
昨年末、先生は友人に誘われて宮崎県の飫肥を訪ねた際、小村寿太郎記念館で小村家の系図に出会い、小村俊三郎(関東大震災のとき中国人虐殺の隠蔽に反対した)は寿太郎の再従弟であることがわかりました。関東大震災から今年は85年という節目の年、系図に見える人物たちを通して日中関係の余り知られていない面のお話をしてくださいました。当日先生が資料として配布された系図を簡略化して別に示します。牧野家の系図も。(牧野伸顕は大久保利通の次男で牧野家に養子に行き、のち外務大臣、宮内大臣として天皇の側近であった人。)
はじめにご自身の前半生を時代背景の解説とともにお話しくださいました。
1924(大正13)年2月、群馬県前橋市のお生まれで前橋中学(現前橋高校)出身で、生家は製糸・絹織物業を営んでいました。小学校2年生のとき満州事変、中学2年では日中戦争、高校2年では太平洋戦争と学年の進行とともに戦線が拡大した世代。あと3ヶ月早く生まれていれば出陣学徒になるところでした。1945年1月陸軍経理部特別甲種幹部候補生入隊し、9月復員だったため、「戦地にも行かず、空襲で家は焼けたが、戦争による被害も苦しみもさほどでなかった」とのこと。戦後は早い時期に『西園寺公と政局』(1950年刊)の編纂にあたり、戦争中の秘録を公開し、政治史研究者として出発しました。以下は当日のレジメに沿ってお話の要旨です。

@日露戦時の小村寿太郎、同俊三郎、井戸川辰三、張作霖、宇都宮太郎、伊集院彦吉
今回の日南市飫肥訪問は昨年末岩波書店から刊行された『日本陸軍とアジア政策―陸軍大将宇都宮太郎日記』編者の企画で、井戸川辰三中将(宇都宮の後輩で彼に信頼されていた)の郷里を訪ねるというものだった。井戸川家の後、飫肥城大手門前の小村寿太郎の生家と記念館を訪ねたところ、「花(ホア)大人を囲む満州義軍勇士座談会」という雑誌記事を見せられた。中国人をまきこみながらロシアの背後をかく乱する活動をした満州義軍を組織する窓口は井戸川辰三大尉(当時)で、彼が新民屯の軍政署長のとき処刑されるべきところを助けてやったのが張作霖。一方北京公使館付通訳官だった小村俊三郎(寿太郎の再従弟)はこの満州義軍への参集を呼びかける「東三省士民に檄するの文」を書いている。宇都宮はロンドンにいて(公使館付武官)、ロシアを困らせるためにロシアの革命運動を支援していた。日露戦争が終わると彼は勲章「功三級章」をもらっている。いかに陸軍が謀略工作を重視したかを示すものといえる。持久戦に耐える国力の無い日本はロシア革命と日本海海戦の勝利を好機としてアメリカルーズベルト大統領の斡旋で何とかポーツマスで講和条約を結び、満蒙のロシア権益を譲り受けることができた。
A日清北京会議での小村と袁世凱、清国軍の対日協力と吉野作造の批評
ポーツマス講和条約では、国民は賠償金のない事を不満として日比谷焼き討ち事件を起こしたが、小村寿太郎は南満州を日本の勢力圏とするため、病身を押して北京に赴き、満州に残る軍事力を背景に、清国政府の実力者・袁世凱に圧力をかけた。天津総領事の伊集院彦吉は袁世凱と親しく日露戦争に際しては日本への協力を取り付けていたが、駐清公使の内田康哉への 私信では北京へ乗り込んできた小村について「ポーツマスの埋め合わせを清でするやの感」と書いている。袁世凱は日露戦争中秘密裏に日本を支援したことから、小村の要求に抵抗するが、結局南満州鉄道に守備隊を置くことや満鉄の平行線を設置しないなどの密約を結ぶことになった。このときの秘密協定・付属取極め(会議録)がその後の満州問題に関する日清交渉の基礎になった。日露戦争後、袁世凱の長男の家庭教師であった吉野作造も“もともと袁は排日主義者だった。日露戦争中は日本に多大の便宜を図ったことは誰でも知っている事実だったが、北京会議以降この関係は続かなかった”と書いている。国際的な協力の中で遂行することができた日露戦争だったが、戦勝後は軍事的圧力で中国に対して様々な要求を押し付けていくことになった。
