江戸時代の民衆には、自由で闊達なエネルギーが躍動していたように感じます。

「田無神社本殿を作った人々」紙芝居のお話を下に載せます。(講談の人が読んで下さる予定があるので、言い回しが浪曲風になっています。あしからず)

長いので、一度ざっとコピーしてどこかにペーストして、あとでゆっくりお読みいただければうれしいです。


紙芝居
1(タイトル)
2
いきなり、宇宙の話で恐縮ですが、人間にははかり知れないこの宇宙の中で、こんなに豊かに「水」をたたえている星は、他にはないそうでございます。水は生命を生み出し、生命を進化させたいのちの揺りかごであると、学校で習った方も多いでしょう。その地球に浮かぶ小さな島国日本の、関東平野の中程に、田無神社というお宮がございます。遠い昔から水を敬い大切にしてきた古代の人々から受け継いで、今に至るまでお祭りしているお宮だそうでございます。
今日もそのお宮に、お参りの親子連れがやって参りました。「おかあさん、ここになんかいいものがあるんだって?」「なに、いいものって」「知らない。でも、学校の先生が、最近東京都の文化財に指定されたすごいものがあるっていってたよ」「ふ〜ん、でも、田無なんてこんな田舎の小さなお宮にそんなすごいものがあるわけないじゃない?」するとたまたま隣で参拝をしていた中年のおじさんが口をはさみました「奥さん、知らないんですか。ここには江戸時代の有名な彫物大工 嶋村俊表という人の、最高傑作があるんですよ」「はあ、知りませんねえ、そんな人」「勉強してくださいよ、奥さ〜ん」そこでこのおじさん、親子に向かって頼まれもしないのにぺらぺらとお話しをはじめたのでございます。

3
江戸時代も終わりに近い幕末の頃。今から140年程前の事でございます。ここは神田、江戸でも3つの指に数えられる彫物大工、嶋村俊表の家。弟子の一人が向うから叫びます。「親方〜、田無村の百姓が3人ばかり親方に会いたいってきてますが、どうしやしょう」「田無?そんなところに知り合いはいねえがな。まあ、遠いところから来たんだ、とおしてやんな」当時は電車もバスもございません。田無から来た3人は、歩いて神田まで来たのでございます。しかし疲れなど全く見せないで、3人は俊表の前に現れ、そして、田無の村の小さなお宮を、ぜひ頭領に作ってもらいたいともうし出ました。俊表、苦笑いを浮かべて申します「ちょっとまってくれよ。俺を誰だか知っているのかい」「はい、存じ上げております。江戸一の彫り物大工の頭領でございます」「そうさな、おれはそのへんの彫り物大工とは格が違うんだ。そんな、名もない田舎の仕事を俺の所に持ってくるなよ。さあ、けえった、けえった」3人のうち一人は田無の名主、下田半兵衛というものでしたが、その半兵衛が進み出て申しました。「おっしゃる事はよくわかります。しかし、手前ども百姓ではありますが、一生懸命身体をはって生きているのは貴方様と同じでございます。小さい村ながら、皆が幸せに暮らせる日本一の住み良い村を目指しておるのでございます。それでこの度、日本一の貴方様に、形は小さくても日本一のお宮をお願いしたいと思ってやって参りました」彫物大工の俊表、あぜんとして半兵衛の顔を見つめます。半兵衛さらに申します「先頃も外国から黒船がやってきて、日本の国はこのままでいいのかと、みなが不安を感じている今日この頃です。こんな時にこそ本当に日本の魂に触れるものが、私ども百姓にも必要なのではないでしょうか。日本の国を下から支えているのは、我々百姓でごさいます」これを聞いた俊表、にわかに顔がほころびました「おもしれえ事を言うね、お前さん。おれも江戸っ子だ。そういう心意気なら、やってやろうじゃねえか」

