更新情報や折々の偶感を書き留めています。
4月21日(金)、宮島達男展 《MEGA DEATH : shout! shout! count!》 東京オペラシティアートギャラリーへ。
作品は五点。作品の概要については上でリンクした WebPageをご覧ください。
この日は買い物をしに都心に出たのだが、予定を変更して展覧会に行った (なんてあまのじゃくなんでしょ)。
展示室は妙な匂いがしてた (まさかミルク ?! )。が、作品は良かった。 《Floating Time》、《Mega Death》 が気に入った。今回はともに、無生物の鼓動、あるいは、統制された気まぐれの息遣いとでも言うような情緒を感じさせてくれた。ただ、《Floating Time》 は宮島作品としては若干味付けが甘いような気がした。今後、これを発展させて、さらにクールな作品に仕上げてくれるのではないかと思う。
《Mega Death》 は、「最近どうもよく眠れなくて」 という方にお勧めしたい作品。腰を下ろして一時間、ずっと見続けていられたら、、、それはあなた不眠症です (ウソ)。使用されてる L.E.D.は、縦16個 (数えたらしい)。全部で 2,400個というから、横は150個 (数え切れなかったらしい)。ま、ともあれ、この二つは是非とも体験していただきたい作品。現代の抒情。
ちなみにこのギャラリーには夜間割引があって、閉館一時間前以降の入場は、チケットが半額となる。で、観る時間が一時間で足りるかどうかであるが、まあ、たいていの人は大丈夫でしょう。一例として観る時間を割り振ってみるならば、展示順に 1分、6分、15分、25分、3分の計50分ってな感じでしょうか。
ところで、二番目の 《Counter Voice in Milk》 は、宮島達男展の WebPage内に記載されている
宮島達男立会いのもと、本展に出品されるパフォーマンス・ヴィデオ作品 《Counter Voice in Milk》 を、一般の方々にも体験していただくワークショップ。
日時: 2000年3月13日 (月) 13:00 −
参加: 無料(事前申込み制)、定員30名(予定)
で撮影されたもの。で、わたしがたまたま目にしたモニターに映っていた女の子の反応がとても好ましかった。パフォーマンスをしているうちに上機嫌な顔つきになっていったのだ。実際には、もうどうにでもなれ、といった内実に違いないんだけど、そこから通常陥りがちなハイ・テンションへは向かわないで、ゴキゲン状態に踏み止まっていた。途中、まるではしが転がっても可笑しがるように、自分で自分を笑ってましたね。 Yuko Kuriyama ナイス !!
同時開催の 「寺田コレクション秀作展 part2」 では、麻田浩 (1931-1997) の 《バード・スペース》 が良かった。陰鬱な美青年的カッコ良さか。でも、もしかしたらすぐ見飽きちゃうかも知れない。
今週のよみもの
今週のききもの
アムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテット (リコーダー四重奏) による 《フーガの技法》 のCDをときどき取り出して聴いている。振り返ってみると、同曲の演奏のなかでは聴く頻度が高い。良い演奏だということだろうか。リコーダーの音色自体はもともと好きなんだけどね。人肌に触れるような音色。
最近はなんだかとってもリコーダーを聴きたい気分が高じていて、このあいだも CD店のなかをふらふら彷徨っていたら、いつのまにかヘンデルのリコーダー・ソナタ集を手にしていた。これは、伴奏の鍵盤楽器にチェンバロだけでなくオルガンも使っている。一粒で二度美味しいという感じ。ダン・ラウリンのリサイタル、行っちゃおかな。
当時の日記に書き付けなかったことを以下に、、、
91年8月28日(水)、ザルツブルク
この日はドーム (大聖堂) で、モーツァルト没後200年記念だかなんだかの無料演奏会が開かれることになっていた。演奏曲目はモーツァルトの 《レクイエム》 で、ジュリーニ指揮ウィーン・フィルハーモニーによって演奏される。
