「演」

「佐倉義民傳〜甚兵衛渡し場の段〜」より
 我が家へ戻る途中、印旙沼にさしかかった佐倉惣五郎は、渡し守甚兵衛の協力を得て無事に印旙沼を渡りきります。
 写真は惣五郎が甚兵衛のこぐ舟に乗って印旙沼を渡っていく場面です。
(撮影者:村津優麒彦氏)

「仮名手本忠臣蔵〜松の廊下の段〜」より
 吉良上野介にののしられ、浅野内匠頭は怒りのあまり江戸城中松の廊下で吉良に切りかかります。写真はその刃傷の場面です。
 抜刀し切りかかる浅野内匠頭(右)、切られてうずくまる吉良上野介(左)、あわてて浅野を止めに入る梶川与惣兵衛(中央)。
(撮影者:村津優麒彦氏)

車人形の家元である、前田益夫氏に竹間沢車人形について、お伺いしました。
  
Q:昭和46年に竹間沢車人形は復活しましたが、竹間沢車人形がどのようなものか御存知でしたか。
A:はい。話に聞いて知っていました。実際に車人形の道具についても見ていました。 昔、あれで遊んだものです。頭を脅かしに使ったり、車に乗ったりしてね。車人形の実際の演技については、父、信次とおじの近さんが心得ていました。
  
Q:車人形の道具についてお聞きしたいのですが、あれらは全て前田家の手作りですか。
A:はい、そうです。頭、手足は初代の左近と二代目の民部が作ったと聞いています。 人形の衣裳も同じく人形師が作りました。小道具に関しては、かんざしなどは専門の職人に頼んだため、全てが手作りというわけではないです。
  
Q:車人形の轆轤車についてお聞きしたいのですが、体格によって車の大きさは変わるのですか。
A:いえ、体格による差はなく、同じ規格サイズで作られています。ただ、昔のほうが小さいです。
  
Q: に車人形の伝来についてお聞きしたいのですが、ていさんの実家とは何かつながりがあったのですか。
A:ていさんの実家、薩摩家と前田家とは、古くから芸能関係のつながりがありました。 薩摩家から前田家に車人形が伝えられたように、薩摩家には前田家より神楽が伝えられました。
  
Q:前田家では車人形で弟子を取られたのですか。
A:いえ、弟子は取らず、あくまでも身内の中だけで行われました。
  
Q:弟子を取られなかったということですが、当時の公演は何人くらいで行われたのですか。
A:6〜7人くらいだったと思います。 人形を持ち替えたりして、役数を増やしていたようです。人形の持ち替えは、現在では照明が熱いために余りやりません。
  
Q:現在の公演についてお聞きしたいのですが、台本の書き換えはあるのですか。
A:時間調整のために行います。時間が限られている場合は、説経節の語りから、現在の人形劇に近い物語の形式に変わることもあります。
  
Q:時間調整と言われましたが、演劇の時間はどれくらいですか。
A:三番叟で10分、忠臣蔵の松の廊下で25分、佐倉義民傳、小栗判官で40分くらいです。
  
Q:現在、公演ではどのような物をやられますか。
A:大体、10分物とか、20分物とかです。 夕鶴等の新作もやりますが、人情ものをやったほうがお客さんの受けがいいですね。佐倉義民傳が人気の劇です。
  
Q:最後に後継者の育成について、お聞きしたいのですが。
A:車人形の操り方はどれも難しいもので、弓手を動かせるようになるまで2年かかります。 ですから、仕出し(端役)に出させて、自信をつけさせるようにしています。なお、家元の名跡を継ぐ候補者は娘です。

前田益夫氏近影
 お話を伺った前田益夫氏は三芳町立歴史民俗資料館の非常勤職員を勤められている方で、 かつ、車人形の4代目家元で、里神楽の太夫でもあるという多彩な人です。 性格は気さくで、取材中のこちら側の無理なお願いにも、気軽に応じてくれました。車人形について様々なお話をお聞かせいただきありがとうございました。

【制作】
平成10年度 学芸員実習生
三井田章吾
清水 秀樹






主な竹間沢車人形の演題について −追記(2007年10月12日現在)−
「三番叟」
「鏡山旧錦絵」 より「草履打ちの段」
「一の谷嫩軍記」 より「熊谷陣屋組討ちの段」
「小栗判官一代記」 より「親子対面矢取りの段」
「夕鶴」 一幕三場
「文七元結」(落語) より「大川端の段」「長兵衛の家」
「佐倉義民伝」 より「渡し場の段」「子別れの段」
「入相桜恋闇路」 より「日高川 渡し場の段」
「假名手本忠臣蔵」 より「三段目 殿中刃傷の段」「三段目 裏門 おかる勘平道行き」
「傾城阿波鳴門」 より「八段目 巡礼歌の段」
「常盤姫とさぎ草」(民話)
「壷坂霊験記」 より「沢市住家の場」「壷坂寺観音堂の場」「壷坂寺谷間御利益の場」
「三枚のお札」(民話)


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