し置いて我慢する精神は、アメリカ人も見習うべきだと思う。日本の回復力と忍耐力に崇高さと勇気を見出しているし、それはこれからの日々で示されるだろう。日本の密な社会構造、そのたくましさと回復力が力を発揮するときがくるだろう」
彼がここまで日本を称賛することは初めてのことであり読者の注目を集めた。
しかし日本全体を称賛したわけではない。続く3月19日のコラムには、「この地震は政府と国民の二分をはっきりとさせた。弱いリーダーシップと強力な社会的結束は、同じコインの表裏である。民衆を団結させている力と同じ力が、社会を強力なリーダーに対して懐疑的にさせている。日本には真のリーダーがいなかった」とあくまで国民性を称えたのであり、政府に対する批判は崩さない点を強調している。
日本人の我慢の例として全国的に見られたガソリンスタンドやスーパーマーケットでの長蛇の列を挙げたい。ガソリン・食糧不足を懸念した環境下で混雑を極め自分の思うような行動がとれなくても、そこで大声を出したり口論に発展したりすることは稀であったことを思い出す。「みんなそうだから仕方がない」この“仕方がない”という運命を受け入れる考え方こそが我々日本人特有のガマンの価値観を形成している。世界的にみたら意志が弱いと言われるかもしれない。しかし今回の震災を経験してわかった通り、この考えは単に諦めからくる行動ではなく過去を受け入れ今やるべき最善の策に取り組む日本人の高度な精神性に由来することは言うまでもない。アメリカではハリケーン“カトリーナ”よって壊滅的な打撃を受けた際、各地で略奪や便乗値上げが横行した。個人主義、強い国家がかえって国民を弱くさせてしまったのかもしれないが、自然災害とは関係ない二次災害を招いてしまったことは事実だ。
これらを考慮すると世界的にみて「自己主張がない」と言われている日本人の国民性は、自分より他人を思う暖かい精神の下に成立したもので、劣等感を抱くどころかむしろ世界から称賛された誇らしい価値観であると知ってほしい。
全米各紙は連日のように震災問題について独自性に富んだ報道をしていたが、共通して、日本政府の無能さ、それと対照的にみられた国民の我慢強さ、「仕方ない」に代弁される感情を制御する精神、秩序を乱さない精神の素晴らしさが伝えられていた。また、この教訓を機に、次いつ起こるかわからない災害に対するアメリカ人の考え方に大きな影響を与えたといわれている。
第2章 韓国が報じた日本人
韓国は日本の隣国であり戦争・領土など様々な問題を抱えている一方、訪日外国人旅行者数では世界一位を占め、親日とも反日とも捉えることの出来る国である。そのため報道は一概に日本人の価値観を称賛したわけではなかった。
以下の文は震災直後の韓国ネットの反応である。
「我が国ならば迅速正確にすでに安全地帯に逃げているのに・・・」
「あれは国家の支配者の目にはよく映るが、非常に受動的で自分の運命を他人に譲り渡しているとも言えます。それで日本には市民革命が起きないという例証になります。個人的にはあんな姿の日本人に対して憐憫を覚えます。我が国だったら神にも逆らうでしょう」
あくまで反日感情の強いコミュニティ内の少数意見だが、事実として存在する。
一方大半のメディアは日本の対応について「冷静さと秩序を重んじた真の先進国」と褒め称えた。中でも全国紙、中央日報の「大震災より強い日本人」と題した社説では、日本と自国を比較した上で自国民の姿も省みている。「隣国の痛みよりも韓国が得る反射利益に関心を寄せはしなかったか。私たちはなお、日本から見習うべきことが多く、先進国にたどり着くまでの道のりは遠い。」
日本を称賛するだけでなく自国の在り方に異議を唱えるのは韓国の報道の中で極めて珍しい。中央日報の社説でも見られた「先進国」という言葉は韓国人の憧れからくる言葉だ。
過去の戦争で日本が起こした行為は韓国人の中に根深く意識付いているが、その反面、著しい経済発展を遂げた点に憧れを抱いてもいる。それ故、日本人の行動に評価を付けたがるのは当然の行為である。今回の震災での私たちの行動にたいして韓国人が下した評価は、「日本人の国民性の高さ」というもので、その評価は確固たるものとなっているようだ。政府関係者も「生活レベルや科学技術では大差ないところまで来ている韓国に足りないものは、日本人の国民性に表された様な成熟された市民意識だ」と話したという。
なにより、一部のメディアに「反日感情の強い国」と言われている韓国で、一番驚いたことは義援金の額だ。保守的な見解で知られる「週刊朝鮮」のコラムにも「日本を助けようという世論が沸騰しているのは知っていたが、まさか独立記念館を建てる時の募金を上回る額が集まるとは」と驚きを込めて書かれている。
過去の亀裂を埋めることはできないかもしれないが、3.11を機にこれから先の日韓関係において友好的な新しい風を吹き込んだ転機になったのは言うまでもないだろう。
第3章 ギリシャが報じた日本人
ギリシャは日本と同じ世界有数の地震大国で12年前に起こったM5.9アテネ地震の影響もあってからか今回の震災に対する内容は連日トップニュースとして報道された。
また現在、財政破綻による市民の暴動問題も同時に抱えているため日本人の震災後の過ごし方には特別関心が高かったようだ。
その中で注目されるのは、日本人の団結力、助け合いの精神のルーツが島国特有の一族性に由来すると紹介したことだ。過去から現在に至るまで先進国の多くは海外からの移民を受け入れてきたのに対し、日本だけは日本人だけで構成する社会を大切にしてきた。そのため今でも近隣住民との繋がりが生きており、結果的に犯罪防止に役立っているという。私たちからしたら当然のことのように感じるが、多民族形成の大陸国家において近隣と密な交流を交わすのは、宗教問題、民族意識の差からも敬遠される傾向にあるようだ。
また武士道で代表される、人に迷惑をかけることを恥とする発想も日本人の精神を表す上で欠かせない。自分が悪い行いをすると家族・友人にまで迷惑がかかるといった共依存の関係が起因していると言われ、これもまた日本人が非人道的な行為を嫌うことに繋がる。
このような過去から受け継がれた伝統的な考え方を加味すると今回の震災で世界から称賛された、略奪がなかったことや助け合いの行いもすべて納得できる。
現在ギリシャでは日本の武士道精神を浸透させようという動きがある。日本人の価値観が世界に注目され、他国を動かすまでに発展したことは非常に誇らしい事であり、これからのギリシャの再建に一役買うことを強く望みたい。
おわりに
3部にわたり世界が報じた日本を紹介してきたが、すべての国に共通して日本人の道徳観について触れられていた。アメリカのハリケーン、チリの大地震など世界でも同じような災害は起きているが、ここまで精神面を褒められる国があっただろうか。震災直後、あれほどのボランティアが集まり義援金によって支えられたのは、紛れもなく日本人の道徳心・過去の国際貢献に共鳴したからに他ならない。冒頭でも触れた平和ボケの一例、震災時に見られた忍耐力や自制心、私たちが当然のように行っている仕草すべてが、世界から見て称賛に値することを日本人は誇りに思ってほしい。
持続性を持った支援とは何か。私は国に誇りを持つことだと考えた。金銭的支援もボランティアも年が経つごとに次第に低くなることが予想されるなか、一人一人がこの震災を忘れないこと、そしてその中で見られた素晴らしい国民性を後世に伝えることが、先の復興において何より大切だと感じたからだ。
そのためにも国民全体が一日一善を実践してもらいたい。難しくなくていい、簡単なことの積み重ねが、結果的に「日本人の美徳」として評価されるのだ。
今回作成したこの論文が、読者にとって復興も含め未来の日本の精神的支えになることを期待し、終わりの言葉とする。
(主要参考文献)
『世界が感嘆する日本人』宝島社編集部、宝島社、2011年
『憚りながら』後藤忠政、宝島社、2011年
『世界が目を見はる日本の底力』ロム・インターナショナル、河出書房新社、2011年
(2年12組32番)
震災と共に生きる女性達
小早川未帆
はじめに
2011年3月11日,日本時間14時46分18秒。マグニチュード9.0という日本における観測史上最大規模の地震が発生した。私はサークルの合宿で千葉県の九十九里にいた。グランドで試合を応援していた時、急に体験したことのない大きな揺れが起こり、立っていられなくなった。揺れは長くとても不安だったが、しばらくして揺れがおさまったので、まさかこのような大震災が起きているとは思わなかった。
すでに宿舎には津波が来ているとのことで、急きょ私たちは近くの体育館に避難することになった。そこは避難所となっていて、近所の人たちも大勢いた。私たちは乾パンやレトルト食品をもらって、マットで寝た。テレビもなく、携帯電話も繋がらなかったので、私たちに入ってくる情報はラジオからのみだった。電気や水道はもちろん止まっていたので、懐中電灯を使ったり、貯水タンクの水をバケツに汲んでトイレを使用した。夜中も余震があって全然眠れず不安だった。
このような体験は初めてだったが、とても貴重な体験だったと思う。避難所には小さい子供からお年寄りまで様々な年齢の方がいたし、障害を持った方もいた。そして男の人も女の人もみんながひとつの空間で生活をすることを余儀なくされる。私たちは運がよく、翌日には電車が動き、帰ることができた。しかし、被害の大きかった地域では、長い間避難所生活をされている方々がたくさんいる。もし私が避難所での生活をしばらく続けなければならなくなってしまったら、すごく辛いと思う。
この論文を書くにあたり、東日本大震災について調べているうちに、被災地や避難所では女性ならではの問題に直面していることも多く、またそれらは報道の裏に隠れがちであるということがわかった。そこで私は震災においての女性の抱える問題を中心に考えていこうと思う。
第1章 女性への暴力の拡大
暴力による被害
1995年阪神・淡路大震災において性的暴力の実態が明らかにされている。通勤・通学途中の女性がリュックサックをつかまれ、崩れたビルや解体現場に引きずり込まれ、複数犯に襲われたケースが多かった。お風呂ツアーと称して若い女性たちを山中に連れて行ったケースもあったという。しかし、警察はそれらがデマであると否定し、メディアも「レイプ伝説のねつ造」と書きたてた。(「被災地レイプ伝説の作られ方」『諸君』1996年7月号)
今回の東日本大震災においても、4月上旬震災の影響で発生した岩手県盛岡市内での停電に乗じ、男性会社員が女子学生宅に侵入し乱暴。住居侵入と強姦の疑いで逮捕されるという事件が起こった。また7月3日に宮城県気仙沼市で強姦未遂事件なども起きている。通報までにはなかなか至らないが各地域で暴力事件は多発している。このような事件は被災された人だけでなく、被災地にボランティアとして入った人たちも実際に被害にあっている。
災害時には治安が悪化し、暴力事件は3倍増えるといわれている。震災時に暴力行為が拡大する要因としてあげられるのは
・街灯が消え建物が崩壊し、死角が増える
・避難所において就寝場所やお手洗いなど生活の場が男女共同となる
・心理的な不安が高まり暴力行為が加速する
・ストレスのはけ口が自分より弱い女性や子供に向かう
というものであり、震災時にはこのような性暴力が発生しやすい環境が生み出されてしまう。
また、生命が最優先となることから警察や公的機関の対応が十分でなく、性暴力が報道で取り上げられる機会はほとんどないのが実情だ。