演奏会は朝 11:00からの開始。会場でより良い場所を確保したくて、いつもより早目に宿を出たわたしは、ドームに 9:00頃着いた。ウィーンにいた頃、ウィーン・フィルの定期演奏会に出掛けたときには、主に立ち席で聴いていたのだけれど、そのときには開演一時間前にホールに出向けば、立ち席の入場待ちの列の最初の10人くらいには入ることができた (そのうちの 7人は日本人だ)。けれども今回は、ザルツブルク音楽祭の期間中で観光客も多いし、ウィーンから観に来る人も少なくないようなので (実際、前の日には、ウィーン滞在中にあちこちの演奏会場でよくお見掛けしていた留学生の方とばったり会って、お話する機会もあった。この演奏会を観に来たらしい) 、さらに一時間早く来てみたのだ。
で、人の入りはどうかなと見渡してみると、前方にある席は一般席ではないらしくガランとしている。しかし、それ以外のところは既に満席。それでも立ち見することはでき、そういう人はまだほとんどいなかったので、好きな場所を確保することができた。とは云え、演奏が終了するまで 3時間以上の長丁場、ゆえに、一番前ではなくそのほんの少し後方、後ろに壁があってそこに凭れ掛かることのできる場所を選んだ。
時間が刻々と経過し、入場者が次第に増し、開演が迫るとドームはすし詰めに近い状態になった。ふと後方を見遣ると、一人の背の高い若い女性が大勢の人波をかいくぐって徐々に前方に移動してくる様子が目に入った。その動きを見ていると、どうも自分の居場所に戻ろうという感じではない。連れの人が前方にいるようでもない。じゃあ横入りか? でも、まわりの人の反応はない。西洋人にとってフェアであることはとても重要なことらしいが、これはそれに該当しないのか? どういうことだろうと思いながらも、いつまでもそれに拘るわけもなくて、それなりにぼーっとしながら開演を待っていると、いつの間にやら例の女性がすぐ後方に立っている。おお。これはやっぱり横入りだよな。あまりの大胆不敵さに西洋人もびっくり、なんだろうか? と不思議に思っていると、その女性が何やらわたしに向かってしゃべり立ててくる。高飛車な表情だ。どうやらわたしに、もう少し前へ詰めろと言ってるらしい。
実は、わたしの立っているところだけ少しスペースに余裕があったのだ。というのは、先にも書いたとおり、わたしは誰かの後ろについてその場をキープしたわけではなく、前に空きスペースがあるにもかかわらずやや後方の場をキープした。したがって、わたしの前には後から来た人が入り込んでいるわけだが、いざ並んでみると、その間隔が適当な具合にあくということにはならず、わたしとその前の人との間には半人分ほどの余裕ができているのだった。つまり、その女性に言わせれば、まわりがすし詰め状態なのに、ここだけ余裕を持たせてるのは他の人に対し思いやりに欠けるだろうというわけだ。
それは確かにそのとおり。わたしも気になっていたところだ。だが、前に詰めると後ろの壁に凭れることができなくなってしまう。足疲れるしー、貧血ぎみだしー、とかなんとか心の中で言い訳しながら、大目に見てくれないかなあと、ぐずぐずそのままでいたのだった。
だから、そこを突っ込まれると素直に従うしかないのだが、そういう常識的な判断を下すよりも早く、わたしの感情は理性の付け入る隙を与えなかった。ほとんど瞬間的にわたしはその女性にカチンときてしまっていた。要するに、「アンタにだけはそんなこと言われたくない」 のだった。横入りするような人からそんなこと言われたくない。もしも日本語が通じたなら、おそらくそう受け答えしたに違いない。けれど幸いにも、ここはザルツブルク。そういう大人気無い表現を英作文する気にはならなかった。不思議なことに英語で言うなんてことを端から考えもしない表現というものはあるものだ。とは云うものの、この憤懣をまるきり引っ込めたくもない、、、などなど、何て言おうか逡巡しているうちに、近くにいたオジサンがその女性に話しかけた。 「この日本人は見てのとおり背が高くないのだから、これ以上前に出ると、前の人の陰になって舞台が見えなくなるだろう。だから後ろにちょっと下がっているのさ。ま、少しくらいいいじゃないか。」 なんてね。 (ちなみにわたしはドイツ語を全く理解しない。けれど、そのオジサンがこう言ったことだけは確言できる。以心伝心じゃ。)
