川上清吉(かわかみ せいきち)明治29(1896)年〜昭和46(1959)年 64歳
島根県に生まれ、佐賀師範学校教授、浜田第一高校校長、島根大学教授を務める。親鸞聖人の教えを現代人に紹介し、その弘通に身を勤める。若い時から短歌などの創作をし讃歌「芬陀利華」は現在でも歌われている。信仰の人として多くの人に影響を与えた。
著書「青色青光」「才市さんとその歌」「歎異鈔私解」「現実と未来との間」「愚禿譜」「教育の宗教的反省」「光を聞く」「川上清吉選集」他
* 救い」とは「悟り」ではない。悟りがどうしても自分のものにならない人間だから救われねばならぬのである。 自分の念力で主観を整え、心境を統べて、いかなる現実に処しても、その平静と清浄とを保てるようになることが宗教であるならば、宗教は万人のものでなくして、選ばれた者のみのものである。しかし、聖人自身は、その選ばれたる者に入る資格なき事を感じられた人である。 長い修行のはて、悪戦苦闘ののち、ついに刀折れ矢盡きて「いかなる行も及びがたき身なれば」(歎異抄第二条)と嘆くほかなき自分を見た人であった。 「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」(歎異抄第一条)を自身の上に見られたのである。かかる凡夫が、何等の条件なしにその肉体の終えると共に「浄土」に往かせて貰える。それが聖人の確信なのである。それが絶対無条件な念仏の中に約束せられる。それが「救い」なのである。それだけなのである。
* ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
ーー君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。
ーーでは、宗教は何の役に立つものなのかーーーと、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが、宗教だということは言っていいと思うーーと答えた。
ーー信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。
ーー信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。
ーー仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。という突っこんだ言い方をしてきた。
それで、自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられないと、私もはずむような気持ちになった。
*浄土はつねにわたしの背後にある
*夜明であった。病人が寮の人に逢いたいという電話がかかった。私は偶然早く出勤していたので、自転車で病院に走せつけた。胸が吹く即に大きく波打って実に苦しそうである。もう臨終なのである。
その母の声でわずかに目を開いたNは、私の顔を見定めると、やっと「ながながお世話になりました。」といった。私は思わず、病人の片手を両手でしっかり握りしめた。そしてこんなことをいった。「N。お父さんの処へいけるんだぞ。これだけは間違いないんだぞ。」
Nはよわく微笑して私の目を見た。そして非常に呼吸が楽になった。そして今一度母にお別れの微笑みせて、そのまま親身の人々の念仏のうちに、息を止めた。‥
今まで枕もとで誰よりもたくましく、たのもしげしていたNの母の嘆きは、また誰よりも深くあわれでえあった。しかし「おかげさまでいい往生をさせてもらいました。」と私にいった。そのときに思った。もし私が仏の教えを聞かせてもらう身でなかったならば、どんなことをして、この教え子の死を送ったであろうと。先生の義務的な感情で、「しっかりしろ」といったような気休めを言うほか仕方なかったのではあるまいか。私は、本当の教師としての最後の勤めを、一人のNだけには尽くしたような気がした。私は、帰り道を、願正寺によった。私は何かし如来さまにお礼をしたいような気がしたからであった。
(「愚禿譜」他より)