4
ここは、田無のお宮の境内。
初めてお宮に案内された俊表は、どうしたわけか、今晩はこのオンボロの拝殿に一晩泊まりたいと言い出しまして、一人でその中にごろ寝をしております。夜も更けて、星がかがやく頃、俊表は深い夢に誘われます。どこかで笛のような、魂を呼ぶような声が聞こえてまいります。
俊表はその声に誘われて、雲の中をただよっているような気分。もやもやとした柔らかい渾沌のなかに、天からやさしい光が差し込みます。光ととけあって、雲の中を漂っていますと、そこは水の中、いや海の中でしょうか。その中で夢見心地に、気持ちよく身体が揺られておりますと、やがて大地がみえてまいりました。大地の上にはきれいな水が流れていて、水のほとりに不思議な子供が立っておりました。
「俊表さん、ここは石神井川って言うんだよ。3万年も前から人がすんでいたんだ」そう言ったかと思うと、子供はすっと向うへ消えてしまいました。
子供が消えた方に、縦穴式住居の屋根ようなものが、ぽつりぽつりといくつか浮かんで見えます。
3人程の日に焼けた子供達がふいに現れ、たたたた…と走って、住まいの一つに入って行きました

5
「おばば様、お花をつんできてあげたよ」「おばば様、今日は起きてて大丈夫なの?」「みんなありがとうよ。今日は大分からだの調子がいいんだ。ところで皆に伝えておくれ。もうすぐ鹿の群れが来るから、山に見張りをたてた方がいいってね。」「山の神様のお告げがあったの?」「まあ、そんなところさ」「ふうん、じゃあ皆に言ってくる」「ああ、それとね、3日後には旅人も来るからね、なにかごちそうの用意をしておいてあげるように」「旅人がくるの?」子供達の目が輝きます。
3日ののち、子供達が原っぱにたたずんでいると、向うから旅人がやってくるのが見えました。「やあ、こんにちは」「わあい、ほんとに来た」「ほんとにって?」「おばば様がね、3日前から、貴方の事を待っていたんだよ。案内するからついておいでよ」子供達はうれしそうに旅人を引っ張って行きます。
村びとがみんな出てきて、旅人を歓迎し、たのしいうたげが始まりました。
旅人は、遠くの村の様子や、新しい道具を作り方や、栗の木を植えて栽培することなどたくさんの事を教えてくれました。少年たちは旅人に憧れ、自分も大きくなったら広い世界に旅立ってみたいと、心に夢をえがきます。おばば様はそんな様子を嬉しそうにながめております。
旅人は、土でつくった笛を取り出して、おもむろに美しい音を奏ではじめました。大人も子供もそれはもううっとりと聞き惚れ、一緒にいた飼い犬も、森のミミズクも、木や川の水や、お月様までがその音に聞き惚れる様でした。随分前からからだの弱っていたおばば様は、その音を聞きながら幸せそうに目を閉じ、そのまま息を引き取りました。

6
おばば様がもう息をしていないことを知り、皆が泣いておりますと、一人の子供が天を指差して言いました。「あ、あそこにおばば様がいるよ」古代の大人の人達の目には、ちゃんとそれを見ることが出来ました。「ほんとうだ、おばばさまがにこにこしてこちらをみていらっしゃる」「おばば様の横にずっと前になくなったおじい様たちの姿もみえるわ」「この間狩りの時に怪我をして死んでしまった兄さんもいるぞ」「みんな、私達と共にいて下さるのね」みんなに見送られながら、おばば様は光に包まれて、空に昇っていきました。それを見ていた村の一人が感極まって申しました「生きていても、死んでいても、貫き通って流れる光…」
旅人の笛の音が、再びあたりの空気に響き渡りました。それにあわせて、唄をうたいいはじめる人が出てきました。みんなも歌い出しました。踊りをおどり始める人も出て参りました。その夜は、しめやかな「いのち」のお祭りになりました。

