森康行監督、映画「かすかなる光へ」(ひとなるグループ制作・著作、84分)を鑑賞後、お話を聞きました。

私に関係のある映画をご覧くださり恐縮に存じます。ありがとうございます。この映画は大田堯が登場いたしますが、これは監督が作った大田堯で、私の自伝ではありません。一人の老いたる研究者が今この状態のこの社会とこの世界に対してどういう夢を持っているのか、夢の中身を表現するのがこの映画の目標です。
その夢の中身は何か。この映画の一番の鍵になる概念は“いのち”、命を一番大事にしなきゃならない、モノ・カネじゃないよということ。“いのち”は平和に直結しています。“いのち”の観点から平和を考えるという意味でこの会議に一つの問題提起になるのではないかと思ってまいりました。
平和と人権はコインの表裏をなしている
生きるという、生きている生命というのは、我々今この場合は人間ですから、人間の“いのち”を大事にする、人間の尊厳―法律的に言えば基本的人権ということでもあるわけです―を大事にするということです。人間の尊厳、基本的人権とひとまとめに言われている“いのち”というものを生物学的に“いのち”の特徴から解きほぐしていくことがこの映画の目標なのです。“いのち”は「違うこと」「自ら変わるとこと」そして「かかわりあうこと」という、抜き差しならない事実です。“いのち”はそれによって組み立てられているのです。“いのち”を中心に、大事にしあうことが平和の中身にほかならないということなのです。そういうところをこの映画は主張しておるのです。
現在の世界の社会状況の中での人間の“いのち”はどういう状態にあるか、それは人間がつくり出したお金―人間が発明した大したものですが―、そしてさまざまな高度な機械、この人間が生み出した偉大な発明であり産物であるモノとカネに逆に振り回されている結果が3・11などに表れてくるわけですが、現在の社会状況、世界の状況がそういう状況になっています。これは富める国も貧しい国もあるにもかかわらず、全部を包んでいるのはモノ・カネ優先の社会になっているとみていいわけでして、その中で“いのち”を大事にしようとするのは他の生物を含んでいると考えていただくと、現在の地球に住んでいる人類の責任である、と提案するものでもあると私は考えているのです。
3・11前にできた映画ですが、3・11を経ても世界のどこで起きても不思議はない、−不幸にして私どもの身近なところで起きてしまったが―そういう社会状況地域状況にあるのだから、そういうものも含んでこの映画は考えてきたということです。
これが第一の点です。平和というものを、“いのち”を大事にすることを軸に考える。何か駆け引きで戦争をしなくするとかそういう問題ではないんです。根本は“いのち”から考えていく。人権と平和はコインの表裏をなしていると考えてほしいので、政治の問題や経済の問題に簡単に替えないでください。“いのち”という根本問題で人権と平和は表裏の関係になっているのです。なんとか“いのち”の絆をつくる、セイフティネットをつくっていく、このモノ・カネ支配の社会の中に“いのち”と “いのち”との関わり、連帯をつくることを小さいことでもいいから、かすかな光かもしれないが目当てにしていこうということなのです。
この映画は“反”教育映画
次に、ここで別の問題を出します。僕は教育の研究者ということになっています。それでこの映画を見られる方で、私をよく御存じの方は特にこの映画は教育映画だとお考えになる向きが多いんですが、実は教育映画ではありません。この映画はむしろ“反”教育映画であるとお考えいただきたい。今の権力が持っている教育に対する考え方とそれに同調する一般人民の通念が今の現実を支えていると私は思うから、そういう通念というものを本当に“いのち”の観点からひっくり返していこう、命を一番大事にする教育の観念とはどういうものなのか、それをお互いに分かち合っていこうじゃないかと訴えるのが、この映画の構想の中にもあるわけで、権力が考えるような教育、一般の人に信じ込ませたように思っている教育の観念を、いかに“いのち”の関係から突き破っていくか、裏返していくか、そういう意味で“反”教育映画だということを考えていただきたいのです。
昨年の10月19日、私は韓国へ行く決心をしました。それはどういうことか。1985年私は日本教育学会の会長になったのですが、その時に真っ先にお詫びを言いに行かなければならないのは朝鮮半島だと思った。ところが当時の朝鮮半島は38度線で区切られていまして、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)と南韓国(大韓民国)にわかれていました。一方のビザを取ると他方のビザがとれないという状態でしたからあきらめたんです。
