仏教とカウンセリング

私は零細な木材産業に身をおくかたわら、仏教やカウンセリングを人生の課題としてきましたが、すべての専門家や研究者として関わってきたわけではありません。むしろ、最も世俗を生きる生活者として、その道々消えることなく繰り返す不安や悩みの中を、同じ思いを背負う多くの方々とともに、カウンセリングやエンカウンター・グループを通し、また仏教の知恵に触れながら、授けあってきた者です。その中で、深くこころを開き、生きる真実をお伝えくださった多くの方々こそ、私にとってかけがえのない 善知識 でした。

また一微塵のような私たちのいのちも、わがいのちにして、わがいのちに非ず、宇宙生命の中で、今まさに唯一無二の位相を与えられている尊厳な存在であることを、来談される方とともに、気づかせていただいております。

阿弥陀経と出遇う

悩みおおき青年の頃のことです。本屋さんを歩いているときに、お経の本に出会ったのです。私、お経の本なんて知らなかったから、お経ってこんなものなのかと手に取って見たのが「仏説阿弥陀経」と書かれた小さな経典でした。小さいときから南無阿弥陀仏とか阿弥陀さまとか聞いておりましたので、阿弥陀様って何だろうと思って見たら、そこには「極楽」ということが書いてありました。もちろん、そのころ私は極楽なんていうのは地獄・極楽ぐらいしか分かりませんでした。でも、私なりの勉強をしてみますと、字の通りなんです。「極」というのは一番≠チていうことですよね。「いちばん安らげる世界」、端的に言えば、「究極の安楽」っていいますか、本当の深い意味での安心の世界は、こういう構造の中で生まれるんですよっていうことを、インド人特有のシンボリック(symbolic)、象徴的な手法を通して説いているんですね。その中に「極楽の池」の話があるのです。

池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙

読み下しにしますと、

池の中に蓮華あり 大いさは車輪の如し 青色には青光 黄色には黄光 赤色には赤光 白色には白光ありて 微妙高潔なり

となるわけです。

「池の中に蓮の花があります。大きさが車輪のようだ。青い色が青く光っています。黄色い色は黄色く光っています。赤い色は赤く光っています。白い色は白く光っています。それらが非常に微妙な、何ともいえない妙なる清らかな香りをあたり一面に漂わせています」というような意味でしょうか。

とにかく、この言葉に触れたときに私はふっと安心したのです。というのは、その頃の私は自分は駄目だ駄目だと否定的な思いが消えなかったときですが、青い色は青い色でそのまま光っていていいんだよ、黄色い色は黄色で光っていていいんだよ、それぞれがそれぞれのままでいいんだよ、とやさしく仏様がささやいてくれたように感じたのです。自分が青だから全部青にしなくちゃ駄目だというような衝動に駆られることもなく、また隣が黄色だから、本当は赤い色なんだけれど、私は黄色のふりをしようとか、そういう自分を抑圧することもいらない。それぞれがそれぞれの色で輝きながら、一つ一つのいのちがそれぞれの輝きをもって並んでいる、それがいちばん安心の世界です、というふうに書いてあるところにはっと引かれたんです。

青色青光青陰

復員で帰って、どうしても仏教を学びたくて東洋大学へ行きました。

私のほかにそのインド哲学に入ったのは、一人しかいませんでした。三年まで同じ単位を取りますから、三年生まで合わせて十人もおらず、毎日の授業は塾のようなものでした。大学二年のときに、サンスクリット演習という授業がありました。大乗仏教の経典はサンスクリット語で書かれたものが大部分です。普通、私たちはその漢訳を通して読むわけですが、この授業はサンスクリット経典を直接、日本語に訳すわけです。そのとき先生が、サンスクリット(ローマ字にしたもの)の資料をワラ半紙にガリ版で刷って持って来てくださったのです。それが学徒出陣の前、法蔵館の店先で感銘した仏説阿弥陀経の原典でしたので、私は驚きと喜びで眼を輝かせました。

私たちの読む漢訳は鳩摩羅什という天才的名僧によるもので、西暦四〇〇年の初めに漢訳されたものです。ところで、サンスクリットを和訳してみますと、漢訳には脱落している箇所があったのです。どういうことが抜けていたかというと、

