清風83号(平成22年3月1日号)

      前号



1項 加点法の如来

時間を表現するとき「二時半」や「二時五分前」という人は、アナログの文字盤に親しんできた人の表現で、現代の若者は、「二時三十分」「一時五十五分」と、明確な表現を用いると新聞記事にありました。物事を判断するとき的確な数量で示すことを好むデジタル思考とともに、現代人の習性として、物の判断が、プラスかマイナスかといった単眼思考に傾いているようです。

 ラジオ深夜便「母を語る」という冊子の中に、映画監督の山田洋二さんがお母さんの逸話を披露されていました。

ーお父さまの、なにか印象的な言葉はありますか。

山田 ぼくは兄に比べると臆病な少年だったので、母に「男の子のくせに、すぐ泣いたり怖がったりして」と叱られたことがあるんです。そのとき、父が母をたしなめて、臆病だってことはそんなに悪いことではない、ナイーブで感じやすいということだから、そんなに責めるんじゃない、つて言ったのを妙に覚えています。父親は、公平に息子たちを見ていたと思いますね。

 母親の言葉にも、忘れられないものがあります。ぼくと兄貴が対立したとき、兄貴の考えは絶対におかしいと、母に向かってぼくが一方的に小生意気な訴えをしたんです。そうしたら「確かにお前のほうが正しいかもしれない。でも、間違ったことを言いつのるお兄ちゃんの気持ち、その悲しみや寂しさがお前にはわかっていない。それがわかるようにならなければだめだ」と言われたものです。(以上)

 正しいからといって相手の否を一方的に攻めるのではなく「間違ったことを言いつのるお兄ちゃんの気持ち、その悲しみや寂しさがお前にはわかっていない」という複眼的なものの見方が、自分に対しても、他人に対しても潤いを与えてくれます。
 それと物の見方で気になるのは、相手の利点より欠点を重要視することです。  物の見方には、加点法と減点法があります。

 社会が物質的・制度的に貧しいときは、人は加点法をとります。「○があるから幸せ」という考え方です。ところが物が豊かになり、国民総中流階級となると、減点法、「○がないから不幸せ」という考え方になります。
 これはコップに半分入った水を、水に飢えた人は「これだけ入っている」と見るのに対して、水が満たされている人は「これだけしか入っていない」と見る原理と同じです。
 
 加点法の人間理解。これは浄土真宗の阿弥陀さまも、すべの人を、加点法で見て見捨てることのない如来様です。

2項・3項  同体の慈悲

北海道のリゾートスキー場でもある留寿都村は、童謡「赤い靴」の里として知られています。
 赤い靴 はいてた 女の子  異人さんに連れられて 
 行っちゃった

 村内の公園に二体の像「赤い靴の女の子きみちゃん」、「きみちゃんの母親岩崎かよさん」とあります。
 明治三十八年 岩崎かよは私生児を連れて故郷(現在の静岡市清水)を離れ、北海道の地を踏みます。このときかよが連れていた娘きみが『赤い靴』の主人公です。
 岩崎かよは、そこで鈴木志郎と出会い、志郎に人生を託すことになる。しかし当時の留寿都は この地を開拓してユートピアを建設しようとする人々が入植していて、厳しい開拓村におさな子を連れて行くことがしのびず、やむなくアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻の養女として当時三才のきみを残し開拓村に向かったといいます。それからのかよは幼いきみのことを1日たりとも忘れたことはありませんでした。
 
開拓村ので生活は、秋の実りは少なく仲間の病死や火災による被害などで僅か2年で開拓村は解散となります。

 失意のかよは志郎との間に生まれた娘と共に札幌に出て、志郎は札幌の新聞社に入社します。そこで知り合ったのが 若き放浪詩人 野口雨情であったそうです。 
 かよは親しくなった雨情に、片時も忘れることのない娘きみのことを打ち明けます。可愛いきみを厳しい開拓村に連れて行かなくてよかったと思う気持ちとおさな子を手放した後悔‥‥そして新しい養父母のもとで幸せになってほしいと願う気持ちの交錯‥‥‥‥この母の強い愛が雨情の心を激しくゆさぶります。

 雨情は その感動を即座に詩に綴り、この詩に 本居長世が曲をつけたのが『赤い靴』だそうです。
 母親のかよは、いつも娘きみの事を忘れ得ることなく、出遇うことのできない寂しさの中で、いつも『赤い靴』を口ずさんでいたそうです。

 この『赤い靴』の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和四十八年(一九七三)十一月北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけであったといいます。

 『雨情の赤い靴に書かれた女の子は、会ったこともない私の姉です。』

 こう訴えたそのさんの投稿に接した当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんは五年余りの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親(岩崎かよさん)の出身地静岡県清水を皮切りに、そのさんの父親(鈴木志郎氏)の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を探し、『赤い靴の女の子』が実在していたことを突き止めたそうです。

 実の娘のことを思う母かよは、この歌を口ずさみながら、いつも娘の幸せを願ったことでしょう。母の子を思う愛情は同体の慈悲といいます。あなたと私という隔たりのない愛情です。

 阿弥陀如来が凡夫の私を思う慈しみも同体の慈悲であるといわれています。母かよが「赤い靴」を口ずさみながら娘きみのことを思ったように、私は南無阿弥陀仏と念仏を称えながら、私の上に寄せられている仏さまの願いに触れていきます。
 念仏は「南無阿弥陀仏と称えられる如来となってすべての人の上に顕現する」という阿弥陀如来の願いと働きに触れていく営みです。

※きみは渡米を目前にした6才の折 結核に感染し、長い船旅には耐えられないと言うことで孤児院に預けられた。(孤児院は東京麻生の鳥居坂教会にあった。)きみはこの孤児院で3年間の闘病生活をよぎなくされ9才という短い生涯を終えたそうです。

 『赤い靴』   
   大正10年〜11年      作詞・野口雨情 
    作曲・本居長世

一、赤い靴 はいてた 女の子  異人さんに連れられて    行っちゃった

二、横浜の はとばから 
 船に乗って 異人さんに連れ られて行っちゃった

三、今では青い目 なっちゃって 異人さんのお国に 
 いるんだろう

四、赤い靴 見るたび考える 
 異人さんに会うたびに考える


4項 集い案内他