B第1次大戦・ロシア革命に乗じての権益拡大、反日民族運動と日本の軍閥利用
袁世凱はその後、辛亥革命の成果を簒奪して中華民国大総統となったが、日本は反日の袁世凱を攻撃し、南方出身者の多い革命派を支援して、東北の満蒙の分離を期待していた。民衆は袁および中国への強硬姿勢を求め伊集院公使の帰国を出迎えた阿部守太郎外務省政務局長を暗殺するという事件がおきた。背後にいた右翼の大物は17歳の実行犯を自決させてけりをつけるということをやっている。自決は松本亭の松本フミが立会い聞き書きを残している。第一次世界大戦が起こると21か条の要求を袁世凱政府に突きつけ、旅順・大連、南満州鉄道の租借期間を99年間、ほぼ半永久的なものとした。ロシア革命によってソヴィエトが生まれると、段祺瑞政権に圧力を加えて北満州への利権の拡大を図った。これに対して中国人留学生の間に激しい反対運動が起こるが、王希天もその中の一人だった。(今回出版された『関東大震災下の中国人虐殺事件資料集』には1節を割いてある)
C関東大震災時の中国人虐殺事件と読売新聞小村俊三郎の真相究明要求
読売新聞外報部長だった小村俊三郎が朝日新聞の河野恒吉、牧師の丸山伝太郎とともに実情調査を行い、 1923年11月7日の社説「支那人惨害事件」で隠蔽された事実を明らかにするとともに、司法による責任の究明と中国政府および国民に謝罪すべきだと書いて発禁となり、読売新聞はこの部分を白紙のまま発行した。小村は「支那人被害の実情踏査報告書」を1924年1月当時の松井外相に出している。政府が動かないので小村はこんなことでは日本の信頼が落ちてしまうと、牧野宮内大臣に働きかけ、牧野は義弟である伊集院彦吉(当時は第2次山本権兵衛内閣外務大臣)に訪ねたところ、既に甘粕事件(大杉栄殺害)で山本内閣は打撃を受けているのでこの事件を表ざたにすると内閣が持たない、勘弁してほしいと答えた。ではどうするかと牧野や小村が相談しているうちに、虎の門事件(摂政狙撃事件)で山本内閣は総辞職。中国人虐殺事件はそのままになってしまった。
D新外交の開始と佐分利貞男・小村俊三郎
日露戦争後、小村が北京に乗り込み軍事力を背景に満州の権益を袁世凱に認めさせたやり方は旧外交といわれる。議会に全くタッチさせない秘密外交と帝国主義国家間の外交で植民地を拡大していくというものだった。第一次世界大戦の頃から、特にロシア革命後レーニンが無併合・無賠償・即時講和を掲げ帝政ロシアの秘密条約を公開したことをきっかけとして、アメリカのウィルソン大統領が自由貿易と民族自決を掲げた14か条声明をだしたことが新外交(外交を民主化し議会によって統制しようとするもの)への流れを作った。秘密条約をどこまで公開するかは現在なお大きな問題であるが、先の小村と清(袁世凱)との秘密外交の記録は戦後、栗原健、臼井勝美両氏の、できるだけ公開するという姿勢によって全面的に明らかにされた。
ここでもう一つ問題になるのは、久野収が「顕教と密教」という言葉で説明している、統治するものと国民大衆の意識とのズレ。天皇機関説というのは少数の指導者の間では了解していたことだったが、一般大衆は天皇中心の政治のことしか教わっていない。日露戦争で言えば、一般大衆は日本人の多大な犠牲者の血で満州を獲得したと思わされているが、指導部は国際的な協力で持って何とか戦争を有利に終わらせることができたことを知っている。
小村俊三郎と佐分利貞男(寿太郎の女婿)は新外交に切り替えるために努力した。小村寿太郎の長男小村欣一も外務省の情報部長になった人だが文化人外交官として知られ、新外交に努力したひとだった。