支援の輪
民間の「全国女性シェルターネット」が4月10日から被災した女性を対象に『パープルホットライン』(0120-941-826)を開設した。被災のニュースから過去の体験を想起させられる女性などもいて、全国から1日に600件ほどのアクセスがあるという。
多くの女性団体でも震災をうけて性暴力への取り組みが活発化している。日ごろから性暴力の防止に取り組む民間の3つの団体が手を組んで作った「震災後の女性・子ども応援プロジェクト」は、ブログでの情報発信や被災地や避難所へのカード配布を通じた啓発活動を推し進めた(10月末プロジェクト終了)。カードには「1人で行動している人、特に子供は見守り、声をかけましょう」「自分の安全・安心を優先させることはわがままではありません」など安全に過ごすための心構えを記載し、40,000枚が配布されたという。カードと一緒に化粧品やマスク、防犯ブザーなど女性や子供向けの支援物資も16,000個が配布された。また、「災害時の暴力・DV防止ネットワーク」は被災者支援のため、電話で話しにくいことなども気軽に相談できるようにと、メールによる無料の相談活動を始めている。
このように多くの女性団体が震災を受けて、性暴力への取り組みを活発化させている。
第2章 避難所で求められていること
政府の対策
内閣府男女共同参画局は、3月16
日に、「女性や子育てのニーズを踏まえた災害対応について」と題する文書を取りまとめ、女性に配慮した避難所の運営を呼び掛けた。
1.プライバシーを確保できる仕切りの工夫
2.男性の目線が気にならない更衣室・授乳室、入浴設備
3.安全な男女別トイレの設置
4.現場での女性のニーズの把握
5.避難所の運営体制への女性の参加
6.女性医師・女性相談員などによる悩み相談などを行う
など、いずれも女性にとって切実な問題で、阪神淡路大震災など過去の災害が残した重要な教訓である。しかし、問題はこうした政府の呼びかけ文書の内容が各避難所で実施されているかということだ。
避難所の環境
被災三県で避難所での環境について調査が行われた結果、内閣府などの出している文書と現実の間には深刻なギャップがあった。
・多くの避難所では、世帯ごとの仕切りがなく、プライバシーが保障されていない
・女性の更衣室や授乳室すらない避難所もあり、布団のなかで着替えるしかない
・トイレの環境も悪く、外に設置された仮設トイレには夜間照明もなく、女性や少女が安全に利用できる状況にない。
・洗濯機が不足しているため、下着もろくに洗濯できない、また女性の洗濯物を安全に干せるスペースもないため、下着を使い捨てにするしかない状況であるにも関わらず、女性用の下着が十分に供給されず大変困っている
・多くの避難所は男性主導で運営されていて、運営に参加する女性は少ない
・避難所の運営者の判断によって、女性特有の物資、例えば化粧水や下着がほしいという要望は贅沢だ、などと、女性の切実な願いが否定されてしまう場面がしばしばある
・避難所の中には、炊事当番が女性だけに強制的に割り当てられ、男性は当番をしなくてよいということがルール化している所もある
・女性たちが悩みを相談できる場所が十分にない。
呼びかけの文書が中央省庁で出されても、多くの現場において徹底されていないことが明らかになった。一部では通達に沿った先進的な取組みがされているものの、まだまだ全体の動きになっていないのが実情である。
避難所での好事例
なかには、女性への配慮をした避難所の好事例も報告されている。
例えば、女性専用の物干し場や更衣室の設置、また乳幼児のいる家族だけが滞在する部屋を設置することで幼い子供をもつお母さんたちは、夜泣きや授乳の負担が少なくなった。女性や子供は一人でトイレに行かないようにとの注意喚起も行われている。
「女性専用スペース」の設置は情報の提供や交換をしたり、お互いに心境や相談を気軽にできる場となっている。このスペースには、給湯設備やソファなどを備えており、着替え、化粧、授乳、などさまざまな目的で常に人が集まり、賑やかだ。県の男女センターの職員がコーディネーターとなり、地元の女性団体のグループがボランティアで運営している。
女性のニーズを反映させるために、避難所内で毎日女性リーダーの会議を実施しているところや、区長と婦人部が協力して避難所の運営を行っているところもある。
避難所での炊き出し、遺品や写真の洗浄をする人を役場で募集し、被災者の雇用を新たに創出している。
このように一部の避難所では女性の視点やニーズを反映
させた避難所の運営が行われている。
おわりに
今回震災と女性をテーマにこの論文を書くにあたり、震災などの状況下での女性への暴力がこれまでにもたくさんあったことに驚いたが、今もなおそのような暴力行為はなくなっていないことにはもっと驚いた。
1995年に起こった阪神・淡路大震災では、実際に性暴力を受けた女性が被害を警察に訴えても「被害届けは一切ない」「もし、あったとしてもご本人の損でしょう」と訴えを無視されたり、行政に対処を申し入れても「報道のイメージダウンに繋がる」と取りあってくれないなど、信じられない対応を受けていた。そのため、事件は頻発していたのにもかかわらず、それらは一切報道されず、社会問題として浮上しなかったのだ。
東日本大震災のような大きな災害に見舞われても、日本は略奪や暴動のない素晴らしい国であると、海外からもその国民性を高く評価され、私自身も日本という国を誇らしく思った。しかし、その裏では立場の弱い女性や子供に向けた暴力が実際に行われていることも事実として受け入れなければなれないのだ。
暴力行為を受けた被害者の女性が被害を訴えることは難しく、事件も曖昧になってしまうことが多い。そのうえ震災のような状況下では事件は増加するのに対して報道されることはほとんどない。天災が起きた時に性暴力という人災が加わることがあってはならないのだ。震災で誰もが不安な状況の時こそ、立場の弱い女性や子供が安心して暮らせるような国であるべきだと思う。
そのためには公的機関による日ごろからの予防啓発と事件が起こってからの対策が不可欠である。私自身、今回調べるまでは震災下でこのような女性に対する悲惨な事件がおきているなんて全く知らなかった。報道もあまりないため、現状を知らない人がたくさんいるだろう。まずは、女性だけでなく男性も含め多くの人が知ることが大切なのだ。そして事前にしっかり対策をしておくことで、女性や子供の不安はだいぶ取り除くことができると思う。
調べていて阪神・淡路大震災のときよりも、今回の東日本大震災における女性への配慮や対応は確実に増えているように感じた。多くは過去の震災での被害や経験をもとに行われた対策であった。過去に起きた事件を決して繰り返さないようにとの前向きな姿勢が感じられた。
<参考文献>
・東日本大震災・女性支援ネットワークhttp://www.risetogetherjp.org/
・週刊金曜日(2011.6.3 849号)
http://www.polarisproject.jp/images/stories/media/20110603.pdf
・震災後の女性・子ども応援プロジェクトhttp://ssv311.blogspot.com/
・災害とジェンダー
http://www.tenri-u.ac.jp/oyaken/GTpdf/Kaneko%20Juri/137_kanekojuri.pdf
・男女共同参画局 http://www.gender.go.jp/saigai.html
・「災害と女性」情報ネットワーク
http://homepage2.nifty.com/bousai/index.html
・しあわせなみだ http://shiawasenamida.org/
参照日:2011年11月30日
(2年6組8番)
思想としての東日本大震災
―これから学ぶべきこと―
小笠原脩斗
はじめに
2011年3月11日14時46分に東北地方の太平洋岸一帯で大地震が発生し、その後大津波が襲い、膨大な数の死者・行方不明者や被災者を出しました。そして福島県の原子力発電所から地震の影響で放射能が漏れ、今でも大きな衝撃を引きずっています。
地震が起きた瞬間、私はちょうど風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かしている時でした。何か体が揺れるな、眩暈かな、長風呂しすぎたかな、など悠長なことを考えていました。しかし、いくら経っても体の揺れが収まらないためおかしいと思い始めた時、揺れが強くなり、洗面台の扉が勝手に開き、カタカタと音が鳴り始めたため、地震だと気付きました。そして髪も乾かし終えずに2階の居間へ行き、テレビを点けようと思ったが揺れが強く、やっとの思いで電源を入れると衝撃的な映像が流れてきました。日本テレビの「ミヤネ屋」が放送されていたのだが、テレビカメラの揺れで揺れているスタジオの映像だけでこの時に見た映像はとても衝撃的で今も鮮明に覚えています。そしてすぐに食器棚、テレビ自体も揺れ始め、皿が落ち、電源も落ちるかと思いました。なんとか食器棚も テレビも無事に済み、他のチャンネルを見始めましたが、どこも慌ただしく様々な声が行き交い、アナウンサーもほとんど情報を伝えられない状況で無意味な映像が流れているだけでした。
数分が経ち揺れが収まってから詳しい情報が入ってくる
と、立て続けに現実とは思えないような映像が流れてきました。津波で港が水没し、家や車が流され、映画のワンシーンを見ているかのようでした。
それから8ヶ月以上たった今もまだ大きな余震が襲って
くる可能性は十分にあり、全てが終わったわけではありません。被災された方々の苦しみは私たちの予想を遥かに越えたものでしょう。私たちにできることを通して、被災された方たちの力に少しでもなれるよう努めていくことが、いま求められているのだと思います。
第一章
まず今回の東日本大震災の天災、人災について考えてみようと思います。3月11日に起こった大地震、観測史上未曽有と言われる今回の地震は千年に一度の大地震、という見出しが新聞やテレビで大きく取り上げられました。そしてその地震によって大津波が発生し、港から水があふれ船が流されている映像、内陸に向かってどんどん進んで行く津波の映像、町の中まで津波が到達し家や車が流されている映像など、誰もが今回の震災で一度はこれらの悲惨な映像を見たと思います。この地震と津波というのはまぎれもなく自然が引き起こした天災であるといえるでしょう。自然が引き起こす天災の前では人間は成す術がない。人間は地球という大きな自然の中の小さな一つでしかなく、少し地球が揺れるだけで人間にとっては壊滅的な被害を受けるのです。そのことを忘れ人間が地球を支配しているという考えが浸透してしまうと、今回のようなことになってしまうのです。例を挙げると1960年代から80年代にかけて大きな地震は14回起きています。そして一番死者が多かったのが104人だったのです。この14回と104人という数字が多いか少ないかは人によると思いますが、多分日本人の大半の人は少ないと感じると思います。それほど私たちは地震多発地帯に住んでいるということです。この例外的に少なかった二十年間で地震に対する恐怖、準備、対処を忘れてしまったために1995年、阪神淡路大震災において6437人の死者を出してしまったのでした。日本に住んでいる以上地震は付きものであるが、それ以外の様々な天災に対しても準備を怠ってはならないことを改めて知らされました。