すると、別のオジサンたちも二、三人この話に加わってきて、あれこれ何かしゃべり始めた。ときおり笑い声を交えたりなんかして。結局、なんだか和気藹々の雰囲気になってしまった。わたしは前に詰めることなくそのままでいることになった。 ??? わたしは状況がよく飲み込めないまま、それでもまだ腹の虫が収まりきらなかったけれど、しばらくしてからようやく、オジサンたちの懐の深さに感動しはじめた。本当を言えば、自分の心の貧しさを見せ付けられたようなものだったけれど、そういうのには直面したくないので、オジサンたちを持ち上げることにしたい。すごい、すばらしい。オジサン、いいなあ。わたしもいつかそういう態度をとれる人になりたいよ。心の底からそう思った。
今週のききもの
この曲には上に示したとおり 4種類のヴァージョンがある。ピアノ版は未聴だけれどインマゼールによる演奏の CDが Channel Classicsから出ていて、演奏もなかなか良いらしい。もちろん上に挙げた演奏はどれも魅力的で、それはたとえば、バッハの曲がどの楽器で演奏しても魅力的なのと同じように、これもまず第一に曲が良いということがあって、どの演奏も素敵に感じられるのだという気がする。
この曲を初めて聴いたのは、例のヨーロッパ旅行から帰国した直後。直後といっても最初の二ヶ月は会社の社員寮住まいで、そこでは音楽を聴いてなくて、そのあと転居しステレオ装置を手に入れ、そしてようやく聴いた音楽がこの曲のサヴァール盤だった。これは全編ゆったりした曲で、物悲しくも親しみやすい旋律で、すぐに気に入った。そして何故だか、この曲を聴いているとウィーンやプラハを憶い出すのだった。ただその何故だかの理由の一端はわかっていて、それは、たまたまそのとき、他の街ではなくウィーンとプラハの写真 (モノクロームの) が手元にあったからだ。でも。それでもなおわたしは、何故だか、と言いたい気がする。何故だかこれがウィーンやプラハにぴったりの曲だと思うのだ。そして今でも、この曲を聴く度、ウィーンやプラハの情景が途切れ途切れに現れ、掻き消え、ノスタルジーをかきたてられる。決してウィーンとプラハとがわたしにとって特別な街だったわけではないけれど、そしてまた、どの街も憶い出せば胸がきゅんとするけれど、何かしらの曲を聴いて憶い出すことがあるのは、この場合だけなのだった。
とは云え、例外というのもあって、それはイギリス。ロンドンでわたしは、諸般の事情から岡村孝子の CDをはじめて聴く羽目になった。そして毎日毎日繰り返し聴き続けた (ハマッタとも言う)。そして湖水地方へ。この時期、湖水地方のありとあらゆるパブリック・フット・パスを、怪しげな音程で歌を口ずさみながら通り過ぎる人物が約一名いたのだが、その人物の正体はともかくも、その口ずさまれた曲が岡村孝子の 《AfterTone》 の歌の数々だったとは、イギリス人はおろか、ピーターラビットでさえ知る由もなかっただろう。
というわけで、二、三年前に 《AfterTone》 を手に入れて、それを聴いたとき、やはりロンドンと湖水地方を憶い出し、言い知れぬ感慨をたっぷりと味わったのだが、より憶い出すのがロンドンの方だったのは、「やはり」 と言うべきなのだろうか。それとも 「何故だか」 なのだろうか。
今週のよみもの
これは 80年代前半、4年半にわたるウィーン留学中のエピソードを綴ったエッセイ。タイトルに 「戦う哲学者の」 と付されているのはおそらく、著者が公共の場での過剰なアナウンス等に非常な不快感を抱き、それを撲滅せんと行動を起こしているがゆえ、なのだと思われる。その辺りのことは同じ著者による 『うるさい日本の私』、『うるさい日本の私、それから』 に詳しい。っていうか、もしかしてこの人、とっても有名人なのかな? わたしは今回初めて知ったのだけど。
この本を読んでわかるのは、日本人の感覚 (発想、思考経路、作法) と西洋人の感覚との違いだと思う。わたしは中島さんと同じような体験はしなかったけれど、ここで書かれていることは手に取るようによくわかる。共感するとまでは言えないけれど、とてもよくわかる。ここで示された西洋人の感覚というのも結局、そのバックグラウンドを十分に把握しているわけではない日本人が感じたものであるから、どこまで真実を言い当てているかわからないが、少なくとも表の一皮二皮はよく観察していると思う。なんて言い方はおこがましいもいいところなのだが、とにかく、ヨーロッパを一年旅行した程度の人間から見ると、この本はとてもよく書けている。
