野口体操の姿勢を示すエッセー(http://www.noguchi-taisou.jp/shisei_essay.htmよりの引用)


岩波書店『教育をどうする』1997年 岩波書店編集部編
「からだの実感の復権 ー「自然律」を教育の基本理念に」 野口三千三

 半世紀以上、体操の教師として生きてきた私は、以前から生きものを次のように捉えています。つまり、生きものとは「息をするもの」であり、命は「息の内」、生き方は「息の仕方」である、と。息が詰まったり、息苦しいというからだの動きのあり方は、生きものの動きとして最も悪い動き方で、「楽に息ができる状態」で動けることが大切です。ある動きに合った呼吸は、厳密にいえばたった一つしかなく、その動き・働きにぴったりの呼吸のあり方を、その都度新しく見つけることが、からだの感覚を磨くことになります。「まるごとが透明平静な生きものとなる」そうしたあり方を求めながら動きを探るには、他人と競ったり、短時間に力の量を増やそうとする意識は邪魔になります。

 私は、からだの裡(なか)の極めてわずかな「差異」を掬い上げ、本来あるがままを実感することを体育で目指しています。また次のような言い方もしています。「まるごと全体のからだが、優しさという生きものになり切ったとき、すべての動きは易しくでき、そのときの感じは安らかで休まり癒される」そうしたあり方で、素直にものや自然に触れたとき、言葉を超えた対話が成り立ち、相互に血が通い合った関係を築くことが可能になるのです。
 
 実は、私が小学校に赴任した昭和10年代、その後の自分を決定づけた出来事が起こりました。赴任してまず私が驚いたことは、鉄棒が錆(さ)びついていて使い物にならなかったことでした。そこで紙ヤスリとボロ切れを用意し最初の授業に臨みました。私は、ザラザラになっていた鉄棒を、丁寧に愛情をもって磨き上げる作業を、子供たちの前で始めました。私の作業振りを、子供たちは、じっと黙ったまま見守り続けていました。やがて、磨き上がった時、私は、体操だけが不得意で足掛け上りさえできない級長の子供に、まず磨いていない鉄棒にぶら下がらせました。次に磨き上がった鉄棒に手をかけさせた瞬間、その子は「ワッ」と声をあげました。その時周りの子供たちも何か大事なことを、敏感に感じ取ってくれたのです。それから子供たちは自分たちの鉄棒を磨き、滑らかになった鉄棒を、優しくなでたり頬ずりしたりして大喜びでした。練習前には必ず鉄棒磨きをするようになったのです。私は、自分の鉄棒がかわいくてたまらなくなることの方が、鉄棒運動そのものよりも大切なことだ、と確信しました。つまり、「みがく(研・磨)」とは、身(中身・本質)を輝かせることだと、実感したのです。
 
 さて、今まで述べてきた方向で、それぞれのからだを見つめ直し、「みがき」続ける時、すべてのものやことについて、中身の実感をもとに「善悪」を判断する力が育つはずです。からだの実感に根ざす判断は、人間がつくったおしきせの価値観・道徳律ではなく、人間をつくった大自然の原理、即ち「自然律」を感じ取る道に通じます。自然律に即した体育は、外側からの命令に服従するのではなく、それぞれが内側からの「促し」によって自律できる、真に創造性豊かな人間を育てる、と私は信じ実践し続けています。

光文書院 『「体ほぐし」が拓く世界』 村田芳子編著 1999年「体ほぐしへの期待」 羽鳥操
 
 今年の春のことです。ある大学のコミュニケーション学部で、身体表現の講義と実技を指導する機会を持ちました。自分のからだと対話しながら、しなやかなからだと心を探る野口体操の紹介を頼まれたのです。因に、野口体操は、故・野口三千三東京芸大名誉教授が、半世紀以上の体育教師の経験から編みだした独自の理論と方法からなっています。

 ところでその時の授業の様子ですが、さすがにコミュニケーション学部の学生さんだけに、体が柔らかいことの大切さを頭では分かっていました。ですから体の力を抜いて重さに任せ、液体的にゆらゆらと揺することを基本とする実技を、ためらわずに学ぼうとする姿勢は始めから感じられました。しかし、いざ動きになると、案の定、ほとんどの学生さんが戸惑いをみせたのです。彼らや彼女たちは、力を抜こうとすると、だらしなくなるか、ギクシャクするかのどちらかでした。ここで一言だけ示唆しておきたいことがあります。詳しい説明は紙面の関係上省きますが、余分な力が抜けて重さが生きたからだからは、すっきりしたまっすぐな姿勢が生まれます。
 