7
さて祭りの音が遠のきますと、辺りは霧につつまれ、再び不思議な子供が現われました。「俊表さん、今度は大和朝廷の時代に案内してあげるよ」そう言ったかと思うと、目の前にこんこんと湧き出る清らかな泉が現われました。その周りには、稲のようなものも植わっているようです。数人の親子が稲の手入れをしておりますと、向うから馬に乗った人が数人参ります。少年はびっくりして駆け出しました「わー、すげえなあ、この大きな動物はなあに?」白い髯の立派な人が馬から降りて言いました「坊や、馬は初めてかい?」「うん、馬って言うの?この動物」「そうだよ、とても利口なんだよ」「おじさん何処から来たの」「わたし達は海を渡って遠い国から来たんだよ」「どうしてそんな遠いところから来たの?」「おじさん達の国はね、滅ぼされてしまったんだ。」その人は悲しそうに遠い空を見つめます。少年がなんと言っていいかわからない顔をしていると、その人は言いました。「坊や、咽が乾いたので、水が飲めるところに案内してくれないか?」「いいよ、谷戸のわき水がおいしいんだ。ついておいで」子供達は異国の人々を谷戸の泉に案内いたしました。異国の人は、水をすくってのみ「ああ、美味しい水だねえ。ありがとう坊や。生き返ったようだ。見渡せば稲が植わっているね。ここの水は冷たいから、稲にはあわないだろう? ”灌漑”と言ってね、水路を作って、太陽で水を暖めてから流すようにすると、稲はもっとよく育つようになるよ」「へ〜、おじさんはいろんなこと知っているんだね」少年は、尊敬のまなざしでその人をみつめ、そして言いました。「おじさん、これからはずっとこの国に住みなよ。そしていろんな事おしえておくれよ」「いいとも、ぼうや。おじさんの知っている事は全部教えてあげるよ」

8
この時代に、朝鮮半島の高句麗や新羅から渡来人が関東平野にたくさんやってきたのでございます。高句麗という国の名は、「天の理想を地上に実現する」という意味だそうですから、大変高い志しを持った人々であったようです。以前からここに住んでいた人も、渡来の人たちを尊敬していたようで、朝廷から武蔵国府として任命された人の中に、高句麗出身の人があったという記録も残っていますし、埼玉の新座というのも地名も新羅の事だそうでございます。武蔵の国は、異国の文化と溶け合って発展したのでございます。
さて、またあたりが霧に包まれ、再び不思議な子供があらわれました。向うの方でしきりに馬のひづめの音がいたします。「俊表さん、こんどは鎌倉時代になったんだよ。あそこに見える道は横山道というんだ。今も残っているでしょ。その横にさっきの谷戸の泉がわいているよ。その側に、ほら、こんどはお社がたてられている。尉殿大権現というんだ。ずっと後になって、この尉殿大権現さんが、尉殿神社と田無神社という二つのお宮にわかれるんだ。でもいつかまた、その二つはひとつになるよ。元はひとつだからね。
それでね、今度は、江戸時代をみせてあげる。ほら、あそこ、横山道より大きい立派な道。あれが江戸時代につくれた青梅街道だよ。幕府から谷戸の住民へ、青梅街道沿いに移り住めとのお達しがあってね、みんな青梅街道沿いに移ったんだけど、来てみると水がなくて、苦労したんだよ」

9
さて、ここは田無の宿場。幾人かの荷物運びの人足が行き交います。茶屋でひと休みししている人足が言いました「いや〜、貴重な水をごちそうさん。ここの水は谷戸まで毎日汲みにいってるんだってな。御苦労なこった。そういえば今度羽村という村から地面にみぞを掘って、江戸までつなげ、そこに玉川の水を引き込んで江戸へ水を送り込むという大事業があるって聞いたがしってるかい?」何人かの人が目を丸くして振り向きました「へ〜、そんな夢みたいなことができるのかね」「幕府のやることはさすがに大掛かりですごいねえ」側で聞いていた子供も目を輝かせました「ねえ、田無にも、水が来るようにしてもらおうよ」「何を言ってるか」と一人の大人がたしなめるように言いましたが、他の大人はこういいました「いいぞ、坊主、夢はでかく持たなくちゃあ!!」子供はにっこり笑いました。
1653年、いよいよ玉川上水の開削が始まり、羽村から四ッ谷まで、43キロに及ぶ大工事となりました。江戸時代の事ですから、ショベルカーも、ダンプカーもありません。鍬やモッコで、手作業でこつこつ掘ったのですが、なんとわずか8ヶ月で完成させてしまいました。当時の日本の測量や土木技術は、世界に誇る高い水準であったのです。江戸の四ッ谷に玉川からの水が開通しました時、江戸の市民は3日3晩、お祭り騒ぎで喜んだといいます。この様子を田無の人々もうらやましく見ておりましたが、それから40年ののち、ついに村びとの熱心な要望により、玉川上水から水を引くことが許されました。農作業のかたわら、みんなでこの水路を作る作業に参加し、水路は小平、田無、保谷をつらぬき、人々は水の恵みを手に入れました。