もちろん、中島さんのような生真面目な生き方でない人から見たら、同一人物に対しても、また別の西洋人像が浮かび上がっただろうと思うけれど、そういうことを言うときりがないので、、、というか、そういうことをわかるようになることが大事なことだと思う。そしてこの本は、その中の一つの見方として参考になるものだと思う。
わたしは日本人の良いところ良くないところ、西洋人の良いところ良くないところ、全体として見ればプラスマイナス相殺されて、どっちも似たようなものだと思う。長所短所は諸刃の剣とも言えるし。いずれもその源は同じなので、短所をカヴァーすると、思わぬところで長所が失われるかも知れない。そういうことは思うのだけれど、でも、他所の人を見ていて、良いと思ったら見習うしかないとも思う。たとえば、この本の中で次のようなエピソードが出てくる。(なお、下記文中では感じ取れませんが、「個人的理由」 というのは、別件で用事があるというようなまともな理由ではないようです。)
ある日ゼミの開始とともに、教授が次回のゼミの日時を変更したい旨を伝えた。教授は、そこに居合わせた七、八人の学生に次々に都合を聞いていったが、各人は個人的理由を持ち出し、なかなかうまい時間帯がとれない。20分ほどもめてやっとある日の時間帯に決定した。とそのとき、一人遅れて C君がやって来て、次回のゼミの日時変更を聞かされると、ガンとしてその時間に反対したのである。自分の都合のよい時間をみんなに伝え、そのうちのどれかにしてくれるよう訴えた。すると、教授も学生たちも当然のことのように彼の要求を聞き入れ、つい先ほど大激論の末に決定した時間帯をあっさり白紙に戻してふたたび議論を始めたのである。
これもわたしは、目に浮かぶようにわかる気がする。内心はわからないけれど、傍から見ると一向に意に介さない様子なんだろうな。こういうの、できたらいいと思う。こういうの、建設的な態度っていうのかどうかわからないけど (実際には、その理由というのが白紙に戻せるほどの理由でしかないせいかも知れないし)、でも、可能ならこの方がいい。
まず個人の意見を出し合い、全員の意見を並べ、そこから折り合って行く、というような手順を日本人はもっと採ってもいいと思う (気配りも大切だけど)。何故それができないかと言うと、折り合うときに対立の様相を呈してしまうからだと思う。でも、そろそろ対立にならないような精神的余裕が、広く日本人にも芽生えているんじゃないかなあ。そういう人はそこそこいらっしゃる。そして、現実は厳しい。なぜなら、例えば会議のなかで一人でも精神的余裕のない人がいて、その人が発言すると、その会議の成功確率は著しく低下するからだ…。
んー、いかんいかん。もっとポジティヴに考えよう。そして人生にユーモアを。
宮島達男 L.E.D.による新作展 《Monism/Dualism》
4月 4日(火)、つづいて東京国立博物館から歩いて 5分ほどのところにある谷中の SCAI The BathHouse へ。
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彼の個展は 東京オペラシティアートギャラリー においても開かれていて、そちらにはこれまで三度、観に行こうと思って出掛けたことがあるのだが、いずれも途中の渋谷で挫折、初台まで辿り着けなかった。気が変わったわけではなくて、ちょっと買い物をしていこうとしたところが、思いの外時間がかかって、疲れてしまって、気分が萎えるのだった。