一方、今もなお問題が解決されずにある原発の方はどう捉えたらいいでしょうか。これは明らかに人間が作ったことによって引き起こされた人災です。東京電力のずさんな整備によって放射性物質が漏出し、基準値を上回る、人体に影響が出る食物が多く生産されてしまった。一連の流れを東京電力は「想定外」の震度と潮位によって起こったことだと強弁する。しかし、2009年6月に行われた政府主催の会議で、ある委員から、この原発の安全審査の前提にされている地震の強度の想定が低すぎるという指摘がすでにあったのだ。それを無視していたためにこれだけの被害が出てしまった。さらに、原発事故の際に不可欠な核燃料貯蔵プールの冷却装置が故障したというのに、それに対処する準備さえされていなかった。バケツやホースで水をかけて冷却する程度の原始的かつ非効率なことしか考えていなかったのである。その上、その作業に必要なヘリコプターや放水車も自衛隊や警視庁から借りてこなければならないというのだから驚きを通り越して呆れてしまう。千年に一度のことに準備しても意味がない、どうせそんなこと起きないという勝手な慢心があったのだろう。人災であるならもちろん非難の声が沸き起こるし、また告発や賠償請求というのも出てくる。原発事故により亡くなられた方に対してお金で全ては解決できない。人の命に値段を付けるということにもなるし、老人と若者、高収入者と低収入者など一律に公平にすることはできないであろう。ただ現状で謝罪とお金以外の解決策というのがなく、またその振分けも一律にするかどうかという問題は原発問題の範疇を超えて人としての価値観の問題になってくる。そのため、どのような解決策が正しいと考えるかは人によって変わってくる。だからまずは今回の事故を引き起こしたことに対して誠意をこめて謝罪すること、また言葉だけでなく行動で示すことが必要であると思う。また、原因を解明し、次に同じことが起きないよう対処し、想定できるさらに上の事態を含めて考える意識改革を今後していかなければならないでしょう。
第二章
それでは次に、今後、原子力というものに対してどう接して
いけばいいか考えてみたいと思います。これだけの大きな被害を出してもなお、積極的に活用していきたいと考える人はいないであろうが、現実的に私たちの生活は原子力による恩恵というのが非常に大きい。原子力以外のエネルギーのみで供給を計ろうとすると少し昔の時代の生活に遡ってしまうといわれている。いくつかの新聞での原発要不要のアンケートでは<必要>は多少減り、<不要>が同じ程度増えました。しかし国民のほぼ半数は代替エネルギーがない限り、原発は今後も必要であると判断しています。それだけ多くの人がリスクを冒してでも現在の生活を送りたいと考えているのです。でも今後、また今回のような事故が起きないとは限りません。ではどうしたら良いか、文芸評論家で早稲田大学教授の加藤典洋氏は次のように述べています。
『今後のエネルギー政策ですが、僕としては、核を全廃するというのはすぐにはできないと思う。いまあるものをとにかく増やさないで、安全確保に力を注ぎ、時間をかけて縮小していく。他方、全力を傾注して代替エネルギーの開発とその促進に向けた諸制度、法律などの整備を行う。…………あくまで、それまでの「繋ぎ」で、現在の規模を拡大はしない、徐々に縮小していく、時間をかけ、確実に廃炉へのプロセスを歩むのがよいと思っています。』(加藤 2011)
私もこの考えに賛成したいと思います。原子力という危険なエネルギーをこのまま使い続けていくわけにはいかないため、それに代わる代替エネルギーが必要である。ただいきなり全ての原子力エネルギーを停止してしまっては普段の生活に大きく支障をきたすことになる。したがって原子力エネルギーは次のエネルギーへ移行するまでの「繋ぎ」として機能させ、徐々に減らしていき、代替エネルギーのみで可能になったら完全に廃炉にしてしまう。それが多くの人の現在の生活を続けたいという意見に反せず、また脱原発の意見にも合致していると思います。原子力を主力とせず、あくまで「繋ぎ」という意味を明らかにしていくことが大切であると思います。
第三章
今回の震災で政府、東京電力の対応の遅さ、ずさんな管理体制が批判されました。しかし私はテレビなどの従来の主要なメディアの非常事態においての役割についても考えさせられました。3月11日に地震が起こってからというものテレビは各地の悲惨な映像を流し続けました。当初はあまりのことに食い入るようにニュースを見続けましたが、同じ情報を何回も繰り返し伝え、悲惨な状況をただ流し続けるメディアに疑問を持ち始めました。一体誰に向けての報道なのだろうか、本当に情報が必要な被災者が欲しいのは悲惨な映像でも、死者・被災者の数でもなく生きるための情報なのではないだろうか。私がニュースを見ていて決定的に間違っていると感じた報道がある。ヘリコプターを使っての上空からの映像なのだが、報道を続けていくとビルの屋上で助けを求める数人の映像が流れてきました。助けるのかと思いきやリポーターは「ビルの屋上で手を振っています。助けを求めているのでしょうか。」と言い、そのまま過ぎて行ってしまいました。なぜ発見したのに助けないのか、人命救助より現状を報道することの方が大事なのだろうか、と非常に憤りを感じたのを覚えています。たしかにエンジンが残り少なかった、報道のためのヘリコプターだから人命救助の機材を乗せていなかったなど様々理由は考えられますが、被災地の上空を通るにあたって水没した街々の中で高いビルなどに避難している人がいるかもしれないと予測することは容易くできるはずです。しかも下で助けを求めている人が今ちょうど上空を通っているヘリコプターが報道のヘリだと分かるはずがありません。絶望感、裏切られたという気持ちをきっと抱いたと思います。メディアは情報を伝えることが役割であるが、その情報が果たして本当に必要な情報であるのか、情報伝達よりも優先すべきことがあるのではないかと考えなおすべきだった。メディアの意義について改めて考えることが、さまざまなものの根底を変えるために必要だと思います。
考察
歴史的な今回の震災を通して地震の恐ろしさを改めて感じました。関東大震災や阪神淡路大震災など名前は知っていても実際に経験していないため甘く見ていたところもあったと思います。地震に津波に原発問題、それに伴う食品流通の滞りや食品の安全性など様々なことを一気に経験しました。まだ原発問題や食品の安全性は解決しておらず、今でも津波で家を流された人が仮設住宅で生活しているのが現状です。「がんばろう日本!」と言葉で呼びかけることは大切ですが、行動することも必要だと思います。今は半年前と比べれば落ち着いてきましたが、すぐにまた同じことが起きてもおかしくありません。この非常事態を通して、希薄になりつつあった人間関係について考え、家族同士のつながりの大切さを改めて感じた人が多いと思います。結果として日本は大きく傷ついたかもしれませんが、私たち現代人一人一人の内に、助け合いの精神や温かい心が実は宿っているのだと気付かされたことが、災害という痛手と引き換えに得た光明だと思います。今回の大震災を契機に、さらに思考を深め、問題意識を持ち続けていくことの必要性をあらためて感じました。
(主要参考文献)
『思想としての3・11』、佐々木中、鶴見俊輔、加藤典洋他著、河出書房新社、2011年。
(2年16組11番)
東日本大震災を共有して
木村信子
八月の末、私は東北に向かっていた。仙台を選んだのは、友人が住んでいた街だからだ。十代の終りころから二十代にかけて、よく遊びに行った。友人は八年前に病を得て亡くなっている。
一面夏草が高く茂って、田園地帯に入ったかと思われた。バスはそうした光景が始まった辺りで止まり、それ以上先には行かないという。終点の荒浜海岸まで行くつもりだった私は、途中で降ろされたかっこうになった。仙台駅前から出発したバスの乗客は、途中で一人、二人・・・と降りて、私ひとりになっていた。
なにもかもが津波にのみこまれた、そのすべてを見た、あるいは自身体験されたのかもしれない、苦渋を押し秘めた運転手さんの表情に、私はこうべをたれるしかなかった。夏の太陽のもと、「海岸まではかなりありますよ」という彼に、私は「はい、ありがとうございました」とこたえて、歩きだした。
海に向かうにつれ、押し流されてしまった家屋の、基礎部分だけが草生すなかに残されているのが目に入ってきた。真新しいコンクリートが目につく。風のない夏の日がひろく晴れ渡っていた。瓦礫はほとんど片づけられて、もはや原形をとどめない金属類の塊が夏草の間の所々に積み上げられ、回収を待っているようだった。ピンク色をした小さな朝顔が野草のなかに少し咲いていた。去年の夏、庭でこぼれた種子が花開いたのだろう。
遠くに白い建造物が見えてきた。その前に何かたくさん置かれている。近くまで行くと小学校で、校庭にはバイクの残骸がびっしりと並べられていた。校舎には「たくさんの思いをありがとう」と書かれた横断幕が掲げられている。校門には立入禁止の札があり、錠がしっかりとかけられていた。
大型のクレーン車やショベルカーが何台も入り、多くのボランティアたちも一緒になって、この若林地区の瓦礫のかたづけをしたのだろう。そのときの人々の活動が、横断幕のことばに凝縮されていた。もはや物音ひとつしないその場に立って、死者たちを思う。多くの人たちが亡くなって、私たちの目には触れない。メディアが繰り返し流した津波の映像にそのつど目を奪われるが、そこに生命あるものたち、生命あったものたちがいることに、思いをはせるのはむずかしい。
詩人でもある、ある作家は、知人のカメラマンが個人的に彼のもとに送ってくる映像に写る、メディアを通しては絶対に見ることのないものに想像力豊かに感応して、次のような詩行を刻んだ。
さっきカヤネズミが
横倒しにながれていった
虹彩をかするようにして
ガラスビーズの眼が
わたしをちらりと見た
わたしはカヤネズミの眼に問うた
やつぎばやに
――洗われているのだろうか
――ながされているのだろうか
――壊されているのだろうか
――造られているのだろうか
――これは<後>なのだろうか
――これは<前>なのだろうか
カヤネズミはキキと笑って
角膜のむこうにながれていった
ガラス体が水でいっぱいになった
世界は浸出させられていた(1)
瓦礫の中からどう言葉を紡ぎ出せばいいのか、その難行に、だが向き合わなければならない。彼はそう決意している。
さらに行くと、海水浴客が何か思い出のものを工作できるようになっていたと思える構えの飲食店があった。内部には、建物の骨組みと、生活の一部を偲ばせるものが残されている。隣りはガソリンスタンドで、中は全部津波にさらわれていた。電柱のような高くがっしりした外柱灯が、付け根から一八〇度曲がり、陸側に倒されている。
前方を見ると海岸線に沿って道路が延び、ときどき車が通っていく。防風林が見渡すかぎり続き、波に押されてか、所々陸側に傾いている。海水に浸かって褐色に変色した樹々もある。
昨日訪れた南三陸町の入江の海とは対照的だ。その戸倉地区では瓦礫はまだうず高く積まれ、赤い鉄骨だけになった防災対策庁舎や、白い外形をとどめた病院が、他のいくつかの破損・破壊した建造物とともに遺されていた。この町でずっと語り部をしてきたという男性が、被災状況を説明していた。彼に導かれて、海から離れた高台に登ってみると町の地形がよくわかる。長細く湾曲した土地を囲うようにして小高い山が連なっている。そこに津波は容赦なく浸入してきたのだ。報道された被災地の映像の多くがこのような地形をしている。この地形が人々を追い詰め、被害をいっそう過酷なものにしたにちがいない。