辛亥革命を指導した孫文亡き後、中華民国国民政府による中国の統一を阻止するため、日本は軍閥張作霖を利用し、利用できなくなると彼を殺した。張作霖の息子の張学良は日本に反発してかえって中国の統一が進む結果となり、英米はこの統一政権を承認し、関税自主権も認めるので、日本の外交は立ち遅れてしまう。そういう外交を立て直すため佐分利貞男が中国公使に任命された。彼はワシントン軍縮会議(1921〜22)議随員、通商局長、条約局長を務めたので本来ならば英米のような大国の大使として派遣されるべきところだったが、難局である日中関係を立て直すため公使の地位に甘んじて、中国各地を視察した。帰国した後1929年11月箱根富士屋ホテルで怪死した。自殺として処理されたが幣原外相も彼の兄弟も他殺を疑っている。
小村俊三郎は1928年太平洋問題調査会研究会(新渡戸稲造を中心とする)で「国際的満州と日本」という講話を行い、21か条の要求で満州の権益を永久的ともいえる99ヵ年に延長させたことは良くない、満鉄の守備隊を(ロシア=ソヴィエトがすでに一兵も置かない)今も駐留させているのは条約違反である、などと述べて、満蒙の権益を中国や他の国が納得できるものに作り変えていくべきと主張している。
また同じ頃、朝日新聞の外交問題に関する論説委員米田実は満鉄の平行線(禁止)問題について、日本は余りに広い範囲に解釈していると批判している(『第2朝日常識講座1太平洋問題』1929年)。
日本が満州国を樹立した時、アメリカのスチムソン
国務大臣は、武力による変更は認められない(不承認主義)と主張して、以来ハル・ノートに至るまで変わらない。日本は既成事実だと思っているけど、国際的利害は大きく根を張っている。その意味で小村や米田の主張が満州事変の前に行われていることに注目しなければならない。
質問に答えて
<日本の革命派援助>革命派の多くは広東省など南方出身が多く、東北への関心が薄かったことを利用して、彼らを援助し、日本の満州での特権を認めてもらおうという下心があった。吉野作造が袁世凱の子息の家庭教師をやったのは全く食うためでのちに関係は切れるし、彼は国家主義的な援助には批判的だったのではないか。右翼の革命運動支援には満蒙を日本の支配下に置こうという動きと平行していたが、シベリア出兵で第一師団長としてシベリアへ行った石光真臣は革命派や朝鮮人の独立運動に警戒感が強い。北一輝の場合は日本の国権主義的な革命援助には批判的で革命派が排日運動の先頭に立っていることに対して、日本の国家改造によって中国との関係を立て直そうという主張だった。
<秘密外交>1939年に欧米で書かれた『外交』という本の中で、外交には秘密がつきもの、全面的に公開することはできないとある。民主主義的な統制にするためには公開外交にしなければならないが、アメリカでは30年ルールで公開している。日本では資料で
も不徹底。『遠い崖』でアーネスト・サトウのことを書いた萩原信利が公開のルール作りを主張して、大平首相の時に30年ルールの基礎がしかれたがまだ不十分。ルールだけでなく一つ一つせめぎあっていかなければならないだろう。
<国際協調路線>満州占領に対してアメリカは一貫して不承認主義をとった。しかし、世界恐慌の真っ只中でそれぞれの国が日本に干渉できないということを睨みながら、満州事変を起こした。ドイツも国連を脱退するという国際的情勢が国際協調的な条約は変えても良いという考え方が日中戦争のころには強くなって来る。満州開発には英米資本の力を借りなければいけないので、英米協調の考えが出てくるけれど軍に反対されると取りやめになってしまう。そういうことが多い。