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さてここに、ひと組の親子が畑を耕しながら何やら話しをしておりました。少年のようなあどけなさを持つ息子が言うことには「お父、この村にも水車をつくろうや」「水車?そんなもんこの辺で作っている村はないぞ。やめとけ。まわりと違うことはやらない方がよい」「なんでさ、みんながやらないからやるんだ。誰か先陣をきる人がいなけりゃ、みんないつまでたっても貧乏暮らしじゃないか。水車ができれば米や麦を精白することができるし、粉にして売ることができる。儲かるぞ、お父」「儲かるだって?お前は商人か。わしらは百姓だぞ。こつこつ畑を耕していればそれでいいのだ」「そんなのいやだ。江戸の街をみてみなよ。活気があって、自由じゃないか。儲かっている商人には侍が頭を下げてお金を借りにくるじゃないか。おいらも金を儲けて、力をつけて、お侍からも一目置かれるような百姓になってみてえ」「う〜ん、まったく変わった子だなあ、おめえは」父親は手を休め、しばし息子の顔を眺めます。「富永…おめえには、死んでも消せないような夢や理想があるのか?」「あるんだよ、お父。おいら、自分でもどうしょうも無いくらい、夢や希望がからだの奥から湧いてくるんだ。」「しょうもないやつだ。そんならやってみろ。今までと違うことをやろうとすると、必ず非難や中傷がおこるだろうが、弱音を吐くなよ」青年は晴れやかな瞳でうなずきました。
この青年、名を下田半兵衛富永といいましたが、それから何年か後に、村の人を説いてまわり、何人かの人とお金を出しあって、ついに水車を建設いたしました。
水車の恵みにより、田無村はじょじょに豊かになりはじめ、下田家は村の名主として成長して行きます。

11
そんなある日のこと。「半兵衛さ〜ん、たいへんだ、あんた、保谷の村の百姓から訴えられちまったぜ」「なんだって」「田無の水車のおかげで、水が腐ったから、保谷の村の稲が実らなかったって訴えてるそうだ」「そんなことがあるものか」その頃はちょうど天明の飢饉といって、どの村の作物も不作だったのですが、水を巡っての小競り合いがあちこちで起こりました。しかし半兵衛はこれを教訓にし「要するに、自分の所だけ良くなっても、ダメだということなんだな」とつぶやきました。その後、飢饉や自然災害が続いて人々が困った時には、貯えていた大量の稗を全部無償で提供し、さらに村の人と相談して、貯蔵庫としての稗倉をたてて後々のための飢饉対策をたてたりしました。またそのころ江戸の商人達が米や麦を安く買いたたいて皆が困ったので、武蔵野の他の水車稼ぎ人たちと仲間組織を作り、みんなの力を合わせて問題を解決して行く事を身につけていきした。
1823年、一人の旅人が田無を通りかかります。半兵衛は大変喜んで、この旅人を自分の家へ連れていき篤くもてなします。すると数日後、半兵衛の家に、なぜかずらりと行列が出来ておりました。