そこから車で三十分ほどのところに「スポーツ交流村」(ベイサイドアリーナ)があり、ボランティア活動の拠点になっていた。アリーナには被災した人の長い列が続き、台湾からの義援金が支給されるという。赤十字からの支給の遅さに疑念を募らせているなかでそのスピードには、事に処するにはこうすべきという思いが込められているようだった。前にあるスポーツ交流広場では「福興市」が開かれ、相撲の大関のひとりの姿もあった。南三陸町には復興に向けての熱気があった。それは未だ瓦礫の処理が捗っていないということでもある。被災した場所へは、山間の道をかなり入っていかなければならないことも、大きな要因であるのだろう。
それと同じような熱気のなかで行われたにちがいない瓦礫の処理もほとんど終わった若林地区は、いまやまったく人気がない。長い海岸線にゆるやかに広がる砂浜の一角に、陸地にはなかった木材などの残骸が小山のようになっていた。いちど津波に持って行かれたものが打ち寄せられて戻ってきたのだろうか。
帰路、車もほとんど通らないバス通りを歩いていくと、一軒隣りまで押し寄せてきた津波がそこでぴたりと止まったのか、定規で引いたかのように境界線をつくって跡形もなくなり、そこから先はずっと人家が続いていることに気づいた。紙一重の境界・・・さまざまなドラマがあったにちがいない。生き残った人たちも、3・11以前とはもはや違う。そして、わたし(たち)もまた・・・
人知を圧倒してしまう自然の、それ自身の法則のようなものにのっとっている力のまえで、私たちは何をより意識化し、どう生きていかねばならないか・・・
***
つねに気にかかってきた数字がある。それは自死する人の数だ。日本では、一九九八年に三万人を越えて以来、ずっと増え続けてきた。それがやや下降に転じたと伝えられたころ、今回の大震災があった。その後また、数字は上昇しているにちがいない。ほとんど日常的に伝えられる鉄道の人身事故だけでもそれはうかがえる。被災地の問題にどこかで通底するものがあるように思われてならない。東北は全国でも自殺する人の割合が高いといわれる。その原因につながっているのかもしれない目に見えない状況が、今回さまざまな形で顕在化し、私たち誰しもが意識的・無意識的に東北を共有するようになった。心の奥深いところで、共振・共苦しているのだ。
被災地では三ヶ月を過ぎるころから、精神的ケアの側面が重視されるようになっていた。親しい人を助けられずに眼前で失い、生き延びたことの罪悪感にさいなまれ、孤立感をつのらせ、アルコール症に陥る人もいるという。そして、震災を切り抜けた命をみずから絶つ人が一人また一人と伝えられる。震災直後から、被災地のそこここに小さなコミュニティが出来て、生活の立て直しに多くの人たちが積極的に加わった。コミュニティの中心となって皆をはげまし心の支えとなった人たち、再建に向けてのデザインを具体的に描き出して一家をリードしていく活力にあふれていた人たち。しかし、そのような人が、ある日突然命を絶ってしまう。
自ら命を絶ったと最初に報じられたのは、被災後三ヶ月頃のことだった。畜産農家の人だった。放射能汚染によって、もはや先行きが見えなくなってしまったのだ。
福島第一原子力発電所では今なお深刻な状態が続いている。十一月になって初めて、無残に破壊された原発の様相がテレビに映し出された。つねに波が打ち寄せる、あれほどにも繊細で敏感で傷つきやすく壊れやすい場所に、よりによって、これほどのものをよく設置したものだと、いまさらながらに驚かされる。さきほど詩を引用した、石巻で生まれ海とともに育った作家は、3.11以前にすでにこう書いていた。
ぼくは葦の原にもぐった
(・・・)
入江がゆっくりと兆していた
(・・・)
入江は疲労であった
疲れの底に、
ふとどきな気配もあった
だが、だめかもしれなかった
もうだめかもしれなかった
それでも油断はできなかった
(・・・)
入江の中央に
銀色の水柱がそばだつのを
ざわっと聳えるのを
じっと待ちつづけた(2)
東北地方は、くりかえし大津波に襲われた歴史をもつ。その教訓から、どの沿岸にもこれほどにもと思えるような頑強な防潮堤が築かれてきた。土地に生きる人たちにとって、海は恵みであると同時に、不吉な何かが「兆す」油断のならないものでもあった。そして今回、不吉な兆しは、いまだかつてありえなかった放射能汚染となって顕現したのだった。
技術を向上させ制御できるような範疇で今後も原発を維持すればいいという議論がある。しかし、科学技術には、自然現象と同じようにそれ自体の法則のようなものがあって、人間の手のうちで操れるものではなくなっていく。私たちは、さまざまな領域の技術がそれ自身に意志があるかのように止めどもなく増殖していくのを、メディアをとおして目の当たりにしている。
「技術は、人間の思惑などは無視して、自己運動し自己展開するものらしい。そして、技術者の前に多様な可能性を提示してみせる。技術者は、それを実現するとなにが帰結してくるかといったことなど気にするいとまもなく、ひたすらその実現をはかるだけなのだ。たとえ一人がその実現をためらったとしても、かならず誰かがそれをやってのける。私には、技術者をはじめとして人間は、次から次に可能性をひろげていく技術のその自己運動にただ?使されているようにしか思われない。(・・・)技術の論理は人間の論理とは異質なもの、なにか不気味なものだと考えて、畏敬しながらも油断しない方がよいと思うのだ。(3)」
そう語る思想家は、「こんな危険な原子力エネルギーを使ってまで、(・・・)現在の生活水準・経済水準を維持しようとする必要がどれほどあるのか、それを考えてみる方がよさそうだ」とつけ加えるのを忘れない。
時代の危機をもっとも敏感に感じとるのは、時代そのものによって翻弄される人たちだ。いつの時代もそうだった。今回、究極の大災害をこうむった人たちの心の深層は測り知れない。やり場のない喪失感、生活の困窮、先行きの見えない不安。自然現象と科学技術それぞれの、時代の先端を担っていた先鋭的な力、その同じ力が、猛り、脆く傷つき壊れて暴走し、そこで生きてきた人たちを袋小路に追いつめる。
けれど、そこから抜け出る通路はかならずあるにちがいない。どんなに八方ふさがりで孤立しているように思えても、「生」への通路はかならずあるはずだ。死へ落ちていこうとするその瀬戸際で生への帰還を果たす、その支えとなるのは、時代状況を丹念に読みとり、語らぬ者の声を聴きとって、すくいあげる、細やかな網の目(ネットワーク)であるだろう。心ある者はそうした網の目のひとつに、たとえささやかではあっても、自らがなりうることを知るだろう。共苦の感応をもちつづける限り。
* * *
思い起こせば、福島第一原子力発電所が津波に襲われた翌日、1号機で水素爆発が起きた後に、「専門家」たちが、メルトダウン(炉心溶融)はまずおきないでしょうと、来る日も来る日も言い続けた。ところが事態は逆だった。津波に襲われて十時間後にすでにメルトダウンは始まっていた。結果的に水素爆発が起きたのだ。これはいったい何なのか。
それに類した報道は、政府、原子力安全・保安院、東京電力の、三箇所から別々に連日発表された。日本に生まれ育った私にも、さすがにそれは奇妙に映った。これは現政権だけの問題ではなく、日本が中央集権的な国家になりはじめたときからの構造を引き継いだ、その現代版だと私は思っている。古代史をひもとけばわかるように、日本の国家構造は、最高権威者をたてても最高権力者をたてないように、はじめから構想されてできたものだ。中央集権体制のトップにいちばん強いのは据えず、権力を回りのブレーンに分有もしくは分散させる。そのことの価値判断はともかく、ただそのような構造になっていることを知っておく必要はあるだろう。責任の所在がわかりにくいように仕組まれているのだ。大震災にみまわれた後の原発の危機に直面しながら、三箇所からそれぞれ別々に状況説明が悪びれもせずになされるのは、こうした構造を引き継いだものなのだろう。
それは原発導入の時点でも同様だったことが明らかになっている。冷戦が終わり、戦力としての核が必要となくなると、アメリカは「原子力の平和利用」をうたい文句に、原子炉の輸出にのりだした。日本では政府も電力会社もメディアも、原子炉がどのようなものかを検証することなく、「核」を導入するという一大決心のはずのその責任の所在を明確にしないまま、ためらいもなくアメリカ製原子炉をそのまま日本の脆弱な場所に設置した。高度成長の真只中、「クリーンな」新エネルギーとして原子力発電は歓迎された。原発が設置される地元では当初から反対運動が繰り広げられたことは、あまり知られていない。裁判に発展したケースもあったが、反対派の意見は封殺された。
福島に導入された「マークT型原子炉」がいかに不備なものかは、アメリカでその製造に関わった技術者が警鐘を鳴らしたが受け入れられず、途中で辞表を出したほどだ。原子炉格納容器が小さいため、万一の場合、内部の圧力を抜くための「ベント(排気)装置」を取付けざるをえなかった。「ベント」するということは、放射性物質を空気中に放出することを意味する。つまり、「マークT」はその機能を維持するために、放射性物質を外部に排出することをはじめから設計図に組み込まれていた、いわば欠陥製品なのだ。地震の多い場所には設置しないほうがよいということも言われていた。
そのような代物をよく調査もせずに、地震国日本が導入した。しかもその後、メルトダウンのような「シビアアクシデント対策」にも、指揮権を発動する責任者(部署)はなかった。国は安全対策を東京電力に任せきりだった。東京電力が原子力発電に関するデータを握っているために、国みずからが安全対策の強力なデータをもって対抗し指導権を発揮することができないのだと、驚くべき弁解をする。東京電力は、国の原子力安全委員会が基準を示さないので、どこまで安全対策にコストをかければいいか分からないという態度をとった。あくまで利潤を追求する一民間企業である。「規制としてならやるが、自主的というのはない」。東京電力福島第二原発元所長の言葉だ(3)。こうした状況のなかで、原発事故は起こらないという立論にのみ頭をつかうようになり、危機意識を眠らせる思考停止状態に陥った。原発の「安全神話」はこうしてできあがっていった。
私たちは古来こうした構造をもつ国に住んでいることを認識しておく必要があるだろう。そのうえで、自身の思考力を鍛え、物事を判断し、生き方を選択し、世界と対峙していかなければならない。
***
抗いがたい自然界の力、人知を越えて自己増殖する科学技術。そのはざまで、数知れぬ惨状が引き起こされている。時間がたつにつれ、知られなかった事態が次々に明らかになってもいる。
千年に一度といわれる大災害にみまわれ右往左往する私たちに、予断はなかったか。起こりうるはずがないという「神話」を、信じたがっていはしなかったか。自分自身を振り返ってみることから始める必要があるだろう。もはや知らなかったではすまされない局面に、私たちは立たされている。
注
(1) 辺見庸「どれかひとつだけ教えてほしい」より抜粋
(NHK 2011.4.30放映「瓦礫の中から言葉を」から)
(2) 辺見庸『生首詩文集』毎日新聞社