「池の中に蓮の花が咲いています、大きさは車輪のようです」

と、ここまでは同じですが、サンスクリットでは次のようになっていました。

「諸々の青い色の蓮の花には、青色の輝きと青色のカゲがあって・・・」のカゲが欠けているのです。

この影を陰と表現すれば、「青色青光青陰」と訳していいことになります。全部そうです。カゲは影でもいいですけれど、陰としましょう。

青色青光青陰 黄色黄光黄陰 赤色赤光赤陰 白色白光白陰

この陰が抜けていることが分かりました。それで、その陰という字を加えてみますと、より深く見えてくることがあるのです。

私たちにとっての本当の安心感は、光だけを求められたら、それは違います。今の教育の中で問題になっているのはそこだと思うのです。偏差値だとかの数値を基準に優等生という光だけを求めている。あの当時の私のように、心の病気などをやった方ならわかると思いますが、あのどうしようもない自分の陰を、「ああそうですか。ああそうですか。」と言って、陰を本当に大事に受け取ってくれるところに極楽はあるんですね。光はもちろんですけれど、光も陰もそのままそっくり受け容れてくれる情況こそ極楽であります。

その後、会社のことで、社員の苦しみを自分ではどうすることもできなくて、カウンセリングにみちびかれて四十何年かの歩みをしていますけれども、現にたくさんの方にお会いさせていただいていますが、光の部分をわかってくださいなんていう人はいないですね。みんな、どうにもならない心の苦しみを聞いてください、心の陰を聞いてくださいと訴えてくるわけです。それを聴きぬいていくことです。それを受け取りきっていくということです。それを現に私のセンターにおいても実践しているわけですが、そんなふうに思ってみますと、カゲは影だっていいんですが、陰の方が心というところで感じたときには意味があるような気がします。そのこころの陰を、光も陰も一緒に受け取っていくときに、この陰を味わいぬいていくところに、不思議にこの陰が光になってしまう。陰は光だと、あえて私は言いたいくらいです。陰を味わいつくすところにふっとそれがいつとなく光になっていることをカウンセリングのプロセスを通して、きっと来談者の皆さんも味わっていらっしゃるんじゃないでしょうか。そうすると、たいへん大切なところであります。陰が脱落しているかいないかでは、味わいがまるっきり違うのではないでしょうか。

しかも、これだけじゃないんです。もう一行、大事なところが抜けているんです。それは後で気がついたんですが、私のノートでは、前の引用のあとに、

「諸々のまだら色の蓮の花には、まだら色の輝きと、まだら色の陰影がある」

と書いてあるんですね。そうすると、まだら色というのは、いろいろな色彩の混じった、いわば雑種の色だからそれを雑色ぞうしきとしましょう。「雑色ぞうしき雑光ぞうこう雑陰ぞういん」というふうに訳させていただきますと、味わいがまたひとつ違ってくるのです。

カウンセリングのプロセスはまさに色合いをいろいろにしながら、光と陰を交互にしていくものです。「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」という良寛さんの辞世の句があるそうです。本当に陰が見えたかと思うとそれがふっと光に変わり、また陰になったりしながら、裏を見せ表を見せて散っていく、つまり大きないのちの世界に還っていく。そういうプロセスこそまさに私たちの人生のプロセスでありますし、またカウンセリングのプロセスでもあります。そうしてみますと、「雑色雑光雑陰」という表現はきわめて大事な表現のように思えてしかたありません。なのにどういうわけか、天才翻訳家であるところの鳩摩羅什うの翻訳ではカットされているのです。ですからあえてカットしてあったがゆえに、私はここに気づかせられているのかとも思います。はじめからこう書いてあったらなんのことなくすーと呼んでしまって、本当の意味の陰の味わいということに気がつかなかったのではないかと思います。ですから私にとっては、それもひとつの大事な方便だったのだと思います。

一如平等の香りに包まれて

ところで、最近、岩波文庫のワイド版を手に入れて読んでみますと、陰≠フ部分がなくなっていることに気がついたのです。旧版のサンスクリット訳では、

「青い蓮華は青い色・青い輝き・青い陰影を帯び、…さまざまな色の蓮華はさまざまな色・さまざまな輝き・さまざまな陰影をおびている」となっていたのが新版では、

「青い蓮華は青い色で青く輝き、青く見え、…さまざまな色の蓮華はさまざまな色でさまざまな輝きあり、さまざまな色に見えている」というところを「見え」というふうに訳せるわけですから、決して間違っているということではありません。しかし、私は大学で陰と教えられてきましたし、またこの陰を大事に生きてきた者なので、陰がなくなてしまったことで、何かとまどっているのです。

今の時代、本当に求められているまなざしというのは、光を通してみていることはもちろんでしょうが、その人のいのちの色の外側から見えるというところを光で包むと同時に、外から見えない心の内面を陰とすれば、そこに耳を傾ける、そういうまなざしと耳のはたらきとが共にはたらきあうところに、そのままのいのちを受けとめてもらえる。そこに深い安心感が生まれるのではないでしょうか。だからこそ陰の意味を本当に大事にしていきたいと思うのです。

