鐙屋一 さん(目白大学教授)のお話

仁木ふみ子さんが「関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会」を立ち上げるに至った経緯から、2008年『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』を刊行するまでの歴史を振り返りながら、シンポジウムのタイトル「民衆と復興」に即して仁木先生のメッセージを読み解きました。たとえば 「《脱亜入欧をめざす日本の近代化がもたらしたアジア人蔑視は・・・多くの日本人を毒していた。民衆の狂気は、敵を示す流言を信じたからであり、竹やりを持って走り出した人々は普段はいい人たちである。しかし彼らは、容易に権力の作為に踊る“いい人”たちである。祭りで神輿を担ぐように、同一性の中に埋没し,陶酔する限り個人の責任は問われない。裏返せば“他と異なることの恐れとなり”それは大衆のものだけなく、隠蔽劇の主役たちも常に右へ習う習性をもっていた。結局声の大きいものが勝つ。ここに大きな国民教育の欠陥がある(91年ブックレット)。》 『復興』について、《この関東大震災を契機に軍隊は完全に復活した(93年『震災下の中国人虐殺』)》と仁木さんは指摘する。そして戒厳令、治安維持法公布、国内の総動員態勢を敷き、満州事変、日中戦争を経て太平洋戦争へ、戦争ができる体制へ向かった。背景に朝鮮の三一独立運動や中国の五四運動など反日運動が燃え上がっていた。そして労働問題が顕在化し、ロシア革命がおこって、コミンテルンの支部がアジア各地にもできていた。権力にとっては、それは恐怖であったろう。
3・11後ナショナリズムが高揚し、“がんばろうニッポン”というスローガン流布したが、きな臭さを感じないだろうか。2008年外交に関する調査では中国が嫌いという答えが8割を超え、韓国を嫌いとするものが6割に達している。今ネット上では若者たちが中国のことを“シナ”と表記している。原発再稼働の問題、隠蔽の問題も抱えて復興の問題を非常に見えにくくしている。政権が代わり、改憲論議が行われている。集団的自衛権の容認という動きもある。昨今は教育現場で行われている平和教育に対して上からの締め付けが厳しいという現実がある。時代が次第にきな臭くなっている。《現代の状況はあまりにもあの時と似ている》今から20年前の仁木先生の言葉である。
さらに『民衆』とは加害者であり被害者でもあるわれわれのことであるが、事件の生き証人である温州の老人たちが生きて帰れたのは民衆によってかくまわれたからだった。仁木先生は《彼らは自分を助けてくれた日本人と仲間を殺した日本人の二通りの民衆を知っている。そのことは、新たな発見であり慰めであった》と書いている。
もうひとつのメッセージを紹介したい。この史料集の約80ページ分は犠牲となった中国人の名簿であるように、過去を振り返る者はとかく犠牲者何千人とか歴史を抽象化しがちだが仁木先生は、《一人一人を歴史の中から立ち上げなければならない》と言っている。仮に700人の犠牲者という時、一足す一タス一…と700回繰り返さなければならないと。」
吉良芳恵 さん(日本女子大学教授) のお話

横浜開港資料館で70周年の展示の時、虐殺された中国人の名簿を展示した当時を振り返りつつ、今回さらに新たな資料が加えられ、横浜は優れて地道に多方面に研究を続けている証だと前置きして、朝鮮人と関東大震災の関係で3つの資料を紹介しながら資料の読み方・扱い方に注意を喚起しました。
「資料@ 佐久間権蔵の日記。 70周年の記念展示資料の一つ。佐久間は地域の名望家である。
9月3日鶴見署に保護されていた朝鮮人約200余人について、佐久間権蔵ら町の有力者が、大川署長に《いつ町の人々と衝突するかもしれないので、東京方面に送り出してほしい》と強要したが、大川署長は《温良なる弱者(朝鮮人)を保護するのは職責上当然》として拒否、押し問答の末、その日は暗くなってしまったので警察署の2階に保護し、翌日4日、大川署長は県庁へ出向いて相談し、《朝鮮人を退去させることに県の方も不賛成で、いずれ戒厳令(2日午後発せられた)がここにも施行されれば人心も落ち着くであろうからと熱誠を込めて語り、警察が全責任を持つとも言ったので町の人々は納得し、朝鮮人は警察署に保護され難を逃れることになった。》