2010
(3) 木田元「技術はもう人間の手に負えない?」
(『思想としての3・11』、河出書房新社編集部篇、2011)
(4) 原発危機「安全神話〜当事者が語る事故の深層」(NHKスペ
シャル 2011.11.27放映)
日本と原発
永江祥子
はじめに
2011年3月11日午後2時46分、震度7を記録した東北地方太平洋沖地震が発生した。この地震は日本国内において、大正関東地震や昭和三陸地震を上回る観測史上最大の地震である。この地震の影響により、福島第一原子力発電所事故が発生するなど様々な問題が浮き彫りとなり、今もなお、原発の問題は解決していない。そもそも原子力発電とは何なのだろうか。今回の論文では、原発について述べていくこととする。
第一章 原子力発電とは
原子力発電ではウラン235、プルトニウム239といった
核燃料の原子核分裂反応によって放出される熱エネルギーで水を沸かし、その蒸気でタービン及び発電機を回転させて電力を生産している。ひとくちに原発や原子炉といっても コールダーホール型原発、沸騰水型原発、加圧水型原発、新型転換炉、高速増殖炉など様々な種類がある。日本の原子力発電の大半は、沸騰水型原発と加圧水型原発である。
第2章 現状
2010年の時点で原子力発電は30の国・地域で使用されている。アメリカは国内の総電力の20%を原子力発電によって賄っており、世界でもっとも多くの量の原子力発電である。ロシアは2005年の時点で発電力に占める原子力発電の割合は15.8%である。ヨーロッパではノルウェー、アイスランド、ポーランド、イタリアなどでは原子力発電を利用していないがフランスは発電量に占める原子力発電の割合が世界で最も高く、総電力の80%を原子力発電によって賄っている。中国は原子力発電が開始されてからまだ日が浅いため発電量に占める原子力発電の割合は1.5%である。一方日本の電力は、石油火力、石炭火力、LNG(液化天然ガス)火力、水力、原子力などで生産されている、その中で、原子力発電が28.9%を占めている。現在運転中の原発は54基で、アメリカ・フランスに次いで世界第3位であり総発電力に占める原子力の割合はフランス、ベルギー、韓国、スウェーデンに次いで第5位である。また、日本政府は、2030年までに原発を14基以上増やすと決定し、2基が建設中であった。しかし、今回の原発事故を受けて、建設中であった東通発電所1号機は、工事の主体が東京電力であり、新設は困難だろう。
第3章 原子力発電の利点・問題点
原子力発電の利点は、まず少量の燃料で大きなエネルギーが得られるという点だ。原子力発電の燃料であるウランは、火力発電の燃料である石油、石炭などに比べ少ない量で発電できる。2つ目は、燃料が安定して手に入りやすいという点だ。燃料のウランは、主に中東から輸入する石油とは異なり、カナダ、オーストラリアなどの政情が安定した国から輸入している。3つ目は二酸化炭素の排出量が少ないという点だ。火力発電では、石油・石炭・天然ガス・廃棄物などの燃料を燃やして、その反応によって放出された熱エネルギーを利用し発電する。その発電の際に二酸化炭素を多量に排出する。一方、原子力発電は発電の過程において二酸化炭素を排出することはない。4つ目に、一度使った燃料を再処理することで資源燃料として再利用できる点だ。一方、問題点を挙げるとやはり危険性が高いという点だ。あらゆる機器が、高い放射線を浴びるので脆弱化、ひび割れなどが相次いでおり、現代の技術はそれを克服していない。また原子炉技術自体も自動車や航空機のような安全水準に到達していないのが現状である。次に、使用済み核燃料の点だ。使い終わった核燃料棒は、水を張ったプールに沈めて一定期間冷やされる。そして冷却装置のついたキャスタと呼ばれる特殊な容器で再処理工場へと運ばれる。使用済み核燃料棒の中には燃え残ったウラン、核分裂生成物、プルトニウムなどが混ざり合って閉じ込められている。このプルトニウムは、一定の濃度を超えると「臨界事故」という核分裂の連鎖反応を起こす可能性があり、非常に危険なものである。また半減期が24000年というとても長い寿命の放射性物質であることも忘れてはならない。そして、放射性廃棄物の処理の点だ。原子力発電や再処理の過過程で、気体、液体、固体の様々な放射性廃棄物が生じる。放射性廃棄物は、高レベルのものと低レベルのものが区別される。高レベルの廃棄物は、数千年あるいは数万年にわたって、外界に漏れないよう厳重に管理されなければならない。それだけでなく、高い放射能の熱が放出されるので常に冷却し続けなければならない。もちろん、地中や海中に投棄することは全くもって不可能である。
第4章 原発事故と影響
これまでに世界で発生した主要な原発事故と言えば、INES(国際原子力事象評価)で言うところの深刻な事故、レベル7にあたるチェルノブイリ原発事故である。この事故は1986年4月26日、ソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で発生した。政府の発表によると死者数は33名となっているが、事故の処理にあたった軍人などを含めると多数の死者がいるといわれている。また長期的に考えると、死者数は数百人または数十万人に及ぶ。事故が起こった1986年に発表されたソ連の報告書では、ソ連領ヨーロッパ部に住む7450万人の住民について、外部被曝による将来のがん死亡者が約4750人、ヨウ素131の摂取による甲状腺がんの死亡が約1500人、セシウム137の体内摂取によるがん死亡が最大3万8000人程度、ストロンチウム90の体内汚染の影響はデータ不足のため評価困難と述べられていた。原発事故においてもっとも気になるのが放射線による人体の影響がどのようなものかという点である。放射線を浴びたときにおこる障害は大きく分けて2つのタイプがある。先ず一つ目は、「確定的影響」というタイプの障害だ。これは一度にまとまった量の放射線を浴びた時に起こる障害で、脱毛や白内障などがその典型的な例である。この障害は、「限界線量」と呼ばれるかなり高いレベルの放射線量を浴びないと起こらない。人間は一度に1シーベルト(1000ミリシーベルト)程度浴びると悪心、嘔吐、下痢などの急性放射線症の症状が出るが、4シーベルト(4000ミリシーベルト)では半数の人が死亡し、7シーベルト(7000シーベルト)では100%の人が1カ月以内に死亡すると言われている。このタイプは「限界線量」を超えさえしなければ、障害にかかることなく済む。しかしもう一つのタイプのほうはそうはいかない。「確率的影響」というタイプの障害だ。こちらは、少ない被曝でもそれなりの確率で障害が発生する恐れがあり、がんや遺伝的な影響が高い。日本人の自然界からの平均年間被曝線量は1.4ミリシーベルトで、放射線職業人の一年あたりの被曝限度が20ミリシーベルト、がんの死亡率が0.5%上昇するのが100ミリシーベルト、緊急作業員の被曝限度が250ミリシーベルト、下痢・おう吐などの急性症状であるのが1000ミリシーベルト、そして50%が死亡するのが4000ミリシーベルト、100%が死亡するのが7000ミリシーベルトと言われている。また100ミリシーベルト以下の被曝の領域では、人間についての直接的な証拠はまだ十分ではないが、がんや遺伝的影響は、低い放射線量でも起こる可能性はあると考えられている。
第5章 これからの原発
福島第一原発の事故を受けて、日本における原発の規模は将来的に縮小していく可能性が高いだろう。世界に目を向けると、イタリアとドイツは原発全廃を決定し、スイスなどでも「脱原発」動きが始まっている。G8サミットに出席した管元総理は日本のエネルギー政策について講演をし、その際に、日本の発電量に占める再生可能な自然エネルギーの割合を引き上げ、現在の9%から2020年代の出来るだけ早い時期に20%以上にすると表明した。では原発の縮小分をどのようなエネルギーで代替することができるだろうか。今後期待されているエネルギーとして、太陽エネルギー・地熱・風力・水力・バイオマス・海洋温度差などがある。しかし、これらの再生可能エネルギーの普及には多くの問題が残されている。原子力発電と比較すると発電電力量はその3分の1強にとどまった。つまり、再生可能エネルギーを利用する発電には稼働率が低いという問題点があるのだ。特に稼働率の低い再生可能エネルギー利用の発電は太陽光発電と風力発電である。この太陽エネルギーの長所は、他のエネルギー資源のように地球上に偏って存在することがなく、どこからでも同じように得られるという点だ。欠点は、天気に左右され、大きな面積が必要とされる点だ。またコストも高い。一方、地熱・水力・バイオマスについては、太陽光や風力とは違い、稼働率の低さという問題は存在しない。しかしそれぞれ固有の問題を抱えている。地熱発電の場合、適地の多くが国立公園や国定公園に含まれ、自然公園法などの規制が厳しいという問題がある。水力発電の場合も法による規制とコストの問題がある。またバイオマス発電は、生物の有機物をエネルギー源として利用するもので、直接燃焼させるか、発酵によってつくられるメタンやアルコールの燃料としての利用が試みられている。しかし、物流コストの高さが普及の妨げる障害となっている。原発に代わる再生可能エネルギーなどの技術革新によって原子力発電が不要になるかもしれないが、それまでにはまだ時間がかかるのだ。
第6章 まとめ
今回の福島第一原発事故は世界に大きな衝撃を与えた。私たち日本人自身もまさか日本でこのような深刻な事故が起こるとは思っていなかっただろう。国民の一人ひとりがこの問題に目を向けることが必要であり、原発が立地している地域の人々だけでなく、特に原発の恩恵を受けてきた東京や大阪などの都市部の人々も目を向け考えるべきだ。また原発事故から9カ月が経つが、現在も解決しておらずいまだに収束の時期を見通すことができない状態が続いていることを忘れてはならない。国や東京電力の責任はきちんと問わなければならないが、私たち国民にも重い責任があると思う。今回の事故をきっかけに、自分たちの生活を見直すべきだと感じた。
(参考文献)
『明日なき原発』,柴野徹夫,未來社,2011年
(2年3組20番)
福島原発で何が起こっていたのか
藤原一己
はじめに
2011年3月11日午後2時46分、未曾有の大地震が日本列島を襲った。今回の地震は三陸沖、福島沖、茨城沖と三つの地震が連動して起きた。こうして観測史上最大のマグニチュード9の地震が起きた。巨大なエネルギーが場所によっては50メートルを超える津波を生み、太平洋沿岸部を襲った。巨大な防波堤が築かれてはいたが、それだけでは今回に限っては十分ではなく、今後は高台に住宅を築くなどのことを考えていかなければならないほどであった。
余震も1年以上続くと見られている。日本列島は北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートの四つの上に乗っている地震多発地帯で、今回の地震で大きく動いたことによってプレートのバランスが崩れ、あちこちで小さな揺れを起こすようだ。これからもしばらくはかなりの警戒が必要だろう。それに続いて関心をもたなければならないのが原発問題である。今回の地震の中でも大きな問題となっているのが、東京電力福島第一原子力発電所で起こった様々な危機的状況だ。初動対応の遅れや、情報操作や隠ぺいがおこなわれているのではないかという指摘がされ続けてきた。実際に福島原発で何が起こっていたのか。東電はなにを隠そうとしてきたのか、といったことを中心に見ていきたい。
