加藤一雄

私も小学校の六年生となって、ぼつぼつ中学の試験のために勉強せねばならぬ時に立至っていた。学校ではそのために学年を三つの級に分けた。一つは秀才ばかりを集めた級、一つはまあ中程の好い加減の子ばかりを集めた級、そこで残りの一つは当然特異児童の寄せ集めとなったのである。もっとも当時は特異児童などという人道主義的な言葉はなかったから、私達は簡単にこれを「カス組」と称していた。けだし醇味に対する「粕」の字を当嵌るべきものだろう。そして私は容赦なくこの「カス組」に編入された。祖母はもとよりハイカラだから屁とも思っていなかった。しかし家庭教師として当然の責任者たる大木さんも靄山先生もいっこう平然としていたのは流石に肝の錬れたものである。ただ本人の私だけは少々憂欝であった。運動場でカス組々々々と囃されるのに憤慨を禁じ得なかったからである。しかし今日顧みてみるに、当時の親しむべき同級生は悉く職人や市電の運転手となって、最も健全な最も人間的(ユマニテール)な生活を送っている ── 悠々たる歳月は結句彼等の頭上に花冠を置いた訳だ。

『無名の南画家』 三彩社 1970

* * *

京菓子というものはまことに美術的にできております。菓子は食えばよい物、と心得ているのは実は大阪や東京の実用主義(プラグマチズム)の考え方で、も少し文化の程度の高い町になりますと、菓子は半分は見るものとして扱われております。 (…) 京都の客はムシャムシャとは食いませんから、次の客にまた出すことができる、一椀の菓子はいつまでたっても利用できる訳で、京都で型物の干菓子が発達したのも多分これによるのでありましょう。その型でありますが、京菓子は (…) 昔の京都の絵、光悦や宗達や光琳、京狩野の絵に更によく似ております。あの連中、光悦や光琳は仲々一筋縄ではゆかぬ男で、少なくとも友達にはなりたくない、と先生思っているのですが、それでも、御連中のかいた絵を見るとやはりうっとりとは致します。 (…) そのように文化やら歴史やら人たらしやら、様々の衣裳を重ねた菓子なので、あのおっとり澄ました形を見ますと、先生は腹も立ってくるのですが、あれらの菓子を箱につめて、阪神間やら東京の、先生よりは生活の高級な御連中に贈物にしますと、たいへん評判がよいようであります。まず女房娘が讃嘆し、亭主はそれに便宜上同調するというのが実状らしいですが、古往今来相も変らぬ文化芸術の経路と効果で、この方面の流行は、退屈ながら、即ち不易なのであります。

『蘆刈』 人文書院 1976