この日の佐久間の日記、通信が途絶えてしまって東京方面の状況が分からないまま朝鮮人を他へ移送することを求めていることが読み取れる。3日の日記の最後には《しかし果して朝(鮮)人が悪事をするかどうか確証はない》と流言への疑問を書き記している。実は9月3日8時15分、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から呉鎮守府副官宛の打電で各都道府県長官に宛てに、朝鮮人を取り締まるよう求める打電をしている。この情報が鶴見署まで届いていたのかどうか、地域と東京の政府・内務省との時間差に気を付けておかなければならない。
資料A 海軍省公文備考 大正12年(変災災害付属巻7)
横浜港に停泊中の崋山丸に(9/23)収容されていた朝鮮人のリスト。70周年の時、防衛庁は貸し出しに応じてくれたもの。収容月日、引き取り場所、本籍、震災当時の住所、本邦来住月日、職業、氏名、年齢、離収容記事。ほとんどが労働者、ただこれは鶴見署の2階に収容された人たちを含めさまざまなところから収容された人たちだとわかる。
資料B 横須賀鎮守府『大正12年 震災誌 前篇』昭和6(1931)年11月 横須賀地検が昭和6年満州事変の時に作っているもの。《震災直後不逞鮮人に関する流言蜚語は・・その虚伝なることを確かめ朝鮮人保護のため、これを一団として不入斗(いりやまず)−三浦半島にある−練兵場に収容》したこと。それらの朝鮮人133名を海軍機関学校及び海兵団焼け跡整理のため有給で使役したこと、彼らは保護に感謝満足し、朝鮮に帰る際100余名は謝意を表し、賞与金全部(約百円)を拠出して横須賀市復興会に寄贈した、など収容された後の朝鮮人の消息を伝えている。」
3つの資料を読み解きながら、資料の伝える時間、地域など慎重に検討する必要があることを強調されました。
G さん(元横浜市立中学校教員)のお話

横浜には4つの小学校の作文が残っているが南吉田第2小学校(5,6年生96人)、寿小学校(65人)、石川小学校(高等科2年1クラス33人)の作文リストとそのうちの14人の作文を紹介しながらのお話でしたが、スペースの関係で作文を紹介できないのが残念です。
「今回展示されていない石川小学校の作文は8割の子供が流言や自警団に触れている。この作文集のどこを開いても、自警団や虐殺に出会うことになるので回覧する。3つの小学校の学区は現在の市の中心部、埋め地にあり、子どもたちは丘陵地帯に避難した。家屋の大半が焼失した地域で警察署も被害を受け機能していない。警察資料は朝鮮人を保護したことを特に書くけれど、朝鮮人がどこでどのように殺されていったかについては全く記述がない。この作文ではいつどこで誰がどのように、ということが見えてくる。
まず<朝鮮人騒ぎ>への恐怖、その中で警察官が流言を肯定し触れ回っている姿はあってもデマを否定したり自警団の暴行を制止したりしたことは出てこない。一方軍隊も2日夕方海軍陸戦隊が山下に上陸して武装巡回しているが、この陸戦隊報告でも流言を肯定し、市民が殺害していることも書きながら、朝鮮人保護に動いた様子はない。
また避難先で子どもたちは暴行の現場を目撃し、一緒に暴行に加わったりもしている。
中には、暴行されている朝鮮人が顔をあげながら筆談するための書くものをくれと手まねしたことを書き留めているものもある。被害者は労働のために来日して1,2年の人が多く、日本語がしゃべれない出稼ぎ労働者だが、この人は漢文が書ける教養人だとわかる。
朝鮮人殺害への疑問 700人くらいの作文の中で、一人だけ《私は朝鮮人がいくら悪いことをしたというが、なんだか信じようと思っても信じることはできなかった。その日警察の庭でうめいていた人は、今どこにいるのであろうか》と朝鮮人殺害に疑問を書いている。
最も大きな被害を受けた地域の子供たちがこの避難先の平楽の丘で朝鮮人に対する暴行虐殺を目撃し、民族的迫害を実感を持って伝えている。作文の中に朝鮮人暴動の事実はなく、それがデマであったとわかる。
生徒とともに学ぶ
震災学習で大切なのは、なぜ人々は朝鮮人暴動の流言を信じてしまったのか、信じたことが暴行や虐殺にまで憎しみが高まったのはなぜか、止めようとした動きはあったのかなかったのか、治安を守り正しい情報を伝えるべき警察や軍隊はどういう行動をとっていたのか、そういう当たり前の大切な問いかけが子どもの作文から迫ってくる。