第1章
巨大地震が発生して福島原発1〜6号機すべての非常用発電施設の電気の供給が停止し、原子炉を冷やすための水が送り込めない事態に陥った。その結果、1・3・4号機の水素爆発とそれによる建屋の大破、2号機の施設周辺における高濃度の放射性検出、作業員の被曝、高濃度の放射性物質を含んだ汚染水の海への流失など多くの問題が発生した。
原発には「安全の三原則」として「止める、冷やす、閉じ込める」というものがある。今回第一の圧力容器内で進んでいる核反応を「止める」ことには成功した。しかし二番目の冷やすという作業を自動的に行う冷却システムの発電機が機能しなくなり使えなくなってしまった。施設は5メートルの津波には耐えられるように設計されていたが、今回は14メートルの波だった。あまりにも想定以上のことが起こってしまったのだ。
こうして水素爆発が起こり、2号機で燃料棒全体が露出するという事態が発生した。燃料棒が非常にたくさんの熱を放出して、水が水素に変わり、軽くなった水素は上へ上へと上がっていき原子炉建屋の上部に溜まり、何らかの火種が引火し、爆発したのではないかと考えられている。こうして建屋の上部が吹き飛んでしまった。このような事態をこれ以上防ぐために、テレビなどでも報道されていたように空から海水を注入するという非常手段を使わざるを得なかった。しかし海水を注入するということは一気に塩分による腐食が進み、廃炉の覚悟をもたなければならない。そこにも様々な利権が絡むため東電トップの判断がおくれたようだ。
第2章
ここからはどういった情報が公開され、隠されているかという点を中心に見ていきたい。3号機について、東京電力は水素爆発だと発表しているが、それは嘘なのではないかと、内外の専門家たちは疑っている。1号機では、爆発の瞬間に建屋の上部に白く透明なリングがまっすぐ上がり、建屋のオペレーションフロアから上部壁を横方向に吹き飛ばし、支えのなくなった屋根がオペレーションフロアに落下している。そして爆発の方向が横方向に強いという、水素爆発の特徴が出ている。しかし3号機の爆発は方向も規模も全く違う。映像をみると最初に赤い炎が出て黒い噴煙を上げ、建屋天井部分を吹き飛ばし、上部に向けて広がっていっている。爆発の方向は縦方向で、きのこ雲まででている。明らかに1号機のとは違う。ここから使用済み燃料プールにあった核燃料の再臨界による「核爆発」だったのではないかという衝撃の事実を複数の専門家が指摘しているのだ。公開された写真では爆発後、建物の鉄骨がグニャグニャに曲がっている。鉄は1000度以上にならなければこのようにならず、水素爆発ではこれほど高温になることは考えられないそうだ。さらに燃料プールそのものがなくなってしまっている。これはすべて吹き飛んでしまったという裏付けになる。もしこの推測が本当だったとすると、チェルノブイリをはるかに超える放射性物質が東北から関東一帯にも降り注いだはずで、住民は悲劇的な内部被曝をしている可能性もある。とにかく東京電力・政府は3号機爆発の真実を明らかにして、公表すべきだ。
かつて東京電力福島原発で働いていた淺川氏によると、原子力村は組織的な隠ぺい工作が染みついた体質になっているようだ。原発のことは自分たちにしか分からないという傲慢と、安全設備はしっかり整っているはずだという洗脳がこのような結果を生んだと述べている。隠蔽ノウハウは参考文献にあげた著者も教えられたようで、外部から来る特に資格や経験もない素人の検査員があらかじめ決まった項目を検査するだけなので簡単にごまかせる。こういったことが原発では日常茶飯事となっていると述べている。他にも今年の5月に原発で作業していた60代の作業員が死亡したが死因は「心筋梗塞」と報道された。ニュースでは放射能のせいではないとされていたが、私もそんなはずがないのではないかと違和感を感じたのを覚えている。著者が過去に経験した事故は、ある作業員が作業中に酸素ホースがはずれてしまい、狭い場所での作業でもあったため救急車を呼んだもののまもなく亡くなってしまったそうだ。原因は「事故による酸欠」なのは明らかなのに、次の日の地方新聞には小さく「心筋梗塞により作業員死亡」とひっそりと報道されたらしい。原発はハイテクではなく人力での作業が多いようで、危険な現場で懸命に働く作業員に対してあまりにもひどいし、こういった情報操作が以前から平気で行われていたことが信じられない。国民による監視の目を決して弱めてはならないと思った。
メルトダウン、メルトスルーといった最悪のことさえ東電のフェイクの可能性がある。それは「原発の老朽化」を隠すためである。1号機は運転開始から40年を迎え寿命を迎えている。メンテナンスも先ほどあったようにお約束のごまかしがまかり通っている。もしきちんと点検が行われていればあの爆発は起こらなかったかもしれない。しかしこの老朽化を認めてしまえば全国のほかの原発も大事故を起こす可能性があると証明されてしまい、運転を停止しなければならず膨大な利権が吹っ飛んでしまう。この期に及んでそんな考えだとはあきれを通り越して悲しくなってしまう。
第3章
批判ばかりされている政治についても見ていきたい。マスコミは「政治家はなにもやっていない」というような論調ばかりで批判的な空気が蔓延していたが、実際のところはどうなっていたのか気にかかっていた。内閣府の大臣政務官によると、地震発生直後に最初から阪神大震災を上回る2万5000人の自衛隊員を派遣して、最終的には10万という自衛官のほぼ半数にまで引き上げるといった決断を48時間徹夜でくだした。翌日には県庁に現地対策本部を設置した。現地では1週間水が出ず1ヶ月風呂にも入れず懸命に状況にあたっていたとのことだ。だが原発事故に関しては対応するシステムが全くなく、初動であたふたして情報開示がうまくできなかったことを認めている。防衛省の小川副大臣によると、自衛隊も原子炉を冷却するために水を運んで放水するという経験は全くなく、東電からデータを入手して現状把握に努めた。しかし官邸で情報が錯綜していたため、首相自身が現地に飛び直接自分のところに情報が来るように決断した。この決断は批判を浴びたが重要なことだった。隊員も重いタンクをヘリから吊り下げ、バランスを崩したら墜落するかもしれないし、原子炉がどのような反応をしめすかわからず爆発するかもしれないというすさまじい緊張感で、数日間は身の凍るような思いだったと語っている。
おわりに
今回こうやって調べてみるまでは、原発でどのような問題が起きているのかはっきりと分かっていなかった。震災直後からTVのワイドショーや週刊誌などは東電の問題を盛んに書き立てていたが、これほどまでの隠蔽工作が行われているとは信じられなかった。報道を見ている限りでは、最初はまごついているのがわかったが、徐々にうまく対処できるようになっているものだとばかり思っていた。でも現実は全く違っていた。作業員たちがとてつもない危険な環境下で懸命に作業を続けていてなんとか悪化を防いでいるという状態なのだ。こういったことはだんだん報道されていかなくなってしまっているので、関心を持ち続けなければならないと思う。無関心が一番おそれるべき事だと感じる。そして私はもう原発に依存してきた電力事情は変えなければならないと思う。今すぐには現実的ではないだろうが、徐々に割合を減らしていって最終的になくすのが理想だと思う。他の国とは事情が異なる、これほどの地震大国である日本が、いくら技術力を向上させたとしても今回のような原発事故が起こってしまう可能性は非常に高い。事故後、計画停電や節電を行ったが、生活に致命的なダメージを与えるほどではないということが証明されたと思う。
以前から私は例えば夜の東京などは明るすぎると感じていた。それほど必要性のない巨大広告の点滅などがあまりにも多く、削ろうと思えば削れるところはたくさんあるはずだ。内部被爆してしまったり、自分の街に住めなくなるかもしれないというリスクにはかえられない。経済産業省によると「超臨海石炭火力発電」といった新しいエネルギーの試みもはじまっているようなので推進していってほしい。そのためにも私たちが出来ることは原発の動向と政治に関心を持ち続けることだと思う。
(参考文献)
「政治は動いていないのか」岩淵美智子、パブラボ出版、2011
「池上彰の学べるニュース 東日本大震災と福島原発問題」
池上彰、海竜社、2011
「福島原発でいま起きている本当のこと」 淺川凌、宝島社、2011
(2年2組23番)
次世代を担うエネルギー
〜原子力に頼らない未来へ〜
藤原 誇夏
はじめに
原子力発電を強く推し進めてきた日本だが、福島の原発事故以降、原子力エネルギーの在り方が問われている。今回の原発事故で原子力エネルギーの安全性は疑われ、実際に複数の原子力発電所の運転が停止した。そこで、注目を集めているのが、次世代エネルギー、新エネルギーなどと呼ばれる、地球に優しく・安全であり・再生可能なエネルギーである。
今年の原発事故により、さらに注目を集めることとなった次世代エネルギーだが、私たちや私たちの子孫が生活していく上で、次世代エネルギーの開発・普及という問題は避けては通れないものであるだろう。
「資源エネルギー庁エネルギー白書」によると、2010年の電源別発電率の割合は火力発電が約60%、原子力発電が約30%、合わせて約90%を占めている。火力発電で用いられる石炭や石油も、原子力発電で用いられているウランやプルトニウムなどの物質も限られた資源であり、いつかはなくなってしまうものなのである。また、日本は発電資源の8割を海外に依存しているため、いつ資源不足になってもおかしくはない状況にあるのだ。
このような理由からも、次世代エネルギーの普及は不可欠なものであり、我々日本人はもっとリアルな問題として次世代エネルギーについて考えるべきであるだろう。
1 次世代エネルギーとは
次世代のエネルギーには「新エネルギー」や「再生可能エネルギー」、「次世代エネルギー」などといった様々な名称があるが、それぞれ少しずつ異なったものを示している。
まず「新エネルギー」とは「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法」という法律で定められたものである。具体的には、太陽光発電、風力発電、バイオマス燃料製造、バイオマス熱利用、バイオマス発電、地熱発電、温度差エネルギー、雪氷熱利用、マイクロ水力、が当たる。
一方「再生可能エネルギー」とは、「自然界でくりかえし起こる現象から取り出せるエネルギー源」である。具体例は「新エネルギー」とほぼ同じであるが、さらに大規模水力、波力発電、海洋温度差熱発電などが加わる。
これらに対して「次世代エネルギー」には法律などによる定義はない。「いまはまだ主流ではないが、将来より大きな利用が期待されるエネルギー源」といった意味で使われている。「新エネルギー」は開発費用が予算に組み込まれ、援助が与えられている。現在多くの科学者たちが普及のための開発を進めている。
2 次世代エネルギーのいま
前でも示したように、2010年の発電割合は火力が約60%、原子力が約30%、水力が約9%、そして新エネルギーの割合は約1%程なのである。どうして国からも援助を受け、地球や人に優しいエネルギーとして賞賛されているのに、普及が進んでいないのだろうか?