で、それはいくらか和らいだと思ったんですが、南の韓国ではいわゆる独裁政権の時代が続くものですからとてもじゃないが近づけない、ということだったのです。何とか南北の関係の中に軽い関係でも開かれればいいなあというのが私の願いだったのですが、私の生きているうちに、あれが結び付く可能性はない、それなら半分でもいいから生きているうちに行って詫びて来ようと決心をしました。朝鮮を研究なさっている若手の先生にこれを申しましたら、背負ってでも連れて行きますと言われましたので、―背負われはしませんでしたが―ソウル大学へ行って日本研究室で講演をし、その時お土産としてこの映画を上映しましたし、向こうと意見交換をやりました。もう一つ別の有機農業をやっている広大な地域へ出かけていきましたが、その前に独立運動で殉死した人々の墓参りをしてお詫びを言うこともやりました。戦後の若い方はなんで今頃詫びるの?と思われると思うけれど、私は28歳まで帝国臣民―臣民という言葉も通じにくくなっているが―だったわけであります。だから戦争というもの対する責任というものを痛感しているわけですね。
何を詫びるのか
謝罪の内容が大事なのです。何を詫びるのか、ただ悪かったでは済まない、じゃその中身は何なのかというこということをちょっと申し上げたい。
朝鮮半島全体は日本帝国の植民地だった。これが中国との違いで、中国は租界形式だったんですからちょっと風潮が違います。朝鮮半島は全部植民地だった。植民地というのはどういうところかということに私は関心があったわけです。さかのぼって1956年に私はイギリスに最初に留学するんですが、まだロンドンに飛行機が行かないので、しかもスエズ運河が戦争で通れないから、南アフリカを回って33日かかってリバプールへ上陸し、ロンドンへ行って大学へとなるような時代です。途中で植民地へ船が寄るんですよ。香港、シンガポール、それから南ア連邦のダーバン―フットボール世界選手権の会場になった大都市です―そこで初めて植民地というものを見た。それが砂漠の中にロンドンを置いたような場所、そこには白人が住んでおるんです。その周りをその都市に出入りして下働きをする黒人の、貧しい住宅が囲んでいるという状態だった。これは典型的なヨーロッパの植民地の姿。公園に降りていきますと公園のベンチにwhite only(白人だけしか座れない)と書いてある、トイレもそうです。2階建てのバスの上と下も、これもまた別であると、何から何まではっきりと区別をしている、はあ、これがイギリスの植民地なのか、よくわかったですよ。はっきりしてますよね差別が。
さて韓国という国の植民地の状態はどうだったか。もちろん差別はあった。日本人と朝鮮人の間に差別はあった、西欧並みに近い差別はあったことは間違いない。しかしそれに加え創氏改名といって全部日本名を名乗らかければならない、つまり日本人になれということなんです。日本人にならなきゃならないだけでなく、皇室を尊敬し、神社を尊敬し、さらに都会の名前まで日本流に変えてしまい、全部日本流に同化せよという、いわばただ単に合理的な差別じゃなくて、目に見える差別じゃなくて、人間の内面精神、魂を抜き取って日本人になれというのが、朝鮮に対する植民政策の中心だった。これは恨みを深く残すんですよ、単純な差別、目に見える差別、じゃなくて、自分たちと同じようになれと魂を奪うんですよね。この恨みは世世代代につながるものなのだから私どもの世代は謝るだけでは済まなくて、これは長い時間がかかるからお互いにその点について努力をしなければなりません、ということをお話の中に挟んでいったのです。そういう怨念の深さというものが、ほかの西欧の植民地と違うのですよ。これは我々はっきり認識しておかなければならないことだと思うんです。
権力に同化を求める「教育」今も
しかしもっと大事なことは、そういう日本人になれと魂を引き抜くようなことをしてそういう状況に置いた朝鮮半島に対して、我々人民はどうであったかというと、天皇の言うとおりになれと、教育勅語の精神に同化せよというふうに、朝鮮の植民地化政策とほとんど同じことを要求されたんですよ、つまり教育の名において権力に同化を求められる、同感ではないんですよ,同感ならいいんですよ、お互いに響きあうんですから、しかし同化というのはこっちのほうに画一的に変われという、極めて画一的な魂の統制ですよね。これが、法律となって表れて、ちょっと別のところで天皇をけなすようなことを言うと警察に連れて行かれ、獄中に入れられるというような状況の中に我々は置かれていたわけです。ほとんど同じようなことが日本人民に対して行われていたということを認識することも大事なんです。
ところで、同化政策という朝鮮半島での施策というものは、実はわれわれ人民に対しても同化を求めるということが行われた教育というものに、長く私どもは浸りこんでおりましたから、敗戦後民主憲法なるものが生まれて、民主的な議員を選出する制度は外見上はできても、教育の考え方はほとんど変わらない。依然として権威あるもの、国益に合うような考えに同化を求める教育の観念にみんなが支配されている状況にあると考えることができるわけであります。つまり、この映画は教育映画ではないと申し上げたのは、植民政策で朝鮮人に行っているのと同じような教育の観念が日本人の頭の中に戦争が終わってもまだずーっとそのまま残っているということなのです。
