ゲスト:木下忠司(作曲家)/ききて(3/22,4/10):片山杜秀(評論家)
第一部――戦後の映画音楽について (トーク)
「青春牧場」 (『我が恋せし乙女』主題歌)
第二部――放送音楽と純音楽について (トーク)
『五つの歌曲』 |
2004年3月14日(日) 14:30開場/15:00開演 | 袋井市 月見の里学遊館 うさぎホール .0538-49-3400 (月見の里学遊館) |
---|---|
2004年3月22日(月) 18:30開場/19:00開演 | 仙台市 青年文化センター .022-265-2511 (仙台リビング新聞社) |
2004年4月10日(土) 18:30開場/19:00開演 | 上野 東京文化会館 小ホール .050-7511-8457 (オフィス小野寺) |
作品にとって一番大切なものは「思い」ではなかろうか。木下忠司作品に接していると、そう思えてくる。どんな最先端の作曲技法もいつかは古くなるし、いかなる最新鋭のコンピュータ音楽でも人の心を動かすことは容易ではない。 私は、仕事柄、さまざまな作曲家の作品に接してきたが、高い作曲技術と「思い」に裏打ちされた作品に出合うことは非常に稀だ。特にテキストを伴なう歌の分野では、詩人と作曲家のイメージというか、「思い」の落差に困惑してしまうことも少なくない。 そうした落差を最小限にとどめた例として、古賀政男作詞・作曲の《影を慕ひて》や《思ひ出の記》がある。同じように、木下忠司先生が作詞・作曲された歌も非常に純度が高い。詩曲が緊密だと、作品の根本にある「思い」もストレートに伝わるようだ。 ただし、当然ながら、すべての作曲家にこうした才能を求めることはできない。優れた管弦楽作曲家でも、歌曲となると勝手が違う場合がある。その点、木下先生はあたかも吟遊詩人の如き、非常に繊細な語感とピュアな音世界を併せ持っておられるため、どんなに前衛的な作曲技法を用いても、「思い」が空転することがない。これは、ずっと西洋音楽の後塵を拝してきたがゆえに、音楽理論に縛られ、作曲技法を競う傾向が強い我が国の作曲界にあって稀なことといえる。
さて、私が考える名歌の定義の一つに「詠み人知らず」のまま人口に膾炙した作品というのがある。古くはわらべうたや民謡などがこれに含まれると思うが、木下作品でも《ああ人生に涙あり》や《私だけの十字架》などは、曲名や作曲者名を知らずに口ずさんでいる人が多いのではなかろうか。私自身も、木下忠司作品と知る前からのファンだった。
8年前、私は木下忠司先生が出征前に出版された『五つの歌曲』の楽譜を頂戴した。それは木下惠介監督が保管されていた中の一冊だった。戦時下の紙不足の時代にも拘わらず、最高級の紙を使った楽譜には、吟味された装丁が施されていた。これこそが周囲の人々の青年作曲家への「思い」だったと知り、私は初めて戦争を身近なものとして感じた。 なお、映画音楽などでは、漫画の世界と同じように、アシスタントがつくのが普通だが、私は、作曲家が最終的に自分の名前で発表した音楽は個人の作品と考えてよいと思う。 |