ところで、学校教育でも、会社の経営でも、社会構造自体が今やそうした陰を認めない怖さを持ってはいないでしょうか。誰もが、何もかもが光っていなくてはいけない、陰なんかあってはいけない、光っていない駄目な者は去れ、これが今日の学校や企業をはじめとする現代の社会の怖さだと思うのです。そしてそれが当たり前のように考えられています。

実は何年か前に私はある講演で、こういう質問を受けたことがあります。その方は中堅の教員の方でしたが、「皆それぞれが違っていてよいというと、学級経営はどうなってしまうんでしょうか。バラバラになっちゃうのではないでしょうか。」とおっしゃるのです。私はこのとき初めて「青色青光」というのも、そういうふうに感じられることもあるんだなと気づきました。そして実はそのとき、その質問によってふっと、このお経の「微妙みみょう高潔こうけつ」という言葉の意味が初めて分かったのです。ああ、ここはそういう意味だったのかと、次のようなことが分かったのです。

つまり、皆それぞれがそれぞれの光と陰で、そのいのちのままに受け容れられる状況のときには、自分の花がそれぞれに精一杯に開いて、そこから同じ香りがふぁーと出て、みんながそれぞれ違った色の花のまま、まさに一如平等の香りに包まれて全体が成り立つのではないか、と。それがきっと「微妙高潔」ということではないか。一つ一つの花が安心して自分の色で開くからこそ、バラバラではない同じ香りを出して、一体感というか平等ないのちとしての全体がそこに生まれるのではないか、と。

ところが、この「微妙高潔」にあたる言葉は、実はサンスクリット原典にはなく、鳩摩羅中が加えているのです。原典に忠実な訳かどうかは別として、この「香り」を加えた羅什は、ある意味でやはり天才だったと思います。それぞれがそれぞれであることゆえに全体として統合されることを、「香り」でもって表現させているのですから。

この「香り」ということは、お経を離れてカウンセリングとかエンカウンター・グループという場面の中でも、私は実感できると思います。それぞれの人が、それぞれの人であることに安心して本当にそれらしく存在してくれたときには、何かそのグループはぱぁーとそのグループの香りになってしまいます。カウンセリングでもそうです。二人でやっていても、二人は一つの香りの中でやっているな、ということが分かってきます。これはすごいことなんです。うっかりすると、それぞれの花がバラバラになっちゃうんじゃないか、という質問が出かかるような可能性があるところを、「香り」という一言で見事に統合していると思います。まさに「差別しゃべつ相即そうそく)平等性びょうどうしょう」を見事にあらわしています。

仏教とカウンセリングの“共生”

現代人の知恵であるカウンセリングを横軸として捉え、そこに古代から伝えられた仏教の知恵を縦軸として交叉し、両者の働きを相補的に生かすことができればという願いが、ささやかながら私の生涯の悲願です。

とくに現代人の中で、これほど多くの人々が、カウンセリングに援助を求めている状況を思うとき、わが国には、そこに融合できる深い仏教の叡智が、成熟した文化として伝承されていることを、偶然にも両者に援けられたものとして、叫ばずに入られないのです。

さて、カウンセリングも仏教も、それぞれに独自な文化としての立場を確立していくことがより大切なことは論を待ちません。しかし、その上で相互に尊重し、その特性を持ち寄って、いわゆる 共生 としての活動を起こすならば、そこには補完的にして、かつ創造的な文化の発展が生ずることでしょう。それはさらに、それぞれの独自性を深めることにつながります。

よく現代仏教の在りようで、一方的に教えを説くだけの傾向が強いのではないかという声を聞きます。そこには、かつて法座の中で、お互いの体験を述べ合いながら、こころを深め合ったことへの回顧があるものと思います。

もしそうであるとすれば、現代仏教の学びが、どうしても観念的になり、体験的な洞察の次元が薄くなるかもしれません。

それを補うために、小グループでの体験学習として、最近広く行なわれているエンカウンター・グループなどが取り入れられたならば、聴衆の目は生き生きと輝いてくるでしょう。

一方、カウンセリングのプロセスは、個人が直面している苦悩の体験に寄り添いながら展開する歩みですが、ややもすると体験主義に傾き、人類が長い歴史の中で、いのちを絞るようにして洞察し、かつ伝承してきた叡智との出会いや融合に、恵まれないでしまう惧れもあるのではないでしょうか。

たとえば、エンカウンターグループについても、メンバー全員が一人一人の体験に耳を傾け合い、グループの一体感が成熟すればするほど、グループは一色になるのでなく、かえって一人一人の独自性が輝きを増してくるのです。

 13.7.26  「仏教とカウンセリング」講義

 講師 大須賀発蔵 築地別院にて