というわけで優先順位の低かったこちらの展覧会を先に訪れることとなったが、ここはお風呂屋さんを改築したギャラリー、外観はおそらく元のまま、煙突も残っている。引き戸を開けて中に入ることになる玄関もいい味だ。展示のために暗くしてあるので、中の様子はよくわからなかったけど悪くなさそう。受付の方に伺ったら、通常は、天井近くの窓硝子から差し込む外光で作品をご覧いただけます、いい感じですよ、とのこと。うんうん、そうでしょうね。常々照明には自然光を利用してほしいと思っているので、こういうのはとても嬉しい。わたしは美術館とかギャラリーとかが照明に気を配らないでどうするのかという思いも持ってるし、展示の際に、白熱灯も蛍光灯も一切使わない美術館があって良いとも思っている。
で、作品は三点。どれも縦一列に並んだ発光ダイオードによるデジタルカウンターで、個々の作品の違いといえば、その高さが異なってることくらい。最も大きいのが 13m超、他のはその 1/2と 1/3。あと、デジタルカウンターの表示スピードも違っていて、それは最も大きいのが最も速くて、順にゆっくりになっている。また、表示色は赤と緑で、それが交互に並べられている。一つ一つのカウンターのサイズは、わたしが見た宮島作品のなかでは一際大きい。
小細工なし、大胆なほどシンプル。でも、こういうのはあまり好きになれない。あまりに一つの存在として完結され過ぎている。あのデジタルカウンターに無生物の鼓動、あるいは、統制された気まぐれの息遣いとでも言うような情緒を感じ取りたいわたしには、今回の作品は取り付く島もないのだった。
ちなみに、作品のお値段はサイズの最も大きいのが七百数十万円、あとはサイズに比例したような値付け (消費税別)。個人の方でも結構宮島さんの作品を買う人がいるらしい。
この後、桜がきれいですよと言う受付の方のおすすめにしたがい日暮里駅に向かう。すぐにあの五重塔の跡地があった。その辺りからは霊園になっていて、お墓のあいだを桜並木の一本道がとおっている。で、花見客も続々集まってくる気配。お墓の脇の桜の木の下にゴザ敷いて、、、。 こういうとこでも花見をするんだね。やるなあ。
混雑が比較的軽いのでは、とこの日期待しつつ出向いた展覧会、もちろん比較はできないのだが、わたしには十分過ぎるほど盛況な入り。実は展示替えのこともあって 4/25あたりにもう一度観に来ようと考えていたけれど、それは取り止め。あきらめた。
この日はお天気が良くて、桜も今日から見頃といった感じ。博物館に向かう途中ときおり後ろを振り返りながら、桜色した上野公園の奥行きを目に映す。
さて、上で紹介した読売新聞社さんの WebPage内に 「おトクな情報」 ページというのがある。それはそのページを印刷すればその紙が入場料の割引引換券になりますよ、という内容のものだが、何気にそのページへのリンクをクリックして、その情報を見てしまったわたしは悲しみと怒りに打ち震えた。うちにはプリンタがないのだ。それを知っての狼藉なのか読売新聞。今まで一度たりとも定期購読したことのないわたしへの腹癒せなのか読売新聞。それがあれば近所のファミリーマートでカンロ梅のど飴 95円 (消費税別) が買えたのにな…。それでも、いちおうチケット売場の窓口でお伺いをたてたんだけど (セコい)、口頭で「WebPageを見ました」と言うだけじゃ駄目で、やはり紙が必要ということだった。
話を戻して、、、展覧会場は結構混んでいて暑かった。ただ、展示の後半、絵画系以外の展示室はさほどでもなかった。どうしてなんだか。で、観客のみなさんを見ていて本当に感心したのは、大勢の方がちゃんと順番通りに作品を観ていくこと。しかも混んでいるから、列をなして前の人についてズルズル、ズルズルと足を運んでいらっしゃる。ま、そういうことは昔から見ていたことではあるけれど、もう随分長いこと、混んでそうな展覧会には行っていなかったので、あらためて驚いた。やっぱりフツーのサラリーマンにはなれないと思った。これは全く皮肉でもなんでもなく ( Web上では皮肉は言わないようにしている。現実では皮肉を言わないような人間でありたいと願っている。) スゴいことだ。試みにそうした列の中に入って、作品への集中度 60%、まわりの状況への覚醒度 40% (ただし問題意識を持ってはいけない) くらいで展示を少し観てみたのだけれど、これはなかなか難しい。疲れもする。もしかしたら、作品への集中度 60%程度の見方でも十二分に味わえるような個人の能力というか態度というのかを身に付ける必要がある (あった) のかも知れない、などと考えもした。