授業を組み立てるときのよりどころは二つある。(1)は横浜市の教育委員会の『在日外国人教育の基本方針』・・・横浜市では関東大震災の時の朝鮮人虐殺を直視しなければならないとある。(2)は2008年『中央防災会議1923関東大震災第2編』で1960年代からの研究成果によって以下のような教訓が書いてある。
@歴史の反省と民族差別 これをきちんと理解しなければならない。そうしなければ繰り返してしまう。
Aいつの時代もマイノリティはいる。彼らは災害弱者である。関東大震災のときは朝鮮人・中国人は災害弱者だったのだ。その人たちを怖いと思い、何をするかわからないとみなして、武器を持っていない朝鮮人を武器を持った日本人あるいは治安の責任を持つ警察や軍が殺していった、というのはいかに偏見や差別が深くその流言を信じ込ませ、広げたかということ。
B災害時は必ず流言が起こる、それへの備えが必要、どうやって打ち消していくのかが学習の課題として挙がってくる。
最後に
当時の子供たちが、あの流言や迫害が何を意味するのかを教えられないで、3か月6か月後の作文に朝鮮人は怖いという気持ちのままで書いている。事件は隠されてきたが歴史の真実が今やっと明らかにされつつある。これをきちんと伝えていくことが大切だと思う。
学校でも必ずしも自由にできなかったり、いろいろな手かせ足かせがあったり、圧力が加わったりするので 市民とともに圧力を跳ね返していきたい。
横浜は、90年前は本当にひどい状態だった。震災の翌年から宝生寺で毎年欠かさず朝鮮人の追悼会がおこなわれている。始めたのは李誠七さんという朝鮮人で、彼は9月2日は朝鮮人にとってとても悲しい日でしたと述べている。この悲しい日を二度と繰り返してはいけない、横浜を排外の嵐の吹き去った荒れた横浜からもう一度、多くの民族がともに生きることができる社会に変えていかなきゃいけないと思っている。」
王 さん(在日中国人研究者)のお話

「私が日本語を学んで日本と交流を始めたのが1972年、中日国交回復の年だった。中学校卒業後黒竜江省の方へ行き、そこで初めて日本人の残した要塞だとか鉄道の痕だとかを見た。それまでは日本軍が中国で犯した罪についての詳細を知らなかった。大学に勤めて、そこへ仁木先生が赴任して来られて、一緒に資料を調べたりした。
上海で事件を伝える新聞記事に出会った先生から相談を受け、現場を見せてほしいと先生が書いた手紙を私が翻訳し、温州市政府に出しました。1回2回3回出してもナシの礫だった。 そこで歴史研究者を通じて、このことを調べたいという気持ちを事細かく長い手紙を書いたところ温州市政治協商委員会副主任の張致光さんたちから、一回来て見に来てくださいという返事がきた。行ってみると80年代の初めですから当事者や当事者の親戚がまだ存命中で、山奥の老人は≪体の動けない老人から、日本人あるいは天皇の赤子が来たら一発殴ってきてくれと頼まれてきました≫といった。あの時の恨みがずっと80年代まで残っていた。そういうものを一つ一つほぐしていかないと日中友好なんてものはあり得ない。仁木先生はそういう努力を70年代から亡くなるまでずっと続けてきた。
私は日本に来てもう30年近くになるが、つくづく感じるのは恨みだとか怨恨だとかいうよりも、双方に誤解の方がもっと大きいのじゃないかということ。
去る7月末中国の湖南省の『中国現代文学学会』に参加した。そのタイトルは『戦争と平和』で、私は『日本の戦争と平和の文学』について報告を頼まれたので話した。日本のことをあまり分からない中国人たちは“日本は反省のない民族だ”と思っている。私は報告のタイトルで“日本は反省している”とはっきり出した。しかし何を反省しているか、どのように反省しているか、反省する立場や内容が被害者に届いていない。いくら反省していても、向こうからはやはり反省していないと見られてしまう。誤解を解くにはどうしたらよいか、そのことに仁木先生は生涯をかけて実践してきた。
