いのちの学び 155号
2005.2.1号 (2.4.6.8.9.10.12月発行)
         (3.5.7.11月は清風発行)
1項 表紙と本年年回表

2項

ミニ説法

アメリカのニワトリは、クック ア ドゥール ドゥと鳴き、日本はコケコッコー、ロシアはクカレクー、インドはクックーローローと鳴く。アメリカの犬はバウワウと吠え、日本はワンワン。日本の赤ちゃんは、ホギャア、ホギャアと泣き、韓国ではウンゲーウンゲーと泣く。
 音源は同一でも、聞こえ方、文化の相違により表現が異なります。これを擬音語とか擬声語といいます。

以前紹介した「東京特許許可局」と鳴くほととぎす、酒飲みが聞くと「一杯つけたか」となり、主婦が聞くと「大根漬けたか」となる。学生が聞くと「満点取れたか」となり、髪の薄い人が聞くと「てっぺん禿げたか」と聞こえると言います。

 これは、その人の関心のもち具合によって、違って聞こえてしまう例です。逆に、同じ音源表記でも、はしは、橋ともなり、箸ともなります。中国語のカタカナ表記「マーマーマーマー」と「マー」の羅列も、音の上げ下げで「媽媽罵馬」(母さんが馬を罵る)という意味となると聞きます。

 同じ言葉の表記でも、まったく違った意味となる。これは言葉の問題だけでは済まないようです。

 というのは、昨年の新聞報道で毎日のように保険金殺人が報道されていました。お金が入るので人が死ぬことが嬉しいというのですから世も末です。いのちの尊厳を役に立つか立たないかという「有用性」で量ってきた近代価値観のとどのつまりのようにも思われます。「とどのつまり」とは、ボラは成長するとともに名称が変わり、最後にトドという名になるところからきた、「いきつくところ」という意味です。現代人の成長の行き着くところが、保険金殺人ではなんとも悲しいことです。人間の成長とは何か。最も根本的なことを見直す時がきています。

 仏教では、人間の尊厳を役に立つか立たないかの有用性ではなく、ブッタ、すなわち目覚めに求めます。たとえば人間の中でもっとも虚しく終わる時は「死」かも知れません。今まで育み身に付けたものが、すべて役に立たずに終わっていく瞬間です。

 その虚しく終わっていく状況の中で、虚しく終わっていく私ゆえに、大きな慈しみをもって私を包み、私に同化し、私の上に念仏となって躍動してくださっている阿弥陀仏の大悲に、私の意識が開かれる時、私の存在は、虚しく終わっていく命のままに、阿弥陀仏に連なるいのちとしての意味付けを持つ。浄土真宗は、阿弥陀仏の大悲に目覚めていく仏道です。

3項

【黄金のキバをもつ象】

毎月、二ヶ所、老人ホームにお話に行きます。過般、一緒に行ったFさんが「黄金のキバをもつ象」という仏教説話を話してくれました。まずは、Fさんからメールで送って頂いたその説話です。

【黄金のキバをもつ象】

むかしむかしのことです。ヒマラヤの山奥に黄金のキバをもった、それはそれは立派なゾウの王様が住んでいました。
ある日、道に迷い、あやまって川に落ちた猟師を、このゾウの王様が命がけで助けました。元気になった男は、「このご恩は一生忘れません」と云って町に帰っていきました。

ところが、お城の前で、「ヒマラヤの山奥に住んでいる伝説のゾウ王の黄金のキバを持ってきたものには、たくさんのほうびを与える」という王さまのおふれを見つけました。

それを見た瞬間、命を助けてもらったご恩も忘れて、男に恐ろしい心がおこりました。
「自分だけが、そのゾウを知っている。ゾウを殺すだけで、一生遊んで暮せるのだ。」男はゾウを油断させるために、お坊さまに変装し、弓を隠して、ゾウに近づきました。そして、スキをみてゾウ王に毒矢を放ったのです。

 毒が体の中にまわった苦しみの中から、ゾウ王は、なぜこんな愚かなことをしたのか、尋ねました。そして、ほうびのために黄金のキバが欲しいことを知ると、「こんなキバなど、なにもおしくないのに…」と、自らキバを岩にぶつけて男に与えたのでした。しかも、最後の力をふりしぼって、男におそいかかる仲間のゾウから、自分を殺しに来た男を命がけで守りました。

 そして、最後の最後に、この男に言ったのです。「わたしは、この布施の行のおかげで必ず仏になるだろう。わたしが仏になったら、欲しい、憎い、そして愚かな心一杯で迷いを重ねているあなたを1番最初に救うだろう。」と、死んでいったのでした。

 私は、その説話を聞きなが「有難いなあー」という思いが湧きあがってきました。
 
 私が今、「南無阿弥陀仏」と称名し、仏のお話を聞くに際しては、先の説話で示されたような、深い深い仏の慈しみが、きらびやかな帯が、金糸を幾十にも織り込んでつくられていくように、私の背後にあったに違いありません。

 「黄金のキバをもつ像」の逸話は、単なる創作でありません。人が真実に出遇っていくという精神の領域の中に躍動している仏のエネルギーを率直に表現した実話です。

 その仏さまの働きは、私が「南無阿弥陀仏」と念仏を申す中に味わうことができます。

4項 上段 集い案内

下段

 住職雑感

*朝刊スポーツ欄に「〇大部員 首都高走る」とありました。箱根駅伝で某大陸上部の一部選手が、首都高を走行中、事故渋滞でストップ。最終走者をゴールで出迎えようと、運転手を残して、非常口から一般道に降ることを考え走り始めた。しかし高速隊に見つかり注意されるというニュースです。

 同日,ラジオから同様なニュースが聞こえてきた。中国のタクシー運転手が、産気づいた人を乗せた。お産が始まったので信号無視で病院へ。結局、間に合わず車中でお産。信号機付属のカメラで違反が知れるはずと、警察に事情と違反内容を告知し、寛大なる判断を仰いだ。中国では救急車は有料、罰金は日本より割高という事情があるが、法律と人情、思案のしどころです。 

 「大岡裁き」、これは人情優先です。法治国家、これは法律優先です。この矛盾した二つをどう調和させるか。
最近の日本は、法律と人情、どちらかに白黒をつける傾向があります。 安楽死の問題で考えると、諸外国の多くは、安楽死は緊急避難的(だめだけど仕方がない)一過性のものとして、罪だけど条件を満たせばその罪は問わないと云う形で処理されています
。ところが日本では安楽死の四つの用件を見たせば合法という判断です。もっと曖昧に、罪は罪としておいて大岡裁きを用いることがあってよいと思います。悪く言えば曖昧。よく言えば太っ腹。そうした曖昧さを受け入れるが文化が失われつつあるようです。現代社会に殺伐とした印象を受ける原因の一つに、それがあるように思われます。