で、気に入ったのは、、、
伝牧谿筆 『漁村夕照図』(瀟湘八景の内) (根津美術館所蔵、陳列期間: 3/25〜 4/9)。
作品を前にすると、一瞬にしてその辺りが清浄な空気に洗われる。最高。それしか言えない。ちなみに、サイズは 33x133くらいで、2、3メートルの距離を置くとちょうどいい具合に視野に収まる。
次に、この展示の前で 「あ、これ、高松塚古墳の、、」 という声が絶え間なく漏れ聞こえる『高松塚古墳壁画 (西壁)』(前田青邨総監修・平山郁夫・守屋多々志ほかによる模写、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館所蔵、西壁: 3/25〜 4/9、東壁: 4/11〜 4/23、北壁: 4/25〜 5/7)。
これは模写とは思えないほどリアルな質感。いや、実際には無論知らないんだけれども、そう言いたくなるくらいのもの。しん、と落ち着いた空気。日本画はこんな表現まで出来てしまうのかと思った。ちなみに、この西壁がおそらく一般に馴染みのある画。
あと、書跡では、古林清茂筆(くりんせいむ)『別源円旨送別偈』(元・泰定 2年 [1325]、五島美術館所蔵、3/25〜 5/7) が好ましかった。お気に入り米元章の行書虹県詩巻の書体に似ているからだな、きっと。ああいう書体のどこが琴線に触れるのだろうか。
今日は、展示を観る時間の半分を上記絵画二枚に費やすことになった。特に漁村夕照図。全ての展示を、あの列に加わって、あるいはそれをかいくぐってまで観る気はなかったので、全く目にもしていない作品もたくさんあるが、それでも不足はない。この二作が展示されていて本当に幸運だった。
ともに 4/9までの展示、お見逃しなく、、、と言いたいところですが、お花見にうってつけの頃合い、激混みの可能性大?
お気に入りということで言えば、李氏筆『瀟湘臥遊図巻』 は 4/25 〜 4/30の展示。
それから、陶磁で展示期間の短いものがある(= 『曜変天目』 建窯、京都龍光院所蔵、4/7〜 4/12) ので、これに興味のある方は要注意。
今週のよみもの
ここしばらくのあいだ読んできた谷川俊太郎。本は全て図書館から借りていて、これは南図書館からやって来たもの。実はしばらく前にも同じ本を借りていて、それは栄図書館のものだったんだけれど、そのときには読まずに返却してしまった。その中身を見てみたらあちこちに傍線が引いてあって、とても読む気にはなれなかったのだ。それでも一旦は仕方がないと思って消しゴムで傍線を消そうとした。しかし、よくよくページを眺めてみると全体の半数程のページが傍線に乗り込まれている。おお。曰く言い難い感嘆の声がため息混じりに洩れてしまうのだった。アナタハ何故コレホドマデニ傍線ヲ引イタノデスカ ?!
初めのうちはそんな傍線たちにも平静を装っていたわたしだが、消しゴムで消そうと半ば本気で考え始めると、徐々に鬱屈してきた。たとえ消しゴムで傍線は消えるにしても、その代りに、この鬱屈した思いがページに塗り込まれるのではないか、なんてことを考えたりした。いや、ただ単に、そんな作業をしたくないという言訳に過ぎなかったのだけれども。あ、いや、そもそも言訳する必要はなかったのだけれども…。
とかなんとか悩んでいるうちに、そう言えば図書館の端末で図書の検索をしてるときに、この本を所蔵している図書館が市内にいくつかあったのを思い出した。なんだ! じゃあ他所の図書館の本を借りれば良いんじゃないか。というわけであらためて近所の図書館に予約を入れると、今度はめでたく綺麗な本が南図書館からやって来た。
うん。やっぱり綺麗な本は読んでて気持ちがいい。もう少し正確に言えば、読んでいて本の体裁とかが気にならなくて、それがいい。詩は特に、ニュートラルな状態で読みたいからね。
さてさて、今回もいっぱい引用してしまった。一扁まるごと引用さえ三つある。なのにわたしのコメントは皆無。ヤバイっす。でもね、いい作品を語るのはむずかしい。読めばわかる、語ることは何もない、という感じ。それはそれで率直な感慨ではあるんだけれど、自分でも根本のところはわかっていない。そう、私ハ何故コレホドマデニ引用ヲスルノカ?