 では読者の皆様は「柔らかでしなやかなからだ」をどのように捉えておられるでしょうか。それは柔軟性をみるテストで指先が床に着くとか着かないとかを問題にする体のことでしょうか。もし、そうした条件を最初に掲げてしまったら、先天的にも後天的にも障害をもつ人はどうなるのでしょう。戦後の日本を必死で生きぬいた高齢者はどうなるのでしょう。お腹のなかに新しい命を宿しているお母さんはどうなるのでしょう。私は、健常者にとっても障害者にとっても、子供からお年寄りまで共通した体の柔らかさとはどういうことなのかを視野にいれたいのです。それには外側に現われた形を問題にし、数字に置き換えることは避けたいことです。勿論いつも硬いのは硬い体です。またシャキッとしなければならないときまでぐにゃぐにゃしていたら、それも硬い体です。しなやかさ・柔らかさとは、変化に応じてふさわしい中身の在り方や動き方が、その人の生きるリズムのなかから、そのつど生まれてくることであってほしいのです。そこに「体ほぐし」の本当の意味があると考えています。その人にとって『丁度よくほぐれて力が抜けたとき、丁度いい力の入れ方が分かる(野口語録)』という方向での理論と方法を持つことが肝心だと思っています。重ねて言えば、一生無理なく続けられる体操、つまり「生涯体育」にもなりうる理論と方法を、「体ほぐし」の基本としていきたいのです。
 
 何事にもある基準はあっても、絶対にこうでなければならない、というにことにこだわったとき違うものになります。ましてや「体ほぐし」が目的なってしまっては本末転倒です。一人ひとりの子どもが体ほぐしの向こう側に、「何か」を見い出す喜びに出会えたら素敵ですね。その何かとは、ドキドキするような新鮮な驚きであったり、ちょっと涙ぐむような懐かしさであったり、中には危険を早めに察知して避ける感覚であったり……。

 豊かな感性が、素直に息づく自分のからだに、目覚めてくれることを願っています。

大修館『体育科教育』2000年 「たかが逆立ち・されど逆立ち」 羽鳥操

 早春、男性雑誌をいただいた。タイトルが『今年こそ運動神経を良くしたい!』。送ってくださった方の顔と動きが目に浮かんで、思わず「さにあらん」と、彼の思いを受け止めました。表紙には、赤い大きな見出しの文字の脇に、小さく『脱・運動音痴』と書かれていました。私も運動音痴の一人でした。幼稚園から始まってすべての学校生活のなかで、体育と運動会ほど嫌な時間はありませんでした。そんな私が体操に目覚めたのは二十代も半ば過ぎのことです。

 ある日、ピアノリサイタルが近づいて、あまりの心身の緊張し過ぎをなんとかせねば、と思いたったのが運命の分かれ目でした。初めは体の硬さを解消したいために体操を始めたのですが、人生のターニングポイントは十年目に訪れました。それは生まれて始めて逆立ちが出来た日のことです。それまで逆立ちは、地獄の一丁目に突入するような恐ろしさがありました。ところがその日は力づくでなくまっすぐに立てたのです。もちろん優しく幇助してもらっていましたが、無理やり立たせるやり方ではなかったので、腰がふわーっと浮き上がって、えも言われぬ浮遊感を自分のものとした喜びに全身が満たされました。それから壁に寄り添って頭だけで立つ逆立ちの格別の味を知りました。目は床から数センチの高さにあります。床を這うように生きるゴキブリや小動物の目線とはこうしたものなのか、と気付いた時の驚きは、それまで味わったことのない新しい感覚から得られたものでした。草原で直立二足歩行を行った人類とは、逆の視点をもつことができたのです。もちろん、視線をもっと上に持っていけば天井も大空も見えます。幼いころに親や友達や先生に『運動神経が悪い』というレッテルを張られたばかりに、動きの楽しさや気持ち良さを知らないまま人生を終わる方も、かなりの数いらっしゃるはずです。それは実に勿体ないことと、今では思っています。

 こんなエピソードがあります。あるコンサートでの出来事です。バイオリニストで後に指揮者となったメニューインが、ステージに登場しました。人々の目は指揮台へと登る彼の姿を追います。指揮台に上がるやいなや、彼は軽ろやかにヨガの逆立ちをしました。唖然とした聴衆は何が始まるのか、と固唾を呑んでいました。するとどうでしょう。足で指揮を始めたのです。爆笑の渦が拍手にかわりました。実は、どんな名演奏家でも、舞台に立つときは、強度なストレスに晒されますが、メニューインは精神統一のための手段としてはじめたヨガで、パフォーマンスをおこなったのです。人の意表を突くちゃめっけは、音楽を超えてかけがいのない喜びを人々に与えました。そしてゆとりある聴衆は、彼のユーモアを心から楽しみました。
 
 このように手段が手段を超えてはばたいたとき、目的や効果を超えます。体ほぐしは体ほぐし、逆立ちは逆立ち、指揮は指揮、ダンスはダンスという境界線を突破らったとき思わぬ視界が拓けます。混乱の時代だからこそ、丸ごとのからだで楽しむ体操や舞踊や音楽や美術や工芸や演劇や、つまりからだの実感に根差した人間同士のコミュニケーションを伴う「からだ文化」が、真価を発揮するチャンスの時だと私は現代を捉えています。「たかが逆立ち・されど逆立ち」今を覆う閉塞感の突破口は、一人ひとりの高が・されどの感覚を見直すことに隠されているのでは……。