まず1つ目の理由として、新エネルギーはまだ研究途中であり、普及させるには様々な問題がつきまとっているからである。また、それぞれの発電方法にはやはりメリット・デメリットがあり、それらのデメリットをどのようにカバーするか、というのが現在の研究の目標なのである。
次世代エネルギーとして、日本で1番注目されているのは太陽光発電である。自然の太陽光を利用しているので環境にも優しく、日照時間が比較的長い日本の風土に適しているといえるだろう。日本の使われていない土地や屋根などに太陽電池を次々と設置すれば、理論的には日本で必要な電力量の数倍の発電が可能であるとも言われている。しかし、実際の状況は数字を見れば分かるとおりである。1994年に始まった補助金制度や固定価格買い取り制度により、近年では太陽光発電のシェアが上がっているように思えるが、まだまだ発展途中なのである。
その理由は太陽光発電の1番のデメリットでもある、コストの問題が大きく関わっている。
発電方式
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発電単価(1kW時)
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石油石炭LNGを1としたときの単価の差?
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水力
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8.2〜13.3円
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0.95〜1.54
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石油・石炭・LNG
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約8.61円
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1
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原子力
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4.8〜6.2円
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0.55〜0.72
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太陽光
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46.0円
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5.34
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風力
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10.0〜14.0円
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1.16〜1.62
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上の表を見るとわかるように、太陽光は火力と比べて発電に5倍以上のコストがかかり、他の発電方法と比べてもずば抜けて費用が高い。また、環境にやさしいと言われている太陽光発電も、太陽電池を製造する際に二酸化炭素が多く排出されているという点が問題視されている。太陽光発電の普及を進めるためにはこれらのデメリットを改善していく必要があるだろう。
日本では太陽光発電が注目されがちなのだが、世界的には風力発電が再生可能なエネルギーとして注目を集めている。風を利用しているため夜間でも発電が可能であり、また上の表を参照するとわかるように、比較的コストも安上がりということが風力発電の大きなメリットである。また太陽電池と比べると、製造・廃棄などの過程で二酸化炭素の排出量が少ないと言われている。
しかし、現在の風力発電装置は適した場所にしか設置できないということが現状である。穏やかな気候で広大な広い土地がある地方には向いているのだが、日本のように小さな島国で気候の変化も激しく、落雷の多い地域には不向きであると言われている。
しかし、西日本では日本海側や四国南部、北日本では内陸側で風が強く吹くことから、全く設置できないというわけではないだろう。風力発電技術メーカーが、どれだけ日本の風土に適した装置を開発できるかが、風力発電普及のカギとなるだろう。
太陽光発電、風力発電とともに「御三家」と呼ばれているもう1つがバイオマスエネルギーである。私たちの身近にある生物体からエネルギー資源や工業原料として抽出されたエネルギーがバイオマスエネルギーである。バイオマスエネルギーは広い目で見れば、地球上の二酸化炭素を増やさないエネルギー資源であるため、現在注目が集まっている。
日本では、アサヒビールが2002年以降サトウキビからバイオエタノールを作る取り組みをしている。また、ファーストエコは木材の切れ端を燃料にした発電所を運営している。さらに、商社によるバイオエタノール事業に参入する動きもある。
また最近では、日本の海の植物「ホンダワラ」からバイオエタノールを製造することが注目されている。日本は国土が小さいため、陸の上の生物体から大漁のバイオエタノールを得るには限界がある。また、食料自給率も低いため、食用の生物体を使うことは難しい。そこで食用ではあまり使われなく、日本の広い海域から取れる「ホンダワラ」が注目されているのだ。東京海洋大学や三菱総合研究所、三菱重工業などの産学連携グループは日本海に膨大な「ホンダワラ」養成場を作り、効率的なバイオエタノール製造のために研究を進めている。
現在ではより優れたエネルギーを抽出するために、世界中で様々な生物体からバイオマスエネルギーを作る研究が進められているという。次世代エネルギーの普及が進まないもう一つ大きな理由として、「今」を重要視してしまう人間の性質にあるだろう。どんなに環境負荷が小さく、環境に優しいといっても、費用が高ければ利用者の増加は困難である。また、今現在では電気は身近にあってすぐに使えるものであり、地球温暖化や資源不足が騒がれていても普通に生活できるため、人々の関心や危機感はどうしても薄くなる。これからのことを考えて自宅に太陽電池の取り付けをし、次世代エネルギーの開発のための増税や電気代の値上げに賛成する人も少ないのが現実である。
3 次世代エネルギーのこれから
上で述べたように、次世代エネルギーにはそれぞれデメリットがあり、それが普及するための隔たりになっている。しかし「原子力発電はやめたいけれどやめられない」、「地球温暖化を止めたいけれど火力発電を継続してしまっている」などという私たちのジレンマをなくすためには、次世代エネルギーの開発は避けて通れないものである。次世代エネルギーの普及が進めば同時に原子力発電や火力発電の需要は減少するだろう。普及のためには、まずは国、そして私たちの協力が必要不可欠である。
国単位での協力として、毎年新エネルギー開発のための予算が組まれている。その予算を審議するための方針を定めるときに用いられるのが公共機関や産業団体などが発表している「ロードマップ」というものであり、技術進歩の目標や普及の方針などが示されている。
新エネルギー・産業技術総合開発機構は、2008年のロードマップで2050年までの太陽光発電の将来目標を発表した。2050年までにエネルギー需要の5〜10%を太陽光発電で賄うことを目標とし、また2020年に発電コストを1kW時あたり14円、2030年には7円まで下げることを目標として掲げた。
バイオマスエネルギー部門では、農林水産省のバイオマス・ニッポン総合戦略推進会議が2030年頃には600万キロリットルの国産バイオ燃料の生産を可能とすると発表した。
また風力発電については、新エネルギー・産業技術総合開発機構が2004年に発表したロードマップによると、2020年の発電量を1万メガワット、2030年に2万メガワットにすることが目標であると発表した。また、発電コストは2020年に1kW時あたり5円、2030年には4円と、太陽光発電より安い価格目標を掲げた。
これらのロードマップを参考にして予算が組まれており、2009年度「資源エネルギー関連予算」は、特別・一般会計合わせて約77億円であり、同年度の予算の0.75%ほどである。
まとめ
現在、総発電量における次世代エネルギーの割合は約1%程だが、これからもっと普及させていくことは可能であり、いずれは原発のない国にすることも可能であると感じた。しかしそれは科学者たちの努力だけでは困難であり、私たち国民の協力がなければならないと思う。まずは私たちも「今」ではなく「未来」を見据えた考えを持ち、「未来」のためにできることをしていくことが必要であるだろう。現在でも太陽電池の設置を進めるための補助金などがあるが、もっと普及させるためには補助金を増やしたり国単位で動くことも必要なのではないか、と感じた。今回次世代エネルギーについて考えてみたのだが、節電するための方法や、火力発電の環境負荷を軽減するための方法、原発を安全に利用するための方法など、また違った目線で、これからも環境やエネルギーとの付き合い方について考えていきたいと思う。
◆参考文献◆
『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』漆原次郎著・洋泉社(2011)
『「脱原発」成長論:新しい産業革命へ』金子勝著・筑摩書房
(2011)
(2年6組27番)
私たちにできること
――新しい日本を創るために――
川添佳穂
序章
2011年3月11日、午後2時46分 マグニチュード9.0の超巨大地震が発生した。宮城県栗原市で震度7を記録したのをはじめ、震度6強および6弱を記録した地域は8件。また、5強および5弱を記録した地域は9件という広範囲に達した。その直後には日本の有史以来最大とも言われる大津波が太平洋沿岸を襲い、三陸海岸の沿岸部にある市町村は壊滅状態に陥ったところも多く、また青森県から千葉県に至る広い範囲の沿岸部地域で甚大な被害が発生した。さらに東京電力福島第一原子力発電所では、原子炉は自動的に停止したものの、外部電力の供給が破壊されたため、冷却機能が完全に失われ、燃料の温度が過度に上昇して溶解し、多量の放射線物質が外部に発散するという緊急かつ異常な事態が発生した。
このように、東日本大震災は文字通り東日本全域に未曾有の人的および物的被害をもたらしただけではなく、直接的な諸事情を投げかけている。さらには日本の経済社会の根幹を揺るがすほどの衝撃を与えていると言える。
私たちはこの事態に直面して、一体何ができるのだろう。いま政府・与党は、東日本大震災の復興プランを検討・推進しているが、日本が世界でも突出した自然災害大国であるという特殊性を踏まえると、災害対策がこれで終了するはずがない。数々の問題点に触れながら、本当に強い社会・経済を構築するための考えを書きたいと思う。
第一章