その証拠はいくらでもあげられるんです。これは教育基本法の改定の時、はっきり現れたわけです。教育基本法は戦争直後に生まれました。それは憲法の精神を前文に全面的に入れ、それに基いて政府というものはどういうことをしなくてはいけないかということを決めている法律だったのですよ。それが2006年でした、安倍内閣の下での改定が行われ,前文が全部消されたということではないのですけれど、愛国心だとか、郷土を愛せなどという特別な価値観を入れてきました。本当は憲法違反なのです。なんで元の教育基本法の中に憲法の精神が長々と謳われたかというと、教育勅語とは違うんだということを知らせるために前文がついただけの話なんです。あれは「教育根本法」ではなくて「教育条件整備根本法」だったんです、本質は。だから前の教育基本法の一番最後の締めくくりは、政府というものは条件整備に一生懸命努力しなさいと、内面への立ち入り禁止をちゃんと示していた。それをぬけぬけと愛国心だの郷土愛だのという内面支配、同化を求めるという教育基本法に変えたので、橋下が現れたり、東京都知事の発言があったりしても、あれだけ教育に対してひどいことを言ってて、なにか5つの理念を押し付けると言っているんですよ、教育勅語まがいの理念を押し付けるなんて言っているんですよ、それがちゃんと市長に当選するんですから、いかに教育に対する観念というものが過去の尾を引いているかということがわかるんじゃないですか。
ユニークな設計図を大事にする演出家が教師
だから何とかして教育というものが持っている、上から人を同化するという考え方をひっくり返して、そうじゃなくて一人ひとりの子供がユニークな設計図を持ってる ―設計図といってもこり固まった人間の設計図じゃないんです。そとから情報を取り入れてその情報によって設計図を変えていくという極めてダイナミックな設計図なんです。しかもその子その子にユニークな設計図があるんです。みんなそれぞれ違うんです。― それに対して同化を求めるというのは生物学原理に反するじゃないですか。一人ひとりのユニークさを大事にしていくという教育の在り方というものがあってこそこれは本当の教育であります。一人ひとりの子が持っているユニークな自己を作っていく設計図というものに目を注いでその子どもたちの能力が伸びていくように、環境を整備したり教材を用意したり、そういう風にやっていく演出家が教師なんです。そういう演出、プロデュースというアート・芸術。プロデューサーはアーティストでしょ? かけがえのないユニークな生命力が花開いていく環境整備をすると同時に必要な情報を提供してあげる、そういうアーティストが教師なんであり親なんであり世間である、世間全体が子供の世話をするというのが筋なんであるという方向へ理解を求めようというのがあの映画の企てだとお考えいただければと思います。
最後に出てくる重い障碍者、あれは全部養護学校などを卒業した後の障碍者です。障碍者の方たちの状態がみな違っているでしょう、その違っている状態の好きなことを励ましてあげるわけですよね。好きなことを励ましてできてくる作品というものは素晴らしいものができることがあるわけですよ、今度東京都美術館で全員の作品を展示しますのでご覧いただきたいと思うんです。それを一人一人の人間がみんな違った設計図を持って成長するのを好きなことで励ましていって出番を持たせる、社会的な貢献をする。自分の持ち味で社会的な貢献をすればどんなに障碍が重くても、どんなに職業が一見貧しい職業であっても、自分が快く自分の持ち味を発揮できる場所で自分の設計図を展開する、これを助けていくのが社会全体の責任であり、親や教師の責任だということになるのだと私は思います。そういう教育というものが展開すれば、おそらくこの社会は“いのち”と“いのち”がお互いに響きあっていくという、そういう社会の基になるような根っこが本当の意味の学習と教育によって培われるようになるのではないか、というふうに私は考えたわけです。
かすかな光を求めて
最後でございます。ここは平和教育研究交流会議ですが、平和とは最初に申し上げましたように命を守ることが第一義的なんです。それには“いのち”というものについて分かり合うことが必要なんです。ただ経済原理や政治原理だけで平和を考えるのではなく、私どもの“いのち”と“いのち”の日ごろの付き合い方の中で培われていくものでありまして、ユネスコ憲章にありますように「戦争は心の中におこるものであるから、心の中に平和の砦を作らなければなりません」と謳っているじゃあありませんか。平和っていうのは心の中から始まるんですから、小さなサークルでもいいから、そこで響きあいながら心というものが生命第一義の空間というもので交わりあっていくようものが方々に出てくるならば、おそらく未来をひらく光になるのではないか、「かすかな光」というのはこの映画の題ですが、確かに現状からいえばかすかな光に違いありません、でもね、そういう光が見えれば一歩でも近づくという希望ができるということじゃないですか、一歩でも夢を実現する方向へ歩みを進めるということを励ましあうような仲間をたくさんつくっていくということはとてもとても大事な未来を拓く鍵になるに違いないと心に思う次第でございます。
平和の会議の内容にちなんで、あの映画に結び付けてお話申し上げた次第でございます。ご静聴ありがとうございました。
(文責はJにあります)