信仰による世界というのは、神が世界を創造したという風に一挙に与えられる。中心や最終形がまず先に作られて、すべてのことはそれを元にして説明される。科学的な立場というのには最終形や中心がない。(… 発見していくうちに…) 科学的な世界像は観察と論理によって、かなり目まぐるしくというか、つまりは 「場当たり的」 に変化していく。だから科学的な立場で考えるというか、それを拠り所にするということは、最終形や中心がいつまでたっても与えられないというか、進めば進むほど最終形や中心がないことが明らかになっていく世界像や世界観の生産に耐えることだ。
「わからない」とか 「知りたい」とか 「関係を見つけたい」とか書いていながら、本当のところはぼくが、何が絶対にわかることのできないことなのか、その領域を確認しようとしているようにみえるかもしれない。たとえば新規事業のプランの段階で、考えられるすべてのシミュレーションをして、そのすべてが失敗に終わるところまで計算をつづけた社員がいたとしたら、その人は新規事業を成功させたいと思っていないという印象を人に与えるだろう。誰かからぼくがそのような厳密さを持ちたいと思っているのだと指摘されたらぼくはそれに対して反論できないかもしれない。厳密さへの誘惑というのはそういう願望の一つの現われなのかもしれない。
しかしそれがぼくの願望ではないことをぼく自身は知っている。
特定の状況が説得力を生むということは、それを離れてしまったら説得力を失ってしまう可能性があることを意味していて、そういう小説を支持するときに 「読者は騙されたいんだ」 と言ったりするが、ぼくは誰かを騙したくて ─ つまり読みはじめから読み終わるまでの期限つきの時間だけそれらしく見せたくて ─ こういうことを考えているわけではない。だからできれば幾何の証明のようにあっさりと書きたいなどと思うこともあるが、幾何の証明のようにあっさり済ますことのできる問題はじつは問題として設定された時点ですでに答えが用意されてしまっているという構造になっている。 「この二つの図形の面積が等しいか等しくないか答えよ」 というような問題のいったいどこに 「問題」 があるのだと思う。ぼくがこうして考えていることはまだ問題として設定する方法すらわかっていない。
「あたかも第三者として見るような」
『 <私> という演算』 新書館 1999