西原つれづれ05.9月
05.8
9.26 [浄土真宗の常識」原稿は完結して出版社に送りました。面白い本です。その中の「念仏者の言葉」を10名程度紹介してあります。その中で「川上清吉」さんが登場します。この方は島根大学の教授を勤めた方で、知るひとぞしるという念仏者です。

その部分だか、アップしてておきます。

実家の母のところにこの川上清吉さんからの手紙が残っています。昭和32年、父が島根県から東京に出てきて、川上氏から励ましの手紙を何通かもらっていたものです。

最後のハガキは、昭和34年6月5日、連れ合いの川上ミツさんからの印刷の死亡通知です。半面の書き出しは「川上清吉儀、去る6月1日午後4時、無事浄土往生いたしました」とあります。「無事浄土往生」の言葉が光ます。その半面は川上清吉さんが、生前用意していたと思われるあいさつ文です。

謹啓
生前は、いろいろお世話になりました。厚く御礼申し上げます。このたび、私もいよいよ久遠のみ仏のくにに参ります。
63年の間、わたくしとしては努めて来たと思いますし、後の事もこころにかかることはありません。この期にのぞんで、今さら、仏の教えの深さを讃えずにいられません。どうぞお幸せに。
昭和34年6月1日 川上清吉

とあります。

32年10月30日消印の手紙が東京仏教学院内あて父に元に届いています。島根に母と子を残して東京に上京して、仏教の学問をはじめた父への手紙です。文中「文字を会通するのは文字ではなく、自分の肉体でしてください」とあります。また「大経の下巻はあの八百万人のそのものの姿です。銀座のネオンこそ法蔵の肉体を焼けただらせる煩悩の焔です」と民衆の中で学問をすることの重要性を知るしています。

川上清吉(かわかみ せいきち)明治291896)年〜昭和461959)年 64

島根県に生まれ、佐賀師範学校教授、浜田第一高校校長、島根大学教授を務める。親鸞聖人の教えを現代人に紹介し、その弘通に身を勤める。若い時から短歌などの創作をし讃歌「芬陀利華」は現在でも歌われている。信仰の人として多くの人に影響を与えた。

著書「青色青光」「才市さんとその歌」「歎異鈔私解」「現実と未来との間」「愚禿譜」「教育の宗教的反省」「光を聞く」「川上清吉選集」

    救い」とは「悟り」ではない。悟りがどうしても自分のものにならない人間だから救われねばならぬのである。 自分の念力で主観を整え、心境を統べて、いかなる現実に処しても、その平静と清浄とを保てるようになることが宗教であるならば、宗教は万人のものでなくして、選ばれた者のみのものである。しかし、聖人自身は、その選ばれたる者に入る資格なき事を感じられた人である。 長い修行のはて、悪戦苦闘ののち、ついに刀折れ矢盡きて「いかなる行も及びがたき身なれば」(歎異抄第二条)と嘆くほかなき自分を見た人であった。 「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」(歎異抄第一条)を自身の上に見られたのである。かかる凡夫が、何等の条件なしにその肉体の終えると共に「浄土」に往かせて貰える。それが聖人の確信なのである。それが絶対無条件な念仏の中に約束せられる。それが「救い」なのである。それだけなのである。

     ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
ーー君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。

ーーでは、宗教は何の役に立つものなのかーーーと、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが、宗教だということは言っていいと思うーーと答えた。
ーー信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。

ーー信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。
ーー仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。という突っこんだ言い方をしてきた。
それで、自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられないと、私もはずむような気持ちになった。

*浄土はつねにわたしの背後にある

*夜明であった。病人が寮の人に逢いたいという電話がかかった。私は偶然早く出勤していたので、自転車で病院に走せつけた。胸が吹く即に大きく波打って実に苦しそうである。もう臨終なのである。

 その母の声でわずかに目を開いたNは、私の顔を見定めると、やっと「ながながお世話になりました。」といった。私は思わず、病人の片手を両手でしっかり握りしめた。そしてこんなことをいった。「N。お父さんの処へいけるんだぞ。これだけは間違いないんだぞ。」

Nはよわく微笑して私の目を見た。そして非常に呼吸が楽になった。そして今一度母にお別れの微笑みせて、そのまま親身の人々の念仏のうちに、息を止めた。‥

 今まで枕もとで誰よりもたくましく、たのもしげしていたNの母の嘆きは、また誰よりも深くあわれでえあった。しかし「おかげさまでいい往生をさせてもらいました。」と私にいった。そのときに思った。もし私が仏の教えを聞かせてもらう身でなかったならば、どんなことをして、この教え子の死を送ったであろうと。先生の義務的な感情で、「しっかりしろ」といったような気休めを言うほか仕方なかったのではあるまいか。私は、本当の教師としての最後の勤めを、一人のNだけには尽くしたような気がした。私は、帰り道を、願正寺によった。私は何かし如来さまにお礼をしたいような気がしたからであった。

(「愚禿譜」他より)



9.02 朱鷺書房から「浄土真宗の常識」の出版の話しがきて、いま書いています。元案は、書けているので、後は内容です。

私の場合は、書くというよりも、以前書いたものを加工するといった作業です。本の中に正信偈をと思って、私案として、英文の正信偈に並列して、その意訳で内容を紹介しようと思って、翻訳ソフトにかけたら、まったく意味不明な内容になりました。

ふと三蔵法師の翻訳のすばらしさに、思いが及びました。

この本の出版は明年、6月といったところでしょうか。

原稿を頼まれたので、送りました。http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_C093.htm

ご門主の組巡教は、7月で終わりました。6年間お世話になり、最後は大阪でした。大阪では、今までの総決算のように、思われたご縁でした。大阪、中心街の組で、門徒の遠隔地への転居で、追いかけるように、月忌まえり、生涯、所属寺に一度も立ち寄ったことのない門徒の出現、新しい現代に即応した信仰共同体としての寺院のあり方が問われています。

ご門主の、750回大遠忌の消息に、はからずも「組織」の言葉が2度使われています。そのことの意味を考える大阪でした。

寺院、組、教区、宗門、これらの組織が、信仰共同体になっていない現実、九州の寺院住職が、門徒総代から「住職がお宮の仕事を手伝わないのなら、わしらもお寺の仕事はたつだわん」といわれたと、悲壮感一杯で寺の現実を話された住職が印象に残っています。

ご門主は総長に「20年後の宗門のありようについて、どんなイメージをもっていますか」と尋ねたそうです。総長は無回答のようでした。

信仰共同体としての教団の将来へのビジョンを持っていない。これが一番問題のようです。