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向うから、青白い顔をした子供を連れた人がやってきて、並んでいる人々に話しかけました。「このお宅にお医者さんがおられるって、本当ですか」「そうなんだよ、なんでも岡山のお城勤めをされていた、賀陽玄雪という偉いお医者様なんだそうな」「ああ、よかった、そんな立派な方に、一度この子を見てもらいたかったんです」「お前さんはこの村の人じゃないね」「はい、噂を聞いて、ここから丸一日歩いた村からやってきました」「そりゃあ御苦労なこった、さあ、さあ、列の前の方にお並びよ」みんなは親切に親子を前に入れてあげました。この頃は、とくに田舎には民間の医者というのは、ほとんどいなかったのであります。
一月程たった頃でしょうか、半兵衛はあらたまって賀陽玄雪に向かっていいました「先生、思いきってこの田無で開業してくださいませんか」「ええっ、田無で開業!?」賀陽先生びくりしてしまいました「いやあ、私は旅の途中でありまして…岡山に妻も子供も残してきていますし、岡山は私の故郷ですし…」「故郷ですか…先生、私は本当の心の故郷と言える村づくりを、この田無で実現してみたいものだと思っておりました。先生、一緒に心の故郷を作って下さいませんか。開業に必要な資金は、私がすべて寄付させていただきます。開業後の運転資金も私が御用立ていたします。」半兵衛の熱心な説得に賀陽玄雪は心を動かされます「半兵衛さん、貴方には参りましたなあ。わかりました。承知いたしましょう」半兵衛これを聞いてすっと立ち上がり、障子をあけますと、なんと、障子の向うの庭に村の人がズラッと座って控えておりました。「すみません、先生。村の者の気持ちを考えると、一歩も後へ引けなくて」半兵衛は少しテレながらも、嬉しそうに賀陽玄雪をふりかえりまた。

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さて、いろいろな業績のあった半兵衛富永ですが、彼は家督を自分の息子には譲らず、近隣の村から有望な人材を養子としてむかえ、これに家督を譲りました。名を富宅と申します。家督を譲られた半兵衛富宅は、先代の半兵衛のこころざしを深く理解し、先代が亡くなってすぐ次の年に村の人と相談して、養老畑というものを定めました。この制度は、今でいう老人福祉のはじまりで、自分が所有する畑の一部を村びとに提供して、そこからの収穫で得たお金を70才以上の老人に平等に配るというものでした。
この頃、ペリーが浦賀にやってきて、国の防衛のための献金が幕府から人々に要求されたり、アメリカをやヨーロッパ各国と貿易が始まったために、物資が不足し、物の値段があがるなど、人々の苦しみが増しました。それで半兵衛は、せめて肥料なりと安く手に入るよう工夫したり、養蚕をやったり、しょうゆづくりを始めたりと活躍しましたが、コレラの病が流行るなど、世の中はますます混乱して行きました。
国そのものが揺らぐ中、半兵衛富宅は、先代の富永の墓の前にうなだれます「おやじ様、私はいったい何をすればいいのでしょう。こんなに大きく、国そのものが混乱すると、もう私はどうしてよいかわかりません」答えをえられぬまま、半兵衛がしょんぼり歩いておりますと、いつぞや台風で木が倒されそのままになっていた森が目にとまりました。ふらふらとおぼつかない足取りで森の中に引き付けられ行きますと、そこにぼろぼろになったお宮がございました。