とりあえず本をげっとしよう。
今週のよみもの
飄逸な味わいのある 『プレーンソング/草の上の朝食』 講談社文庫 が面白かった保坂さんのエッセイ。とはいえ、著者によるあとがきを読むと、この作品が小説なのかどうか気にしたこともあったが今はカテゴリーの問題はどうでもいいとあり、単純にエッセイとして書かれたのではなさそう。フツーに読めば、評論とか随筆の類としか見えないと思うんだけどね。何なんでしょう?
文体は相変わらずの吉田健一。思考経路というか、物事の見方、それを言葉にするときの思考を辿り直すような態度もそれっぽい。自分の気持ちのありようを出来合いの表現に当て嵌めて受け流したりしないで、精確に書きとめようとしている。反面、ダイナミックさには欠けるし、そういうのに閉塞感を覚えることもあるが、こういうのもあって良いんじゃないかと思う。
話変わって、ゆで卵の殻の剥き方について。これってキレイに剥けると何故だかとても気持ち良い。特に、小刻みにとれるんじゃなくて、一遍に 1/3くらいの部分がパコッととれたりすると快感。むかしは、卵を机のカドっこでちょこっと割って、そこからちょこまかと剥いていったんだけど、ヨーロッパに旅行したとき以来、そのやり方を変えた。ホテルで朝食を摂っているときに、ある剥き方を目撃したのだ。まず、卵全体をスプーンの背で軽くトントン叩いてひびを入らせる。次に、殻を一部剥く。すると、殻がどんどんズルズルと剥けていく。以上。
どうやら殻の内側の膜が絶妙な働きをしているようだ。というか、それを上手く利用しているのだな。これは自分でやってみるまでは得心し難かった。目から鱗だった。
こういうの、自分では絶対に思い付かない方法だ。たとえ思い付いたとしても絶対に試そうとは思わない方法だ。やり方としてスマートじゃないような気がするし、見た目にも美しくないし (実際には、全体にひび割れた姿を見るとなかなか味わいがあるんだけど)。だから余計に面白く、印象に残っている。
あと、卵をスプーンの背で叩くこと自体にも面白さがある。机のカドっこにぶつけても割れないこともあるのに、スプーンの背で叩くと、これがいとも簡単にひび割れる。不思議ですねえ。
それから、まだ試していないことはあって、それは、卵立て器に卵をのっけて、卵の上部の殻だけを剥いて、そこから (半熟)卵をスプーンですくって食べること。ホテルでは真似してそうして食べてたけど…。もしかしたら、スプーンで食べることに抵抗があるのかも。というか、卵の付着したスプーンを美しくないと感じているのかも知れない。
昨日はいきなり気温が高くなって、ああ春だね、とうとう春か、これはもう春を受け入れざるを得まい、なんて心境になった。まるで我が身が冬にでも転成したかのように、もう春なんだってば、と後ろから春に背中を押されている冬の立場になっているのだった。季節の変わり目、特に冬から春へと変わる頃は、何故だか胸に不安がよぎる。きっと、否応無く新たな局面に対峙しなければならなかった過去の状況を、意識下で想起しているからだろう。
ただ、こういうことにもやはり慣れというものはあるらしく、たとえば長期に亙って街から街へと旅をし続けていると、毎日がイヴェント、それなりの耐性は生じてくる。それを自信とか度胸とか言っても間違いではないけれど、それでは何かズレてる気がする。別の次元から解釈しているみたいだ。非日常が日常になる、という言い方もできるけれど、これまたちょっと違う。では何かと問われると返答に窮してしまうのだが、ただ一つ言えることは、どんなに旅慣れても、列車が次の目的地へと近づいたとき、やっぱり胸には言い知れぬ緊張感が広がっているということだ。わたしの言う耐性とは、そうした感情を自分の内にそのまま放っておけるようになること。つまり、そうした感情の存在を認め、それを受け入れられるようになること。
昨日からのききもの
酸素と太陽の補給に行こう こもっていると、どうもネガティブになる