今回の震災によって、東北地方を中心として広義の資本が相当程度の規模で失われている。これは、生産設備やインフラの破壊による生産者能力への一時的な影響を意味するだけではない。担保を中心とする「有形の資本」を企業及び個人が失ったことに伴う借入制約の顕在化や、長期間における金融取引を通じて蓄積された「無形の関係特殊資本」が失われたことによる金融介入の機能不全につながるという意味で、二次的な影響をもたらすと考えられる。こうした金融面から生じる二次的な影響は、生産者能力の回復を目的とした資本蓄積プロセスに対して、適切な設備投資が「必要な箇所」で「速やかに」行われることを阻害するという意味で、資源配分にかかる二重の「歪み」をもたらすことになる。
こうした問題に対処するために、個人が生活を営む上で必要な「有形の資産・資本」(担保として利用可能な資産を含む)を、政府が何らかの規範的なルールに基づいて配分することが期待される。金融介入の機能不全を緊急避難的に軽減することや、公共財としての位置づけが強いインフラの設備を公費で速やかに進めるのだ。しかしこうした政策的な介入は、あくまで短期の緊急避難的な施策として位置付けるべきであり、中・長期的には経済原理の規律に従って、限定的に運用されるべきである。
現実問題として、公共財としてのインフラ設備を超える範囲での資本蓄積について、その選択問題を最も効率的に検討できるのは、各生産者主体であると考えられるからである。すでに、震災の影響で受けた電力不足やその他の外部環境の変化を踏まえて、生産拠点の立地やサプライズチェーンの再構築に向けた検討が、分権的に始まっている。しかし、こうした各生産者主体の自律的な選択を無視した形で行われる政策的介入が、企業間取引(信用取引)の土台となってしまってはならない。「無理の関係特殊資本」の蓄積には、その性質から必然的に時間を要する。特に、震災の影響によって各経済主体の特性や外部環境が大きく変容した中にあっては、短期的にそうした広義の資本が再構築されることは期待できないであろうと考える。
第二章
経済学者やエコノミストたちによる、震災後の日本経済についての見通しから考えると、大震災後の日本の経済については、震災被害からの復興事業が行われる期間と、一定の復興後の日本の経済全体の動向について、分けて考えるほうが解りやすいと感じた。前者は「短期的な困難を強調し、長期的には楽観的な姿勢をとるもの」、後者は「短期的な困難は克服できるものの、長期的にみて震災後の成長経路へ復興することに関して厳しい見解をするもの」の二つに分かれるようである。
短期的な問題は、焦点を二つに絞ることができる。一つ目は、震災の復興のための費用の調達である。ただ、この費用は地震と津波による損害額から試算されたものであり、現在進行中の福島第一原子力発電所の事故にかかわる保障も考慮すると一説には30兆円とも言われる巨額の資金調達が必要とされる。そのための一時的な増税、または復興国債の発行が取り沙汰されている。その全額をもし増税によって賄うとすれば、方法にもよるが、国民一人あたりの負担額は30万円である。一年間にこれを負担するとすれば、一人あたりの国民所得が390万円として約8パーセントの国民負担率の上昇である。さすがに短期間にこれだけの負担増を国民に強いるのは難しく、増税と国債発行を混ぜ合わせた政策をとらざるを得ないだろう。ただ日本の財政は震災前からすでに厳しい状況にある。さらに震災によって供給制約が強まっていることから、これまでに比べてインフレーションが起きやすい環境となっている。こうした状況で財政破たんが起こると、急激なインフレーションと金利の上昇・円の価値の崩落が続く確率が高まる。したがって全額国債発行による賃金調達についてもリスクが大きい。
さらには、福島第一電力発電所の事故に伴う、関東地区を中心としたエネルギー制約である。これは5月に首相が中部電力浜松電子力発電所の全面停止を要求したことにより、福島第一原子力発電所の事故に伴う、関東国債制約である。これは5月に管前首相が、中部電力浜松電子力発電所を要請。単に東京電力の問題だけではなく、全国的な問題となっている。さらに今回の原子直発電所の再開が難しくなったことがあげられる。定修中の供給不足の長期化は、避けられないのでないだろうか。
第三章
震災以前から、日本では課題が山積みしてきている。国・地方の財政悪化、社会の高齢化、グローバル経済への対応などである。いずれも「先送り」を繰り返して今回の震災に至った経緯がある。そもそも復興財源として増税が取り沙汰されているのも、「震災以前から、日本が厳しい財政状況に直面している」からに他ならない。この上、償還財源の手当てもつかないまま政府の債務が増加するとなれば、「政府の支払い能力に対する信任が低下する」ことになりかねない。国債の国内保有率が高いことが、ギリシャ危機の二の舞にはならない根拠として挙げられるが、見方を変えると、国債を多く購入してきた「民間金融機関の信認は政府の信認にも大きく左右される」といってもよい。震災復興など、非常時における「政府の各種の積極的施策が成功するかどうかは、中長期的な財政バランスの維持に関して政府への信認が維持されているかどうかにかかっている。」ともされる。震災復興と財政の健全性は切り離せないということだ。したがって、「復興計画は財政健全化の道筋の中に描くものとする」ことが求められる。具体的には「税制・社会保障の一体改革や成長戦略などの諸改革も、復興計画と整合性のとれた形で遅滞なく実行する」ことである。それゆえ今回の大震災は、日本経済・社会の「危機」ではなく、「停滞の20年」を打破する「機会」になり得る。日本は貿易自由化に備えながら、震災復興も後押しする経済活性化策を打ち出すべきであり、TPPを活用して競争力を強化しなければならない。新興国の台頭に伴うエネルギー需要の高まりによって、震災以前から原油価格の上昇傾向が続いていた。地球温暖化問題への取り組みも求められてきた。日本は環境税や排出量取引制度に加え、原子力発電の比重を高めることで、「2020年までに地球温暖化ガスの排出量を1990年比で20パーセント削減する」ことで対処する方針だったが、福島第一原発事故で頓節した格好だ。とは言え、エネルギー消費の抑制は日本に限らず、世界的な課題である。世界に先駆けて、新たなエネルギー対策と技術の確立に取り組み、成功を収めることができれば、省エネ社会のモデルとなるだけではなく、その技術とノウハウは新たな輸出分野にもなるかもしれない。無論、成功が確実なわけではないが、何もしないで先送りを続ければ、日本の経済はいずれ行き詰るであろう。
国内外で経済がダイナミックに変化している中、現状維持がもはや可能ではないことを理解するべきなのではないだろうか。原型復旧に終始したり改革を先送りしたとしても、日本経済や被災地の抱える過疎化・高齢化などの構造問題が自然治癒することはない。時間が経つほど、問題は一層深化することになるだろう。とはいえ、構造改革には常に総論賛成、各論反対が付きまとう。各論で反対の利害当事者らが自らの既得権益に固執するからいに他ならない。この政治ゲームのようなものは、「買いだめ」にも類似していると思われる。
震災を含めて国家的危機に対して国民・政治家が連帯を強めることは、一時的現象としてはあっても、これを維持することは難しい。危機が深化するほど、むしろ自分たちの権益だけは守ろうとする一種の「囲い込み」が起きるかもしれない。「強いリーダーシップ」による打開を主張する向きがあったとしても、日本の政治・財政制度は縦割り・ボトムアップ型の政策決定であることから、強いリーダーシップを発揮できる強制的な土台を欠いているのが現実だ。これも平時の制度の不備である。
財政再建とあわせて、世代格差の顕著な社会保障の再構築も問題として残されてきた。震災復興は、この格差をさらに広げかねない。復興が長引けば、復興財源に充当した国債の償還が先延ばしされ、負担は将来世代に帰することになる。これを避けるには、復興の迅速化、および復興にかかる国債の償還を前倒しにする必要がある。
最後に
このように、日本の抱え込んだ課題は数多い。しかし、いずれも震災を理由に先送りされるべきではない。また、震災復興と隔離して進めるものでもない。震災復興を「新しい日本」につなげていくことが大切なのではないだろうか。これを考える上で、いままで積み重なってきた課題への対処も不可欠である。将来世代のことを考えならが、私たちにできることを見つけていきたい。
(参考文献)
『関東大震災の社会史』 北原糸子、朝日新聞出版、2011。
『震災復興』 佐藤主光・小黒一正、日本評論社、2011。
(2年1組9番)
編集後記
2011年3月11日、東日本大震災が起こった。それから1日、2日と経過し、次第にどれほどのことが東日本で起きたのかが明らかになっていった。それと同時に、日本中が自分たちの生きてきた世界がこんなにも脆いものであったのかと驚嘆し、恐れおののいたであろう。地震と津波は、私たち日本人の心に大きな大きな傷を残していったのである。
このゼミでは、テーマを「東日本大震災の中のコミュニケーション」とし、多角的な側面から今回の震災を考え、アプローチし、調査した。前期は、「共同体」「原発」「マスコミ」「教育」など自らの興味のある班に分かれて、そのテーマに沿って研究し、それを班ごとに発表し、討論の場を設けた。そこで意見を交換することによって、「原子力発電のこれから」や、「日本の震災時のマスメディアへの疑問」、「被災地の子供たちの心のケアの問題」など、これからの日本の課題や留意点であろう問題をゼミ生皆で考える事が出来た。とくに、木村先生が見せて下さったマイケルサンデルのビデオ『大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜』のおかげで私たちは、アメリカ・中国・日本の学生たちの震災にたいする考え方を知り、震災をまた違った角度から見たり、考えたりすることが出来るようになったと思う。後期は1人ずつ論ずるテーマを発表し、論文作成にあてた。
大震災にみまわれてから早いものでもう9カ月経とうとしている。ともすれば私たちは、被災当初のころと比べると、震災を気にすることも少なくなりがちではないだろうか。しかし、この未曾有の大災害を忘れず、ずっと私たちの心にとどめ、私たちにできることは何か考え、出来ることをしていくよう求められているのは確かであるだろう。
この場を借りて、このように有意義なゼミの場を提供して下さった木村信子先生にゼミ生一同から深くお礼を申し上げたいと思います。先生の討論の際に最初におっしゃって下さる助言は本当に毎回為になり、興味深いものでした。先生、本当にどうもありがとうございました。そして、ゼミを大いにひっぱってくれた前期ゼミ長の設楽淳太さん・橘正憲さん、後期ゼミ長の三田直輝さん・小笠原脩斗さん、メーリス係りの田中慧さん、レイアウト係の藤原誇夏さん・小早川未帆さん、表紙担当の川添佳穂さん、どうもありがとうございました。個人的に編集を手伝ってくれた三田直輝さんにも深く感謝します。本当にありがとうございました。そして、他ゼミ生の方もありがとうございました。ゼミ生皆の力が合わさってこの素晴らしい論文集が完成したのだと思っています。
私たち誰もがこのゼミで得た糧を契機にこれからの大学生活を有意義なものにできるように切に願っています。
2011年12月 編集長上村早紀・小林愛香
後期ゼミ長 三田直輝
小笠原脩斗
論文誌編集長 上村早紀・小林愛香
レイアウト 藤原誇夏・小早川未帆
表紙 川添佳穂
メーリス係 田中 慧

<プレゼンテーション>
五十音順
10月 4日 青木蒼真・齋藤江里奈・藤原一巳・松本紗由記
11日 大蔵三津紀・加藤朝子・横田真由美
18日 小早川未帆・永江祥子・三田直輝
25日 川添佳穂・設楽淳太・下山みどり・田中慧
11月 1日 小笠原脩斗・小林愛香・藤原誇夏
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