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半兵衛ははっといたしました「このお宮は、先祖がこの土地に来る時に、元いたところから大事に持ってきたものだと、おやじ様から聞いたことがあった。古い古いお宮だと言っておられた。いわばこの村の魂のふるさとじゃ。ああ、わしは商売やその他いろいろな用事が忙しくて、すっかり忘れていたぞ」 半兵衛の顔に赤みがさしてまいりました。ぼろぼろの拝殿にかけより、そっと扉をあけますと、「あっ」っと驚きました。中に不思議な光る子供がたっていたのです。子供はくるり後ろを向き、拝殿の奥に祭ってある小さな本殿の側に行って、そこですっと消えました。半兵衛が思わず本殿に近寄りますと、今まで誰も開けた事のない本殿の扉がひとりでに開いたのございます!そして、その中に、光り輝くなにものかがうずくまっていたかと思うと、半兵衛の見ているの前で、ゆっくり天に向かって昇ってゆきました。あまりの出来事に、何がおこったのかわからず、ただ呆然とたちすくむ半兵衛でした。
さて、どのくらい時間がたたでありましょう。
夜が白々と開け、とりの声が賑やかになってまいりました。
「親方」遠くで人の声がするようです。「親方!!」いいえ、声は耳もとで呼ばれていました。
嶋村俊表が目をさましますと、半兵衛が自分の顔を覗き込んでおりました。「ああ、夢を見ていたのか」と俊表は呟きました。

15
「風邪などお召しになりませんでしたか」と半兵衛がたずねます。「おお、へっちゃらさ。それよりちょっと聞きてえんだが、このお宮さんにはどんな神様がお祭りしてあるんだい」「はい、古くは水の神様だそうです」「う〜ん、そうかい。そんなら竜神さんがいてもおかしくねえな」「はい、なにか構想が浮かんでおいでですか?お宮でのお泊まりはいかがでした」「う〜ん、最高だったね」「それはようございました。朝食を用意してありますので、我が家の方へおいで下さいませ」「そいつはありがてえ、すっかり腹がへっちまった。」外に出ると、賀陽玄雪の子、玄順がにこにこして待ち構えております。さらにその向うに、ちょっと隠れながらも村の子供達が、興味一杯という顔つきで、ずらりと並んで、俊表を見つめております。半兵衛の家には、村びとが野菜などをかかげてやってきて、「これを俊表親方に差し上げて下さい」と入れ代わり立ち代わりやって参ります。江戸一の彫り物大工、嶋村俊表は、村の人の純朴な心を受け止めました。そして半兵衛にこうもうしました「半兵衛さん、こりゃあ、あっしの方があんたにお礼をいわにゃならんのかもしれないね」「え、どうしてです」「うん、まあ…生涯最高の仕事ができるかもしれねえってことよ」
俊表は頭から水をかぶり、身を浄めました。木材を良く調べ、じっと睨んでいたかと思うと、すざましい速さで仕事を始めました。風のような勢いでつぎつぎと形があらわれ、柱が彫られて行きます。
食事などはいつとったのかわからず、夜もいつ寝たかもわからない程、一心不乱で彫り続けました。
精魂をかたむけて、自分の持てる限りをつくして彫りました。
やがて田無神社本殿はできあがり、嶋村俊表最後の最高傑作となったのでございます。

         

16
本殿が完成した翌年に、半兵衛富宅は亡くなります。俊表も引退し、間もなく亡くなりました。
その後世の中は大きく変わり、とうとう江戸幕府は崩壊し、明治時代へと突入していきました。アメリカ、ヨーロッパの文化を急激に取り入れ、追い付き追い越せの勢いでやって参りましたが、世界中を巻き込んだ大きな二つの戦争に参戦し、そして敗戦となりました。戦後も持ち前のエネルギーで奇跡的といわれる復興を成し遂げましたが、世界中で自然破壊の危機が叫ばれはじめ、「地球が危ない」といわれる時代になりました。人々は自然破壊をもたらした物質文明に行き詰まり、古い時代の中に、今の時代を乗り越える知恵があるかもしれないと、見直すようになりました。そんな中で、この田無神社本殿も見直されることになったのです。
今日こんなふうにみなさんが集まっているのを見て、今頃、俊表さんや半兵衛さん、それらを守り育てた魂達が、あの世からこちらを眺めてニコニコしているかもしてません。私たちのいのちはみんな一つになって、とけあい、輝いて、未来へ向かって流れております。
生きていても、死んでいても、つらぬき通って流れる生命の光は、今ここにも、つらぬいて流れているのでございます。

あなたの街にも、過去の人々のすばらしい足跡がありませんか?

あったら、ぜひ教えて下さい

森生文乃あてメール