最近、初期の曲を中心とするベスト・アルバム "Riyu's Album" をリリースしたこなかりゆ。一番好きなのは 3枚目のアルバムに入っている 《A Walk》 で、これは詞も曲もとてもいい。聴くと元気になる。こんな季節には欠かせない曲。これを聴けば乗り切れる。
ちなみに、"Riyu's Album" にも 《A Walk》 は入っているけどインストゥルメンタル版。こないだ渋谷の HMVに行ったので、ついでにジャケットの姿を一目見ようと CDを探したら、なかった。売り切れて無くなったという雰囲気でもなかった。地方では入手しづらいというファースト・アルバム "HICCUPS" はあったのに…。何故だシブヤ、それがシブヤ。
高校時代の友人夫妻が今、上海に赴任している。昨年のいつ頃だったか、日本語の本を読みたいと云うので、それでは、と下記の本を送りつけた。
で最近、そろそろ次のをというわけで、どの本を送ろうかと思案している。前に送った本のなかでは、檀/阿川コンビのものがお気に召したようだ。それから、仕事が猛烈に忙しい様子なので、読みやすくて笑いがあって、でも軽過ぎないで、、、という感じのがいいんじゃないかと思ったりする。新刊の方がベターだろうとか。きっと、日本の現在を共有したいだろうからね。そんなことを念頭におきつつも、適当な本が思い当たらなくて、とりあえずのところ阿川佐和子、小林聡美、川原泉のお三方を候補に入れた。他にもっと適当な本はないものか、と半分愉しみながらもあたまを悩ませている。
新たに「引用の織物」ページを作成、■つくりもの ページ内に同居させました。でもって、最近このページに載せていた長たらしい引用文は、全部そちらへ移しました。
今週のよみもの
今週のよみもの
今週のよみもの
今週のききもの
この CDは、聖母マリアを賛美するモテットを十数曲収録したものだが、選曲されたどの曲からも、しっとりと愁いを帯びたシャルパンティエ節が堪能できる。また、オルガンとガンバを伴奏にした 9名の女声合唱 (各パート 3名ずつ) の透明な響きも特筆もので、そうした曲調と響きとのマッチングが、いやがうえにも情感を深める。清純、流麗、ただひたすらに美しい音楽。
いつだったかの日記にも書いた憶えはあるが、この CDのなかに入っている 「修道女のためのスターバト・マーテル」 はどうしようもなく好きな曲だ。あまりに単純で、甘すぎる音楽で、困ってしまうくらいだけれど、でも、何度聴いても飽きの来ない曲。絶品です。
上記 2枚の CDは入手し難かったのだが、一枚目の方は一、二年前、Virgin Classicsから新たにリリースされるようになった。 CD番号: Virgin Classics 5 61527 2
また、二枚目の方は、つい最近ディジパック仕様で再発売された。 CD番号: ASTREE 9929
二枚目のは 石丸電気 ソフトワン店 で購入すると安上がり、\1,580なり。続いて 山野楽器 銀座本店 \1,800に、 HMV、Tower Record \2,290。
石丸電気さんって全体的にお値段安くて良いんだけど、でも CDを探し難いんだよね。探そうとすると滅茶苦茶疲れる。たいてい見つけられなくて、普段だったらチェックしないような CDばかりが目に飛び込んで来て、そんな幻惑と疲労感の只中で理性も直感もへこたれて、衝動買いをする羽目に陥る。で、ウチに帰って聴いてみるとことごとくハズレ。結局高くついちゃうんだよね。だから、あの店にはあんまり寄り付かない。もし次に行くとしたら、あらかじめ買うものを決めておきたい。それ以外は見向きもしないように。購入予定の CD番号を予め控えておいて、それを店員さんに見せるだけ。したら平穏な日々を続けられる、、、かも知れない。 (でも出掛ける前に電話で在庫の問い合わせをしておかなくちゃね。んー、やっぱりネット通販が一番か。小売店に生き残れる道はあるのか?)