先生は大正末、昭和の初めに生まれた人で、戦争の被害を受けているはずだがそれについて全く触れていない。完全に相手がどんな被害を受けたか、どう考えたか、そのことにのみに集中してきた。しかし日本社会では8月15日終戦記念日の様子や、他のもろもろの記念日のことを見ると、大体被害が前面に出ている。加害のことはあまり触れていないし触れようとしない。このことが間もなく70年となる戦後の、一番大きな問題だと思う。
長崎・広島の被爆があり、それは核戦争という重大な問題ではあるが、一方では1874年や1894年からの一環として捉えないとおそらく周りの国からは理解を得られない。今年アメリカの誰かが平和記念式典に参加したが、意地の悪い新聞では“原爆廃止に賛成しないのは中国だけだ”と書いた。何も中国政府が原爆を容認するとか核戦争を擁護するということではない。なぜ広島、長崎だけなのか、ということでみなさんとは同じ立場で記念することはできないのだ。したがって平和時に起きたこの関東大震災の外国人(中国人韓国人)大虐殺、をどう総括するかが大事だ。特に一般民衆のパニック時の行動について、日本にいる外国人の間では、まもなく来ると予想される大地震を考えると非常にと落ち着かない。90年前の例があるからだ。
『復興』の話も、どうしたら復興できるのか、日本人自身の努力は必要であるが、内に閉じこもるのではなく、もっとアジアの流れをつかんで初めて、東北震災も含め復興できるのではないかと考える。情報をコントロールする、情報を遮断するのはいつの時代のどこの政府もやっている。だからこそ民衆はそういった局面に立ち向かって、お互い信頼し合って共に行動していかなければおそらく復興は望めない。いろんな復興があるが隣人と和解し、今の世界の流れ、アジアの流れに乗って、初めて復興できると思う。どうやってその流れをつかめるか、どうやって隣人と和解するか、それが非常に大きなテーマだ。
最後に、70周年の時は山手教会で大きな看板や大きな垂れ幕を出してやった。80周年、90周年と連続して開催し、今回横浜開港資料館で開催したのは意義のあるところとはいえ、年を重ね、回数を重ねて社会的に受け入れられていかなければまずいと思う。」
会場発言 H さん

神戸在住の在日中国人2世です。みなさんが行ってきた活動に敬意を表します。父は震災の時横浜にいて、100人近い中国人とともに警察に保護を要求して2,3日警察署で過ごしたそうです。90年前のあの惨劇は日本帝国主義の原型となり、南京虐殺に至るのです。現在、神戸の南京街でもヘイトスピーチが行われています。あの時と変わっていないのです。あの惨劇を繰り返してはなりません。
花岡事件のあった大館では加害の側に立たされた人々が、毎年事件のあった6月30日を「平和の日」として慰霊祭を続けています。この姿が日本中に日中の中にもっともっと入っていかないだろうかと思います。
私はこの中国人虐殺を二度と起こさないために、在日中国人と日本人によって記録を残していきたいと考えています。大島町に地元の人々のご理解も得ながら記念碑を建てて残したいと思っています。9月8日には遺族を招いて追悼集会を行いますのでおいでください。
最後にコディネーターの I 世話人が、このシンポジウムは平和教育研究交流会議の総集編として行ったこと、それぞれの立場から非常に貴重なご発言をいただいたので、私たちの課題、弱点をどう克服していくか、歴史の教訓をどう生かしていくかをそれぞれ覚悟を決めてお帰りいただければ、本日の会議が意義あったと締めくくりました。
最後に事務局からJが閉会挨拶を行い、今回の平和研を開催するにあったって横浜開港資料館に様々な便宜を図っていただいたことに感謝し、第16回平和研の終了を以って「中国・山地の人々と交流する会」の活動も終了することをご報告しました(詳細は後述)。
翌25日(日)は午前中に横浜市史資料室調査研究員松本洋幸氏のご案内で震災遺構を見学するフィールドワークもおこないました。

参加者感想 後日寄せられた感想の一部をご紹介します。
若いころ仁木先生に出会い、大きな影響を受けました。今回の集会で今井先生はじめ各先生方の濃いお話と資料に感動しました。 唯一の不満は、横浜開港資料館の展示と冊子。なぜここでも関東大震災時の朝鮮人・中国人“虐殺”の事実が消されているのでしょうか?・・・主催者の今回の集会にもご苦労があったと思うと、闘いの困難が予想されますが、仁木ふみ子さんのメッセージをかみしめて、粘り強くありたいものです。(東京都 Mさん)